いつか届く 「お手紙です」
使用人から手渡された時、シリルは義父からだと思った、先日の学園祭に足を運んでいただいたお礼を手紙にしたためて送ったばかりである。
その返事にしては少し早いなとは思ったが特に考えもなく「ありがとう」とだけ口にして受け取る。
だが、封筒は見慣れたハイオーンの紋章入りのものではなく、紙質もありふれた、街の雑貨屋で買えるような安価なものであった。
「?」
怪訝に思い、宛名に目をやったシリルの身体はそのままピシリと固まった。
シリルへ
丁寧だが小さくて頼りなげなその文字は確かに母のものであった。
机に向かい、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、大きく息を吸い込んで静かに吐き、細かく震える指で慎重に封を開ける。
母から受け取った初めての手紙は短く簡潔なものだったが、それでもシリルを温かく受け入れてくれた。
ハイオーン侯爵の養子になってから五年と少し、シリルは欠かさず毎月のように母へと手紙を出し続けたが、そのいずれにも返事が返ってくることはなかった。もう出すのをやめてしまおうか、自分の手紙は母を苦しめるだけのものではないだろうか、もう息子だとは思ってもらえていないのではないか──
思うたび、文字を綴る手が止まった。
何度も何度も書き直し、考えるたびに迷いが生じる。何を書いて良いかわからなくなり、いつしか自分を抑え。書くことは次第に殿下の事ばかりとなった。それでも書き続けた。やめてしまえばそれきり母とは二度と会えないような気がしたのだ。それが怖かったのかもしれない。
途切れそうに繋がった細い細い糸に縋るように、シリルはただひたすら母へと手紙を出し続けていたのだ。
(あきらめなくて、よかった……)
ポツリと手に落ちた水滴に雨でも吹き込んできたかと目をやった窓の外はどこまでも澄み切って冴え冴えとした青空で、冬の気配が感じられる。
涙は 当分止まりそうになかった。
****
「……リル、シリル」
耳元近くで呼びかけるフェリクスの声にぼんやり立っていたシリルの体がビクンと小さく跳ね上がる。
「も、申し訳ありません、殿下!少し考え事をしておりました」
「疲れているのかな?少し休むかい?」
「いえ、大丈夫です!」
「そう?なら良いのだけれど」
悩み事があるなら聞こうか?と続けるフェリクスに暫しためらった後、意を決したようにシリルは話し始める。
彼にしては珍しく小さな声だ。
「母から、手紙が届きまして、冬季休暇中、よければ帰ってこい……と」
「帰りたくない?」
「いいえ!」
かぶりを振れば合わせて束ねた銀の髪がブンッと大きく左右に揺れた。
「もう何年も帰っていませんし、母から…その、手紙をもらうのは…初めてで……」
いつもハキハキと大きな声で喋るシリルが口ごもりながらポツリポツリと言葉を発している。
シリルが毎月のように母親に向けて手紙を出していることをフェリクスは知っていた。
もちろん、シリルに限らず、気にすべき生徒の動向は成績、交友関係、日々の言動などをチェックし把握している。特に外部との接触には細かく気を配っている。
不穏の芽は早期に摘むに限る。だがそれでも防ぎきれない問題はいくつも起きてしまう。
シリルの抱える問題は、今のフェリクスにとっては些末な事である。とはいえ右腕たる彼がいつまでもこのような事では不都合が出る。
だからフェリクス・アーク・リディルはニコリと笑みを浮かべてこう言うのだ。
「帰ってあげるといい。親孝行しておいで?」
「っ!はい!ありがとうございます。殿下」
心持ち目を潤ませ、大きな声で答えるシリル。
「元気になったようだね。では、仕事を続けようか」
「はいっ!お任せください!」
書類を手に、資料室へと消えていくシリルを目で見送り、フェリクスは大きく息を吐き出した。
なんでもないやり取りにひどく疲れてしまったような気がする。なぜだろう、そしてひどくモヤモヤするこの気持ちは。
「ああ、そうか。僕はシリルに妬いているのか」
だってそうだろう?僕の想いはどんなに沢山書き綴ったとしても、決して届くことはないのだから。
ねえ、アーク。君へ送りたい言葉はいつだって僕の中にあるのに。それを伝える術が今の僕にはないんだ。
「でもいつか」
そう呟いてフェリクスは昏く笑う。
僕が死んで。冥府の底で君にまた会う時。その時君はこの想いを受け取ってくれるだろうか?
許しを得ようなどと贅沢は望まない。ただ。
「届けたいんだ」
***
蛇足的おまけ
手紙を手に呆然とするシリルを目撃したエリオットとベンジャミンの会話
***
廊下に立ち尽くすシリルを物陰から見つめる男がいた。
「シリルのやつ、何やってんだ」
ため息混じりに呟いたのは、エリオット・ハワードである。
エリオットは別に隠れたくてこの場にいるわけでもなく、こんな形でシリルの姿を見守っているのも彼にとっては大変に不本意極まりないことなのだ。
「ああ、くそっ。気にせずさっさと通り過ぎてやればよかったんだ」
自室に戻ろうと階段を上がってきたところ、たまたま、本当にたまたま手紙を受け取っているシリルの姿を見かけてしまった。
何となく、顔を合わせて声をかけるのが面倒くさいなと思ったエリオットは、シリルが部屋に戻るのをその場で立ち止まって待っていた。だがしかし、いつまで経ってもシリルが部屋に戻る気配がない。
自室に戻るタイミングを逃し、さりとて下に戻るのも面倒。さてどうしたものかというのが今のエリオットなのである。
もう5分は経ってるはずなんだが、とにかくさっさと部屋に戻れよシリル。お前、その姿は普通に不審者だぞ。氷の貴公子じゃなくて奇行師とでも改名されたほうがいいんじゃねえの? などと心の中で毒づいていると背後から声がかかった。
「やぁ、エリオット、こんなところで君はいったい何をしているんだい?」
あぁ、面倒が増えたなと振り向く先には何の憂いもなく晴れやかな笑みを浮かべたベンジャミンがいた。
「……何でもない」
頼むから余計なことはしないでくれ、気づかずにさっさとこの場を行き過ぎてくれというエリオットの願いはしかし届かず、ベンジャミンは興味津々といった表情でエリオットの視線が向いていた方向に目を向ける。
「おや、エリオット。あれはアシュリー副会長だね。あんなところで一体何をしているのだろうか?」
「俺に聞くな! 分かるかよ──って、おい! よせ!」
さっそく好奇心をそそられたらしいベンジャミンは陰から身を乗り出してシリルを観察し始めている。
「何やら手に持っているようだね。あれは……手紙かな? っ! そうか! なるほど!」
何がなるほどなのか皆目分からないが、とにかく事態は悪化しているらしいことをエリオットは悟った。
「おぉ! そうか! 彼はきっとたった今失恋という悲劇に見舞われたのに違いない!」
何故だ? それはいつものお前のことじゃないのか? という疑問はさておき、じわじわと嫌な予感がする……と思ったエリオットの予想は当たった。
「見たまえ! エリオット。彼は今、悲劇の最中にいるのだ! あぁ、隠しきれぬ恋心を愛しき人に打ち明けた男。だが、勇気を持って告白した彼に返ってきたのは無情にも冷たい拒絶の言葉だったのだ!」
「だからどうしてそうなる! あいつはまだ手紙の封も開けてないだろうが!」
その想像力には敬意を払うが、あの朴念仁が恋に破れた悲劇の男なんかであるわけがないだろう。
「恋に酔う男が奏でる甘く切ないピアノの調べ、だが、鋭く切り裂くバイオリンの音が突如男に降りかかる悲劇を告げる! ああ、こうしてはいられないぞぅ」
居ても立っても居られないとばかりに自室に向けて歩き始めるベンジャミン。その前には呆然と突っ立っているシリル。
慌てて引き止めようとするエリオットの努力も虚しくベンジャミンは鼻歌混じりにシリルの前を通り過ぎ──
「やあ!アシュリー副会長! ご機嫌はいかがかな?」
やりやがった──
それまで立ちすくんでいたシリルの目が一瞬大きく瞬きをし、何故か声をかけたベンジャミンではなく、その肩を掴んでいたエリオットに向けられる。
「よう……」
「あ、あぁ……」
仕方なく声をかけたエリオットにぎこちなくシリルも答える。
立ち止まって見つめ合う二人をよそに、ベンジャミンはご機嫌な鼻歌を残しつつサッサとと自室へと消えていってしまった。
「何か用か? エリオット」
「いや、別に」
「そうか……」
それだけ言葉を交わすと、シリルはギギギっと音でもしそうな固い動きで部屋へと戻っていった。追ってパタンとドアの閉まる音がする。
「あぁ、もう、くそっ 一体なんだっていうんだ!」
一人取り越されたエリオットの叫びが遅れて廊下に響いた。