conflict梅雨の晴れ間、その日は珍しく日差しが強い日だった。
白い綺麗な船が東京湾に沈んでから数ヶ月、香はあの時の記憶を相変わらず取り戻しておらず、ある意味元どおりの日常に戻っていた頃、香の留守中に冴羽アパートの電話が鳴った。
「はいはい、冴羽商事…、ああ、教授」
獠は受話器の向こうの言葉に、少し驚きながらも、耳を傾けていた。
しばらくし、話を終わると受話器を戻しながら、獠は深いため息をつく。
リビングを見回し、家の中に香の気配がないのを確認すると、獠は愛車の鍵を持ち、ソファの隅にかけてあったジャケットを羽織り、部屋を出た。
ガレージに降りると、数台の用途の異なる車と共に愛車のミニクーパーもそこに停まっていた。
ガレージのシャッターを開け、車に乗り込みエンジンキーを回す。
獠は特に慌てるでもなくアクセルを踏み、アパートを出た。
ミニクーパーをしばらく走らせ慣れた郊外の道へ進むと、長く続く塀に囲まれた見慣れた大きな屋敷が見えた。
屋敷の広い敷地内の駐車場へ慣れたハンドリングでミニを停める。
そこは、先ほどの電話の主、教授宅だった。
玄関先に行くと、中からカメラで来る様子を見て知っていた教授と、かずえが待ち受けていた。
そのまま、特に会話を交わすでもなく離れの廊下まで歩いてゆく。
獠が1つの扉の前で止まると、そのまま教授は話を始めた。
獠が教授の方を振り返り、改めて後ろにつくかずえの表情を見ると、少しやつれている気がした。
「荒療治なのは分かっとる」
教授は唐突に言った。
「……」
「エンジェルダストのせいもあるが、何より両手が使い物にならないことがミックの心の火を消している原因じゃ」
獠はあらかじめ電話で内容を知らされていた為、教授の言葉に驚くことはなかった。
あの白い船での出来事を思い出せば、ミックの手がどんな状態か明白だった。
悪魔の薬と呼ばれる、エンジェルダストを投与され、その時に海原を攻撃するために両手を機械に突っ込み感電をしている。命があるだけでも奇跡なのだ。
「…あの手じゃ、銃を握るどころか日常生活もままならないのでは?」
獠は闇を見つめるような目で、扉の向こうにいる友を思った。
「エンジェルダストの方は?」
後ろの方で嗚咽を漏らさぬように泣くかずえに獠は聞いた。
「…まだ、日によっては酷い状態になるわ。それでも、一番酷い時期は脱したと思う。その反動なのか今は無気力になることが増えて…」
「かずえくんはよくやっとるよ、医師として」
医療従事者として、そんな立場を超えた意思があることは獠にはなんとなく気づいていた。
お前は、ある意味幸せだ。ミック。
そう心の中で語ると、獠は重い扉を開いた。
部屋の中は灯りはついておらず、カーテンも引かれている。
ただ、外の光が強い日中の為、遮光性がそれほど強くないカーテンから光は漏れ、部屋の中をぼんやりと照らしていた。部屋の中にはベッドとサイドテーブル。そして椅子が一脚。
ミックが自分を傷つける可能性があるものは排除した結果であろう。
部屋の広さに対して不似合いなほど何もないガランとした部屋の隅に、丸くなって座り込んだ男の影が見えた。
暗室のような部屋から普通の部屋に移動しているのだから、一番最悪な時期は過ぎているのだろう。
同じ状況を味わい、元の生活をしている自分が、ミックの目の前に現れることが、彼にとってどんな気持ちにさせるのか。
無気力になった元相棒をこのままにしておくことは出来ないと感じた獠は、教授から依頼されたこの難しい役割に迷いながらも答えることにした。
「…起爆剤…か」
獠はため息をつくようにボソリとこぼした。
今のミックが俺を見て、悔しがり発奮するのか、もっと奈落へ落ちてゆくのか。
「…」
部屋に入っても、隅にいるミックからは何も反応は返ってこなかった。
ガタン
そばにあった椅子の背を前に向け、またがるようにして椅子にすわり、獠は部屋の隅で床に座り込んだミックを姿をじっと見つめた。
「…何しにきた…」
背中を見せたまま、覇気のない声でミックは言った。
獠からはミックの体の様子を全てうかがい知ることは出来なかったが、
長袖のパジャマを着て、袖口から覗く包帯が、痛々しくも感電したあの手なのだということは分かる。なんとなく背中が小さく見えるのは、痩せたのかもしれない。
「…親友の顔を見に…」
「はっ…、俺の惨めな姿を見にきたんだろ。教授たちに頼まれて。励ませとでも言われたか?」
「それだけ憎まれ口が叩けるなら、そんなに心配することもあるまい」
お互い顔を見ず、表情も変えず会話を交わす。
まるで互いの額に銃口を向けているような緊迫感を持って。
「…エンジェルダストのおかげで命拾いした…とも思ったが、オマエの親父は生きる苦しみを味合わせようとしてるのかもな」
ミックの口から出た言葉に、獠は何も返すことは出来なかった。
今は亡き海原神の本当の想いなど、誰も分かりはしないのだ。
「手が元に戻らないそうだ。俺はこの手で生き抜いてきた。その手がどうにもならなくてこの世界で生きていけると思うか?」
「ミック…」
「お前はエンジェルダストを打たれても今はこうして普通に生きているのに、俺にその未来はあるのか?」
すでに獠に向けているのか自問自答しているのかわからない会話になっていた。
獠が声をかけようと近づくと、ミックは振り返り、獠のジャケットの襟を掴んで殴りかかってきた。
ミックの繰り出した拳を、いとも簡単に獠はかわす。
寝ている時間が多い体の筋力はかなり落ちていて、たとえまともに食らっても、女のそれに近い程度のもので獠にダメージを与えることはおそらく出来ない。
「う、ぉおおおおおおおおっ!」
突然発狂したかのように叫ぶと、拳を何度も獠に向かって繰り出す。
取っ組み合いとは程遠い状態だった。
普通に立ち、殴り続けるだけの体力がまだミックには回復していない。
馬乗りになって獠の行き場をなくして拳を振り下ろす。
卑怯以外の何者でもない姿。
そんな狭い範囲でも、獠はミックの拳をかわす。
互いの腕が当たる肉の音、骨の音が室内に鳴り響く。
かわされて床に打ち付ける形になった拳は、巻かれた包帯が次第に赤く染まっていく。
痛みも感じなかった。
何度目かのパンチが獠の頬をかすると、ミックは肩で息をしながら、睨みつけた。
先ほどまでの覇気のない目ではなく、怒りに満ちた目。
「…何だよそれは、なんの情けだよ」
ダンっ
悔しさで両の拳を床に叩きつける。ミックは息のかかる距離まで獠に顔を近づけて吐き捨てるように言った。
「…こんな状態で生きるなら…俺は生きる屍だ…」
獠は、ミックの言葉を理解していた。誰よりも。
「…俺もお前とおんなじだ 生きる屍だった。
エンジェルダストを投与され、信頼していた人に裏切られたあの時から…。
回復してからも俺は屍だった。日本で槇村や香に出会って変わったのさ。お前が空港で言ったのは当たりだよ」
その言葉を聞いたミックは、悔しそうな顔のまま、殴るのを諦め後ろに尻餅をつくように座り込んだ。
「っちっ………」
獠は、ミックに殴られた頬に残った血の跡を拭い、起き上がる。
悲しくも優しい眼差しでミックを見ると、
「悔しかったら生きろ。見返してやれ」
「…誰をだよ…」
「…死んだ海原を、そして俺をさ。俺もお前も一度死んだんだ。でも、もう生き返れよ。彼女のためにも。そうして、俺が羨むくらい生きることを楽しめ」
「…」
いつの間にか開いていた扉の向こうには、肩を揺らし向こうを向きながら、何かに耐えているかずえの姿とそれを慰める教授の姿があった。
その姿がぼんやりと視界に入ったミックだったが、自分の惨めな姿をまた晒したのだと目を背けた。
俯いたままのミックをそのままに、獠は部屋を出た。
静かに扉を閉めると、廊下でその様子を見ていた教授たちに言った。
「…毒にも薬にもならなかったかもしれないですね」
「…それなら、それでもいいんじゃ。あとは、ミック自身の問題だ」
教授はにこりと微笑みながら、獠に答えた。
「冴羽さん、ありがとう。しばらくはずっと感情を押し殺した感じで、あんな風になったのは初めてかもしれない」
かずえは泣きそうなのをこらえながら作り笑いをして見せた。
あれほど気丈に、心を揺らすことをあまりしなかったかずえがこんな状態になるのだ、それほどにミックを想っているのだろう。
目の前の幸せに早く気づけよ、堕天使。
「俺も人のことを言えた義理じゃないか…」
獠は己の状態を思い出して苦笑いをした。
それは、記憶喪失のふりをしたままの香の嘘に付き合って、元の二人に戻ろうとしている自分だった。
気づいているのに気づかないふりを俺はいつまで続けるのか…。
「さあて、帰ります」
「ああ。香くんが待っとるからの」
「…教授…。そんなんじゃありませんよ」
「冴羽さん…」
かずえも何かを言いたげだが、声をかけただけで言葉が途切れてしまう。
それを察した獠は、肩に優しく手を置き、話しかけた。
「かずえ君、ミックのことで困ったことがあれば、いつでも連絡をくれ」
「ありがとう…」
獠は、二人を廊下に残し、挨拶代わり手をふりながらその場をあとにした。
◇◇◇
それから1ヶ月半ほど経った真夏のある日に、獠は香から、雷を落とされる。
リビングで雑誌を読んでいると、駅の伝言板を見て直帰したらしい香が怒鳴り込んできた。
「獠お〜〜〜〜!」
アパートいっぱいに香の怒号がこだまする。
「正直に白状しろそしたら許してあげる!」
「な…なんだよ どうしたの?」
誰かが伝言板の依頼メモを先回りして読み、依頼人と会い、仕事を取られているらしいというのだ。
それが、獠だと疑われた。
◇
その一週間前
獠は教授に呼ばれ、屋敷に来ていた。
教授の部屋には、教授とかずえ、そこに呼ばれた獠がいた。
以前にも増して重苦しい空気が漂っていた。
「…冴羽さん。お願いがあります」
かずえが、思いつめた表情で獠を見つめる。
「なんだい?」
「ミックを止めてください」
「!?」
かずえがそれ以上の言葉に詰まると、教授は優しくかずえの肩を叩き、自分が話を変わろうと目線を送ると、そのまま話を続けた。
「あのあと、奮起してリハビリを頑張るようになったよミックは。ただ、やっぱり納得をしておるわけではなかった。スイーパーに戻ると躍起になっての…。お前さんとの勝負に勝てばスイーパーを続けると、かずえくんに無理やり約束させたんじゃよ」
「あの…ばか…」
獠はやっぱりという表情でため息をついた。
予想はできたことだった。
納得させるには通らないとならない道だろうとも獠は思った。
「わかりました。かずえ君からの依頼があったことは秘密のまま、ミックの様子を探ってみますよ」
そう言って、獠は教授の家をあとにした。
◇
「…それ以来、今日を入れて3回あったわ。女性客にだけこんなことするのなんて あんた以外誰がいるっての?」
香からこれまでの話を聞きながら、一週間前の教授の話を獠は思い出していた。
まあ、こんなことする奴は……。
「こりゃあ ホントに俺たちのにせ者が現れたようだぜ!!」
香の驚く顔をよそに、獠は頭の中で思案した。
とりあえず、まずは奴と会ってからだな…。
「とりあえず、伝言板、見に行こうぜ」
「あ?え?ちょっと、獠⁈」
獠は戸惑う香を連れ立って部屋を出た。
そうして伝言板の側で張り込み続けて3日後、二人はミックと出会うことになる。