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    前回:◆少年Rの独白の続き。
    童話『銀河鉄道の夜』の世界観を交えつつ、幼少期の出会いからチャンピオン戦後の別れ、そしてふたりが再会するまでの友情以上恋愛未満なグとレのはなし。

    #グリレ
    griller

    ◇少年Gの回想   ◇

     カントー地方の夏特有の、湿気をまとった生ぬるい風が頬を撫でる。日もずいぶん落ちかけてきて、辺りは赤や橙に染まっている。
     夕飯や石鹸の匂いがどこからかただよい、「おうちにかえろ」と子どもらがすぐそばを駆け抜けていく。
     同じく買い物帰りだろう母子おやこが向かいから歩いてくる。じっと見てくるものだから会釈でもしようかと思えば、向こうから「ジムリーダーさんもお帰りですか?」と声をかけられた。
     オレは瞬時に笑顔をつくってみせ、少しだけ言葉を交わした。さっきまで機嫌良く歌っていた幼子は、母親の後ろに隠れてもじもじとこちらをうかがっている。
     しゃがみ込んで少女と目線を合わせる。買い物袋からミックスオレを探り当てて差し出せば「お兄ちゃん、ありがとう」とはにかんでみせた。
     バイバイと手を振り別れた背後から、少しだけ調子の外れた高らかな歌声が再び聞こえてくる。少女の紡ぐ童謡に懐かしさを覚えつつ、そう言えば七夕が近いんだったか、と気付かされた。
     重なっていく年齢に比例するかのように、行事とはどんどん疎遠そえんになっている気がする。両手で年齢としを数えられた時、七夕はもう少し身近なものだった。
     明日が来ることを疑わずに信じ、未知に溢れた世界で日々新しいものに出会っては目を輝かせていた頃。何のしがらみもなく、草原や田舎町を駆け回っていたあの日々は遠い記憶の彼方にある。
     これがおとなになっていくというものだろうか……なんてほんの僅かに感傷めいていたのだけれど。
     目的地でもあったトキワジムの前に、なぜか身に覚えのない笹が立て掛けられていた。自分の身長を悠に超える高さ。まだ青々とした葉には、ご丁寧に色とりどりの七夕飾りまでついている。風が笹を揺する度に、葉や飾り同士がこすれ合い、しゃらしゃらと音を立てていた。
     ちょうど今、自分とはもう無縁だろうと思っていた象徴ものを目の前にして、思わずジムの看板を二度見した。自分がジムリーダーを務める、帰るべき場所に相違なかった。
     自動ドアの向こう側の景色に、頭がくらくらし始める。大のおとなたち――それもエリートトレーナーと呼ばれている――が、揃いも揃って地べたに尻をつき、額を突き合わせて工作に興じていた。周囲には、折り紙とペン、その他諸々の材料と道具が散らばっている。いつからここは保育園になったんだ。
     オレが定例会に出かける前は、バトルをしたり、戦略を練ったりしていた。
     つい先日、ジョウト地方から来た少年にジムを制覇されたのを機に、切磋琢磨し合ってたはずだったのだが。
    「あ、リーダー。おかえりなさい」とひとりが言ったのを呼び水に、まるでやまびこのように「おかえりなさい」とあちこちから聞こえてくる。
    「おい、誰だよ。ジムの前に笹を置いたやつは……」
    「あ、おれです」と輪の中からひとりの手が挙がる。
     彼は午前中に半休をとっていたので、今日会うのはこれが初めてだ。高々と挙げた手に握られている輪飾りはずいぶん長く連なっている。
    「出勤前に実家に立ち寄ったら『もうすぐ七夕だから』と両親に押し付けられまして……」
     アパート暮らしだから置くところなくって、と彼は続ける。分かると言わんばかりに、他のトレーナーたちもうんうんと同意するように頷いていた。
    「短冊、リーダーも書きます?」
    「書かない。生憎あいにくオレは、神も言い伝えも信じてねえんだ」
    「まあまあ、そう言わずに。願いごとのひとつやふたつくらいあるでしょう?」
     一桁くらいしか年齢としが変わらないはずなのだが、まだ二十にも満たないオレを子ども扱いする節があった。遠慮なくどうぞ、と短冊とペンを押し付けてくる。
     ガキと同じ扱いをするな、と憤慨ふんがいしたところで、生あたたかい目で見られるのがせきの山だ。
     オレがジムリーダーに就任して間もない頃ならまだしも、ある程度共に過ごした年月を重ね、関係も徐々に築いている。だからこそ。これが嫌がらせのたぐいでもなく、心からの言葉だと分かっている。余計にタチが悪い。
     渋々受け取れば、「リーダーも書いたら七夕までに飾ってくださいね」と朗らかに言われてしまった。
    「トキワにいる人みんなが短冊を書いて飾れるように、ジムの前に机でも設置しましょうか」なんて呑気のんきな会話を背中で聞きながら、言えなかった文句の代わりに大きな溜息をひとつ。
     短冊とペンは早々にポケットにじ込んだ。
    「そういえば」と何かを思い出したかのような声に、書斎に向かう足を止めて振り返る。
    「今夜辺りから、千年彗星が見られるらしいですね」
     ……きびすを返す程のことでもなかったな。
     
       ◇

     机の上に積み重なる、目を通しても通しても全く減った気のしない書類や封筒と向き合っている内に、ずいぶん夜も更けてしまった。書類仕事をし始めた際にはまだ赤く光っていた窓の向こうは、すっかり濃紺の闇へと変わっている。
     書斎の壁時計を見やれば、二十一時前を指していた。秒針の音がひとりきりの部屋で延々と響く。キリの良いところで筆を置き、ひとつ伸びをした。オフィスチェアの背もたれに全体重を預け、深く沈み込めば、自然と深い溜め息がこぼれた。
     ジムトレーナーたちはもうとっくに帰宅している。ひとりきりの空間では、もう何も取りつくろわなくていい。
     眠気と空腹感をまぎらわせようと、ポケットに忍ばせていたはずのガムを探した。くしゃ、という音と共に、指先は目当てのものではない何かに触れる。数時間のうちに失念していた紙切れを取り出す。乱雑に仕舞われたために折れ曲がり、皺の入った短冊を。
     燃えるような赤。
     連想ゲームのように思い出されるひとりの人物。幼少期を共に過ごし、故郷のマサラタウンを同じ日に飛び出したオレの――……。

     机の上に置かれたポケギアが着信を知らせ、追想しかけたオレを現実へと引き戻した。こんな夜中に誰だよ、といぶかしみながらディスプレイを確認すれば、表示されていたのは『ヒビキ』という名前。
     半ば習慣のように訪れていたグレン島で、オレに話しかけてきたトレーナーだった。朗らかで人懐っこく、見るからに純朴そう……と、人の良さそうな風貌とは裏腹に、ジョウトリーグのチャンピオンという称号を持っていた。
     ワカバタウンという町からカントー地方まで渡ってきたヒビキは、トレーナーらしくジムで腕試しをしていて、すでに見覚えのあるバッジをいくつか光らせていた。
     オレと本気で戦いたければカントーのジムバッジを七個集めてこい、と言えば、ひと月足らずで残りのバッジを全て揃えてきた。
    「これで、戦えますよね」
     カントー地方最後のトキワジムに足を踏み入れたときに見せた誇らしげな顔は、なかなか印象に残った。まあ、初回はボロ負けにしてやったが。
     二度目の挑戦であいつはリベンジを果たした。目の前の相棒を信じ抜き、優勢でも劣勢でも心からバトルを楽しんでいたあの黒い双眸に、数年前にセキエイリーグで繰り広げられたチャンピオン戦を思い出していた。
     グリーンバッジとわざマシンは渡したが、ポケギアの番号までは教えてなかったはずだった。それなのにヒビキはなぜかオレの番号を知っていて、時折連絡を取り合っていた(あいつはあの人懐っこさで、いつのまにかオレのねえちゃんと知り合いになっていた)。
     今日の定例会で、ちょうどその名前を聞いたばかりだった。つい最近、セキエイリーグも制覇したらしい。
    「こんばんは」とスピーカーから微かに聞こえた気がする。いったいどこからかけているのだろうか。やたらノイズが混じっていて聞き取りづらい。
    「もしもし」と声を張り上げる。
     すると向こうから何やら応えるような声がしたが、電波の調子が悪いのか途切れ途切れに聞こえる。
     この様子だとオレの声だって十分に聞こえてないだろうな。何かを一生懸命伝えようとしていることだけは、ポケギア越しに伝わってきた。しかし努力虚しく、一方的に通話は切れてしまった。何だ、あいつ。
     書類はまだ残っていたが、やる気はすでに削がれてしまった。もう明日に回すか。机の上をさっさと整え、横に掛けていた鞄を手に取る。
     通話中、無意識に握り締めていたらしい。より皺だらけになってしまった短冊を足元のゴミ箱に捨てようとしたが、うるさく小言を言うヤスタカの顔が思い浮かんだ。朝からゴミくらいでとやかく言われるのもしゃくなので、仕方なく再びポケットへと仕舞った。

     ポケモンセンターを経由して、ひとり家路をたどる。
     すれ違う人影はない。夜道はしんと静まり返っている。昼間は人通りも多く賑やかだから、尚のことそう思わされる。
     闇は深まっていたが、いつもよりずっと明るい夜だった。ぽつぽつと等間隔に設置された、常夜灯の古びた光すらいらないほどに。空を見上げれば、星や月さえもかすむくらいの大きな箒星が、夜空を裂くように悠然と横たわっている。
    『千年彗星』と呼ばれるそれは、千年に一度の七日間だけ現れると言われる稀有けうな星だった。今年がその千年目にあたるのだと、どのチャンネルでも話題にあがっていた。
     オレはもっと前から知っていた、と彗星から目を逸らしてひとちる。踏み出した爪先に小石が当たり、ころころと遠くに転がっていく。
     ポケットから短冊を取り出す。子ども騙しの紙切れだ、こんなもの。それでも。
     昔の――旅に出る前のオレだったなら、迷いなく書けた。なんて書いたのかも一字一句覚えている。オレの横で長考したのちに、願いごとを書いていたあいつのことも。

     オレには同い年の幼馴染みが
     過去形なのは、現在行方ゆくえをくらませているからだ。あいつの実の親ですら足取りが分からないまま、三年くらいの時が過ぎた。
     あいつのいないこの数年間で、変わったことはいくつもある。成長期を迎えて、身長は二十センチ近く伸びた。当然服のサイズも変わった。変声期を迎え、声が低くなった。そして、『幻のチャンピオン』と言われていた少年が、ジムリーダーに就任した。
     最後に交わした――いや、一方的に投げつけるように吐き出した言葉を、今でも覚えている。それを聞いたあいつの顔も。
     プルルルル……と、しばらく沈黙を貫いていたポケギアが再度鳴り始めた。脳裏に浮かんだ記憶は瞬く間に掻き消されていく。今度は着信相手を確認せずに通話ボタンを押した。
    「もしもし、ヒビキです! グリーンさん、聞こえますか?」
     もう就寝の時間だというのに、底抜けに元気な声が鼓膜を揺らす。ポケギアから耳を離し、ボリュームを下げる。
    「……よく聞こえてるよ。そんで、こんな夜中になんかか?」
     急用って程でもないんですけど、と途端に向こうの声が控えめになった。一応申し訳ないとは思っているらしい。
    「ぼく、実はさっきまでシロガネ山に登ってたんですけど」
    「……なんて?」
    「シロガネ山に、登ってたんです!」また聞こえてないとでも思ったのか、ヒビキは再度声を張り上げた。違う、そうじゃない。
    に、か?」
    「はい!」と快活な肯定が返ってきて、本日二度目の頭痛に悩まされそうだった。
    『シロガネ山』とは、カントー地方とジョウト地方の境にある高山の名だ。標高三千メートルはあるその山は、トキワシティからもよく見えている。
     青々とした美しい山で、山おとこたちにとっては憧れの場所らしい。登山希望者は多いが、ハナダの洞窟同様、ポケモンリーグの上層部に実力を認められた者以外の立ち入りを禁じられている。他所のエリアで見つかる個体よりも、遥かに獰猛でレベルの高い野生ポケモンが出没するからだ。
     入山条件が厳しい故に、足を踏み入れる者はほとんどいない。人に踏み慣らされてない山道の起伏は激しく、山中は常に吹雪いており、視界も悪い。よほど自信と実力のあるトレーナーでなければ、肉体的にも精神的にも疲弊させられるだろう、と聞いている。
    「グリーンさんに勝てたおかげで入山許可も下りましたし、今夜から千年彗星が見られるってニュースにもなってるじゃないですか。折角なら頂上で見ようかなーって」
     ヒビキのあっけらかんとした物言いに疲弊の色は感じなかった。なんでもないような口調――例えるなら、ちょっと隣町まで行ってくる、くらいの軽さに、開いた口が塞がらない。
     オレは実際に足を踏み入れる機会がなかったから、シロガネ山については噂程度にしか知らない。それでも、気軽な気持ちで夜景を見に行くようなところではないことくらいは分かる。
    「で? 頂上には着いたのかよ」
    「着いたには、着いたんですけど……」
     着いたのかよ。ますます呆れ返ったのと同時に、急に歯切れが悪くなったのが気になった。
     ヒビキは通話中にたっぷりと間を置いて、それからおもむろに続きを切り出す。
    「……頂上に、すでに先客がいまして」
    「物好きはいるもんだな、おまえの他にも」
    「ぼくと同じくらいの年の男の子でした。もしかしたらもう少し年上だったかも。腰にボールのついたベルトを着けてたのが見えたんで、手持ちのポケモンたちを回復させてから、思い切って話しかけてみたんです」
     嫌味に気付かない鈍感ヒビキは、つらつらと話し始めた。興奮しているのか、どんどん早口になっていく。
    「目と目が合ったら勝負って言わんばかりに、何も言わずにボールを構えてきたんでちょっと焦っちゃいました。ぼくもバトルが始まるのが覚悟の上で話しかけたので、そのまま応戦したんですけど……見事に負けてしまいまして」
    「おまえより強いトレーナーだったのか」
    「はい、清々しいくらいの負けっぷりでした。ジョウトのチャンピオンの座を返したくなったのはこれが初めてです」
    「へえ……どんなトレーナーだった?」
     ヒビキを負かすくらいだから相当の実力だろう。ジムリーダーではなく、一介のポケモントレーナーとしての血が騒ぎ出した。我が家にはすでに着いていたが、そのまま玄関に背中を預け、続きを促す。
    「赤い帽子キャップに、赤いベストを着たトレーナーでした。初手のピカチュウがものすごく強くて! ボルテッカーでほとんど戦闘不能にされてしまいました。今夜にでも夢に出てきそうです」
     やけに芝居がかった大袈裟な口調でヒビキはそう言った。オレは話を聞きながら、とある可能性を見出していた。それはようやく掴んだ一筋の光明だった。
    「負けたあと、名前を聞いても教えてくれなかったんで、グリーンさん知らないかなって思って電話したんです。シロガネ山にいるってことは、カントーのリーグを制覇してるはずなので……あの、グリーンさん。ぼくの話、ちゃんと聞いてます?」
    「……ああ、うん。聞いてるよ」
    「ぼく、また今度シロガネ山に登って再挑戦してみます。そういえば結局、千年彗星も見れてないですし! でも今日はもう遅いんで、これで。今までグリーンさんがバトルしてきた中で、思い当たるトレーナーがいたら連絡くださいね、絶対ですからね!」
     言いたいことだけ言って、ぷつりと通話は切られた。
     金縛りにでもあったかのように、オレはその場からしばらく動けずにいた。無機質な通話の終了音が、ツーツーといつまでも鳴り続けている。

       ◇

     もし自叙伝を書く機会があれば、きっと何度も繰り返し現れるひとりの名前がある。あいつの存在を抜きに、自分の半生を語ることなどできない。

     回想は、五歳頃までさかのぼる。
     理由わけあってオレとねえちゃんは、じいさんの研究所があるマサラタウンへと移り住むことになった。
     青々しく光る草の絨毯。淡い水色の空に、桃色の花びらが風に吹かれて宙に舞い上がる。冬の寒さを忘れさせてくれるような、あたたかな陽射しが降り注ぐ春の頃だった。
     軽い失望を味わったことは、ほんのりと覚えている。研究所以外に取り立てて珍しいものも目新しいものもなく、民家すらまばらに建っているだけの田舎だったからだ。
    「よく来たのぉ」とじいさんは研究の合間を縫ってオレたちを迎えに来てくれた。それから彼に連れられて、研究所より先に三人で隣家に挨拶に向かった。
     インターホンの鳴り響く家から来客を出迎えに現れたのは、自分と同じくらいの背丈の少年だった。
     まず目を惹かれたのは、あいつの髪と瞳の色だった。
     じいさんは爺さんらしく白髪混じりのシルバーブロンドヘアーだったし、オレとねえちゃんは太陽光に透かすと金色にも見える茶髪だった。だから、夜空を溶かしたみたいなその黒が、やけに珍しく映っていた。
     あいつはオレら家族を認めると、元々丸っこい目を更にまんまるくさせた。そうして一切口も利かずにしばし固まったあと、そのままゆっくりと後退あとずさりして奥へと引っ込んでいく。
     しばらくしてあいつの母親らしき女性が奥から現れた。
    「ごめんなさいね、この子人見知りなの」なんて詫びを入れてから、じいさんと話し始める。
     あいつも一緒に戻ってきてはいたものの、母親の脚にしがみつき、その背後にもじもじと隠れていた。
    「おとなりにグリーンと同い年の男の子がいるんだって。仲良くなれるといいね」とねえちゃんから事前に聞いていたから、会えるのを楽しみにしていた。
     どうにか目が合わないものかと見つめていたが、淡い桃色のスカートを盾に、煮詰めたミルクみたいな白い手と、外にぴょんと跳ねた癖っ毛が見え隠れするだけ。
     おい、と声をかけてみた。びくりと華奢な肩が跳ね上がる。
    「おれ、グリーン。おまえは?」
    「れ、レッド」
     よろしく。そう言って手を差し出せば、ようやく少しだけ顔を覗かせ、そっとオレの手を握り返した。柔くて頼りない手だった。緊張からか指先が冷えていて、微かに震えている。
     今となっては手を握り返しただけでも、あいつにとっては最大級の誠意だったのだろうけど、幼い自分には分からなかった。
     ここまで自分からアクションを起こしてるのに、すぐさま隠れてしまうものだから、落胆してしまっていた。本日二度目の失望。一緒に遊べるかもしれない、と大いに期待していた分、勝手に裏切られたような気になっていた。
     これ以上は仲良くなれそうにないな、と子どもらしい残酷さであいつを見限った。
    「おれ、研究所に行く」と、さっさとこの不毛な交流を終わらせる。背中を追いかけるように「グリーン」とたしなめるようなねえちゃんの声が聞こえてきたけれど構いやしなかった。
     研究所は一際目立っていたからすぐに分かった。事前に孫が来ることをじいさんから聞いていたのだろうか。急に現れ本棚の前のスペースを陣取るガキを、研究員たちは邪険にはしなかった。
    「もしかしてオーキド博士のお孫さん?」と声をかけ、オレがそれに頷けば、二、三言話しかけたあと各々作業へと戻っていく。
     オレは追い出されないことをいいことに、適当に棚から本を抜き出し読んでたが、世間話を終えたらしいじいさんに摘み出され、しぶしぶ自宅へと戻った。
     まだねえちゃんが怒っていたら厄介なので、こっそりと音を立てないように玄関を開けた。ダイニングの方からねえちゃんの笑い声がする。
    「レッドくん、絵が上手なのね。このピカチュウなんてそっくり」
     ダイニングへと続くドアの隙間から、ねえちゃんの弾んだような声が聞こえてきた。レッドくん。確かにそう言っていた。あいつ、ここに来てるのか。
     オレが帰ってきたことには、全く気付いてなさそうだった。そっと室内を覗いてみると、自分の家のダイニングテーブルであいつが絵を描いている。使っているクレヨンにどうも見覚えがあった。
     むっとして、わざとけたたましくドアを開けた。足もどかどかと鳴らしながら近付けば、案の定オレの持ち物だった。
    「あーっねえちゃん! それ、おれの!」
     抗議すれば「ずっと使ってなかったからいいじゃないの」と、にべもなく言われる。あいつはあいつで、眉を八の字に下げながら、挙動不審にオレたち姉弟きょうだいを交互に見遣る。だんだん腹が立ってきた。
     許可なく他人ひとのクレヨンを使っていたあいつに、文句のひとつやふたつでも言ってやろうと思った。隣の椅子に足を引っかけ、勢いをつけてよじ登る。
    「……えっ、ポケモンじゃん! なにこれ!」
     テーブルの上に、ポケモンが描かれた画用紙が数枚並んでいた。直前まで怒っていたことも忘れてそれらを掻き集め、手元で一枚一枚順にめくっていく。ねえちゃんが上手だと褒めそやしていたピカチュウをはじめ、フシギダネ、ヒトカゲ、ゼニガメだと一目で分かる。
     ポケモンの写真集を毎夜寝る前に眺めていたから覚えていた。それに、同じ五歳の子どもが描いたにしては、よく特徴を掴んでいたのだ。
    『挨拶すらまともにできない人見知り』という評価が、その瞬間に一変した。
    「これ全部おまえが描いたの?」と尋ねれば、頬を紅潮させたあいつが何度も頷く。
    「レッドも、ポケモン好き?」
    「……うん、好き」
     細い指先をもじもじと胸元で遊ばせながら、囁くようにあいつは答えた。相手のすごいところと共通点を見い出してしまえば、途端に好意が湧いてくるのだから、子どもって単純だ。
    「おれ、これ欲しい!」
     ゼニガメの絵を掲げると、レッドは首を縦に振ってみせた。その口許に控えめな笑みをたたえて。
     初めて見せた笑顔に、オレの胸の内に何かが生まれた。あたたかできらきらとした感情だった。
    「おれ、さっき草むらでポッポの大群見つけたんだ! レッド、おまえも見に来るだろ?」
    「……! いき、たい……!」
    「じゃあ、早く行こうぜ!」

     それからというもの、オレはあいつと毎日のように遊んだ。天気が良ければ、レッドの家の窓から顔を覗かせ、遊びに誘った。
     日頃おとなたちからは口酸っぱく、『野生のポケモンが出るから草むらに入ってはいけない』と言われていた。あいつもその言いつけは知っているようだったけれど、オレが草むらに行こうと誘うのを引き留めたり、咎めたりすることは一度だってなかった。
     第一印象がなよなよしていたから臆病なんだと思い込んでいたが、あいつは意外にも肝が据わっていた。嬉しい誤算だった。
     だから外遊びはもっぱら、草むら探検に、野生のコラッタやポッポの観察。昨日より高い段差を見つけては飛び降りてみたり、秘密基地に使えそうな場所を探したりして過ごしていた。
     そんな度胸試しにも似た遊びを、遊園地も映画館も、公園すらないただの田舎町で、オレたちふたりで色々工夫しながら飽きもせずにやり込んでいた。
     毎日のように日暮れまで駆け回っていたから、ふたりしてどんどん日に焼けて、足や腕には擦り傷をたくさんつくっていた。ねえちゃんは毎日絆創膏を貼らされて呆れ返っていたけれど、おばさん――レッドの母親は、好意的だった。
     いつかあいつがいない時に「レッドといつも遊んでくれてありがとう」とこっそり耳打ちされたことがある。
    「グリーンくんと会ってからいつも楽しそうなの。あの子、おしゃべりはあまり得意じゃないから」
     あいつのしゃべり方がぎこちないことははじめから知っていたが、あまり気にしてはいなかった。多くは語らない分、口にする言葉はいつでも誠実なことを知っている。オレが口を開く度に、じっと目を見てしっかり耳を傾けてくれていることも。
    「おれもレッドといるの楽しいし、好きだよ」
     思ったままを伝えれば、おばさんはもう一度「ありがとう」と言って微笑んだ。笑った顔があいつに少し似ている。細めた目元に涙が滲んでいるように見えて、なんとなく顔を背けてしまった。あんまり手放しで喜ばれるものだから、幼心にも気恥ずかしかったのだ。

     いつしか、家族よりもあいつと過ごす時間の方が長くなっていた。子どもよりおとなが多い町だから、オレたちが互いの存在を必要とするのは当然の成り行きだった。
     オレたちは時折、研究所を図書館代わりにすることもあった。じいさんはその頃からあいつを可愛がっていた。まるで三人目の孫みたいに。オレだけ来たときは追い出すくせに、レッドと訪れた時だけは研究所への出入りを黙認していた。
     じいさん――もといオーキド博士は、ポケモン研究の第一人者で世界的権威ある人物、らしい。わざわざじいさんに会いに、各地から研究員と呼ばれる人たちが絶えず訪れるくらいだ。一緒に暮らすようになって、自分の身内が並々ならぬ人物だということを否応なく知ることとなった。
     じいさんのことは尊敬しているが、同時に悩みのタネでもあった。祖父が偉大なばかりに、周囲のおとなたちはオレのことを『オーキド博士の孫』という記号でしか見ていないことを、物心付いたときからひしひしと感じていた。何を頑張っても二言目には「祖父の七光り」だと言われる。優秀なのは遺伝子的に当然だと、オレを通してじいさんを称賛する。
    「グ、リーンは……すごい、よね」
     あれは何がきっかけだっただろうか。よくは覚えてないが、きっと盗み見たレポートの知識でも披露していたのだろう。純粋無垢に瞳を輝かせ、あいつははしゃいだようにそう言った。
     いつもなら自慢げに鼻でも鳴らしていただろうが、先日研究員のひとりに「将来はおじいさまの跡を継ぐんでしょうね」なんて言われたばかりだった。
     将来まで決めつけてくるような物言いに子どもながらに傷付いた。誰もがオレのことなんて見ていないのだと、自分の価値観が揺らいでいた。
    「レッドもおれが、『じいさんの孫』だからすごいって思うのか?」
     砂粒を指で弄りながら、つい拗ねたように口走っていた。すぐさま我に返り、あいつを見た。
     レッドは心の底から不思議そうな顔をしていた。黒くまるい瞳は、鏡面のようにオレだけを映す。
    「グリーンが、いっぱいお勉強したから……ポケモンのこと、いろいろ知って、るんでしょ? ぼく、グリーンのはなし、聞くの、好き」
     なんだか魔法みたいだった。たどたどしく紡がれたあいつの言葉が、滅入りこんでいた心にすっと入り込んでいく。真っ暗な夜にひとつだけ落ちてきた流れ星みたいだった。
     レッドが、レッドだけが、オレをオレとして見てくれる。
     世界でたったひとりだけでも自分のことを分かってくれる存在がいるという事実は、オレをほんの少しだけ強くしてくれた。そしてあの瞬間、あいつはオレにとってより一層かけがえのない友人になっていた。
     それなのに。
     少しずつ歯車は噛み合わなくなっていた。
     スクールに通うようになってから、あいつはオレと距離をとり始めた。そして、極め付けが数年前のやり取り。まさか消息すら絶ってしまうなど、あの頃は想像もつかなかった。

       ◇

     思いもよらぬところから不意打ちで与えられた情報にしばらく呆然としていたが、しっかりしろと己を叱咤して家に入った。
     ボールの中で大人しく晩飯を待っていた手持ちたちに詫びながら、個々に合ったポケモンフードを手早く準備した。オレ自身も食事や風呂を済ませつつ、罪滅ぼしにと就寝ギリギリまで彼らのケアを特に念入りにしていく。
     とにかく何か手を動かしていないと、同じ思考にずっと囚われてしまいそうだった。無心でやっているうちにとうとうやることも尽きてしまった。毛並みもつやつやになった手持ちたちは、満足そうに欠伸をして床に寝そべり始める。各々がまぶたを閉じる様を数秒ほど眺めてから、電気を消して寝室へと向かった。
     何度もポケットに押し込まれて、見るも無惨になった短冊をまだ捨てられずに持っていた。入浴中、そういえば、と脳裏に過った記憶をもとにクローゼットを漁る。ところどころ凹み傷のある古びた缶カンを見つけ出す。
     四つ折りに畳まれた画用紙。
    『おれの!』と書かれたぼろぼろのクレヨンの箱。
     使い込まれた小さなスケッチブック。
     ラムネのビー玉。
     下手くそな折り紙のピカチュウ。
     まるでタイムカプセルだなと思いつつ、目当ての物を探す。それはすぐに見つかった。色褪せた短冊。拙い字で書かれた願いごとを目で追う。

    『グリーンともっとなかよくなりたい』

     初めてふたりで迎えた七夕の日に、あいつが書いていたもの。
     当時、七夕を過ぎたら笹ごと燃やされると聞いて、レッドにすらバレないようにこっそりと持ち出していた。十年来の秘密は缶の中で静かに眠っていた。
     郷愁とともに、その時のやり取りもふと蘇る。


     昼下がり。レッドの家の茶色いダイニングテーブル。背後でつけられた扇風機が、首を振りながら規則的に足元に風を送り込んでくる。
     床に届かない足をぶらつかせながら、テーブルにしがみつくくらいの前傾姿勢で『せかいでさいきょうのトレーナーになる!』と意気揚々に筆を走らせる。
    「できた!」と高らかに声をあげるオレの横で、あいつは短冊を前に頬杖をついていた。握られたペンが動く気配すらなかった。
    「願いごと、決まらねーの?」
     堪らず発したオレの問い掛けに、あいつは眉間に皺を寄せ、唇を少し尖らせたまま頷く。
    「なんか目標とか夢とかないのかよ」
    「ゆめ?」
     オレの言葉をおうむ返しに呟き、レッドは目を閉じて首を傾げた。
     ますます深くなっていく皺を見て、「夢じゃなくてもさ、とにかく今、叶えたいって思ったこと書けば?」と付け加える。
     あいつはぱちりと両目を開けると、何を思ったのかオレの顔をじっと凝視してきた。
     顔に穴が開くんじゃないか、と思うくらいの時間が、ふたりの間を流れる。以前、あいつが何を考えてるのか当ててみようと、その目を覗き込んだ時には、顔を真っ赤にしながら「見ないで」なんて言っていたくせに。
     自分から目を逸らすのは、なんとなく負けたような気がして、真っ直ぐにオレを見据えるその黒を、見つめ返す他なかった。
     永遠にも似た見つめ合いのあと、あいつはやけにあっさりと目を逸らした。姿勢を正面へと戻し、ペン先を短冊に押し付けるようにして何かを書き出す。
    『グリーンともっとなかよくなりたい』
     あまりにもひと文字ひと文字ゆっくりと書くものだから、願いごとが全部見えてしまっていた。次に唇を尖らせたのは、オレの方だった。
    「親友って思ってたのおれだけかよ」
    「しん、ゆう……って?」
    「知らねーの? いちばん仲が良い友だちって意味だよ!」
     無愛想にそう言うと、あいつはまた黙り込んでしまった。そして伏し目がちにオレを見上げ、思い切ったように口を開く。
    「グ、リーンのしんゆうって、ぼく……なの?」
    「レッドじゃ悪いのかよ。こんなに毎日遊んでるのに」
     僅かに不貞腐れたオレに向かって、違う、とレッドはかぶりを振って見せた。
    「悪くない、よ。だってぼくの、いちばんはグリーン、だもん」
     へへ、と書いたばかりの短冊を握りしめながら、あいつははにかんだ笑みを浮かべた。
    「願いごと、もう、叶っちゃった」と舌足らずに言うあいつに、そんなことで単純だな、なんて思う。でもきっと一番単純だったのは、自分も同じだと肯定されて、あっさりと機嫌が良くなったオレ自身に違いなかった。


     ドアノブがガチャガチャと動いた。時折、手持ちの誰かがこうして寝室を訪れたのをアピールするので、驚くことなくドアを開けてやる。
     ドアの向こうでのっそり座っていたのはウインディだった。ふわ、と大きく欠伸をしている。
     寝惚けているのか、はたまた夜更かしをするオレを咎めに来たのか。ウインディは夢とうつつの狭間で目をうっとりとさせていた。
     重く閉じかかる橙色のまぶたを瞬かせ、睡魔と戦っている大きな生き物に手を伸ばす。ほのおタイプらしい、あたたかく豊かな毛並みを撫でれば、甘えるようにオレの肩口にぐりぐりと頬擦りをしてみせた。
     ウインディがくしゃみをしたのは、何かが鼻先をくすぐったからだろうか。
     くしゃん、と音とともに口から小さな火の粉が吐かれ、それは不幸にもオレの手の甲を掠った。思わず「熱っ」と声に出してしまったのを耳にして、完全に覚醒したウインディがその巨躯に見合わない声をあげ始める。
    「ウインディ。大丈夫、大丈夫だから」
     きゅうん、と申し訳なさそうに鳴き続けるウインディをあやすように抱き締めてやる。切なげに垂れ下がる耳元で、大丈夫と繰り返し囁いた。
     火の粉に当たったあの短冊が、フローリングの上でゆっくり灰になっていくのを横目で見ながら。

       ◇

    「気がかりなことがあるならいっそ、早めに解決することがリーダーのためでは?」
    「……は?」
    「はっきり言いますけど、昨日から腑抜ふぬけてます」
     壁に掛かった時計と手元の書類を交互に指差された。就業してから二時間は経っている。その間さばいた書類はたったの五枚。窓から差し込み始めた陽光が、時間の経過を現している。
     ヒビキの電話を受けて以来、自分の中に迷いが生じてしまった自覚はあった。まさか仕事にも支障をきたしていたとは。自分が思っている以上に、深く考え込んでいたらしい。
    「……急ぎのものとそうでないものは、おれとアキエでこれから仕分けするので、リーダーは急ぎの書類だけ今から確認して片付けてください。そうしたら午後からでも動けるでしょう」
     そう言いながらヤスタカは、積み上がった書類を軽々と持ち上げた。
    「……いいのか?」
    「リーダーがジムを何日も留守にするなんて、今に始まったことじゃないで、痛っ」
    「恩に着るよ」
    「言葉と行動がともなってないんですよ」と、彼は脇腹をさすりながら書類を抱えていった。
     ふたりが仕分けしてくれている間に、シロガネ山に行く準備を進める。ゴールドスプレーに、あなぬけのひもはもちろん、かいふくのくすりも詰めていく。防寒着と食糧は書類を片付けたら自宅に取りに行こう。
     限られた時間で手際よく荷造りをしながらも、頭の隅で百数度目かの自問自答をまた繰り返す。会いに行ってどうするんだ、と。

     かつて、レッドが失踪したと分かった日から一年程、オレは街という街をピジョットと飛び回った。あちこち駆け回ってその行方を探し、何足も靴を駄目にした。
     カントー中を方々探し回ったけれど、手掛かりの一切を掴めることもできなくて、ただただ靴のソールと心ばかりが擦り減っていく日々を過ごした。
     何度も断ってきたトキワジムのリーダーを引き受けたのは、覚悟あってのことじゃない。
     いっそ自身の罪ごと、あいつのことを忘れてしまおうと思い至った。一向に報われない人探しに、心身ともに疲れ切っていた。
     慣れない事務処理。定期的なリーダーの集まり。後輩育成のためのサロンや学会への顔出し。その他諸々。ジムリーダーに就任し、毎日忙しなく働くことにはなったが、オレにとっては都合がよかった。
     元チャンピオンの少年が就任したことで、トキワジムは結構話題になった。それは意図せず町の活性化にも繋がった。雑誌のインタビューだって、いくつこなしただろうか。
     ジムリーダーという立場を通じて後輩を育てるのも、思いの外向いていた。最初こそ渋々引き受けたものの、今はカントー中のトレーナーを育ててやろうという気概もある。
     ジムの再開当初はひとりでも切り盛りしてやる、と意気込んでいたのに、そんなオレだからこそ一緒に働きたい、と意欲的で優秀なトレーナーも数多く集まった。
     多くの人から感謝され、頼りにされ、時には憧れの眼差しすら受けた。周囲にはいつのまにかたくさんの人で溢れていた。
     世間を渡り歩くために愛想笑いを、他人ひとと上手く付き合うための処世術を身に付けた。自らを天才だと自負していた生意気盛りのガキはもういない。
     地位も名誉も満たされた生活を送ってきた。なのに、あいつを忘れられた日など一日だってなかった。あんなにも人に囲まれて尚、心は虚しさを抱く。
     そもそも考えないように、と思っている時点ですでに間違っていたのだろう。その行為は却ってあいつを意識してしまうことになり、数年経っても呪いのように取り憑いていた。
     カントー地方なんて、どこを歩いても地雷原じらいげんだ。
     旅で巡った場所には必ずどこかにあいつの影がちらついている。ふとした瞬間に記憶の欠片かけらを踏み抜いたが最後、在りし日の思い出が呼び起こされる。完全な忘却なんて、深海の底に落としたたったひとつの小石を見つけ出す行為と同じくらい不可能な話だった。
     あいつがいないことが当たり前になってしまった世界に、必死に馴染もうと努力していた。それなのに再会の可能性を見つけた途端、これまで背負ってきたものを放棄して会いに行こうとしている。我ながら自家撞着じかどうちゃくはなはだしい。
     それに、あいつだってヒビキと一緒で、彗星を見るためにふらっと山に立ち寄っただけなのかもしれない。目撃情報を得てからすでに三日も経っている。人間ひとが長く滞在するには厳しすぎる環境だ。今だってそこにいる保証などない。

     それでも、――……。

     吐息は白く煙る。積もった雪に足を取られる。緩やかな傾斜と起伏のある山道に、じんわりと汗が浮かぶ。
     手の甲で額を雑に拭い、山の頂へと目を向ければ、目的地まではまだ果てなく青く映る。
     日暮れまでには間に合うだろうか。翌日の早朝まで待てなかったオレが悪いのだけれど、はやる気持ちを抑えられなかった。
     それにしても静かだ。足を止め、辺りを見渡す。
     聞こえるのは、踏み締める度に軋む雪の音と自分の呼吸音だけ。ゴールドスプレーを振り撒いているとはいえ、ここまで野生ポケモンの気配が一切ないことなんてあるだろうか。覚悟していた吹雪もずっと止んでいて、通常よりきっと歩きやすいのだろう。
     ラッキー……とは、とても思えなかった。妙な胸騒ぎがする。直感に従いたいのは山々だが、今更引き返す気はない。杞憂きゆうであれと願いながら、また一歩足を踏み出していく。

     洞窟に足を踏み入れた途端、状況は一変した。
     背中に突き刺さるようなひりひりとした殺気。隠す気のない唸り声。頭上を飛んでいくゴルバットの羽音。いつでも寝首を掻いてやろうとする野生ポケモンたちに隙を見せないよう、慎重に進んでいく。
     暗がりで視界不良の中、どこから襲われてもおかしくない環境下に気が詰まりそうになる。
     売られたケンカは全部買ってやったっていいが、今回は目的が違う。今は一分一秒でも時間が惜しい。
     スプレーをかけ直しながら、いったいどれだけの距離を歩いただろうか。地鳴りのような音が遠くから聞こえる。じめんタイプのポケモンの仕業だろうと、あまり気にも止めなかったことをあとで悔やむことになるとは。
     とうとう出口らしき光が見えて、つい気が緩んでしまった。スプレーの効果が切れたことに即座に気付けなかった。
     岩陰に隠れていたのだろう。目の前に突如ニューラが現れて、鋭い爪の生えた腕を大きく振りかぶってきた。
    「……っ悪い、油断した! 頼むピジョット、ふきとばし!」
     ボールから飛び出したピジョットは、間髪入れずに大翼を羽ばたかせた。強風にあおられたニューラが逃げ出したのを見て、あと数メートル程先にある出口へと駆け出す。
     小一時間振りの外の明るさに目がくらんだ。ピジョットのけたたましい鳴き声が背後から聞こえる。なぜか地鳴りがすぐそばで聞こえることを不審に思うや否や、こっちに向かって必死に飛んでくる相棒が視界から消え失せ、代わりに目の前が真っ白になった。あまりにも一瞬の出来事に、頭が回らなかった。
     野生ポケモンが洞窟にしかいなかった理由と、地鳴りに似たおかしな音の正体にあとに気付いたってもう遅い。
     オレはバカだ。自然の脅威にさらされたグレン島を目の当たりにしたはずなのに。指先ひとつ動かせない絶体絶命の状況を打破するすべも思い浮かばない。代わりに十数年分の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
     夜の凪いだ海の水面を彷彿ほうふつとさせる双眸を思い出したのを最後に、オレは意識を手放した。


    「ねえ、グリーン。星が、落ちてきたよ」
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