小さな君、大きな愛起床時間を告げるアラームの音でレイシオは目を覚ます。
6時ちょうど、カーテンの隙間から射し込む朝陽の優しい光が部屋をうっすらと明るくしていた。
静かに身体を起こし自身の枕の隣に設えた20cm程の小さな寝床を覗き込み、涎を垂らして無防備に眠る穹の小さな胸が微かに上下しているのを確認して、ほっと息を吐く。
いつも通り、穏やかな朝の始まりだった。
*
まず最初にすることは、ダイニングキッチンでの朝食の支度。
バターを薄く塗ったパンにスライスチーズを乗せてオーブントースターにセットし、フライパンには玉子を二つ落とす。
じゅうじゅうと玉子の焼ける音の横でコーヒーの準備をして、最後にヨーグルトとハチミツを冷蔵庫から出す。
出来上がった朝食をテーブルに並べた後は、穹を起こす為に一旦寝室へと戻る。
ドアを開けると、彼は既に起きて身体をぐっと伸ばしているところだった。
「おはよう」
そう声を掛ければ、穹は『おはよう』という声が聴こえてきそうな笑みで手を振った。
彼の移動の為にそっと手のひらを差し出すと、すっかり慣れた動きでその上に乗ってくる。
レイシオの手のひらの上で、小さな穹はくあ、と大きな欠伸をした。
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小さな穹の胃袋は見た目通りのサイズらしく、僅かな量しか食べられない。
それでも食欲旺盛で美味しいものが大好きな彼のために、とレイシオは料理をよくするようになり、その結果元々それなりに身に付けていたレイシオの自炊能力はここ数ヶ月でより磨かれていっていた。
今日の昼食は何にしようか、そういえば以前彼がとある星の郷土料理を食べてみたいと言っていたような、そうつらつらと考え事をする傍らでトーストを小さくちぎり穹へと渡す。
バターとチーズの味がしっかりと染み込んだそれを幸せそうに頬張る穹を眺めながら、レイシオもまたトーストを齧った。
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『───いいよ、その文献に関してはこっちでなんとかしよう。目処がついたらまた連絡する』
「…無理を頼んですまない」
『やめてくれよ、君がしおらしいと大雪でも降るのかと不安になる!』
紙に数多の数式を書き込みつつ、スピーカーモードにした端末で通話する。
『僕の振る舞いで天候が変わるなら、論文にまとめて学会で発表しなければな』と少し機嫌を損ねた風に返すと、端末の向こうからは微かな安堵が混ざった笑い声が聞こえてきた。
通話の相手、アベンチュリンがわざと軽薄な言動をとるのには慣れている。
故に今更この程度で腹は立てないが、こうして多少言い返した方が余計な心配を掛けずに済むのだと最近学んだ。
『僕は友達の力になりたいだけだから、本当に気にしないで』
「分かっている。…そうだ、そういえばこの間、星穹列車の───」
会話の隙間に、ぴい〜と気の抜けた音が鳴る。
それはこの家の中で何かあった時のために、と穹に持たせたホイッスルの音。
『ふふ、君の可愛い妖精さんがお呼びみたいだ。しかし音が随分近い気がしたけど』
「…事実、近いからな」
ホイッスルが鳴らされたのは本当にすぐ近く、レイシオの足下だ。
穹はレイシオの部屋着の裾をくいくいと引っ張って、じいっと見上げてきている。
持ち上げて欲しいのだろうと見当をつけて手を差し出すと、想像通りいそいそと乗ってきた。
始め穹は連れてこられた机の上に並ぶびっしりと文字や数式の書かれた紙の数々に目を丸くしていたが、端末から聞こえる声にパッと表情を明るくさせ、もう一度ホイッスルをぴいと鳴らす。
『穹くん?そこにいるのかい?』
「あぁ、彼は今端末の目の前にいるぞ」
『もしかして僕の声を聞いて来てくれたのかな、嬉しいよマイフレンド!また美味しいお菓子を持って遊びに行くね』
アベンチュリンの言葉を聞き、穹は満面の笑みで端末へ抱きつく。
あまり彼を甘やかすな、と苦言を呈したくなるが『君にだけは言われたくない』とでも返されるのが目に見えているので、大人しく口を噤んだ。
自分が一番穹を甘やかしているのは、自覚しているので。
*
星穹列車の開拓者、星核の器、記憶喪失の少年。
無知はあっても馬鹿ではなく、破天荒ではあるが愚かでは…いや、たまに愚かとしか言いようのない奇行に走る時はあったが、決して愚鈍ではなかった少年。
近くにいると思わず目で追ってしまう穹という少年は、いつしかレイシオにとって特別な存在になっていた。
そしてレイシオを見る穹の瞳にも、確かな思慕の念があった。
互いに思い合っていると分かってはいてもあと1歩を踏み出せずにいた頃のある日、突然穹から連絡が来た。
『俺、レイシオが好き』
もうすぐ自分の旅の終着点へ辿り着きそうなのだと、そう言った直後の告白。
端末越しに聞いたその愛の言葉を、レイシオはまるで遺言のように感じた。
歓喜か、不安か、あるいはその両方か、どうとも言い表せない思いが込み上げ、心臓が早鐘を打つ。
今言わなければ、自分は一生後悔する。
そう直感して、レイシオは口を開く。
「僕も君が好きだ。旅が終わったら、一生僕のそばに居てほしい」
10秒か、1分か、どれくらいかは覚えていないが、沈黙が流れた。
不意に、くすりと笑い声が聞こえる。
『まるでプロポーズみたいな言葉』
「…まるで、じゃない。正真正銘のプロポーズだが」
『…俺たちまだ付き合ってないよな?』
「ずっと好き合っていただろう」
『ふ、ふふ…っ!まぁそうだけどさぁ!』
くすくす、くすくす、互いに笑う。
胸に広がっていた不安はいつの間にか薄れ、愛しさと恋しさが溢れた。
会いたい。今、とても。
きっと、そう思っているのは自分だけではない。
『うん、いいよ。全部終わったら俺のこと、まるごと貰ってくれ』
そう確信出来るほど、甘えを含んだ声だった。
「戦いが終わった後、この子はすぐ眠りについて気付くとこうなっていたの。天才クラブの面々も、カフカも、どうしてこんな事になっているのか分からないと言っていたわ」
星穹列車に呼ばれたレイシオを迎えたのは、ナビゲーターの両手のひらの上で身体を丸めて眠る小さな穹だった。
彼女はどこか寂しげな微笑みを浮かべながら、穹をレイシオへそうっと渡す。
小さい。しかし、その温もりは彼が生きていることを示している。
家族同然だと常々言っていた列車の仲間たちの中でも、特に穹と仲が良かった三月が涙ぐみ、レイシオに話す。
「この子、言ってたの。『全部終わったら俺はレイシオのお嫁さんになるって約束したんだ』って。なんとなくだけど、その約束があったから穹はこうして、こんな姿になってでも帰ってきたんだと思う。だから」
この子を、お願い。
絞り出すようなその声に、レイシオは深く、深く頷いた。
*
ぺち、ぺち、と頬に何かが当たる感触で目を覚ます。
どうやら集めた資料を読みふけっている内に寝落ちてしまったらしく、穹が心配そうな表情でレイシオの頬をぺちぺちと叩いていた。
「…もうこんな時間か、もう少ししたら就寝の準備をしなければ」
小さな穹との暮らしが始まる切っ掛けとなった日の夢を見た。
ほんの数ヶ月前の事だというのに、随分と昔の事のように感じるものだ。
この夢を見る度に、どうしようもない後悔がレイシオの胸を過ぎる。
もっと早く思いを伝えればよかった。
彼の将来だとか、彼にこの先待つ出逢いだとか、あれこれと考えて足踏みしている間に時間が無くなった。
そのせいで、キスの一つもしてやれなかった。
この後悔を一生引きずるつもりはない。
星々を巡る旅人であった彼が築いた人望と人脈 は素晴らしいものであった。
そのおかげでレイシオの研究も多くの協力者を得られている。
穹を元に戻し、いつの日かどこかの教会で誓いのキスをする。
その為の、研究。
だがもしも、もしも────
「もし、君が元に戻らなかったとしても…君が僕のお嫁さんであることには変わらない」
独り言のつもりだった。
けれどその言葉を聞き、小さな穹は嬉しそうにレイシオの小指にそっと身を寄せすり、と頬擦りする。
レイシオの小指には、いつか穹に贈るために買ったエンゲージリングが輝いていた。