けふんけふん、と控えめな咳が聞こえたのが始まりだった。顔色に殆ど変化はないが、ふとした折に短く咳き込む様子に司は眉を顰めてその出処を見やった。喉を震わせ背を丸める咳の余波など心底気にもしていないというように、当の本人は台本とにらめっこを続けている。
「類、具合が悪いんじゃないか?」
「うん?」
傍に歩み寄って指摘すれば、類は心底不思議そうに顔を上げた。それと同時にこほんと咳が零れて、類は今しがた初めて気付いたとでも言いたげに目を丸くした。
「本当だ。咳が出ているね」
「いや、なんで気付かなかったんだ……?」
「フフ、集中力というのは侮れないねぇ」
他人事のように宣う姿に呆れながら、司は取り出したマスクを類に押し付けた。すまないねと眉を下げる類に、オレのためでもあるからなと司が返せば類はぱちりと瞬きをした。
「……ああ、そうだね。菌を持ち帰っては咲希くんが大変だ。僕も配慮が足りなかったよ」
「その通りだ。まぁ、それだけではないが……とにかく今日はなるべく大人しくしていることだな! 病状が悪化するようなら素直に医者にかかるんだぞ、いいな」
「大袈裟だねぇ。少し乾燥してるせいなだけだとは思うけれど、了解したよ」
答えながらまたけふんと咳をした類に、多少過保護にもなるだろうと司は肩を竦めた。
帰宅後、類は大人しく早めの就寝に移った。部屋に入ってすぐはいつも通り机に向かってあれこれと作業をしていたけれど、すっかりと日が落ちきってからは異様な寒さを感じ始めた。確かにガレージは冷えるが、季節の変わり目とは言っても体の芯から嫌な予感を伴う寒気を催すほどのものではないはずだ。
恐る恐ると触れた額はほんのりと熱い気がした。どうやら恋人の心配は的確だったらしいと、ガレージを出て母屋に向かう。体が弱いという彼の妹にまで、菌が運ばれていないといいのだけれどと考えながらリビングへ向かった。
「あ、類。ちょうどご飯呼びに行こうとしてたの、お箸並べてくれる?」
「……うん」
食欲がないから要らない、と断ろうとしたけれど、用意されていた夕食はうどんだった。これくらいなら寧ろちょうど良さそうだ。素直に頂いて、市販の常備薬を飲んで温かくして寝ておけばいいだろうと母親の指示に従って食卓の準備を手伝った。途中、顔色が悪いように見えると指摘されたのを、少し演出案で行き詰まっただけだよと誤魔化した。昔から様々な面で苦労をかけてきた親に、ちょっとした風邪くらいで気を遣わせるのも申し訳ないなどと思ったのだ。うどんは美味しかったが、飾りの人参を残したら呆れた顔をされた。
食事を済ませると冷蔵庫のミネラルウォーターを一つ、リビングから市販薬と体温計をこっそり持ち出して、催促される前に手早くシャワーを浴びて寝室へ駆け込んだ。なんだかどっと疲れた気がすると思いながら急いで薬を飲んで、まだほんの少し湿ったままの髪もそのままにベッドに潜った。湯上がりで火照っているはずの肢体は、既に末端が冷えているような感覚がした。すぐに薬が効くだろうと、背筋の悪寒から目を逸らして類はぎゅっと目を閉じた。
結論から言えばそんな期待は虚しく崩れ去ることになり、翌朝目覚めた類は喉の張り付くような感覚に顔を顰めた。ゲホ、と昨日よりずっと重い咳を零して、寝起きで喉が乾いているせいだと手繰り寄せたミネラルウォーターを流し込めば飲み込む度にツキリツキリと喉が痛んだ。駄目かも知れない、と身を震わせながら手に取った体温計を用いれば、画面には目を疑いたくなるような数値が表示される。予想していたよりもずっと重症だった。
(……病院……悪化したら行くようにと、司くんに言われたっけ……)
この調子では学校なんか行けるわけもないだろうし、その上で病院に行っていないのが知られたらきっと叱られてしまう。自分なんかのことで彼らに心配をかけるのはやはり心苦しくて、いつかのように過保護なくらいに世話を焼かれる前に対応をすべきだと、類は重たい体を持ち上げた。進む一歩すらひどく重々しいと嫌気が差しながらリビングへ向かえば、そこはがらんとしていて人の気配もなかった。
(……あ、そうか。今日は母さんも、学会の発表会に参加するとかなんとか、言っていたな)
霞んだ記憶を頼りに食卓へ辿り着けば、ラップの掛けられた朝食と共に書き置きが残されていた。予想通りそこには朝早くにもうこの家を発っていることと、帰りは明日の昼頃になることが書き記されていた。父も出張中だ、少なくとも今日明日に帰ってくる予定ではない。タイミングが悪いな、と類は激しく咳き込んでソファーに崩れ落ちた。横になると幾らか気分はマシだったが、やるべきことは変わらない。病院に行って、薬を飲んで、大人しく休まなくてはならない。長引かせればその分ショーの練習に掛けられる時間も減るし、仲間に迷惑をかけてしまう。
(あ、そうだ。休むって連絡をしておかないと……)
ついこのままソファーで眠ってしまうところだったと覚醒を拒む体を引き摺って部屋に戻る。枕元に放置したままのスマホを手に取り、熱が出たから休むと簡潔なメッセージを打ち込んで送信すればすぐに返事が来た。だから言ったろう、お大事にと司から。帰りになんか買っていこうかと寧々から。怒涛の心配そうなメッセージとスタンプがえむから数件。うっかりグループメッセージを送ってしまったのをやらかしたな、とぼやける思考で反省しながら、とりあえず出掛けられる程度にと着替えて外へ出た。最寄りの病院までは歩いていける距離だが、それが今の類にとっては千里のように思えた。
病院から戻る頃には昼になっていた。出掛けている間にまた熱が上がったらしいと自覚しながら、暑苦しくなってマスクを放り捨てジャケットを脱ぎ去り、ベッドに沈んだ。処方された薬を飲まなくてはと震える腕で起き上がるが、胃になにか入れる元気もない。そういえば朝からなにも食べてないなと思いながら、回らない頭で薬を飲まなくてはと固執して一回量を飲み込んだ。痛みを主張する喉にまた咳が出て、暫く蹲ってそれに堪えた。
咳が止まって部屋がしんと静かになると、途端に恐ろしくなった。体調不良からくる不安感だと頭では理解していても、足を捉えたそれは引き下がることを知らない。鉛のような指先で探し当てたスマホを見れば、新規メッセージが数件入っていた。グループの方に、えむと寧々から安否を確認するメッセージ。それから、個人メッセージが一件。司からだった。
『大丈夫か? 学校が終わったら見舞いに行くからな』
ただそれだけのメッセージにホッとするのと同時に、来てもらってはいけないなと思った。ただでさえ昨日もいつも通り隣にいたのに、こんな病原菌に溢れた部屋に来られたら確実に菌を持って帰らせてしまうかも知れない。彼の最愛の家族が病に弱いのを知っている。自分ですらこんな風に動けなくなるほどの症状をあの少女にまで背負わせては、何より司が悲しむはずだ。類は、ほぼ無意識の内に通話ボタンを押していた。
「──類?」
どうしたんだ、と声がして、滲む視界の中で類は司を呼んだ。途端に電波の向こうで彼の声音が不機嫌そうに低くなるのを感じ取りながら、すまない、と類は声を絞り出した。まともに話すだけで喉がぎゅうと締め付けられた。
「おみまい、きてはだめだから、」
「は?」
「さきくんに、うつしてしまうから、こなくていい……けほっ、ゴホッ……」
「……あのなぁ、類……」
ああ、しまった、昼休みの邪魔をしたか。自分がいないのだから、今日は他の友人と食事を楽しむか一人の時間を優雅に過ごしていたに違いないのに。具合が悪いと間違いばかりで嫌になると、類は息苦しさに鼻を啜った。
「それだけ、だから……すまない、またあした」
「は? おい、類──」
一方的に通話を切ってスマホを放り出すと、途端にひどい眠気が訪れた。胃の中で何かがぐるぐると踊って気持ち悪い。吐き気を痛む喉で飲み込んで、ぜぇぜぇと漏れる息を煩いなと思った。脳はいつまでも揺さぶられているようで、視界がちかちかと明滅するとその度に鋭い頭痛が走って苦しい。眠ってしまえばこれらから離れられるのだと期待して、類は震えるスマホになど気付きもしないまま眠りに落ちた。
さらり、と髪が揺れる感覚に類は覚醒した。あ、と声を漏らす男の姿が視界に入って、掛けられた言葉を理解するのに数分を要した。それが司だと把握すると、次にはどうしてここにいるのかと疑問が浮かんでくる。なんで、と掠れた声で尋ねればそれを遮るような激しい咳が出た。苦しいと必死に呼吸をする背を、伸ばされた司の手が擦ってくれて涙が滲んだ。苦悶から成るそれではない、安心感から浮かぶ涙に類はぐずりと鼻を鳴らして改めて彼を見上げた。
「……なんで、いるの……?」
「……開口一番それか? 見舞うと言っただろう、寧々とえむも来ているぞ」
今は買ってきたものを冷蔵庫にしまったりしているがな、と司が言う。そこで漸く類は放り捨てたのとは別のマスクをつけられていることや、額に熱冷ましシートが貼られていることに気がついた。
「こないでって、いった……のに…………」
「……あのなぁ、類。勿論咲希のところに病原菌を持ち帰りたくないというのはオレの本意ではあるが、お前を心配する気持ちだって間違いなく本音なんだぞ」
ふわりと頭を撫でられる感覚が心地好くて、類は瞼を閉じた。ずっとそうしていてほしい、その掌だけで渦巻く不快感の全てが消え去ってくれそうだと耽るが、優しさだけで鳴りを潜めてくれるほど病というものは単純ではなかった。ズキン、と響いた頭痛に類はうっと眉間に皺を寄せて身を縮めた。
「頭痛か? ……辛いな。うるさくしてすまない」
「っ……へい、き……」
「病院には行ったようだが、薬は飲めたか?」
「……のんだ、けど……たべてなくて、きもちわるい、かも」
「なにも食べていないのか? まったくお前は……」
手のかかるやつだなと困ったような表情で微笑む司の手が、掛け布団の上から類の腹を撫でた。そんな気休めのもので症状が改善されるなどとは露ほども思っていない。けれど類は、腹の底で暴れる不快感がほんの少し和らいだ気がして、病は気からというのは本当のことなのだなと目を細めた。
「いろいろ買ってきてあるが、何なら食べられそうだ? レトルトだが粥もあるし、あとうどんと……ゼリーとかプリンもあるぞ」
「……ぜ、りー」
「ん、わかった」
頷くと司は階下へ向かうでも大声を上げるでもなく、片手でスマホを操作して耳に当てた。
「……あ、寧々。類が起きてな、いや、ああ大丈夫だ。それで、ゼリー買ってきてただろう、それなら食べれそうだと。ああ、ああ……いや、大声を出すわけにはいかんだろう。頭痛もあるようでな。……ああ、頼んだ」
ぼんやりとした視界にてきぱきと話す司を映していれば、通話を終えたらしい彼がにこりと微笑んでまた頭を撫でてくれた。
「すぐに持ってきてくれるそうだ。無理して全部は食べなくていいからな、類」
「……うん……」
「食べる前に熱も測っておこう、一応な」
「ん……つかさ、くん」
ガラガラの声で縋るように呼べば、どうしたと頬を撫でられる。その穏やかな体温にほうっと息を吐いて、今出来得る限り最大の感謝を込めたで笑みを浮かべて、類は司へ手を伸ばした。
「めいわくをかけて、もうしわけないと、おもっているんだけれど」
「……うむ」
「きてくれて、うれしい……ありがとう、ごめん、ね」
ああまったく、と司が肩を竦める様子に、類は堪えるように目を瞑った。
「……そもそも迷惑だとすら思わないんだがな」
「……でも、きんが」
「わかったわかった、その辺りは治ってから話そう。……とりあえず、そうだな。来てくれて嬉しいとお前が言ってくれて、オレも嬉しい」
素人手段の看病しかしてやれないが傍で見守らせてくれ、と囁き、司は手に取った類の指先にキスを落とした。