それは、お狐さまの運命だった。 1
さすがに今回ばかりは万事休すだ、と赤井秀一は思った。
これまで様々な事件やピンチに遭遇しながらも、持ち前の頭脳と身体能力で切り抜けてきた赤井ではあったが、今まさに目の前にいるのは得体の知れない『黒いモノ』。
この世のものとは思えない『それ』は実体を持たず空中に漂う闇のようで、弾丸を撃ち込んでも怯む様子もなければ効いている気配もない。かと言って肉弾戦を挑むなどは以ての外だと脳が警報を鳴らしている。正しく万事休すだ。
事の始まりは、日本に…それも米花町に来てからだった。外を歩いていると、ふとした瞬間に『迷い込む』ことが増えたのだ。
赤井はイギリスで生まれ育ったせいか、子どもの頃は妖精と呼ばれるモノたちが見える時がまれにあった。大きくなるにつれてそれもなくなってしまったが、しかし単に見えないというだけで、この世に人間以外の存在がいることについての理解はあった。
それゆえに最初に米花町で『迷い込んだ』時も、赤井はすぐに察しがついたのだ。周りの風景は一切変わらないのに、どことなく空気が違う。人の気配というより『何か』が蠢くような気配がする。そう、赤井は『現実とは違う空間』に入ってしまったのだ。
しかしこれまでであれば、謎の火の玉のようなものが帰り道を示してくれたり、うっすら光る四つ足の獣のようなモノが出口まで案内してくれたりと、何故かは分からないものの『現実』に戻るのに苦労はしなかった。しかし、今回はそれもなく。
そういう幸運も長くは続かないということなのか、彷徨っている内に出くわした『黒いモノ』に阻まれた赤井は身動きが取れなくなっていた。
空間からの脱出方法も分からなければ、目の前の存在を退ける手段も無い。対象を観察しながら、流石に今回ばかりは命運尽きたかと思い始めた、その時だった。
一閃。
空間を切り裂くかのように、閃光が煌めいた。
それは目の前の『黒いモノ』を切り裂き、切り裂かれた『黒いモノ』はそのまま霧散し消えていく。
そうして開けた視界の先に、金色に煌めく男がひとり、立っていた。
「……っ赤井ィ! お前はまた面倒な所に迷い込んで! こんな所にまでホイホイ入り込むな!」
その男は赤井の見慣れた男であったが、しかし見慣れない姿をした男だった。
顔も肌も背格好も、赤井にとって少なからず因縁のある男——降谷零そのものであるのに、驚くべきことに見慣れたハニーブロンドの頭には見慣れない獣の耳が生えているし、背後には艶やかでふさふさとした金毛の尻尾が、一本どころか複数本に分かれているように見える。それはまるでいつか本で読んだ『九尾の狐』のようだった。
そして何より、その手に握られているのは日本刀だ。確かに降谷は日本人であったが、赤井はこれまで降谷が現場で真剣を振う姿など見たことがなかったし、もちろんそれが彼の同胞である日本警察の人間であったとしても同様だった。
しかし、赤井の直感は告げていた。この男は己の知る『降谷零』であると。
このように異様で不可解な状況において、何が正しいかを見極める確かな術もなければ根拠もない。しかし赤井は自分の直感を信じていた。そしてそれは、これまでにも赤井の不利益になるようなことはなかったのだ。
「…ちょっと、大丈夫ですか? 見たところ呪われてはなさそうですけど」
「呪…。…一応聞くが、君は安室…いや、降谷くん…だよな?」
「そうですよ。…僕が言うのも何ですが、あなた驚かないんですか?」
「驚くに決まっているだろう」
「驚いているように見えないんですけど」
これ見よがしに溜息をついた降谷は、ガシガシと髪をかき回すと一歩踏み出して赤井の目の前に立つ。
「…まあいい。明日、このことを覚えていたなら僕のところに来てください。あなたには説明しておいた方がよさそうだ——」
そう言いながら、降谷が赤井の顔の前で右手を振った。
ヴヴー、ヴヴー。
気が付けば、自室のベッドの上だった。窓からは朝日が差し込んでいる。
傍らで鳴り続けるバイブレーションは通話着信を知らせるものだった。スマートフォンを持ち上げながら時間を確認すれば、午前六時十二分。日付も変わっている。
(…昨夜のあれは…夢、なのか…?)
しかし帰宅した覚えもなければ、着替えた覚えもない。とりあえず五月蝿いバイブ音を止めるべく電話に出れば相手はスターリングだった。出るのが遅いと小言を言われた後、朝一番に捜査会議が入ったことを知らされる。となると、あまりゆっくりもしていられなかった。
通話を終えた後ふと思い立ち、常に携帯しているハンドガンのマガジンを確認する。愛用しているライフルとは違い、いざという時の手段として昨夜も携帯していたものだ。改めて見てみれば、二発ほど弾が減っている。それはちょうど昨夜、得体の知れない『黒いモノ』に撃ち込んだ数と一致していた。
しばしマガジンを見つめた後、フ、と口元に小さく笑みを浮かべた赤井は出勤するべく身支度を始めたのだった。
2
「やあ降谷くん。君は狐に呪われているのか?」
開口一番、赤井が放った言葉に降谷は顔を引き攣らせてから目元を手で覆った。
朝一番に入った日本警察との合同捜査会議が終了した後、各々捜査に取り掛かるべく会議室を出ていく捜査官たちの合間を縫って、赤井はひとりデスクに残って資料を整理する降谷の前に立った。そうして放ったのが先ほどの言葉だ。
「…何ですか、赤井捜査官。藪から棒に」
「君が言ったんだろう? 覚えていたら会いに来いと」
不敵な笑みを浮かべる赤井と、眉を顰め険悪な表情を浮かべる降谷。二人の仲を知る者——特に風見祐也とジョディ・スターリングは、いつの間にか二人が対峙していることに気付くと離れた場所でハラハラと見守っていた。
しばしの見つめ合いの後に溜息をついた降谷は資料を持ち上げて小脇に抱え、赤井に向かって会議室の出口の方を顎でしゃくった。
「ついて来てください。別室で話しましょう」
そのまま振り返らず歩き始めたので、赤井は素直に従うことにした。
連れて来られたのは人気のない小さな会議室の一室だった。促されるまま赤井が先に室内へと入り、後に続いた降谷が扉を閉め、鍵をかける。赤井はポケットに手を入れたまま机にもたれるように腰掛けると降谷を見上げた。
「それで? 呪われているのか?」
「お前が気になるのはそこなのか? もっと他にあるだろうに…」
何度目か分からない溜息をついた降谷は腰に手を当てながら言葉を続ける。
「呪われていませんよ。——僕は元々、狐です」
「…ホォー…?」
「これでもあなたが産まれるずっと前からこの地に生きています。いわゆる土地神というやつですね。…と言うかあなた、土地神って言って分かります?」
「さすがに日本の神話や伝承には明るくないが…まあ想像するに、その土地に根ざす守護神のような存在のことだろう? さすが、八百万の神がいると言われる日本だな」
「…あなた本当に驚きもしなければ疑いもしませんね。逆に面白くなくて腹立つんですけど」
「驚いていないわけではないが…」
赤井はそこで一旦言葉を切り、じっと降谷を見つめる。そして納得したようにひとつ頷いた。
「君、昔から見た目が変わらないからな…」
「…っ判断するのがそこかよ!」
思わず降谷が吠える。
「フ…、まあ半分冗談だが…大体、君はこういう意味の無い嘘はつかんだろう。それにこれまでの君の技量を思えば、人間ではないと言われても納得できる」
小首を傾げる赤井の根拠のない信頼に、この謎の自信はどこから来るのかと思うと悔しいやら腹が立つやらで降谷は言葉を詰まらせた。
(…それなら、その技量とやらに並ぶどころか上を行くレベルのものを持っているお前は何なんだ!)
降谷としてはそう思うものの、生憎と赤井が己とは違いただの人間であることは己が一番よく分かっている。だからこそ、その有能ぶりに余計腹が立つわけだが。
降谷は唇を引き結んだまましばし赤井を見つめていたが、赤井の方はこの降谷の沈黙で自身の考えに確証を得たらしい。降谷が人間ではないと明かされたばかりだというのに楽しげな笑みを浮かべている。
「…大体、あなたアメリカ人のくせに何故ああも『狭間』に迷い込むんです。この日本ですら、今となっては迷い込む人間もほとんどいないと言うのに」
「ホー…やはりあれは異空間なのか。…理由と言うなら俺も知りたいところだが…強いて言うなら、俺も子どもの頃は妖精が見えたことがあったよ」
「…、妖精?」
「妖精」
「…あなたが?」
「そうだが」
妖精。目の前のこの、涼しげな顔をしたガタイのいい黒ずくめの男の口から出てきた言葉とは到底思えず、降谷は己の耳を疑った。
しかし冷静になって考えてみれば、赤井はイギリス出身だ。イギリスでは昔からそういうものが信じられているとも聞く。ならば赤井にもそういったものに馴染みがあったとしてもおかしくはないのだろうが。
「…フッ、はは…! あなた、その顔でフェアリーですって? 似合わなさすぎて可笑しいんですけど…っ」
とうとう降谷は耐えきれずに笑い声を上げた。口元に拳を当て肩を震わせる様子を見た赤井は目を瞬く。『安室』ならともかく、『降谷』がここまで純粋に笑うのを見たのは初めてだったからだ。
しげしげと赤井が眺めていると、ふと何かに気づいたように笑うのをやめた降谷が上着の内ポケットへと手を伸ばし、スマートフォンを取り出した。どうやら連絡が入ったようだ。
「…すみません、行かなければ」
「あ、ああ…」
「やはりここだと時間が取れませんね…赤井、今夜空いてます?」
スマホから目を離した降谷が赤井の方を向いて問いかける。突然のプライベートな誘いに赤井は聞き間違いかと思いつつも、どちらにせよ特に予定もないので頷いておいた。
「なら今夜八時に僕の家に来てください。場所は知っていますよね?」
「…まだ『安室くん』のマンションに住んでいるのなら」
「そこで結構。では」
短く告げた降谷は振り返ることもなく、さっさと一人で部屋を出て行ってしまった。
後に残された赤井はと言うと、初めての降谷からのプライベートな誘いに驚きつつ、しかしこの好奇心を刺激してくれる展開に心が浮き立たないわけがなく。
定時に上がるために済ませるべきことを脳裏に浮かべながら、自身もまた会議室を後にしたのだった。
3
例の組織を壊滅に追い込み、その後始末に追われる中。偶然にも庁内の休憩所でばったり出くわした降谷と赤井は、そこで初めてお互いの胸の内を明かし合った。
お互いの関係において蟠りとなっていた、あの屋上での出来事。その真相について、降谷は既に答えに辿り着いていた。赤井の油断と、降谷の足音。そこには悪者などいなかった。いたのは、一人の善良な男を救えなかった、浅はかな二人の男たちだけだったのだ。
あの時の会話以来、二人の仲は改善したように思う。
所属組織が違う以上、捜査方針などの点で衝突することは大なり小なりあるものの、味方であれば頼もしい存在であることは互いに認め合っている。協力できる部分において協力しない手はないのだ。
そうして顔を合わせれば殴り合うことなく世間話ができるようになった降谷と赤井だったが、それはあくまで職場に限った話であって。こうしてプライベートに招き招かれるのは今回が初めてだった。
情報として把握はしていた『安室透』の住居であるMAISON MOKUBA。潜入の必要がなくなった今も変わらず住んでいるらしいその部屋の前に立つと、赤井はスマホで時間を確認してからインターホンを押した。数秒後、物音と共に扉が開いた。
「お疲れ様です。上がってください」
「アン!」
時間通りに訪れた赤井を出迎えたのは降谷だけではなかった。その足元には小さな白い犬が一匹、尻尾を振りながら嬉しそうに舌を出している。
「…犬…」
「ハロです。犬、苦手でしたか?」
「いや…。意外でな。君が犬を飼っているとは」
初対面である赤井を怖がったり、警戒するような様子はない。腰を落として頭を撫でてやれば尻尾を振る速度が上がった。
その様子に降谷は小さく笑みを浮かべ、踵を返して部屋の中へと戻って行った。赤井も靴を脱いで後に続く。
降谷…もとい『安室』の部屋は至ってシンプルだった。1DKで、広さも典型的な一人暮らし用といったところである。玄関から入ればすぐにダイニングキッチンで、エプロンをつけた降谷がコンロの前で何やら作業をしていた。
「唐揚げ揚げますけど、食べます?」
「…まさか…君の手作りか?」
「そうですけど。手作りに抵抗あるなら酒だけ用意しましょうか」
「ああいや、そうではなくて…。…フフ」
唐突に笑いだした赤井を降谷が訝しげに振り返る。
「まさか、君に…こうして自宅に招かれて、飼い犬にも迎えられ…更には手料理を振る舞ってもらえるようになるとはな…中々感慨深い」
足元にじゃれつくハロを抱き上げながら微笑む赤井があまりに嬉しそうに見えて、相手のそんな顔などこれまで見たことのなかった降谷は思わず羞恥から頬を赤くした。
「なっ…別に僕は話のついでに夕飯食べてくかと思っただけで…!」
「分かっているよ。…いただこう。ボウヤから君の手料理は絶品だと聞いているからな…楽しみだ」
何か手伝いでも?
そう続ける赤井にすっかりペースを持っていかれた降谷は、照れ隠しも兼ねて「座って待ってろ!」と声を荒げたのだった。
カリッとジューシーな絶品唐揚げがおかずとなれば、食に頓着しない赤井でも白米をおかわりしたくなるというもの。そうして程よく腹が膨れた後、勧められるがままバーボンのグラスを傾けていた赤井は、片付けを終えてテーブルについた降谷に話を切り出した。
「——それで、話とは?」
それまで他愛のない話題しか振っていなかった降谷もさすがにそのつもりだったのだろう。ひとつ頷いて口を開く。
「あなたが迷い込んでいる『狭間』ですが…実はあれ、僕の『神域』なんです」
「『神域』…」
「いま僕たちが存在しているこの世界が『現世』。逆に死者や肉体を持たない霊的なものたちが存在している世界が『常世』。現世と常世は同じ瞬間…今ここにも存在していますが、存在している次元が違うんです。…ここまではいいですか?」
「ああ」
「そんな現世と常世の境目に作った空間が、先日もあなたが迷い込んだ僕の『神域』です。基本的に僕が許した存在でない限り、迷い込むことなんて殆どないはずなんですが…。…まあ僕も昔と比べて本調子ではないので、そのせいもあるのかも」
「…まさか君、負傷を?」
本調子ではない、の言葉に反応した赤井が片眉を上げて降谷の身体を目で検分し始めるが、降谷は軽く笑いながら首を振った。
「違いますよ。…僕の力が衰えていっているんです」
「…、それは…問題なのでは?」
「そうですね…いずれ僕は存在できなくなるでしょう」
さらりと返された言葉はあまりに衝撃的で、赤井は頭から冷水を浴びせられたかのように血の気が引いていくのを感じた。
「…いずれ…とは、いつなんだ」
「さあ…明確な日時が分かるわけではありませんが…この調子だともう十年も持たないんじゃないかな」
赤井の動揺が伝わったのだろう、降谷が言葉を続けた。
「言ったでしょう、僕は土地神です。…土地神ってやつは、その地に住む人間たちの信仰がないと存在そのものが薄れていくんです。…仕方ありません。時代の流れってやつですね」
あはは。降谷はそう言って笑ったが、赤井からしてみればちっとも笑えなかった。
赤井にとって、降谷はかけがえのない存在だ。お互いに多くのものをなくし、傷つき、それでもなお最後まで共に戦い抜いた同朋。
確かに職業柄お互いに明日の命の保障などない身であるとは言え、まさかこのような形で別れを示唆されるとは想像だにしていなかったのだ。
赤井が返す言葉を探している間も降谷は気にした風もなく続ける。
「ちなみに、昨夜の黒いやつ…あれはまあ言ってしまえば悪霊の類なんですが、怨念が強いとたまに現世に出てきて人を襲うんですよね。だから僕の神域に呼び込んで追い払っているんですが…これ以上あなたまで迷い込んできてしまうと危ないので、日本にいる間はこれを持っていてください」
「…、これは…?」
手渡されたのは青い糸に金糸が織り込まれた組み紐だった。ネックレスほどの長さはなく、手首などに巻けそうな長さである。
「お守りみたいなものですよ。あなたを守護し、災いから守るための。持っていれば神域に迷い込むこともないでしょう…あなたが日本にいる間は効果が続くはずです。腕…はあなたの場合邪魔になるでしょうから、まあアンクレット代わりに足首とか…ポケットの中でもいいですが、出来れば肌身離さず着けておいてもらえると助かります。…もうあなたを巻き込みたくないので」
「…何故…君はここまでしてくれるんだ?」
ぎゅ、と手の中の組み紐を握りしめながら、赤井は顔を上げて降谷に問うた。
確かに己は降谷の神域に知らず迷い込んでしまっていたようだが、そもそも赤井は米花町の人間ではないし、日本警察の仲間でもない。親しい友…と呼べるのかどうかも微妙な、せいぜい知り合い程度の関係だ。それなのにここまで事情を明かし、赤井を護るようなものを授けてくれるなんて割に合わない気がしたのだ。
すると降谷は数度目を瞬いた後、赤井がこれまで見たことのないような晴れやかな笑顔を浮かべたのだ。
「僕、人間が好きなんです。あなただって例外ではありませんよ」
4
結論から言えば、降谷の組み紐を身につけるようになってから赤井が『神域』に迷い込むことはなくなった。
降谷とはこれまで通り、顔を合わせれば仕事の話と世間話をする程度だ。神域の話も、降谷の本来の姿の話もしない。これが本来のあるべきだった関係に戻ったということなのだろう。
しかしあれからというもの、赤井は降谷と対峙する度に言葉に詰まることが増えてしまった。降谷の様子はこれまでと何ら変わりがないというのに、裏ではいずれ消えてしまうことが定められているなんて。降谷が狐であること自体はすんなり信じられたのに、彼が消えてしまうことに関しては到底信じられそうになかった。
——一度だけ、何か方法はないのかと尋ねたことがある。降谷が今後も存在するための、何かしらの方法が。
「うーん…信仰の対象となっていた僕のお社はもう無くなってしまったし、元々持っていた神通力を節約しながらこれまでやっていただけなんですよね。かと言って新しく神社や祠を建てようにも、維持する人がいなければ廃れていくだけですし…」
もう大した力は残っていないから、これ以上人間たちに何かしらの働きかけをすることもできない。新天地を探そうにも、土地神であるからこの地を離れることもできない。
「まあ僕としては長年追っていた組織を壊滅させたおかげで、米花町も多少は平和になりましたし。そもそも、ただの野良狐であった頃からずいぶん永いこと生かしてもらいました。僕以外にも神はいる…米花町も日本も、まだまだ大丈夫ですよ」
——そう言われて話が終わってしまい、赤井はまたもや何も言えなくなってしまった。
そうして数日が経ったある日の合同捜査会議。本来であれば出席しているはずの降谷の姿が見えず、気になった赤井は風見を捕まえて問いただした。
「降谷は体調不良で休みです」
「体調不良?」
「…それ以上のことは私は聞いていません」
相手は腐っても公安。風見は上司の情報開示について渋る様子を見せたが、赤井も素人ではない。情報を吐かせることには慣れている。説得し、圧をかけ、引き出した情報はそれだけだった。しばらく睨み合いが続いたが、風見の様子からすると本当にそれだけのようだった。
そう言えばちゃんと聞いたことがなかったが、風見は降谷の正体を知っているのだろうか。知らなければ体調不良の詳細も知らされないだろうが…。そもそも力の衰えによるものなのか、実際土地神は風邪を引くものなのか…。
結局降谷の様子が気になって仕事に集中できなくなった赤井は、早めに切り上げて降谷宅に様子を見に行くことを決めたのだった。
夕方。赤井はスーパーで降谷への見舞いの品を見繕うと、先日訪れたばかりの彼のマンションへと向かう。
『…はい』
前回とは違い、今回は勝手知ったる何とやらで敷地内に入りインターホンを鳴らすと、スピーカーから降谷の声がした。声の様子は思っていたより普通だったので、赤井は内心胸を撫で下ろした。
「俺だ。体調不良だと聞いたんでな…見舞いに来た」
『…赤井…? …心配はいりません。帰ってください』
「つれないじゃないか…せっかく見舞いの品を持ってきたのに。狐はいなり寿司が好きらしいと本で読んだんでな、買ってきたんだが…」
沈黙。
しばらくしてガチャリと鍵を開ける音がしたかと思えば、ほんのわずかだけ扉が開けられる。ちょうど降谷の姿は見えない。赤井が不審に思って中を覗き込もうとすると、扉の隙間から声がした。
「入るならさっさと入って扉を閉めてください」
そう言って扉が閉まりかけたので、赤井は慌てて扉に手をかけると彼の言う通りに音もなく身体を滑り込ませた。扉を閉めて顔を上げれば、降谷は少し離れたところに立っている…が、その姿はいつもの降谷ではなかった。頭には狐の耳、背後にはふわふわの尻尾が九本。赤井があの時『神域』で見た降谷の姿だったのだ。
降谷は険しい顔で腕を組み、仁王立ちしている。
「…何でこのタイミングで来るかな…見られたくなかったんですけど」
「ホォー…明るい所で見るのは初めてだな…。どうしたんだ? もしかして今、ここは『神域』なのかな…?」
「違いますよ。…ちょっと調子が悪くて、耳と尻尾が隠せないんです」
「…本当に体調不良だったのか」
「…最近忙しかったから…この間、悪霊を追い払うのに力を使ったりもしたし。人間に化けるのが上手くいかないだけです」
それよりも、と降谷が強い口調で続けるので、思わず赤井は身構える。
「いなり寿司、あるんですよね? 僕、腹が減りました」
早く出せ。
降谷の背後でそわそわと揺れる尻尾が目に入り、赤井は目を瞬いた。
「——本当に好物なのか、いなり寿司」
「いなり寿司と言うか、油揚げが…まあ。仕方ないでしょう、狐の性です。食べるとちょっとは力も出るし」
「それはよかった。もっと買ってくるか? その姿だと買い物もできないだろう」
「お気遣いなく。充分です」
見た目によらず大きい口の中に消えていくいなり寿司をしげしげと眺めながら、赤井は出された緑茶をすすった。咀嚼する度に頭上の耳がぴくぴくと動いている。どうやらお気に召してもらえたようだった。
「…ん。ごちそうさまでした」
「ああ…」
ぱん、と両手を合わせ、満足げに緑茶をすする降谷から赤井は目が離せなかった。耳は物音に合わせて動いているし、尻尾もゆらゆらとご機嫌に揺れている。前回この姿を見たのはごく短時間だったので、物珍しさもあって思わずまじまじと観察してしまう。
「…視線がうるさいんですけど」
「いや…そうだな、すまない。やはり珍しくてな…。綺麗な毛並みだ」
突然の賛辞に降谷が目を見開く。心からの感想だった。髪色と同じ金毛の耳と尻尾は、先に向かうにつれて色が薄くなっている。その毛並みはとても艶やかでふさふさだ。子どもの頃に買い与えられたハニーブラウンのテディベアを思い出すそれに触れてみたくてうずうずしているのだが、さすがにそれは失礼かと考える常識ぐらいは赤井も持ち合わせている。なので先ほどからずっと耐えてはいたものの、好奇心は隠せていなかったらしい。降谷が大袈裟なため息をついた。
「本当、あなたって意外と顔に出ますよね。潜入捜査官が聞いて呆れます」
「ム…」
「触りたいんでしょう。これ」
そう言って降谷が尻尾をひと振り。赤井はその様子を目で追いながらも正直に頷く。
「…いいでしょう。いなり寿司の礼です」
そして席を立った降谷が室内奥の畳の部屋へと向かうので、赤井もついていく。寝床から顔を上げるハロをひと撫でした降谷は、ベッドを背にして腰を下ろした。いつぞやみたいに顎をしゃくって隣を示すので、赤井は素直に従い隣に同じく腰を下ろした。
「どうぞ」
「…ふむ…。…では、遠慮なく」
そうして許可を得て触れた尻尾は想像以上にふわふわで、思わず両手で包み込むように毛並みに沿って撫で続ける。ちなみに尻尾がどのように生えているのかも気になり下半身にちらと視線をやってみたが、残念ながらふわふわに埋もれて確認はできなかった。
赤井の手が気持ちいいのかどうなのか、降谷は黙って目を閉じている。その横顔があまりにうつくしくて、赤井はまるで尊いものを見るかのように目を細めた。穏やかな時間だった。憎まれ、殴り合った頃からしてみれば想像もできないほどの穏やかなひと時。
ふと、胸の内から込み上げてくる愛しさに鼻の奥がツンとした。
そう、赤井はこの男を愛おしいと思ったのだ。日本を愛し、人間を愛し、その身を削りながら愛するもののために生きるこのうつくしい神さまが、赤井はどうしようもなく愛おしくなってしまった。だからこそいずれ来たる別れの瞬間が脳裏をよぎると、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
これまで赤井が経験してきた別れはいつだって突然で、悲しみに暮れる暇も与えられずただただ前に進むしかなかった。だからこそ、先に結末を知ってしまった今この瞬間が耐えられず、思わず失いたくないと叫びだしそうになってしまう。
手が止まった赤井を不思議に思った降谷が顔を向ければ、呆然とした様子の赤井がひと筋の涙を流していた。
「あっ…赤井!? なっ…どうしたんだ、おい!」
「あ…?」
赤井は己が泣いていることに気付かなかった。降谷に声をかけられて初めて頬に感じる冷たさに気付き、それを拭うべく目元を擦る。
「ああもう、そんな乱暴に擦るなって…あなたは目も大事なんだから…」
そう言って赤井の手を押しやり涙をそっと拭うその指先が想像以上にやさしくて、赤井はまたもや泣きたくなった。
「…降谷くん」
「ん?」
とにかく身体が先に動いた。ほんの少し顔を傾け、身を乗り出し降谷の唇を食むようにして唇を重ねた。この愛しさを、どうにかして伝えたかったのだ。
当然ながら降谷は驚き身じろぎもせず赤井の唇を受け入れていたが、離れていきそうになった瞬間に赤井の後頭部をしかと捕らえ、呼吸すら奪い尽くさんばかりに唇を強く押し付けた。角度を変え、繰り返し繰り返し柔らかな唇に喰らいつき、吐息を味わう。
やがてゆっくりと唇が離れた頃にはお互いに興奮から少し息が上がっていて、降谷は宥めるように赤井の頬に手を滑らせると親指の腹で涙の跡を拭うように撫でた。
「…降谷くん…いなくなるなんて、俺はいやだ」
「赤井…」
「酷いじゃないか、君ばかり何てことのないような顔をして、ここまで許しておきながら俺を置いていくと言うのか」
「……」
「俺は諦めないぞ。君にはここにいてもらわなければ困る…」
うん、と小さく答えた降谷が、赤井の身体をかき抱いた。
5
「僕のせいなんです」
降谷と赤井は、庁舎の屋上で風に吹かれながら眼下に広がる街を見下ろしていた。頭上には気持ちのよい青空が広がっている。
突然の告白を始めた降谷に、赤井は咥えていた煙草を指で挟んで唇から離し、細く煙を吐き出した。
「あなたが僕の『神域』に迷い込んでたの…」
「…ホー…?」
「『神隠し』って知ってます? あれ、僕らみたいな存在が気に入った人間を自分の神域に引き込んでいるんですよね」
「ああ…」
「僕…無意識の内に、あなたを自分の神域に呼び込んでたみたいだ」
それが意味するところを、察せない赤井ではなかった。
「ねえ、赤井…。僕、あなたが僕の存在を信じ、必要としてくれるなら…それだけで生きていけそうな気がします」
神さまは、人の想いによって存在し得るのだから。
「だから、もっと僕を必要としてください」
赤井は返事の代わりに目を閉じて、このうつくしい神さまに口付けをひとつ落としたのだった。
六
森の中で、一匹の狐が罠にかかって身動きが取れなくなっていた。
キュウキュウと切なげに鳴き続ける狐の頭上に、ふと影が落ちる。そこには黒髪の男がひとり、覗き込むようにして狐を見下ろしていた。
「…ホォー…罠にかかってしまったのか」
その男は着物の袖を押さえながら狐の傍らに腰を落とすと、小さな脚に絡まった縄を解いて狐を解放してやった。
「綺麗な毛並みの狐じゃないか。…もう引っかかるんじゃないぞ…」
自由になった狐は脚を引き摺りながらも慌てて男から距離を取る。男は追いかけて来なかった。
離れたところで振り返ってみれば、男は柔らかな笑みを浮かべて去っていく狐を見つめていた。
それは、降谷零の尾が九つに分かれる前——降谷がまだ、森に住むただの野良狐であった頃の話である。
〜終〜