第六夜 いつ建てられたのかも、誰が住んでいたのかも分からない、屋根裏部屋つきの大豪邸。その家は、このへんのガキの間じゃあ、幽霊の出るお化け屋敷として有名だった。カーテンの向こう側に動く人影が見えたとか、不気味な高笑いが聞こえたとか、夜中に二階の窓から明かりが漏れてたとか、この家にまつわる噂をあげたらキリがない。大人たちは「危ないから近づくな」なんて言うけれど、面白半分に忍び込む奴らは後をたたなかった。
そんな曰くつきの屋敷の前に、俺は今、たったひとりで立っている。無理やり肝試しに連れて行かれたってクラスメイトから頼まれて、そいつの落とし物を探しに来たのだ。なんでもそれは、大好きなアニメの、もう売ってないレアもののキーホルダーらしい。自分でとりに行けばいいじゃあねーかと言ったら「カリカリって何かを引っ掻くみたいな音が部屋の中から聞こえてきた、怖くてもう入りたくない」とべそをかいていた。
誰にも言ったことはねーけど、俺の夢は、この町を守るかっぴょいいおまわりさんになることだ。困ってる奴がいるなら助けてやりたい。とはいえ「今からとってきてやるよ」なぁんて大見得を切ることはなかったよなぁ。
迷っている間にも、太陽は西へ西へと傾いていく。ええい、ここでぐずぐずしてたって仕方ねぇ!せめて明るいうちに済ませちまおうと、俺はようやく覚悟を決めた。玄関は鍵がかかってて開かねぇらしいから、ぐるっと家の裏手に回る。庭に植えられた木の枝は延び放題で、ちょっとした森のように茂っていた。テラスに置かれた壊れかけの椅子とテーブルをよけて、裏口から忍び込む。床はところどころ腐りかかっていて、歩くたびにぎいぎいと気味の悪い音を立てた。まずは、ぼろぼろになったソファや棚が放りっぱなしの、多分リビングだったんだろーなって部屋を一周。そこから玄関ホールにたどり着いた俺は、上へとのびる階段を見上げた。ここまでで、頼まれたキーホルダーらしきものは見当たらない。確かアイツ、二階にも上がったって言ってたよな……。残る勇気を振り絞って、恐る恐る階段を登り始めたところで――。
「オイ!」
突然、頭の上から怒鳴り声が降ってきた。文字通り飛び上がるほど驚いた俺の足が、踏板の上でつるりと滑る。あ、と思ったがもう遅い。体がゆっくり倒れていき、視界がぐるりと回る。やってくるだろう痛みを想像してぎゅっと目を瞑った俺は、次の瞬間、誰かの腕にしっかりと抱きかかえられていた。
「危ねぇなぁ……ここで君に怪我でもされたら、もしかしなくとも僕の過失になっちまうじゃあないか。まったく勘弁してくれよ……」
ぶつぶつと文句をたれているその男は、とにかく変わった格好をしていた。横に流した髪の毛を、更にギザギザと尖ったヘアバンドで上げている。窓から差し込んだ陽の光を反射して、耳についた飾りがキラリと光った。どこもかしこも穴だらけの服は、小学校に上がる前に遊んでた、飛び出す海賊のおもちゃみてぇだ。おまけにびっくりするほど丈が短くて、なんと腹が丸見えになっている。そろそろ冬になるけど、寒くねぇのかなぁ。
きりっとした鋭い視線が、ほんの目と鼻の先にある。その緑色はまっすぐで、眩しくて、なのになぜか懐かしいような気がした。
こんな奴、一度見たら忘れられない。それくらい目立つはずなのに、街中で見かけた記憶がぜんぜんなかった。
「アンタ、誰?こんなとこでなにしてんスか?」
「それはこっちの台詞だよ」
そのまま一階へと降りた男は、俺の体をゆっくり床へ下ろす。そこで俺は、さっきまで薄暗かった部屋が、天井の照明で照らされていることに気がついた。あたりを見回してみると、薄汚れていた壁紙にはシミひとつなく、埃まみれだった床も、たった今磨いたばかりのようにつやつやとしている。
一体何が起こったんだ。首を傾げる俺に構わず、男は律儀に自己紹介を始める。
「僕の名前は岸辺露伴、漫画家だ。つい先程君から『こんなとこ』というお言葉を頂戴したこの場所は、れっきとした僕の家だ。一息ついていざペン入れを始めようってタイミングで、まさかこんなクソガキが入り込んでくるとはな」
「えーっと、つまり、俺がロハンの邪魔しちまったってこと?」
「早速呼び捨てとはいい度胸だ……ところで君、漫画は読むのか?」
素直に首を左右に振ったら、ロハンはものすごーく嫌な顔をする。あ、舌打ちまでしやがった。なんだよ、まるで俺が悪いことしたみてぇじゃあねーか。確かに、人ん家に勝手に入るっつーのは、あんまり褒められたハナシじゃあねーけどよぉ。
「ロハンが描いてるのって、その、どんなマンガなんスか?」
「君に話したところで、とても理解できるとは思えないが」
ため息をつきながら、それでもロハンは答えてくれる。
「一言でいえば『面白い』漫画だ。一度読み始めたら続きが気になって、きっとページをめくる手が止まらなくなる。例え相手が人生で一度も漫画を読んだことがないような、致命的にセンスが欠けている奴だったとしてもね。僕が描いているのは、そういう作品さ」
ロハンの言うことは半分も分からなかったけど、とにかく自信があるらしいってのは伝わった。が、それより俺が気になったのは。
「センスがねぇって、俺のこと?」
もしかして、俺がマンガ読まねぇって言ったから、怒ってんのかな。恐る恐る聞き返した俺を見て、ロハンは唇の端っこをほんの少しだけゆるめて、笑う。
「ガキのくせに気は回るようだな。安心しろ、君のことじゃあない。ほら、分かったらさっさと帰れ」
「……あ!待って、キーホルダー!」
「なに?」
でっかい手に両肩をがっしり掴まれて、ぐいぐいと力任せに玄関口へと追い立てられる。そこでようやくここに来た目的を思い出した俺は、慌てて事情を説明した。一通り話を聞いたロハンが、俺にその場で待っているよう言い残し、ひとり二階へと上がっていく。
やがて降りてきたロハンの手には、俺が言ったとおりのものが握られていた。
「仕事部屋の前の、廊下の隅に落ちてたよ。人の家で肝試しなんて馬鹿な真似は二度とするなって、そいつらによーく言っておけ」
「……はーい」
それってつまり、もう来るなってこと?つい聞きかけて、やめた。今ロハンが言ったのは肝試ししてた奴らに対してであって、俺じゃあない。要は勝手に忍び込むんじゃあなく、正々堂々玄関から入ればいいってことだ。ここは一つ黙って頷いておいて、また遊びに来てやろうっと。
とん、と優しく背中を押された。俺の足が、家の外に一歩踏み出す。
「またな、仗助」
「え」
あれ、俺、名前教えたっけ?驚いて振り返った俺の目の前で、バタンと勢いよく扉が閉まった。慌ててドアを開いた俺は、もう一度びっくりすることになる。たった今まで話してたロハンの姿は影も形もなくなって、おまけに部屋の中が不気味な廃墟に戻ってたからだ。まるで、一気に何十年も時間が経ったみてーに。
なんだか夢でもみたような気分で、来た道を辿る。あたりはもう真っ暗だった。おかしいな、家の中にいたときは、窓の向こうにまだ青い空が見えてた気がすんだけど。
そうして家に帰った俺は、待ち構えていたじいちゃんたちに嫌ってほど叱られた。なんと、夕方の鐘が鳴ってから三時間も過ぎていたらしい。どこにいたんだって何度も聞かれたが、そこは適当に誤魔化しておく。なんとなく、今日のことは俺だけの秘密にしておきたかったからだ。
その日の夜、風呂に入って夕飯を食べたあと。お仕置きとしてむこう一週間ゲーム禁止令を出された俺は、大人しく自分のベッドに潜り込む。暗くて静かな部屋の中で思い出すのは、やっぱりあの変な男のことだった。
皆の言うとおり、ロハンは幽霊なんだろうか?多分だけど、違うと思う。だって、あんなに嫌味で自信たっぷりの幽霊が、この世に、いやあの世に?いるわけねぇもんな。足もしっかり二本生えてたし。
なにより――俺を助けてくれたときの腕の中が、たまらなくあったかかった。ロハンはちゃんと、生きていた。
ドアが閉まる直前に見えた、さみしそうな笑顔が忘れられない。きっと今も、ロハンはマンガを描き続けているんだろう。あのひろーい家の中、ひとりぼっちで。そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられたように苦しくなる。
そろそろ眠たくなってきた。深い水の中に沈んでいくみたいにぼんやりしはじめた頭の中で、ロハンに言われた「またな」の声がこだまする。
きっといつか、また会える。そのことに泣きたくなるほどほっとしながら、俺はそっと目を閉じた。