サマーナイト・ホリデー MTCだ、とフロアが色めき立つ。
いきなり話しかけるような無粋な奴はいないが、皆チラチラと振り返っては互いに目配せをしあっている。なぁ、あれMTCだよな、と右からも左からも潜めた声が聞こえてきた。
週末のナイトクラブは、いつもならばこれほど混むことはない。馴染みのDJが回す夜は、気持ち良く身体を揺らして時折酒を頼む奴がちらほらといるだけだ。フロアもがら空きとまでは言わないが、グラスを回収しに行くのに苦労することもない。
それが、今日は隣り合う人間の頭皮の臭いまでが分かりそうなほど混みあっている。人を避けようと思ったって、常に誰かの体温が肘や背中に触れているような状態だ。ここでスタッフとして働き始めて一年ほどになるが、間違いなくここ一年で最も混んでいるだろう。
理由は当然、GUESTの欄に名を刻まれたMTCの三文字だ。
末端のスタッフにはイベントの詳細など知らされないので、果たしてあの三人なのかと半信半疑ではあったが、どうやらそれは本当だったらしい。
時刻は既に十二時を過ぎており、フロアは十分すぎるほど温まっていた。
そのタイミングでふいに入口のドアから入ってきたMTCは、一瞬にしてフロアの視線をかっさらった。今日のゲストはMTCだけではないというのに、誰もステージ上のゲストDJなど眼中にないようだった。
どこか浮足立った参加者が少しずつ道を譲り、その中央をステージまで、MTCの三人が歩いていく。
バトルでは堂々と周囲を威嚇する風格でもって登場する碧棺左馬刻も、今日は肩の力を抜いて後ろに控える二人と軽く笑っている。なんせ、ここは碧棺のお膝元。元町にあるヨコハマの名を冠するナイトクラブだ。
ホームでの彼らは世間一般のイメージとは裏腹に親しみやすい。ステージに近づき、ふらりと周りを見回した碧棺がテキーラガールを指先で呼ぶ。取り出した財布から万札を数枚引き抜き、トレーの中央に置かれたグラスにねじこむと、長く節ばった人差し指がすいとフロアを指差した。それを受けたテキーラガールがにっこりと笑う。
「左馬刻サマからテキーラいただきましたぁ~!」
これだけうるさい中でも、テキーラガールの高い声はフロアによく響く。一斉に歓声が上がり、バーカウンターからも次々とテキーラが配られた。当然MTCにも配られたが、碧棺は楽しそうに自分の分のテキーラを入間のショットグラスにこぼれるまで移している。碧棺が酒に弱いはずもないし、そういう戯れだろう。入間の眼鏡越しの眉間に深く皺が刻まれた。それでも大人しく一気に飲み干すのだから、お堅い職業の割に夜遊びの作法には覚えがあるらしい。流石に、空いたグラスに続けて毒島が注ごうとした酒は手で制していたが。普段は仏頂面の毒島も今日は柔らかく笑っている。
あちこちで空いたショットグラスを端から回収して回り、最後にMTCの元に辿り着く。近くで見ると、この中では一番小さい入間ですら周囲の人間より頭一つ分背が高い。三人でひそひそと上機嫌に笑い合う様子は絵になっているが、これが無表情で立っていたらさぞかし威圧感があるだろう。身長差と爆音で流れる音楽のせいで、頭上の会話はろくに聞こえなかった。
無事三人のグラスも回収し、一旦カウンターに戻る。碧棺は多すぎる額を渡してきたようで、一度目の乾杯が終わってからもカウンターでは次々とテキーラが注がれていた。フロアのあちこちでオネダリを繰り返していたテキーラガールたちも慌ただしくフロアとカウンターを往復している。
客が多い分カウンターも忙しく、いつもは自分の出番までフロアをうろついているだけの上司のDJが酒を作っていた。手伝おうとするが、MTCがステージに近づいたせいか、目の前の客を除くと誰もこちらに視線を向けていない。手持ち無沙汰になり、自分の分の酒を作って口をつける。ステージに目をやると、さっきまでフロアにいたはずの碧棺がマイクを握っていた。まだ毒島と入間はフロアにいるから、フロアから直接ステージに上がったらしい。
いつも彼らが使用しているヒプノシスマイクと違い、ステージマイクには長いコードが付いている。だるそうにコードを蹴る姿にすら歓声が上がった。やがて促されるように入間と毒島もステージに上がる。MCは碧棺に任せるつもりなのか、入間は受け取ったマイクのコードを首に掛け、毒島はぐるぐると自分の腕に巻いて長さを調節し始めた。碧棺はちらちらと二人を見て、おもむろにマイクを口元に当てる。
『……まだ出番の時間先じゃねぇ?』
自分たちをステージに押し上げたフロアをからかうように肩をすくめる。たった一言でもそのハスキーな声はフロアを揺らし、室温が跳ね上がった。なぁ、と同意を求めるように後ろを振り向き、目が合ったDJは機嫌をとるように汽笛の音を鳴らす。オーケー、とマイクに乗らない声が微かに聞こえた。
『何か言っとくことあるか?』
『……酒を、この男に。コカレロで』
『やめろや、回んだろあれ』
『俺はお前の分もテキーラ飲んだんだぞ』
『あー、ほら、持ってこなくて良いっつってんだろ』
上司がすぐさまコカレロの特徴的なグラスを出す。ハマの王様に逆らうことなど普段であれば許されないが、これはお仲間からの指示だ。作られた酒はすぐにテキーラガールの手元にわたり、道を空けたフロアのせいで恙なく碧棺の手に渡された。
『りお』
『今日はテキーラ以外を口にする気はない』
毒島の楽しそうな返事に碧棺が溜息を吐く。仕方なく煽られた酒に、囃し立てるような嬌声が響いた。グラスをステージ下の客に渡し、立ち上がった碧棺がふらりと覚束ない足取りで毒島に寄りかかる。
『左馬刻はここに来る前に仕事でしこたま飲まされてきてるんですよ』
『今の酔いは何割だ、左馬刻』
『……ぁ~……さっきまで、七。ウサちゃんのせいで八』
『うそつけ、五割もいってないだろ』
『うるせー』
けらけらと笑う様子は、確かに酔いがある程度回っているように見える。とは言え、酩酊しているほどではない。タッパのある碧棺がいくら寄りかかって暴れようと、毒島の体幹は全くブレないのだから大したものだ。
『りおーも一杯イっとけよ』
『承知した』
『テキーィラ入りましたァ!』
ふざけるような碧棺の号令と共に、ステージにテキーラが三杯運ばれる。今度は碧棺も自分で飲む気があるらしく、三人は景気よく喉を晒した。そのタイミングでScarfaceのイントロが流れ、明るかったステージのライティングが一気に深い青へと変わる。MCはここまでだろうというゲストDJの読みは見事に当たり、満足そうに碧棺がマイクを掲げる。客はすっかりステージに夢中だ。
「なぁ」
「なんすか」
「俺の出番食われたわ」
煙草を咥えた上司が壁に貼られた今日のタイムテーブルを指差す。丁度今がDJの入れ替わるタイミングだったようで、次にDJを控えていた上司は手が空いたとばかりに自分の酒を作り始めた。いくら自分たちの出番ではないとは言え、この客の盛り上がりようでは一曲歌ってすぐ終わりとはならないだろう。まだ出番があるとしても、もう一曲はやりそうだ。逆に考えれば、次のDJがゲストでなくて良かったかもしれない。
「すげー人気すね、MTC」
「そりゃなぁ。お前は好きじゃねぇの」
「や、フツーに好きっすよ。格好良いっしょ」
「な」
スタッフとして仕事に来ているのでそうあからさまに騒いだりはしないが、俺だって客として来ていたならフロアに混じって声を張り上げていただろう。多分、隣の上司も。ヨコハマの街では、MTCに好意的な人間が大半だ。
「今日はなんで? キャパ足りてねぇし」
「さぁ。あー、なんだっけな。イベントの主催が昔繋がりあるとか……」
「へぇ」
別にさして興味がある訳ではないが、その程度で三人揃ってきてくれるとは何とも気前が良い。まぁ、確かに義理堅そうではあるが。曲の合間合間で三人は視線を合わせ、フロアを煽るようにハンズアップを促す。
「あいつらに、何か酒。コレで」
「ン」
馴染み客のおっちゃんが札を何枚かカウンターに出す。万札ではないからシャンパンではなく、あくまでも差し入れ程度だろう。人から渡されたカクテルは警戒されるだろうから、瓶が良い。いつもなら開封してから渡すスミノフを、キャップをそのままに三本用意する。一瞬碧棺がこっちを向いたので、そっちに行きますよという意思を込めて瓶を掲げる。伝わったようで、小さく頷かれた。
立て続けに流された二曲目も終わり、落ち着いたビートと共に再びMCが始まった。おっちゃんが手にしたスミノフは無事三人に渡る。
『りおー、ほら、テキーラだぜ』
『なるほど』
『それで納得するのか……』
あっさり前言撤回した毒島が瓶を傾ける。しばらく心地いい無言が続き、おもむろに入間が懐から煙草を取り出す。DJブースの横に置かれた灰皿を目ざとく見つけたらしい。碧棺も手を後ろに回すが、尻ポケットにはスマホしか入っていなかった。
『楽屋置いてきたわ。一本よこせ』
『今日楽屋通ってないだろうが。また落としたんだろ』
『さっき最後の一本だと言っていなかったか?』
『あー、それだ』
咥えられた煙草の先から火が移り、二人して美味そうに煙をくゆらす。残された毒島は再び瓶を傾けた。
『……なんか落ち着いちまったわ』
『そうだな』
『一度戻った方が良いだろう』
途端にブーイングが上がる。時計を見ると、DJの入れ替わりが迫っていた。次はゲストのDJなので、いくらMTCとは言え最初から出番を奪われたら良い気はしないだろう。それもMTCも分かっているのか、大きく上がる声を片手で黙らせると足を楽屋へと向けた。
『後でな』
名残を惜しむ声が再び上がるが、やがてDJが入れ替わると皆諦めて思い思いの場所に散っていく。何人かは酒を求めてカウンターに来たので、MTCを肴にぼんやりと吸っていた煙草を慌てて灰皿に押し付けた。
「タイムテーブル見せて、MTCの出番何時?」
「あー、二時間後っすね」
「フロア出てきてくれるかな」
「出てきたらシャンパン入れるから呼んで!」
皆好き勝手に話している。流石にあんな大物そうそうフロアに出てこないだろうと思ったのに、その直後、平気な顔で三人が揃ってカウンター前に訪れた。
「何するよ」
「俺は、ぁー……アサヒ」
「テキーラ」
「アサヒとテキーラと、あとギネスで」
碧棺がまとめて金を払い、カウンターに寄りかかった三人が話し出す。大柄な三人が来たせいで、急にフロアの様子が見えなくなった。
「煙草買いに行きてぇ」
「橋渡ったところにローソン無かったか?」
「ナチュラルローソンがある」
「ナチュラルローソンでも煙草は売ってんだろ」
アサヒとギネスを瓶で出し、今度は目の前で栓を抜く。テキーラも目の前でショットグラスに注ぐと、碧棺がグラスの縁スレスレを指差した。
「ここまで入れろよ」
「左馬刻」
「こぼすなよ、理鶯」
テキーラの値段などあってないようなものなので、ゲスト様の言う通りなみなみと注いでやる。毒島は嫌そうな顔をした。所望する割には、その場のテンションで言っているだけでテキーラが好きという訳でもないらしい。
「お疲れさん」
ガチン、と瓶とグラスがぶつかり、唯一飲み干されたショットグラスだけがバーマットに叩きつけられた。この軍人も、見た目よりは酔っているらしい。周りの人間はどうにか話しかけようとそわそわと機会を伺っているが、三人が固まって立っているせいで隙を見つけられないようだった。
「何年ぶりだよ、ここ来んの」
「前回は周年の時じゃなかったか?」
「んじゃ二年前? か。変わってねぇな」
「ネオンサインがバドワイザーになっている」
「気付かねぇわそんなとこ」
ぽつぽつと世間話をすると、やがて煙草を買いに行くことにしたのかフロアを出て行ってしまった。皆口には出さないが、落胆したような雰囲気が漂う。ゲストDJには申し訳ないが、流石にMTCと比較されては分が悪いだろう。
「今日の客めっちゃラッキーじゃない絶対あのゲストがほんとにMTCだとは思わなくて来なかった人いるよね」
「MTC好きな友達呼んでやりたいけどもう終電過ぎてるしなぁ」
「タクシー代払う価値あるだろ」
カウンターの中から聞こえる会話も、すっかりMTC一色だ。男女問わずどこか興奮を隠し切れない様子で、気もそぞろになりながら身体を揺らしている。お前らはステージの間近で見れるんだから良いよな、と拗ねた気持ちになった。
しばらくグラスの回収と酒作りを交互にこなし、フロアが落ち着いたところで灰皿の清掃に出る。普段であれば一晩程度掃除しなくともどうにかなるが、なんせ今日はこの人の入りだ。いくつか溢れそうになっている灰皿を見かけたので、一先ず使える程度に吸い殻を回収していく。
フロア中の灰皿を巡り、最後にVIP席の灰皿を回収しに行くと、そこにはMTCがいた。やはりコンビニに出ていたようで、机の上には真新しい煙草が転がっている。
「次のDJ、知り合いだわ」
「左馬刻は顔が広いな」
「まぁ仕事でな……」
「ヤク絡みか?」
「んや、女。ウチの構成員と揉めてたな。結局女に殴られてたけど」
「お前んとこの奴も」
「おう。良い女だったぜ」
存在感を消し、心持ち他の場所より灰皿を丁寧に綺麗にすると、そそくさとその場を去る。会話内容が気にならない訳ではないが、ヤクザの会話を盗み聞きする勇気は無かった。
「MTCいたか?」
「VIP使ってましたよ。楽屋使わないんすね」
「へぇ、意外」
確かにゲストはVIPをタダで使えるが、それでも一般客のこない楽屋を好んで使う人の方が多い。MTCぐらいになると、フロアに面したVIPに座ろうが話しかけてくる身の程知らずはいないらしい。
「しかし集客力が凄いな。また人増えてないか?」
「そろそろ出番ですもんね」
「普段のウチのイベントにもこんぐらい人がいりゃなぁ」
栓無きことを言いながら上司がシャンパンクーラーをあるだけ取り出す。片っ端から氷を入れていくが、途中ですぐに作り置きの氷が無くなった。今日はドリンクも沢山出ているし、これからシャンパンが何本も出るかと思うと今のままでは危ないだろう。
「俺下から貰ってきますよ」
「悪い、頼むわ」
このクラブは雑居ビルの五階にあるが、三階にも系列のバーがある。ついでに足りなそうな酒も貰ってこようとチェックし、エレベーターに向かった。
喧騒から離れるといかに店内が熱狂していたのかということが分かる。次の出番はフロアで聴きたいなと、サボりの口実を考えながら系列店へと入った。