夢へ誘う花ぱらぱら、ぱたぱた。
差した傘に雨粒が落ちる音。
さくさく、ぐじぐじ。
雨で湿った草と土を踏む音。
静かな夜の森に、サンポの出す音だけが響く。
雨の匂い、湿った地面の匂い。
遠い日の記憶を頼りに、サンポはひたすらに森の中を進む。
幼い頃、サンポにとってこの森は特別な場所だった。
両親や周囲の大人から『絶対に入ってはいけない』と言いつけられていたこの森に好奇心から足を踏み入れたのは、ちょうど六才の頃。
迷わないよう目印を残しながら探索をしていた時、運命に導かれるようにして出逢ったひとがいた。
『こんにちは。こんな所でどうした、迷子か?』
『こんにちはお兄さん、ぼくは今冒険をしています。そういうお兄さんは不審者さんですか?』
『とりあえず防犯ブザーに手を掛けながら話すのやめよっか。鳴らされても困りはしないけど絶対うるさいからさ』
『そうやって油断させようという魂胆で?』
『ん~!なんかいっそ新鮮だなこんなやりとり!じゃあ防犯ブザーは構えてていいよ、出口まで連れてってやるから』
『ぼくは冒険をしているんです!何か珍しいものを見つけるまで帰りません!』
『えぇ…?』
森の中で知り合ったのは、不思議なお兄さん。
始めに不審者かと疑ったり帰らないと駄々を捏ねたりしたサンポを咎めることもなく、森を案内してくれたひと。
綺麗な瞳は星のよう、歌声はまるでカナリアのようだと思ったのをよく覚えている。
森の外れのひらけた場所、誰かが置いたらしい古びたベンチ、咲き誇る白い花、珍しいものを求めるサンポに"彼"が歌ってくれた聞いたことのない、でも何故か懐かしくて優しい唄。
少年の頃の思い出。
美しくも淡い泡沫のような時間。
サンポが"彼"と過ごせた時間は、あまりに短かった。
"彼"と出逢った次の日には突然別の土地への引っ越しが決まり、サンポが森に入ったことも"彼"のことも知らない筈の両親から『二度とあの森へ行ってはいけない』と言われたのだ。
あれから十数年。
一人きりの夜に誰にも内緒で此処へ来たサンポは、ずっと行けなかった大切な思い出の場所へ薄れた記憶を頼りに向かっていた。
歩いていく内に、少しずつ増えていく白い花がサンポを出迎える。
"彼"との思い出に必ず在るその花がシロバナトケイソウと呼ばれる花だと知ったのは、この森に来れなくなって少し経った頃のことだ。
辿り着いた思い出の場所で群生するそれらは、大半が朝に咲き夜には萎れてしまう花。
けれど視界に映るおよそ半分ものトケイソウが、夜の闇の中で輝くように美しく花開いていた。
うっとりと見惚れてしまうような、それでいてどこか恐ろしいような。
相反する二つの感情を抱きながら、サンポは花や蕾を踏まないように気を付けつつ懐かしいベンチへと歩み寄った。
誰が置いたかは"彼"すら知らないと言っていた、古びたベンチ。
濡れるのにも構わずゆっくりと腰掛けると、幼い日の自分が隣に居る気がした。
"彼"の唄を聴いたあの日、このベンチは最高の特等席だったのだ。
トケイソウに囲まれた舞台で歌う"彼"と、"彼"の歌う姿に夢中で見惚れる"ぼく"。
不意に、雨が止んだ。
まるで舞台の幕が上がるように、雲が晴れていく。
もう必要無いかとサンポが傘を畳んだその時、湿る草木の匂いと共に足音が聞こえた。
咄嗟に顔を上げて見えたのは、夜空に広がる無数の輝き。
その中でもいっとう輝く、サンポのエトワール。
「久しぶり、サンポ」
灰色の髪、星のような瞳、少年と青年の丁度あいだくらいに見える容姿。
ひらりと手を振るそのひとは、あの日と変わらぬ姿をしている。
変わらぬ"彼"、変わらぬ景色、変わったのはサンポの背丈だけ。
だがサンポは驚かない。
そんな気はしていたし、そんなことは重要じゃあないのだから。
「お久しぶりです、お兄さん」
「『こんな所でどうした、迷子か?』…なんてな」
「ええ。貴方にもう一度会う為、迷子になりに来ました」
サンポの言葉に"彼"───穹は、一瞬きょとんとしてからフッと笑った。
何処に花があるか分かっているかのように、或いは花達の方が上手く避けているかのように、穹は軽い足取りでサンポの方へ近付く。
「此処へはもう来ちゃいけないって、パパとママに言われなかった?」
「言われましたよ。でも僕はもう、親の言うことに無条件に従うような歳でもないので」
「はは、そっか。…そうか、もうそれだけの年月が過ぎたんだな。随分と大きくなって」
穹はサンポの隣に座り、瞳に暖かな優しさと郷愁のようなものを滲ませながら見上げてくる。
かつてこのベンチで二人並んで座った時は、サンポが穹を見上げていた。
それが今や、すっかり逆転している。
「今度のあんたは、もう来ないかと…」
ぽつりと穹がこぼした言葉の意味は、よく分からない。
気にしなくていい、どうでもいいことだ、そう胸の内で誰かが言った。
そんなものよりずっと大切なものがある、と。
「待たせて本当にすみません。…歌ってくれませんか?今、無性に貴方のうたが聴きたいんです」
何も変わっていない筈なのに、あの日より小さく感じる穹の身体をぎゅっと抱きしめあの唄をねだる。
腕の中で『おかえり』と言ってくれた彼の微かに震える肩と声が、たまらなく愛しい。
身の内から溢れる不思議な幸福感は、穹が歌いだすとより深くなっていく。
まるであの日、穹と初めて出逢った日に戻ったような感覚。
もう一度、もう一度と大人になってもずっと焦がれ続けた夢のようなあの日に、ようやく戻ってこれたのだとサンポは笑む。
雨に濡れ、風に揺れる白い花に囲まれた舞台。
時計のような花の中心、針のような雄しべと雌しべがくるりと回る。
誰かが忘れた優しい唄。
いつか確かに在った幸福なふたり。
数日後、とある町で一人の男が行方不明になったというニュースがひっそりと流れた。