愛する者よ樹冠を目指さんとする人間を黄金蝶が出迎える、空中通路ヘリオトロープ。
少し探し物に付き合ってほしい、とアナイクスから頼まれ彼と共に神悟の樹庭を訪れた穹は、先を行く彼の後を追いつつ辿り着いたそこで相も変わらず美しい羽を広げる黄金蝶に見惚れた。
樹冠への、サーシスへの道を隠し護るものだった、モネータの愛の化身。
此処で聞いたサーシスとモネータの会話は穹には理解しきれないものだったが、互いを愛しているのがひしひしと伝わってくる声だったのをよく覚えている。
「…さて、この辺りでいいでしょう」
通路の中腹、不意にアナイクスが歩みを止めた。
振り向いた彼の隻眼はどこまでも真剣で、真摯で、穹は思わず怯みそうになる。
───穹がアナイクスへの恋情をうっかりと口にしてしまったのは、昨日の出来事。
キャストリスとの語らいの中で出たそれは聞いているのが彼女だけだという安心感からまろび出てしまったものであり、おろおろと動揺した様子の彼女の視線の先に珍しく呆けたような表情のアナイクスを見つけた時は、このオンパロスにおいては少々不謹慎な例えかもしれないが、この世の終わりかと思った。
伝えるつもりなど毛頭なかったのだ。
オンパロスの状況、黄金裔たる彼が背負うもの、【開拓者】である以上自分はいずれ必ずオンパロスを旅立つ、だがその後またこの星へ戻ってこれるとは限らないこと。
そして何より、アナイクスが自分を選ぶとはどうしても思えないということ。
あれやこれやと理由を並べて『言わない方がいい』と諦めをつけたはずだった彼への思い。
それが本人にバレてしまい、その時はダッシュで逃げ出してしまった。
オンパロスの問題に立ち向かうのなら今後も手を取り合わねばならないのは必定、けれどこれからどんな顔をして会ったらいいのか。
そう悩んでいた矢先に、彼からの頼み事のメッセージ。
探し物、と言いつつ本題は別にあるのだろうとは、流石に穹も分かっていた。
「ここならあの女にも何も伝わりません。かのタイタンも今は自分の伴侶に夢中でしょうから、落ち着いて話が出来ます」
「…うん」
まだ何を言われたわけでもないのに、視界がじわりと涙で滲む。
泣いてもしょうがないじゃないかと自分を叱咤しても溢れる感情を抑えきれず、下を向いた。
その思いには応えられない、と諭されるのだろうか。
今の状況で色恋にうつつを抜かすなと叱られるのだろうか。
あるいは…
「第一に、私が貴方へ抱く感情を勝手に決め付けないでください。第二に、今から私が話す事を決して遮らずに聞いてください。いいですね?」
暗い考えに囚われていると、いつかどこかで聞いたのと似た言い回しで『話を聞け』と言い聞かせてくるアナイクスに、そうっと両頬を包まれ俯いていた顔を上げさせられる。
穹を見るその瞳は、思いの外優しい色をしていた。
「私はかつてのサーシスのような愚を冒すつもりはありません。…私も、貴方を愛しています」
サーシスのつっこみか、モネータの怒りか、どこからともなく突風がヘリオトロープを吹き抜けた。
アナイクスが風で乱れた髪を煩わしげに押さえる。
そんな姿も絵になると感じてしまうのは、惚れた弱みかもしれない。
まだ状況を読み込みきれていない頭でそんなことを考えていると、彼はフッと笑って穹の髪も優しく撫で整えてくれた。
「何を呆けているのです、もっと嬉しがりなさい」
「…ぁ、え?」
「もっと伝えなければ不満だと?」
手を引かれ、彼の腕の中へと飛び込む。
ぎゅ、と抱きしめられて『好きですよ』と囁かれた瞬間、穹は顔どころか耳や首まで熱くなるのを感じた。
愛を、囁かれたのだ。諦めていた、愛しい男に。
傷付くのを恐れて張っていた予防線なぞ、いとも容易く引きちぎられて。
気付いた時には、涙と共に言葉が溢れて止まらなくなっていた。
「っ絶対、全部解決しよう」
「ええ」
「暗黒の潮なんてぶっとばして、っエスカトンも、乗り越えて…っ」
「はい」
「そしたら、俺、オンパロスを旅立つ。いつかのモネータみたいに、いろんなものをみて、それで…っ!かえってくる、絶対!アナイクスのちょうちょになって、アナイクスのところに!」
「アナクサゴラスです」
「みやげ話をいっぱいもってかえるかぁ!だから、だから、おれのコイビトに、なってください…!」
「私は貴方の恋人にではなく伴侶になるつもりですが?」
「はんょでねがいしず」
穹が泣きながら並べたぐしゃぐしゃの言葉を、アナイクスは優しく優しく受け止めてくれた。
嬉しくて、嬉しくて、幸福感で胸がいっぱいで。
この愛があればきっとタイタンだろうが暗黒の潮だろうが星神だろうが、なんでも乗り越えられる。
そんな無敵感が穹を満たしていく。
「あぁ、ちなみに一つだけ。私はサーシスのような愚を冒すつもりはない、と言ったでしょう」
シロップで煮詰めた花を思わせる、甘い甘い声だった。
低く響くその声に蕩けてしまいそうになりながら、穹は続く言葉を待つ。
アナイクスの恍惚とした隻眼が、絡みついてくるような甘い視線で穹を見つめていた。
「私の蝶になると言うのなら、旅になど行かせません。羽ばたき方も忘れてしまって構いませんよ、私の指先に止まって愛を交わしていればそれで良いのですから」
「…え?」
何を言われたのかと、数秒理解が遅れた。
そしてようやく言葉の意味を飲み込んだ穹が涙も止まって困惑を露わにすると、アナイクスの表情がすうっと温度を無くす。
視界が突然遮られ、それが彼の手のひらによるものだと認識した時にはもう遅く、穹は意識を手放した。
倒れ込む穹を抱きとめたアナイクスは、涙の跡がまだ残る穹の頬へ唇を寄せる。
「何処へも行かせませんとも。私というものがありながら貴方が何処ぞ誰ぞのもとへふらふら舞い飛ぶつもりなら、虫籠に閉じ込めてしまいましょうね。エスカトンのその先も、私が死しても壊れない虫籠へ。…そして貴方の命が、私以外の誰にも手出し出来ない虫籠の中で、終わってしまえばいい」
愛する者よ 死に給え
形の違う愛が重なり、片方の愛が呑み込まれんとしている様を、黄金蝶が静かに眺めていた。