口内炎が出来ている気がする。
刺すような違和感に思わず顔を顰め、目の前の鏡に向かって口を開けた。
噛んだ記憶も無いし、ビタミン不足かストレスだろう。分かりやすい舌先や唇の裏ではなく、舌の付け根がピリピリと痛む。舌を出してもうまく見えず、首を傾げた。
「何やってんだよ」
「……口内炎が出来た」
「あー……そういうのって別に見たって意味ねぇのに見たくなるよな……」
隣で顔を洗っていた左馬刻が大きく欠伸をする。昨日の夜は遅かったし、まだ寝惚けているのだろう。同じ時刻に就寝した筈の理鶯はとっくに起きて飯を作り始めているが、低血圧の左馬刻は眠そうに瞬きを繰り返している。
「どこだよ」
「見えねぇ…多分、舌の左の端だと思うんだが」
「ン~…?」
人の傷口を見たがる左馬刻が顔を覗き込んでくる。かぱりと口を開けて舌を出すが、他人から見ても見えなかったらしい。ズボンのケツポケットからスマホを取り出した左馬刻が、ライトを点けて咥内を照らした。
「あー、ここかもな。白くはなってねぇけどちょっと赤黒くなってやがる」
「ァガッ!?」
さまとき、と怒鳴った声は母音しか届かなかった。迷いもなく人の舌を指先で摘んで伸ばした左馬刻がしげしげと傷口を眺めている。
「痛そ、腹刺されるよりこう言うのがいっちゃん痛ぇんだよな……ぅお危ねぇ!」
「どういう神経してるんだお前は!」
「だからって噛むことねぇだろ!」
おーイテ、と手を振る左馬刻にふんと鼻を鳴らす。自業自得だ。
勝手に外に引っ張り出され、冷えて乾いた舌が気持ち悪い。うがいでもするかと洗面台に向き合ったところで、左馬刻がおもむろに近寄ってきた。
物言いたげな猫のようにじっと横から凝視され、渋々向かい合う。
「……なんだ」
「銃兎……舌なげぇよな」
「そうか? 自分じゃわからないな」
「キス上手いとか言われたことねぇの?」
「は!?」
てっきり揶揄っているのかと思いきや、思いの外真面目な顔に怯んでしまう。
キス。そりゃ、褒められたことは何度もあるが。あんなものは殆どが文字通りリップサービスだろう。本気に取るものでもない。それこそ、職業柄左馬刻の方がセックスもキスも上手いだろう。ヤクザの若頭がセックス下手なんて面目丸潰れだ。
「フェラもうまそう」
「お前な……」
「俺は舌はそこそこ長ぇけどクチ小せぇんだよな。まぁ理鶯のが小せぇけど…」
べ、と出された舌は随分と薄い。何も考えずやり返すつもりで舌先を摘むと、驚いたように左馬刻の目が丸くなる。そのまま噛み付くでもなく大人しくされるがままになっている様子が面白い。
「確かに、この舌なら私の方が得意かもしれませんねぇ」
「ァあ……?」
「こんな薄っぺらくてちゃんと動かせるんですか? 積極的な女相手じゃ負けそうだ」
ビキ、と左馬刻の顳顬に血管が浮かぶ。相変わらず煽りに乗りやすい奴だ。
ぼそぼそと聴こえていた話し声が静かになったと思えば、ドサ、と人が倒れたような音がする。
この部屋は自分の他に銃兎と左馬刻しかいない筈だ。特に侵入者がいた形跡も無い。
何が倒れたのかと不思議に思い、洗面所に入るとグッタリとした左馬刻が銃兎の腕に抱えられていた。具合が悪いのかと近寄ると左馬刻の頬が紅潮しており、ぼんやりとした瞳は潤んでいる。
「何があった?」
「いや……」
「ウサちゃんに襲われた」
「人聞きの悪いことを言うな!」
「りぉ~~……」
心なしか普段より左馬刻の呂律が回っていない。銃兎の腕を逃れてよろよろと寄ってきた左馬刻が小官を頼るようにもたれかかってくる。腰が抜けているようだったので支えてやった。
「……左馬刻が何かしたのか?」
「オイ理鶯、んだよそれ」
「銃兎は理由のある暴力しか振るわないだろう。左馬刻が何か怒らせたのでは?」
「流石理鶯ですね。その通りです」
とは言え、ざっと左馬刻を見たところ外傷は無い。足取りはふらついていたが、どこかを庇うような動きでもなかった。強いて言えば呼吸が荒いか。しかし首を絞められたような痕も無い。首を傾げると、銃兎が呆れたように溜息を吐いた。
「そこのバカがキスもフェラもうまそう、なんてふざけた事を言うので試しただけです」
「……フェラを?」
「キスに決まってんだろうが!」
「冗談だ」
瞬間的にキレる銃兎を片手で制す。左馬刻の息が荒いのは、随分と下らない理由だったらしい。
しかし左馬刻だって経験が少ない訳ではないだろう。むしろ、酒の席での話を鑑みるに、百戦錬磨と言っても差し支えない経歴を持っている筈だ。
その左馬刻の腰を砕くとは。案外、銃兎も遊んでいるらしい。
「いけ、理鶯。俺の仇を取れ」
「お前さっき理鶯の方が口小さいとか言ってただろうが」
「任せてくれ。キスはティーンの時に教え込まれた」
「おい、何でそんな話に、理鶯…ッ」
左手に左馬刻を抱いたまま、右手で銃兎を引き寄せる。僅かに上向いた顔にこっそり笑う。何だかんだ言っても銃兎も乗り気だ。止めるようなことを言いながらも、こちらを伺う瞳はぎらりと光っている。目を閉じてしまうのが勿体なく、視線を合わせたまま唇を落とす。
「おぉ、マジですんのかよ」
「ん、ンぅ……」
「ッむ、ッ……~~ッ」
「おい理鶯、押されてねぇか?」
いけ、差せ、と適当な左馬刻の応援が耳に届くが、生憎とそれに応える余裕は無かった。
思った以上に、上手い。肉厚で細長い銃兎の舌は無遠慮にこちらの舌に絡まってくるし、逃げようとしても力負けしてしまう。ぎゅ、と強く舌を押し付けられる度に、びりびりと背筋が痺れた。
しばらく抵抗を続けたが反撃のチャンスは訪れず、すっかり疲れた咥内を好き勝手に掻き回される。こちらが上から覆い被さっている分呼吸は銃兎の方がキツいはずだが、そんなハンデも感じさせないほど傍若無人に踏み荒らされた。
気付けば閉じていた瞼をかろうじて開くと、銃兎は平然とした顔をしていた。挑戦的な光はなりを潜め、不思議そうな顔をしている。ギブアップだという意味を込めて、銃兎の腰に回した手でタップアウトをした。
「あー、負けちまった」
「すまない……」
「おい、二人共手を抜いてないか?」
心底何も分かっていない顔の銃兎が混乱したような顔で見上げてくる。本人にその気が無いのなら、天性、というやつだろうか。ケッと左馬刻がそっぽを向いた。
「抜いてねぇわバーカこのスケコマシ」
「相当遊んでいる」
「なー」
「何で俺が悪いみたいになってるんだ!」
左馬刻と互いの身体を支え合ってリビングに戻る。洗面所に取り残された銃兎はぶつくさと言いながらうがいをしていた。
未だうっすらと痺れたような身体は歩くのも億劫で、二人してソファに座り込む。周りには昨晩の残りである酒瓶がいくつも転がっていた。今日は銃兎の仕事も無い。だからこそ、泥酔するまで飲み明かした訳だが。
左馬刻が適当に掴んだ酒瓶を煽る。まだ底には酒が残っていたようだ。口から瓶を離した左馬刻が、カムカムと指先で小官を呼ぶ。大人しく顔を寄せ、合わせた唇から流し込まれる酒を大人しく飲み干した。
「……その辺にしておけよ」
「銃兎。迎え酒が必要か?」
「いらない、いらない。寄ってくるな!」
リビングに入るなりキスシーンに出くわした銃兎が眉間に皺を寄せる。左馬刻と二人して酒瓶を掴んで腕を伸ばすと、慌てて銃兎はキッチンに向かっていった。常識ぶったその動きは、さっきまで溺れるようなキスをしてきた人物と同じとは思えない。
逃げられたか、と少し残念に思うと、すぐに銃兎が帰ってきた。
「なぁ左馬刻、珈琲淹れてくれ」
「……テメェも大概イカれてんな」