星屑と嘘つき 星を見に行こうと誘ったのは、気まぐれだった。世界に取り残されたように佇む男が気にくわなかったのかもしれない。ユリウス・ユークリウス。紫の髪に金の瞳。息を飲むほど美しい容姿を持つ男。だが、騎士としての実力は本物で『最優の騎士』と呼ばれる存在だ。――その『最優の騎士』を覚えているのは、今では俺しかしないのだが。
「ユリウス」と声をかけると酷く動揺していたのを覚えている。星のように美しい瞳が、零れてしまうと錯覚するほどに大きく開かれた。
「スバル……」
ユリウスの声は少し震えていた。薄い唇を噛み締める姿は何かを必死に耐えているようで痛々しい。
「星、見に行かないか」
「……星? なぜ、星を眺める必要がある?」
ユリウスの声のトーンが落ちる。揺れた瞳に影が差した。ユリウスが俺に期待していた言葉は違っていたようだ。だが、今の俺にかけられる言葉はこれしかない。肩を竦め、重苦しい息を吐き出した。
「別に、ただ俺が星が好きだから。今日は雲が無いから星が綺麗に見れる。気分転換に付き合えよ」
ユリウスは困惑しながらも頷いた。顔の強ばりが少し取れたのは気のせいだろうか。俺は視線で合図を送ると、丘の方向へと歩を進めた。ユリウスも俺の後を一拍遅れてついてくる。目指すはあの小さな丘。星との距離が少しだけ近づくあの場所だ。
そこは町外れの森のにあるぽっかりと空いた空間。緩やかに盛り上がる丘の頂点に、堂々と根を生やす1本の木。町を散策中に偶然、目に入ったその場所に俺の心は躍った。幼い頃、父と星を眺めに訪れていた丘に似ていたのだ。
『昴』が見たいと父にせがんだのは何時のことだったろうか。きっかけは――そう、自分の名の由来を父から教えてもらったから。『統べる』が転じて生まれた『昴』の名を、父は俺に名付けた。だが幼い俺にそんな言葉がわかるはずもない。だから父が話したのは一言だけ。
「お前の名はあの星から取ったんだ」
父は夜空を指さし微笑む。その言葉が俺の中にひとつの星を宿した。朧気でまだ形のない星は自分だけが見える大切なもの。心を燻り続けるそれはまるで命のように輝き出した。この時から俺の中で星が特別なものとなった。あの雄大な星物語に自分の存在が影を落としたように感じたのだ。
「そのほしはどこにあるの?」
見上げた先には満天の星。無数に輝く星の中から自分の星を探した。しかし、必死で目を凝らすも見つけられない。 空に輝く星は粒の大きさや光の強さが異なっているが、当時のには同じように見えた。
「みつけられない」
父の服の裾を掴み、唇を噛み締め見上げる。父が指した星は恐らく『昴』では無かったのだろう。少し困ったように眉を下げる父を覚えている。
「ここで『昴』を見つけるのは難しいだろうなぁ」
「とうちゃん。おれ『すばる』みたい」
父の少し困ったような、だがどことなく嬉しそうな表情が瞳に映る。「仕方がないなぁ」口では言いながらも父の表情は柔らかかった。
「父ちゃんが取っておきの場所を見つけてくる。だから、それまで少し待っていてくれ」
父が俺の髪くしゃくしゃに乱す。力強い手に俺の心は躍ったのだった。
数日後、その俺の期待は崩れ去る。目の前に見えるのは長く続く斜面。視界の端に心配そう振り返る父の姿があった。息を切らしながら視線で父に訴えるも、俺の元へは来ない。足はがくがくと震え、冷えきった息が肺と喉を往復する。幼い俺の足は動かなかった。
始めは父におぶられてこの丘を登ってきたのだが、途中で父に自分で歩くと宣言したのだ。収まらない好奇心が俺を掻き立てたのである。早く『昴』がみたい。純粋で子供らしい欲求だった。しかし、思った以上に長く険しい道は容赦なく幼い俺の体力を奪う。耐えきれず、ついには父に弱音を吐いてしまった。
「とう、ちゃん……もう、おれ、あるけない」
父は足先をほんの少し俺へ向けたが、それ以上は近づかなかった。そして、腰を落とすと 口の周りを手で覆い叫ぶ。
「すばるーもう少しだー! がんばれー!」
俺は頑張った。頑張ったのになぜ、助けてくれない。自分が歩くと宣言したのを棚にあげ、一人、愚痴る。父は一度決めたら覆さない人だということを幼いながらにも理解していた。震える足をどうにか曲げて、下ろす。半ば八つ当たりのように地面を蹴った。頂上についたら父に文句を言うのだと意気込んで。
額から流れた汗が服を濡らす。聞こえる音は父の声と自分の呼吸音だけ。暫くしてようやく父の顔が鮮明に写る。俺は父を睨みながら足を丘の頂へとあげた。文句を言おうとした口からは咳しかでない。げほげほと、前屈みになり咳き込んだ。父が「頑張った」と背を擦りながら褒めてくれたが、俺の気は晴れなかった。愚痴をこぼそうと顔をあげると、俺とは反対に楽しげな父と視線が合った。
「昴、見てみろ。綺麗だぞ」
父が指は遥か遠くの空を指す。言葉を紡ぎかけた口は、開いたまま閉じることはなかった。 ――視界いっぱいに広がる美しい夜空。紫から黒へと広がるグラデーション。その周りを赤や黄、青の様々な星が舞っている。今まで見た夜空とは比べ物にならないほど美しかった。幾度も瞬きを繰り返す星の光はまるで生きているようだ。思わず、感嘆の息を吐く。先程まで感じていたはずの疲れは無かったように消えていった。
「とうちゃん、『すばる』は?」
視線を空に向けたまま尋ねると父が俺の手を引いていく。たどり着いた先には聳え立つ1本の木があった。丘の上から見える町の光は遠く、丘には星と月の光しか届いていない。
父は丘の中心へ足を運ぶと俺の目線に合わせ膝をつく。そして、指を空へ向けた。その指先に明るい星が見える。大小異なる大きさの星が一カ所にまとまっていた。
「あれが、『昴』だ。綺麗だろう?」
父の言葉に俺は何度も頷いた。あれが、『昴』。他の星よりも大きく美しく見える星々。俺は誇らしげに胸を張った。
「すばる、あのなかでいちばんきれいだ」
「そうだな。お前の星が一番だ」
父は俺の髪をくしゃくしゃに乱しながら笑う。それが、嬉しくて誇らしげで、恥ずかしい。俺が振り払うように頭を振ると、父の手は離れていった。
「昴、星の下では嘘をついてはいけないぞ」
「なんで?」
「星はいつでもお前を見ているからだ」
父はもう一度空を見上げる。何時になく真剣な父を俺は見つめていた。父は何故そう言ったのだろうか。もしかしたら思いつきで言ったのかもしれないし、もしかしたら俺に忠告をしていたのかもしれない。今になっては父に尋ねることすらできないが。
昔は登ることさえ苦労した丘も、今では息すら上がらない。あの場所とは異なっているから正確には比較はできないが、俺にはそう感じた。この丘は俺が登った丘と異なっているのに、過去の記憶が呼び起こされる。あの頂きに父の幻影が揺れた。
俺の後ろに着いてくる男は一言も話さず、黙々と歩いていた。しんとした森は暗く、視界の多くが黒く染まっている。新月であることも影響しているのだろう。星の光だけでは森を照らすことはできない。だが、不思議と恐怖はなった。今は星が守ってくれている。加護があるわけでもないのに何故かそう確信していた。
数分登ったところでようやく丘の頂に到着する。張り巡らせるように生えていた木々の姿は消え、一面に草原が広がっていた。星明かりを反射する葉が波のように揺れている。
「ここで、星を眺めるのか?」
「いや、あの木の下で見た方が綺麗だ」
俺は丘の頂に聳え立つ1本の木を指さした。あそこまで行けば視界を遮るものもなく、空全体を見渡すことができる。俺が一歩踏み出すとユリウスは数秒遅れてついてきた。この丘は本当に『何も無い』。街の明かりも空を濁す気体も、月の光さえも。まるで星を眺めるためだけに用意されているようだ。
俺が足を止め、空を仰ぐとユリウスもつられて視線をあげる。そこには美しい星屑が広がっていた。漆黒の空の中に散りばめられた金の屑。幾度も瞬きを繰り返す彼らに俺は肺に溜め込んだ息を吐き出した。恐らくこの国が建国される前から、この星は世界を見守っていたのだろう。しかし、この国の人々は星を眺める習慣がないらしい。昔、エミリアに星を眺めようと誘うと不思議そうに首をかしげたのを覚えている。だからだろうか、俺が知るような星物語はルグニカには存在しなかった。
ユリウスも星に興味を抱いたことが無いのだろう。ただ、意味も無く星を見上げ瞳に星を反射させる。その瞳は空虚で少し腹立たしかった。こんなにも美しい星空なのに。俺は少しユリウスに体を傾けると内緒話のように耳元で囁いた。
「お前だけに特別に教えてやるよ。俺の名は星から取ったんだ」
「星から?」
「そう、『昴』っていうのは俺の故郷では星の名なんだ」
途端、ユリウスの瞳が輝きだす。ようやく星に興味を持ったのだろうか。必死に目を凝らしながら満天の星を 眺めていた。
「君の星は何処に?」
「……ここにはない」
なぜ、とユリウスは問うことは無かった。ただ、小さく「そうか」と呟く。落胆しているかと思ったが、何故かユリウスは安堵しているように見えた。
「君は……」
「なんだよ」
「いや……忘れてくれ」
ユリウスは弱々しく首を振った。いつにないユリウスの様子に俺は口をつぐむ。やはり、ユリウスの心中は複雑なのだろう。プレアデスに向かってまだ1日目だ。皆が『ユリウス』を知らない状況での旅は苦痛だったに違いない。
しかし、俺が何を言ったところで状況は変わらない。慰めの言葉はこの男は望んでいないし、俺自身も掛けるつもりも無かった。でも、『何か』したかった。この男を唯一覚えている人間として。これはただのエゴなのかもしれないが。
「……今、星が」
ふと、ユリウスが目を見開きながら呟いた。ユリウスの目線の空を眺めるが、特に変わった様子はない。夜空から一瞬にして現れ消えるもの。それは――
「流れ星、か?」
「流れ星?」
「お前、知らねえのかよ。流星だよ流星。まれに見られるんだよ」
ユリウスは俺の言葉を受け、興味深そうに星空を見つめる。だが、星は一定の位置で瞬いており、動く様子は無かった。流れ星は流星群でも無い限り、再び見るのは難しい。俺はこの世界の星に詳しくは無いが、恐らく今日はもう流れ星は見ることはできないだろう。
「もったいねえな。流れ星は願いが叶うっていうのに」
「願い……?」
「流れ星が消える前に願い事を3回言うんだ。そうすると願いが叶う」
「……あの速度では不可能ではないか?」
「やってもいないのに言うんじゃねえよ。ま、お前には無理かもな」
ふん、と鼻を鳴らし腰に手を当てると、ユリウスの訝しげな視線が伝わってくる。
「君にも不可能のはずだ」
「短い願いだったらいけるっつうの。例えば「金持ちになりたい」とかな」
「君が金銭に余裕がないとは。エミリア様もさぞかし苦労されていることだろう」
「例えばって言っただろうが!」
ユリウスの声が柔らかなものになる。どうやらようやく調子を取り戻したらしい。
「で、お前の願い事はなんだよ。俺も願うの協力してやっていいぜ。あ、でもエミリアたんの嫁にしたいっていうのは許さねえからな」
「……」
いつものようにおどけて見せるが、ユリウスは言葉を発しなかった。際ほど朗らかになった空気は一変し、重々しくなる。
俺は耐えきれず空へ向けていた視線を下ろした。すると、暗い草原の中の星が灯る。二つの金の星は真っ直ぐに俺を捉えており、逸らすことがさえ許されない。瞬きに映るのは緊張した面持ちの男。目の前の美丈夫の表情に影響され、顔の筋肉が強ばってしまう。男は寂しげに目を細めると薄い唇を開いた。
「私の願いは叶わない」
淡々と告げられた言葉は俺を無理矢理遠ざけているようだった。拒絶されたような感覚に苛立ちがこみ上げてくる。
「まだわからねえだろ。最初から決めつけるな」
「いや、始めから結果は見えている」
「お前らしくないこと言うんじゃねえよ」
「――君に私の何がわかる」
それは否定だった。ユリウスにしては珍しい強い否定。そして、それは事実だ。俺が知る『ユリウス・ユークリウス』本当に一部だけなのだろう。俺はユリウスを理解することはできていない。だが――
「それでも、俺は『お前』を知っている」
ユリウスが弾けたように俺を見据えた。その瞳に今まで見たことないような感情が映る。
「――君は何も知らない。私が騎士として歩んできた道も、その誉も。そして――私の感情も。君は理解していたのか。私が君に浅ましい感情を抱いていることを」
静かな声なのに、突き刺さるようだった。苦痛に顔を歪めるユリウスはそれでもなお、言葉を繋げた。
「私は君に好意を抱いている。異性に向けるような欲と共に」
まるで懺悔のようだった。神に許しを得るようにユリウスは頭を下げる。瞳を片手で覆い、絶されるのを待ち構えているようだった。確かに俺はユリウスに恋愛感情を抱いたことなどない。男という時点で対象すら無かった。ユリウスはそれを理解した上で俺に告げてきたのだろう。正直、この告白を受けた今もユリウスに対して特別な感情を抱くことはなかった。
このまま俺が何も発しなければユリウスはそれを受け入れるだろう。そのままこの告白は無かったことにされる。
だが、俺は世界に否定される苦しさを知っていた。拒絶されることの孤独を知っていた。誰よりもこの男を理解できるのは俺だけで、答えることができるのも俺だけだった。だから――
「……俺も、お前が好きだユリウス」
気がつけば、俺は嘘を吐いていた。星空の下で残酷な嘘を。
2 偽りの恋人
遠くから音が聞こえる。輪郭がぼやけ形が見えないそれは、ただの音として俺の鼓膜を響かせた。
「×××」
耳を済ませるとそれはどうやら声のようだ。低くも張りのある美しい声は、俺の鼓膜を幾度も揺らした。だが、その形まではわからない。まるで旋律のように聞こえる優しい響きは、愛を詠っているようだった。
「……ル」
少しずつ、少しずつ鮮明になっていく声。聞き覚えのあるこれは何の言葉だっただろうか。
「スバル」
ようやく理解した言葉に俺は目を見開いた。視界いっぱい広がる紫に俺の思考は停止する。男は俺が目覚めたことに気がつくと目尻を下げた。「おはよう、スバル」と笑いかける男は俺がよく知る人物だ。腹が立つほど整った容姿と、優雅な仕草。そう、この男はユリウス・ユークリウスだった。
「……ユリウス?」
「目覚めは如何かなスバル。紅茶を淹れよう。君はまだ微睡みから抜け出せないようだ」
ユリウスは腰かけていた椅子から立ち上がると、部屋の隅にあるテーブルへと向かう。俺が目覚めるのを待っていたのだろうか。ユリウスは用意していたのであろうティーセットを手にしている。
いつもと異なる柔らかな雰囲気に俺は瞳を瞬いた。ユリウスと共に旅に出掛けて数日経つが、こんな風に俺に気遣う男ではなかったはずだ。寝惚け眼を擦りながら俺は上体を起こす。ここは昨日と同じ宿の部屋だ。町にある民宿でそれなりに設備は整っている。心地よく睡眠がとれたのもここの環境が良かったからだろう。男女で別れるということで必然的にユリウスと同室になったのだが――
「冷めないうちに」
俺の目の前にユリウスが紅茶を差し出してくる。反射的にそれを受け取り「ありがとう」と小さく礼を述べた。ただ、それだけのことでユリウスの表情が綻ぶ。その幸せそうな笑みに罪悪感がつもっていった。
――思い出した。俺は昨日この男と『恋人』になったのだ。昨日のあの告白劇を思い出し、頬が強ばる。今、俺はこの男を騙しているのだ。
「スバル……? どうかしたのか?」
「いや、なんでもねぇよ」
問いかけてきたユリウスに首を振り、紅茶を口に含んだ。茶葉の香りと苦味が口内に充満する。その苦味はまるで俺を責めているかのように張り付いていた。