私のための「君」へ「恋愛、か……。私には、よくわからないな」
かたり、と温かい紅茶の入ったカップをソーサーに置き、セツはつぶやいた。
ゆらゆらと立ち上った湯気が、空気に溶け込むようにして消え、その向こうには、花に水をやるステラの姿が見える。LABには穏やかな空気が流れていた。
「ふふ。何事も、経験してみるまではわからないものですものね。……ですが、とても素敵なものなのだと」
頬に手を当て、うっとりと目を細めたステラの表情を見ながら、セツはやれやれと苦笑いを浮かべた。
「やはり憧れてしまいますわね。……いつか、目が合っただけで惹かれあってしまうような……そんな、わたしのための素敵な殿方が現れて……。うふふっ」
恋愛についてのステラの話はすっかり聞きなれてしまったが、セツは耳を傾けていた。恋愛のことはわからない。それでも、こんな他愛もない会話にも、ゆるやかに続いていく日常を、整然と並び連続していく日々を取り戻したことを実感する。
(わたしのための、か……)
紅茶に砂糖を加えて、くるくるとかき混ぜていたセツは、ふとステラの言葉に手を止めた。懐かしい顔が、頭に浮かんだ。「セツ」と名前を呼ぶ声が、耳の奥に甦る。
人の記憶は、声から忘れていくのだという。だからもしかしたら、耳に残っているように感じるこの声も、薄れて歪に補完されたものなのかもしれない。それでもセツは、それを一生涯かけて大切にするだろう。顔も、声も、交わした会話も、そのすべてが重ねる日々とともに薄れていってしまうとしても。
繰り返さないこの日々こそが、大切なその人がくれたものなのだから。
顔を上げると、まるで子どものようにきらきらと輝くステラの目と目が合う。
「……もしかして、声に出てた?」
ステラは興奮し、言葉も出ないといった様子で胸の前でこぶしを握り締め、小刻みにうなずいた。
「期待しているような話ではないと思うけど……うん。でも、そうだね。私のための……その気持ちはすこし、わかる気がする」
そうつぶやいたセツのまなざしはやわらかく、口元に浮かべた笑みは儚いほどに優しかった。
「……どんな方なんですか?」
「私のために、次元すらも飛び越してきてしまうような、そんな人だ。二度も私を、救ってくれた。私がいま、ここにいるのも、その人のおかげだ。私のための……」
そこでセツは言葉を切った。ゆっくりと頭を振り、目を細める。
「借りを返したつもりだったのにね」
照れたような笑みを浮かべたセツに、ステラはただにっこりと微笑んだ。
私の「君」へ。心からの愛をこめて。
どこか遠い場所で、ともに過ごした君が幸せであることを願って。