慣れ親しんだブーツに外出用の杖。手探りに壁を探してゆっくりと立ち上がり、覚えた距離感に手を伸ばせば扉のノブに指先が触れる。開けば、ふわりと外の空気に身が包まれた。
(一人で出掛けるのは、久しぶりだな……)
毎日自分の身の回りの世話を担ってくれている彼には、今日暇を与えた。油断をすれば休むこともせず自分に尽くしてくれてしまいそうなほど献身的な彼に、一日くらい一人でだって平気なのだと照明をしてみせるのだ。
(……これまでだって、一人でやれてきたんだし)
以前にも家のことを手伝ってくれる者はいたが、それだけだ。最低限の契約内容だけをきちんと熟してくれていた。寧ろ、おかしいのは司の方だ。外への散歩にまで付き合ってくれて、しなくてもいい他愛のない話し相手にまでなってくれる。転べば手を引いてくれて、興味もないだろう絡繰の話を心底楽しそうに聞いてくれる。
このままではすっかり甘やかされてしまうと、類は外壁に手を付き杖で数歩前をこつこつと叩き滑らせながら歩いた。通い慣れた散歩コースは、その手を引き隣で穏やかに話してくれる声がないだけで妙に違和感があった。彼がうちに来る前から一人で続けている散歩道なのに。とうに絆されているとは気付かないまま、類は曲がり角を恐る恐ると進む。暫く行けば、大通りを渡る位置に出る。行き交う人々やまだ一般的でない車輪の音をよく聞いて、安全だと判断したら前へ進む。これだって久々でひどく緊張してしまった。普段は、司が渡れますよと声を掛けて隣を進んでくれるから。
(……あ、かさかさって音……落ち葉かな。昨日は風が強かったから、たくさん広がってるみたい)
司がいたらきっと、道を埋め尽くす紅葉の絨毯が美しいですよと、射し込む日に照らされた赤と黄のなんと麗しいものかと、事細かに言葉にしてくれただろう。すぐ耳元でそんな声がした気がして、類はくすりと笑いながら自らの靴に踏まれてくしゃくしゃと笑う自然の絨毯をひっそりと楽しんだ。
そうやって楽しむことに集中していたからか、背後に寄っていた気配に直前まで気付かなかった。誰かいる、邪魔になっていたかなと振り返ろうとした時には遅く、ドンと勢いよく突き飛ばされて類はその場に転んでしまった。からからと杖がどこかに飛んでいく音がして、慌てて手探りに捕まえようとするも散らばった落ち葉の感触ばかりが伝わってくる。ひとまず立ったほうがと思っても壁さえどこにあるか分からない。深く被っていたハットも落としてしまったらしい。どうしようと困惑していれば遠くからくすくすと笑う子どもの声。これが人為的なものだと、自分をからかって遊ぶためのものだと理解するのは難しくなかった。
「見て見て、すっごいあわててる」
「あはは、おもしろ〜!」
「でも呪われ屋敷のお化けにちょっかい出して大丈夫? 呪い返されるかも!」
何も映らない視界が滲んだ涙に歪んだ気がした。それを拭うよりも早くここを退散すべきだと、類は懸命に地面を這うようにして杖とハットを探した。
黒百合に呪われた貴族の生き残り、幽霊のようだなんて、もうとっくの昔に言われ慣れた。近寄ったら呪われるだとか、あの子は命の代わりに目を奪われたのだとか、根も葉もない噂話はいつまで経ってもこの胸を刺すけれど仕方ないのだ。濡れる感覚を訴える、ろくに働きもしない瞳に急かされて類は手を伸ばす。早く帰って、彼らを不快にしないように、屋敷の奥で一人遊びにでも興じていないと。散歩を楽しもうだとか誰かと関わろうだとか、本当はそんなこと考えないでいないといけなかったのだ。
「……え?」
じわじわと滲んでいった涙がとうとう地面に落ちるのと同時に、伸ばした手を誰かが取った。その温度に確かな覚えがあって、類は何も見えないけれどそこに彼がいると期待に顔を上げた。
「司くん……?」
「──はい。分かってくれて嬉しいです、類さん。杖とハット、ありましたよ」
ほら、と声だけで笑って司は土埃を払ったハットを類へと被せた。ほう、と安心したように息を吐き、滲んだそれが頬へと流れ落ちるのを司が指先で拭い去ってくれるのを感じながら、手渡された杖を両手に握る。
「えと、ありがとう……あの、どうしてここに、いるの……?」
「……家にいても、貴方が転んでいないか心配で心配で落ち着かなくて。様子見だけしに行こうと思ったら、こんなところで会えました」
服が汚れてしまいましたし一緒に帰りましょうと告げられて、類が困惑しながらも頷けば嬉しそうな返事と共に体が浮いた。へ、と漏れる声に、司は揺れて気持ち悪かったら言ってくださいねとなんでもないことのように言う。
「ま、まって、なんで? だっこ、ぁ、歩けるよ」
「いや、類さん足捻ってますよね」
「えっ」
視力が伴わない反動が、類のその他の感覚は鋭敏なものだった。転んだ際の足の痛みも自覚はしているが、表情に出るほどでもないと思っていた。それなのに彼は、何を確認するでもなく怪我をしているだろうと指摘をする。きっとまた涙が滲んでしまっていると、目が見えなくなってからいつまでも泣き虫な頭を恥ずかしく思いながら類は杖を抱き締めた。
「手当てもさせてください。一人では難しいでしょう?」
「で、でも……歩けるから、あの、降ろして……!」
「だめです。暴れたら危ないですから、大人しくしてください」
ほら、と逞しい腕に抱えられたままぎゅっと力を込められて、類は見えないけれどきっとこの顔はひどく赤くなってしまっているのだろうと自覚しながらされるがままに司に横抱きで屋敷まで運ばれていった。
屋敷の扉をくぐってもなかなか降ろしてもらえず、いつまで続くのかと心臓の音が耳障りになってきた頃に漸くソファーに降ろされた。自宅のそれに腰掛けると、漸く慣れた感覚の空間にいることが自覚出来た。ソファーに腰掛けているのならローテーブルはすぐ目の前、この程度の距離と、確かめるように手を伸ばせば予想通りの位置で指先が触れる。整頓された屋敷の中の光景が途端にありありと目に映ったような錯覚がして、類は平時のそれに安心したように息を吐き杖とハットを傍らへと降ろした。
「類さん、手当てしますよ」
「ぇあ、あっ、うん、ごめんね……」
救急箱を持ってきたらしい司が自分の前に屈むのを察知しながら、手間を掛けさせて申し訳ないと眉を下げれば好きでやっていますからと笑って返される。それから履いたままのブーツを脱がせるために司の手が自身の太腿に触れて、類はその感覚にびくりと肩を震わせた。
「っぁ、まって、自分で脱げる……!」
「こら、暴れないでって言ったでしょう。じっとしててください」
「ぁ、っ……! ふ、……っ」
太腿を撫でるように捕まえられて、ブーツの紐を解きゆっくりと丁寧に脱がされていく。擽ったいような心地好いような、複雑な感覚が背筋を走って身を震わせる。敏感な自覚はあったけれど、他者に触れられるとこうも鋭利な感覚に変わるものか。類は浅くなる呼吸を必死に誤魔化しながら、司によってブーツが緩慢に脱がされていく様を感覚のみで見守った。
「っ、は……、…………ん……っ」
「……よし。少し押しますよ、ここ」
「ぅ、うん……、いっ……」
「やっぱり捻ってる……けど、これくらいなら冷やしておけば大丈夫ですね」
そう言うと司は手際良く冷湿布を当てて包帯で巻き付けた。終わりましたと満足そうに靴を履かせ直してくるので、類はまた彼から触れられる感覚にぎゅっと両手を握りしめて堪えた。
「……類さん。今日、夜までここにいてもいいですか?」
「え……? えと、でも、お休みなのに……」
「こんな怪我しているのに放って帰るなんて、不安で出来ません。これで歩いてまた階段から落ちたりしたらと思うと、心配で倒れてしまいそうだ」
「ぁ、あ……あの、君が倒れるのは、僕も、いやだ……」
「それなら、今日貴方の傍で働くことを許していただけますか」
お願いします、と熱い視線を感じる。見えていなくても、その綺麗な目が自分を射抜いて健気に訴えてくれていることはわかるものだと類は未だ潤んだままの目に映りもしない景色を夢想して、戸惑いながらも頷いた。
「良かった。……それじゃあ、動けなくて暇でしょうし、紅茶でも淹れましょうか」
「ぁ……うん、司くんの紅茶、飲みたいな」
ありがとうと微笑むと、司がああ、と笑う声がした。
「やっと笑ってくれた。嬉しいです」
「え……」
「すぐに紅茶、お持ちしますね。座って待っていてください」
「っう、うん……っ」
ぱたぱたとキッチンへ足音が遠ざかり、準備する音を遠くに聞きながら類は自身の頬に触れる。ひどく熱い、火照った肌。きっと耳まで真っ赤になってしまっていると唇を噛んだ。
「…………かっこいい人だなぁ、司くんは……」
その心も、気遣いも、何もかも全てが美しくかっこいい。不謹慎なことだけれど、この人に出逢い世話をしてもらえて幸せかも知れないと類は長い前髪を指で弄って物思いに耽った。