これは夢の話ですが ずいぶんと長い間、夢を見ていたような気がした。
瞼を開けると、視界一面に白地のタイル張りの天井が広がる。バイク事故に巻き込まれて足の骨を折った俺が、ここぶどうヶ丘総合病院に担ぎ込まれて早五日。白で埋め尽くされた味気ないインテリアにもそろそろ慣れていい頃合いだとは思うが、目を覚ますたび、ほんの一瞬だけここがどこだか分からなくなる。
それにしても、目覚めたときから不思議と気分がいい。叶うことならもうちこっとだけ眠っていたかった気もするが、仕方ねぇ、差し入れの雑誌でも読んで時間を潰すか。そうしてのろのろと体を起こした俺が目にしたのは、ベッド脇のパイプ椅子に体を預けたまま、健やかな寝息を立てている想い人の姿だった。
「ろ……ッ!」
慌てて右手で口を覆うも、時すでに遅し。抑えきれなかった悲鳴が、静かな病室に思いのほか響いた。固唾を飲んで見守る俺の目の前で、男の瞼がゆっくりと瞬く。
「あー、その、オハヨーゴザイマス……?」
「しまったな。僕としたことが、こんなところで居眠りなんて」
俺の片想いの相手――岸辺露伴は、いかにも高そうな腕時計の盤面を眺めて「畜生、一時間も経ってるじゃあないか」などとブツブツ文句を言っている。よく見ると、男の目の下にはうっすらと淡い影ができていた。もしかして、寝不足か?珍しいこともあるもんだ。いつだって最高のコンディションで漫画を描くために、日々健康管理に余念がないこの男が。
「なんつーか、その、だいぶお疲れみてぇっスね……?」
俺が気遣いのつもりでかけた一言に、男がガバリと顔を上げた。
「『お疲れ』だって?ああそうさ、確かに君の言うとおり、今の僕はとても疲れている。絶望的に間の悪い誰かさんのおかげで、ここのところ馬鹿みたいに夢見が悪くて困ってるからな」
放たれるセリフの一つ一つに、細い針のような鋭い苛立ちがたっぷり込められている。これが怪我人にかける言葉かと思わないでもないが、俺も俺で、心当たりはありすぎるほどにあった。なぜなら――俺が事故に遭ったのは、この男へありったけの想いを打ち明けたあとの、まさに帰り道でのことだったからだ。
信号が赤に切り替わった交差点、転がるボールを追って飛び出す子供、真っ直ぐに突っ込んでくるバイク、通行人の悲鳴。見て見ぬふりなんてできるわけがなかった。子供を背に庇った俺は、ひとまず「能力」で車体をバラバラに分解する。いつかの俺がやったみてぇに、素知らぬ顔で元通りに出来ればなおよかったんだが、今回ばかりは人の目が多すぎた。まぁいいか、空中に投げ出された運転手の体は、俺がこの手で受け止めれば――なんて、甘い見通しが裏目に出た。なんだっけ、いわゆるカンセーのホーソクってヤツ?要するに、勢いよく放り出された人一人の体は、俺の想像以上にインパクトがあった。しまったと思った時にはもう遅かった。バランスを崩した俺の体は、なすすべもなく道端の縁石の上に叩きつけられる。結果、子供もライダーもかすり傷ひとつないっていうのに、なぜか俺一人だけが救急車で運ばれるというチグハグな状況が生まれたってわけだ。おふくろには嫌ってほど叱られたし、億泰と康一には笑われるやら呆れられるやらで、全く散々だった。
ひとまず愛想笑いで場を持たせようと試みるが、露伴は相変わらず仏頂面のままだ。二人の間に漂う沈黙が気まずくてたまらない。
「あの、すんません、なんか心配かけちまったみてーで……」
「別に僕は心配なんかしていない」
「そ、そーっスか……ちなみに、今日はなんで来てくれたんスか?康一に誘われたとか?」
「海外でもないのに時差ボケか?平日の昼間だぞ。彼は君とは違うんだ、授業をフケるなんて不真面目な真似をするはずないだろう」
当たり障りのない世間話がしたいだけなのに、露伴の声はどんどん頑なになっていく。
「えーっと、じゃあ、まさかとは思うんスけど、こないだの返事をくれるつもり、とか……?」
「おかしいな、怪我をしたのは足だけだと聞いていたんだが、ひょっとして頭も打ったんじゃあないのか?ものはついでだ、もう一度すみずみまでしっかり検査してもらったほうがいいぜ」
勇気を出して口にした自惚れを、あっさり鼻で笑われていよいよ凹む。そんな俺をよそに、露伴は椅子から立ち上がると、テキパキと帰り支度をはじめた。せっかく二人きりで会えたんだ、もう少しだけ時間がほしい。寝起きの頭を必死に捏ね回したところで、ふと気になったことを聞いてみる。
「……ところで、アンタの夢見の悪さって、マジで俺が原因なんスか?」
「ああそうだよ、さっきそう言っただろう」
「だったらよぉ、アンタの言うその悪い夢っての、ちこっとだけ俺に聞かしてくれよ」
「ハァ〜?なんで僕が、そんな個人的なことをわざわざ君に話さなきゃならないんだ」
「お前のせいで体調崩したなんて人聞きの悪ぃこと言われちまったら、こっちだって黙ってるワケにいかねーだろ。そんだけきっぱり言い切るからには、ちゃんとあるんだよな?確かな理由ってやつがよぉ」
男の片眉がぴくりと跳ねた。よし、ここまで挑発してやれば、絶対に嫌とは言わねぇはずだ。なんせこの男は、筋金入りの負けず嫌いだからな。
しばらくの間、露伴はまるで機嫌の悪い猫みたいな唸り声をあげていた。が、やがてガタンと荒々しい音を立てて椅子に座り直すと、俺の鼻先へビシッと人差し指を突きつける。
「いいか?僕がこの話を君に聞かせるのは、僕の不眠が確かに君のせいだと証明するためであって、それ以上でも以下でも、ましてや他意もない。その色ボケした頭に、これだけはしっかり叩き込んでおけ、分かったか」
「ハイハイちゃんと分かってますって。ほら、それで?一体どんな夢だったんスか?」
引き止めるための方便とはいえ、好きな奴の見た夢がどんなものか気になっていたのも確かだ。どうしたって声は弾む。
ため息を一つこぼして、男がその唇をゆっくりと開く。
「これは、僕が見た夢の話だが――」