迷子には気をつけて動物学の授業は好きだ。
無論、学校に通う事などこれまで望んでもできなかった僕にとっては見聞きするもの全てが目新しく、どの授業も大切な時間である。
どれもこれも、見知らぬ大人を警戒し突き返し続けた僕を見捨てる事なく何度も訪ね、この世界に連れ出してくれたフィグ先生のお陰なのだが。
膝に乗せたパフスケインを撫でながら、マグルとして生活していたあの頃や、初めて自分の事について知らされた日に想いを巡らせていた。
「…あいつ、パフスケインのどこが怖いんだろうね?見てよこの愛らしい瞳!」
隣に座っていたエバレットが話しかけてくる。
あいつとは、勿論ダンカン・ホブハウスの事だ。彼はパフスケインが怖いのか魔法生物全般が苦手なのか動物学には出席しておらず、僕は少しだけ寂しく感じている。
確かに、このふわふわとした見た目に反するあの舌の長さと大きな目、コロコロと不規則に転がる姿、更には鼻くそが好物であるという事…なんとなく彼が苦手とする理由がわからなくもないが。
それにしても、そんな栄養素もクソもないものをよく好物としている。くそだけに。
「…パフスケインが一生の内に食べる鼻くその量ってどのくらいだと思う?」
なんとなく気になっていた事をエバレットに投げかける。彼は答えは出せなくとも何か面白い返答をしてくれるので、つい突拍子もない話題を振りたくなるのだ。エバレットは一瞬その壮絶な量を想像したのか眉を顰めた。
「そうだなぁ…考えた事もなかった。きっと一生透明薬の材料には困らないんじゃないかな。まずそんな量の鼻くそ見たら僕、ひっくり返るかも」
「うわあ、僕も想像しちゃった。嫌だなあ…」
お互い顔を見合わせ「うへえ」といった表情をした。
「ねえ」
授業後、エバレットとアミットに呼び止められる。
「さっき、禁じられた森の近くで珍しい動物が見られるって噂を聞いたんだけど。君も一緒に見に行かない?中に入らないとはいえ、あの辺を二人だけでウロつくのは心許なくて」
「珍しい動物って?」
「それは見てからのお楽しみだよ!僕たちは先に行ってるね、森の入り口で待ってるから!」
「あ、ちょっと」
彼らにしては随分と強引な誘い方であった。しかも「見てからのお楽しみ」と。
どこかに出掛ける時事前のリサーチを欠かさず、目的地に行くまでに嫌というほど豆知識やネタバレ、それにまつわるエピソードを聞かされるというのに。
それに、森の中ではないとはいえあのアミットが進んで行こうとするなんて…?
怪訝に思いながらも、やはりそういう性なのだ。気になってしまう。僕は待ち合わせ場所に向かう事にした。
禁じられた森への道はすっかり覚えたつもりであった。しかし今はなんだか歩いても歩いても見知らぬ道が続くような気がしていた。それにこの自分の身長程ある大きな岩、さっきも…
「転入生」
「ひ!」
突然岩陰から声がした。驚いて声のした岩の裏側に回り込むと、アンドリューが道端に何する事なく佇んでいる。
「どこに行くんだい」
「ええと、このへんで待ち合わせしてる」
「禁じられた森ならこっちじゃない」
「えっ」
なぜ知っているのだろう。返答に困っていると
「更に言うと君、さっきからずっとここをぐるぐると回っているね」
アンドリューの言葉で、確かにここは森への道ではないような気がしてきた。それどころか同じところを何度も何度も通っている。真っ直ぐ進み続けているのにそれはおかしい。
明らかに、普通ではない"何か"が起こっている…?
「それならアンドリューこそ、こんな所で何してるの」
「迷子を迎えに」
演技口調に言ってアンドリューは仰々しく手を差し出してきた。迷子とは僕の事を言っているようだ。子どもじゃあるまいし、それにエバレットとアミットを待たせてしまっている。急がないと。
「迷ってない。この道で合ってると思う」
「なるほど。君がそう思うのなら、これが正しい道なのだろう、でも今戻らなければ二度と会えなくなるかもしれないよ。誰とも」
「どういう意味…?」
「君、ところで次の授業はなんだったかな」
次の授業?確か…
思い出せない。
…そういえば、今日は何日だったか。
突然強い目眩がした。慌てて両手で並行を取ろうとするがバランスが保てず体勢を崩す。
「うわ!」
地面がぐにゃりと揺れるような感覚…ではない。足元に視線を落とし、僕は目を疑った。
─地面が水面のように波打っている?
気付けば自分の体も腰の辺りまで地中に埋まって、辺りを見回すと木々や草原だったものが大波のようになって迫ってくるのが見えた。
魔法界ではこういった現象があるのか?
確かに、悪魔の罠や噛み噛み白菜、毒触手草…攻撃性の高い植物もある。どうやら危険な魔法植物の群生する場所に迷い込んでしまったのかもしれない。
パニックを起こすと動けなくなり、冷静に場を分析してしまう悪い癖が出た。判断が遅れた僕は、呆気なく草木の波に飲まれてしまった。
緑色とむせかえるような草の香りに覆われる。初めはカサカサと言った葉の擦れる音だったものが次第に嵐のような轟音となり脳内に響いていた。
抜け出そうと必死にもがいてみたが、水中のように草を掻き分けるのみで身動きが取れない。水中とは言ったが浮力は働かず、そうして手足をばたつかせているうちにもどんどん身体は沈んでいく。
五感が草木に飲まれ頭がぼやけていく。
───あの二人はこんな目に遭っていないだろうか、無事だろうか。
ここで、死ぬのか。
そう思いかけた時。
「ほら、掴むんだ」
アンドリューの声だけが鮮明に聞こえた。彼はなぜか無事なようで、しっかりと地上に立っている。僅かな隙間からこちらへ右手を差し出している姿が見える。
僕は意識の薄れゆく中、自分に覆い被さってくる草木の隙間から力一杯腕を伸ばし、彼の手を掴んだ。
……ねぇ、君たち
アミットの声がして、気がつくと寮のベッドの上にいた。時計に目をやると消灯時間からあまり時間が経っていない。おかしな話だが、眠りについてすぐに夢を見ていたようだ。ルームメイト達はまだ起きているようで、何か話している様子であった。
しかし困った。一度眠りから覚めた事で目が冴えてしまったのである。眠れるだろうか…
再び目を閉じる。
「…眠ってる人の寝言に返事をすると、返事された人は夢から出られなくなるんだって」
「そんな迷信鵜呑みにしたのか!?」
「アミットは純粋だなあ!」
そんな会話が聞こえてくる。
ああその話、この前アンドリューがしていたな。
ぼうっとした頭でつい先程夢に出てきたアンドリューの事を思い返す。やっぱり、夢の中でもなんだか掴みどころのない不思議な存在だった。
すると突然会話が止み、ガタガタと二段ベットの梯子の軋む音がした。なんだか視線を感じる。
…と、次の瞬間物凄い力で肩を掴まれ前後にこれでもかというほど揺さぶられた。突然の事に困惑して目を覚ますタイミングを逃してしまった。間髪容れず両頬に強い痛みが走る。ルームメイトの3人はしきりに起きろ!戻ってこい!とかなんとか声をかけてくる。
…ああなるほど。彼らの焦り振りから察するに、僕が寝言でも言っていたんだろうか。それに誰かが返事をした、とか…
そう考えたら急におかしくなってきた。
目を覚まし笑いの止まらなくなる僕に向けられる3人の驚きと安堵の混ざった表情、自分も突然力が抜けたように安心感に包まれ、その日は途中で目が覚める事なく眠ることができた。
「転入生」
「あ、アンドリュー」
昨晩夢に出てきた存在が目の前にいることが、何だかとても気まずいものであると知った。勿論当のアンドリューは悪夢のことなど何も知らない訳だが、なんだか変に意識してしまう。
いつも通りなんてことのない雑談をし、次の授業に移動するため別れる。
「じゃあまた、談話室で」
「ああそうだ」
お互いが別の方向に向かい始めた時、急に呼び止められた。
「なに?」
「迷子には気を付けて」