◆少年Rの独白 ◆
久しぶりに子どもの頃の夢を見た。きっと、この前のバトルのせいだ。
容姿も、使うポケモンも、なにひとつとして似てるところなどなかったのに、そのトレーナーになぜかきみの姿を重ねて見ている自分がいた。
初夏の穏やかな昼下がり。窓辺に吊り下げられた風鈴が、時折ちりん、と音を奏でる。
実家のダイニングテーブルには、汗をかいたふたつのグラスが並んでいて、近くにはサインペンがいくつか転がっている。
そして目の前には、ぼくの名前と同じ色のまっさらな短冊が一枚。空白を埋めるに相応しい願いごとなんて思い浮かばなくて、ペン先は所在なげに宙を彷徨う。
麦茶に浮かんだ氷が緩やかに溶けて、グラスにぶつかり小さく涼やかな音を立てた。それに続くように「できた!」と弾んだ声が鼓膜を震わせる。
視線を横へと巡らせれば、右隣に座っていたきみが高々と緑色の短冊を掲げていた。部屋に差し込む陽光が、きみの髪や顔の輪郭をなぞるように縁取り、光らせている。白い肌とキャラメル色の髪はますます淡く輝いて、なんだか眩しくって目を細めた。
他人の視線に聡いきみが、隣からの眼差しに気付いてぼくを見る。
琥珀にも似た双眸に、きらきらとした自信を宿して。
在りし日に向けられた笑顔を最後に、今まで見ていた夢は霧が晴れていくように掻き消えてしまった。現実へと帰ってきたぼくの耳に、轟々と唸るような風の音が聞こえてくる。
起き抜けのぼんやりした視界はただただ真っ白で、止めどなく降り続ける雪の形を朧げに捉えた。
腕の中に抱えたポケモンの重みを感じるが、動く気配がない。寒いとか、痛いとか、虚しいとか色んな感情が一度に脳裏を駆け巡ったが、数秒と経たずに凪いでいく。まぶたすら開ける気力もなくなり、ゆっくりと目を閉じた。
体温を容赦なく奪っていく猛吹雪の中、ぼくは雪に埋もれながら考える。
きみの願いを奪ってしまったこと。損なわれた輝き。きみの憤りに向き合えず逸らした視線。伝えられずに飲み込んだたくさんの言葉。そして、
これから静かに消えていくいのちのことを。
One last time
◆
「きみの願いごとはなあに?」
幼子が母親に話しかけるような声色で、誰かがぼくに声をかけている。
少女にも少年にもとれる、中性的で幼さを宿したその声は、耳から聞こえたというより、自分の脳内で響き渡るようにして伝わってきた。不思議な感覚だった。
目を閉じる前に見た景色とは一変して、一切の光も許さない深海のような暗闇の中にいた。さっきまで感じていた寒さはない。風の音も、全身に吹き付ける吹雪も、痛みも何もない。
そっと腕を伸ばしてみる。指先が何かに触れることはなかった。四方に壁があるのかも視認できない。自分の輪郭さえ漆黒に溶けて、暗闇と同化してしまったかのような気持ちになる。
「きみの願いごとはなあに?」
声は同じ口調で同じ言葉だけを紡ぎ続ける。まるで壊れかけのボイスチェッカーのように。ぼくが応じるまで、一生問いかけられるのだろうか。
「願いごと、決まらねーの?」
不意に夢の続きを思い出した。きみの声だ。短冊を前に眉間に皺を寄せるぼくを見て、きみはそう言った。
「なんか目標とか夢とかないのかよ」
年齢の割に賢くて大人びたきみは、難しい言葉をよく知っていた。
もくひょう、ゆめ、と目を閉じて腕を組み、もごもごと繰り返してみる。
きみに会うまでおかあさんとふたり、狭い世界で過ごしてきたぼくは、きみの手をとってはじめて箱庭から外へと足を踏み出したばかりだった。
ひとりぼっちで図鑑を見ながら、ひたすらポケモンを描く。そんな日々でも十分に満たされてはいたから、夢なんて考えたこともなかった。
「夢じゃなくてもさ、とにかく今、叶えたいって思ったこと書けば?」
言い添えられた言葉にまぶたを開けて、きみの顔を見つめた。叶えたい、こと。
鏡のようにぼくをじっと見つめ返すその瞳を見て、ふっと天啓のように、ひとつの願いが胸の内に落ちてきた。虚空に走らせていたペン先を、短冊へとゆっくり滑らせる。
「……グ、リーンに、会い、たい」
知らない誰かが頭の中を覗いて代弁したのかと思った。最期まで、声変わりした自身の声を聞き慣れなかったことに気付く。間違いなくぼくの胸の内から溢れ、口から零れ落ちた願いごとだった。
いいよ、と声ははじめて違う言葉を発した。
「その願い、叶えてあげる」
◆
偶然だった。遥か遠くに見える山でしかなかったシロガネ山に、入山できることを知ったのは。
とある山おとこに話しかけられたのだ「きみは、チャンピオンのレッドだろう」と。ぼくはかぶりを振る。もう、チャンピオンじゃなかったから。
「そう謙遜しなさんな」と彼は大きな腹を揺らして豪快に笑った。強い自責の念に囚われていたあの時のぼくは、どうして彼が笑うのか一ミリたりとも理解できなかった。早くこの場から離れたいとも思っていた。そんな心情など知らないその人は、トキワシティから見える山を指差す。
問わず語りに、自分はあの山に憧れていること、でも入山条件が厳しくて自分は入ることができず悔しい思いをしていることを話して聞かせた。
「強い野生ポケモンがわんさかいるらしいんだ。だけど、チャンピオンになったきみならきっと……」
強いポケモンがいる。思いもよらない情報に心を動かされた。
まだまだ喋り足りなさそうなあの人をどうやって振り切ったのかは覚えていない。気が付けば、足場の悪い雪山の道をロクな装備もなしに登っていた。行き先は誰にも――おかあさんにさえ告げなかった。
血気盛んで、レベルの高い野生ポケモンたちとの連戦に次ぐ連戦は、忘れかけていたバトルの感覚を思い出させてくれた。目の前に現れるのは、自主的に戦いたいポケモンばかり。
ああ、ここにあったんだ。自分にとっての安寧の地は。
ここならいたずらに誰かを傷付けることも、哀しませることもない。
吹雪がどんどん強くなって視界が悪くなっても、両足は前へ前へと進み、山のてっぺんを目指した。
(誰もいないところに行きたい。)
純粋な願いは、痛みにも似た寒さすら凌駕した。心臓が苦しいのは、標高が高くなってきているからか、大切な人を苦しませた罪悪感からか。胸元を押さえ、それでも足は止められない。ただただ誰もいない場所を、と希った。
何時間もかけてたどり着いた最奥部の洞窟を拠点とし、野宿を繰り返す。いつでも寝首を掻こうとする野生のポケモンたちを相手にバトルをする。人間の都合などかれらには関係ない。気まぐれな奇襲にいつでも臨戦できるよう、岩壁にもたれつつ膝を抱きかかえて眠る日ばかりが続く。物音のする度に目を覚ました。そのうち、昼も夜も分からなくなった。
微睡みの中で、よく夢を見た。チャンピオンになったあとのこと。
チャンピオンになったら強いトレーナーとたくさん戦えるんだという期待は、数日と経たないうちに砕かれていた。
ポケモンリーグでやることと言えば、ほとんど書類仕事だった。挑戦者はそこそこいたものの、途中でリタイアしてしまうことがほとんどで、ぼくまでたどり着く者はなかった。
それならワタルたちに勝負を挑もうと思ったけれど、おとなたちには自分の役割があって、皆忙しなく働いていた。
バトルのために手持ちたちを出してあげたのはいつ以来だろう。
チャンピオン戦後、リーグを飛び出したきみを追いかけて、約束を交わしていた。
「もう一度あの場所で勝負をしよう」と。
あのバトルからひと月以上は経っていることに気付いて、ぼくは焦る。きっときみはこの間にも強くなっているはず。
単調な日々はぼくの心をじわじわと蝕んでいった。そして、とうとう我慢ができなくなった。ここに居続けたって、ぼくもポケモンたちも何も変わることなんてできない。
「……チャンピオン、辞め、たい」
ワタルにそう打ち明けると、困った顔で愛想笑いを浮かべていた。責任を放棄する発言に、やれやれと言わんばかりの顔つきをしていたけれど、しばらく考えたのちに彼はその申し出を受け入れてくれた。まさか、すれ違いできみが再訪していたとも知らずに。
「あの言葉、嘘だったのかよ?」
その言葉に、心が冷え切っていくのを感じていた。きみの言い分は尤もだった。グリーンから見たぼくは、勝負から逃げ出したようにしか見えなかっただろう。だから、何も言えなかった。
「大っ嫌いだ、おまえなんか!」
そう言われた時、目の前が真っ暗になった。ふたりを細く繋いでいた糸がぷつりと切れる音がした。帽子の鍔で顔を隠し、ごめんとしか言えないぼくは、きみが言う通り、ずるいのだと思う。ぼくのやる事なす事全てが、きみを傷付けてしまう。
ぼくがいなければ、きみはきっとチャンピオンであり続けた。
おじいちゃんからあんな風に咎められることも、今みたいに泣きそうな顔をして怒ることも。
大切な人をこんなにも苦しませてしまうのならいっそ、透明人間にでもなってしまいたかった。
気付けば、三年近くもシロガネ山に居座っていた。
正確な時間は、月に数度訪れる山の麓の、寂れたポケモンセンターで知った。きみがトキワシティのジムリーダーになったことを知ったのも、施設が取り寄せている雑誌を認めたのがきっかけだった。表紙を飾るのは、最後に会った時よりずっと大人びた顔をしたきみだった。
血色を忘れた白い手は、求めるようにその冊子を掴んでいた。発行日は一年程前だった。よく捨てられずに残っていたものだ。
端のベンチに腰掛け、震える手でページをめくる。『元チャンピオンの少年、トキワジムのリーダー就任』の見出し。きみと記者とのインタビュー記事の中に、ところどころ写真が載っている。ジムトレーナーやトキワの住民たちに囲まれているきみの写真。どれも笑顔を浮かべている。観光客にサインをせがまれたのか、困ったように眉根を下げつつも応じているきみもいる。
ぽたぽたと小さく弾ける音とともに、眺めていたページに水滴がいくつか落ちて染みをつくっていく。視界がぼやけたり、晴れたりを繰り返す。いつのまにか頬は濡れていた。
きみが笑っている。たくさんの人に囲まれて。よかった、と思った。心から。本当にそう、思うのに。
堰を切ったように溢れる涙はとどまることを知らなかった。暴走する感情の収め方を、ぼくは持ち合わせていなくて、ひとりでに止まるのを天井を仰ぎながら待つことしかできなかった。
思い知らされたというより、もとより分かっていた。これはきっと再確認のための機会だった。
ぼくがいなければ、きみは笑えることを――きみの生きる世界に、ぼくは本当に必要ないってことを。
帰ろう、シロガネ山に。やっぱりあそこはぼくの居場所だった。やがて命が潰えるその時まで、ずっとここにいよう。
あの日の決意は現実となった。ただ、今目の前に広がる状況だけは誰が予想できただろう。
足元ががたごとと揺れている。青いビロードの張られた座席に座って、木の枠が嵌められた窓から外を眺めていた。濃紺にも漆黒にも見える闇の中、白に赤に青にと光る星々が、一斉に歌うように瞬く。
『その願い、叶えてあげる』
声がそう言い切るや否や、フラッシュを受けたような眩い光に包まれた。身体が小刻みに揺れる気がするのは目が眩んだせいだと、しばらく信じて疑わなかった。
ようやく目が見えるようになった頃、自分が古びた列車に乗っていることに気が付いた。それから、膝に一匹のポケモンを抱えていることにも。
両腕に収まり、熟睡しているように見えるそのこを認め、『悲しい』という言葉を胸に抱いた。
脱いだベストで、鮮やかな黄緑色の小さな身体を包む。布団の代わりには心許ないと分かっていて、それでも今はそうしてあげたかった。
◆
シロガネ山で過ごしているうちに、とある一匹のポケモンを気にかけるようになった。
ぼくの図鑑には載っていない、未知のポケモン。くすんだ色の群れの中で、ひときわ鮮やかな色をしていた。見かける度に心の中で『あのこ』と呼んでいた。可愛がっていた訳ではない。
あのこは群れから淘汰されていた。母親や家族の愛情を求めて仲間に近付くのだけれど、無視されたり、振り払われたりしていた。ひとりだけ特異な色をしていたから。理由なんてただきっとそれだけなのだろう。そのうち身体はボロボロになっていく。だんだん哀しげな声をあげることもやめていた。いくら恋しがっても無駄だと悟ってしまったのだ。
群れから追い出されたあのこに、手を差し伸べたことはまだ記憶に新しい。間髪を入れず、持っていたきのみごと手を払われた。
動作に迷いはなかった。両足を踏ん張り、小さな身体で精一杯威嚇していた。強い子だった。ぼくを睨みつけるその赤い双眸に、異種族からの同情など要らないという強い意志を感じた。
激しい既視感に襲われながら、自分がなぜこんなにもあのこが気になるのか、ようやく分かった。
「大っ嫌いだ、おまえなんか!」
怒気を孕んだ声がフラッシュバックする。肩を怒らせ、眉間に皺を寄せ、唇を小刻みに震わせてそう言った、あの日のきみを彷彿とさせた。
ほんの些細な類似点ひとつで、ぼくの記憶はいつでもあの場面へと回帰する。何も言えずに立ち尽くすだけのぼくを睨むその目が赤かったのを、何度も何度も繰り返し思い出しては、その度に自分の存在意義を考える。消えてしまいたいと願う割には、自分を粗末にもし切れずに、今も中途半端に生に縋りついているぼくのことを。
シャアア、と耳元で威嚇する声が聞こえた。
ピカチュウがボールから出てきて、ぼくの肩に乗っていた。威嚇するあの子を睨みつけながら、小さな牙を剥き出しにしている。ピカチュウの凄みに恐れをなしたのか、雪道に小さな足跡を残しながら、あのこは向こうへと駆けて行ってしまった。
そんなことがあってからは、ずっと遠巻きにあのこを見ていた。空腹を少しでも満たせればと、こっそり木の根元にきのみを置いた。ほとんどは他のポケモンに食べられていたけれど。
心を通わせたかった訳でも、仲間にしたかった訳でもなかった。きみに似たあのこを守ろうとすることで、せめてもの罪滅ぼしをしたかっただけで。
あの時も、そうだった。危ないから救けたかっただけだった。なすこと全てが裏目に出る。
吹雪が止んだ日もあったから、積雪が脆くなっていることくらい、予想がついていたはずだった。崖に見えるそれが雪庇である可能性だって、ぼくは知っていたのに――……。
赤いボロ布で包んだあのこを抱きしめてから、座席にそっと下ろした。
ふらふらと立ち上がり、車窓へと近付く。古い木の窓枠に手をかける。身を乗り出すようにして、汽車の進行方向とは逆の方を見る。吸い込まれそうなくらいの真っ暗闇が大きく口を開けていた。この汽車の行き先を、ぼくはなんとなく理解した。
手持ちたちは、真っ暗闇の向こうにいるだろう。食い入るように列車の最後尾を目で追いながら、ボールが守ってくれますようにと請う。あのこを道連れにしてしまったことが、叫びたいくらいに悔しくて堪らないのに、掠れ声すら出せずに、ただ窓枠に胸を打ちつける。
やるせなさを解消できないまま、ぼくは車窓から身を離し、振り返った。瞬間、呼吸が止まった。あんなにがたごとと鳴り響いている列車の走行音すら、遥か遠くに聞こえる。
どうして、と唇は動いたが、声にはならなかった。
ここにいてはいけない人物が、通路に佇んでいた。同じタイミングで息を呑み、目を見張らせている。
「……レッド」
記憶より幾分か低くなった声が、昔と変わらない響きでぼくの名を呼んだ。