第八夜 指定された時間ぴったりに、来客を告げる呼び鈴が鳴る。その訪いをリビングで待っていた僕は、口元まで持ち上げたティーカップをテーブルに置いた。飲み込みきれなかったため息を一つ溢したところで、急かすように二度目のチャイムが響く。重い腰をあげて玄関へと向かい、扉を開ける。はたしてそこには、僕に連絡をよこした張本人、空条承太郎の姿があった。
「久しぶりだな、先生」
「どうも、お元気そうでなによりです」
挨拶もそこそこに、目の端で素早くあたりを窺ってみる。が、僕の予想に反して、立っているのは承太郎一人だけだ。
「……すみません、確か、アイツも一緒だと聞いていた筈ですが」
「ああ、先に庭へ運ばせてある」
「運ばせた?」
「口で説明するより、見てもらった方がいい」
言うが早いか、承太郎は家の裏手に向かって歩きだす。相変わらず間合いが独特というか、淡白というか、どうにも心のうちが読みにくい男だ。
そうしてあとに続いた僕が見たものは、小ぶりの湯船ほどもある鉢に植えられた一本の若木だった。
新手のスタンド使いと交戦した際に、仗助が相手の「能力」をくらった。その後本体は捕らえたが、「能力」の効果が消えるまで、先生のところにおいてやってくれないか。受話器越しのやり取りが脳裏に蘇る。正直、なぜ僕に頼むんだ?という思いでいっぱいだったが、実際にこの目で見て納得した。「能力」に理解があり、かつ、それなりに大きい植木をぽんと置けるだけの広い庭を持っている人間となれば、おのずと候補が限られてもくる。
庭の真ん中に置かれたそれに近寄ると、風もないのに枝が揺れた。青々と茂る葉が擦れて、ささやき声のような音を立てる。
「これは……」
「本体の証言、加えて財団の調査結果によると、この姿になっても、人間としての意識は残ったままらしい。特に、顔見知りが近づくと――」
ちょうど目線の高さまで降りてきた小枝の先がぷくりとふくらみ、一つの蕾に変わった。ぽん、という軽い音をたてて咲いたのは、甘い香りを放つ白い花。茉莉花だ。思わず振り返った僕に、男は軽く顎を引いて肯定の意を示す。
「感情に合わせて反応する以外は、ごく普通の庭木と同じだ。悪いがしばらくの間、仗助を頼む」
最後にそう言い残して、承太郎は待たせていた財団の車に乗り込み、僕の家を後にした。
改めて、もとは仗助だというその木を眺める。樹皮や葉の形から察するに、おそらくは欅だろう。欅になぜ茉莉花が?と思わなくもないが、口にしたところで相手が答えてくれるわけもないので、そこは一旦置いておく。幹の太さは、ちょうど僕が片腕を回せる程度。先端が二階の窓にかかるくらいだから、高さは五メートルと少しといったところか。庭木の良し悪しを見定められるほどの知識はないが、枝ぶりもそう悪くないように思える。鉢に押し込められていかにも窮屈そうだが、まぁ、うっかりどこぞへ根付いてしまったら、能力が解けた時にどんな影響があるか知れたものではないからな。
「それにしても、本当に君は厄介ごとしか持ち込まないな」
さわさわと枝が揺れる。
「また一人で突っ走って無茶をしたんだろう。まったく懲りない男だよなぁ。おまけに、それでこうしてほうぼうに迷惑をかけてるってんだから世話はない」
さわさわさわと枝が揺れる。
「クソ、どうにも調子が狂うな」
お得意の減らず口はどうした。そう言ってやりたいが、そもそも口がないのだから仕方がない。
本日二度目のため息をついた僕の目の前に、小さな蕾をいくつもつけた枝が伸びてくる。いっせいに開いた花の名前はマーガレット。数えてみると、それはちょうど十五輪あった。
「……申し訳ないと思うなら、少しは自分の身を省みるんだな」
コミュニケーションに多少の難はあるものの、木になった仗助は、普段よりだいぶ素直に感情を表しているように思えた。本音を取り繕うための、厚い面の皮がないせいかもしれない。
「承太郎さんから連絡をもらった時に、簡単な経緯は聞いたよ。戦いに巻き込まれかけた財団員を庇って、かわりに君がやられちまったそうだな?自分の『能力』がなんなのか、まさか忘れた訳じゃあないだろう。少しは冷静に物事を考えろ。他の誰が傷を負ったとしても、君さえ無事ならいくらだって」
ざわり。
そこで、ひときわ大きく枝が揺れた。ぴんと姿勢よく伸びた樹幹がゆっくりと、かがみ込むように曲がりはじめる。視界を埋め尽くす葉は、まるで無数の手のひらのようだ。押し寄せる激しい葉擦れの音は、抑えきれない怒りそのもの。
「――もし、お前が元の姿に戻れなかったら」
目と鼻の先まで迫った頂の枝が動きを止める。
「お前に助けられた財団員は、この先一生、自責と後悔に溺れる夜を過ごすことになるだろうが」
ぴしりと乾いた音が響く。限界まで曲げ伸ばされた樹皮が、耐えきれずに裂けたのだ。
「なぁ仗助。それは本当に、誰かを『守った』ことになるのか?」
潮が引くように、薄暗かった視界が開ける。離れていく枝の先は小刻みに震えていた。
「ま、これに懲りたら、これからは動く前に考えることだな」
しおたれている枝を捕まえて、その葉の一枚に触れるだけの軽い口付けを落とす。もしここが御伽話の世界で、僕たちがどこぞの国の王子と姫君であったなら、ただちに呪いが解けて元の姿に戻るところだが――いくら世界的に有名とはいえ僕は漫画家で、相手はただの、どこにでもいる、ごく普通の甘ったれたガキである。たかがキス一つで、そんな都合のいい奇跡が起こる筈もない。
とはいえ、クソッタレの機嫌を上向かせる程度の効果はあった。のびのびと大きく広げられた枝いっぱいに、様々な花が咲いては散り、また花開く。色鮮やかな花びらが、僕の頭へ、肩へ、とめどなく降り注いだ。白のアザレア、ブルースター、赤のアネモネ。
「ああもう分かった、分かったから少し落ち着け、傷に障るだろう」
ひび割れてしまった幹を撫でてやる。固い樹皮の下に覗く白い木肌からは、青く苦く、真っすぐで清しい香りがした。あまり深手には見えないが、なんらかの処置が必要だろうか。そんなことを考えているうちに、いつの間にか花の雨は止んでいた。と、ぱさりという軽い音をたてて、足元へ落ちてきたものがある。黄緑の小さな実と、先の丸い、長細い葉を持つそれは。
「ヤドリギの、枝……」
この色ボケのスカタンめ、ちょっと甘い顔をすればすぐこれだ。呆れて見上げた木の頂点から、続けて赤く染まった葉が一枚舞い落ちる。照れるくらいなら初めから言うなよと思いながらも、請われるままに、僕は傷口へと唇を寄せた。