香り ある日、グルメ界の総本部に一人の老人が訪れた。
従者を伴わずにどうやってこの魔境まで足を運んだのか、さざめく波のように構成員たちは驚嘆の声をあげるが、ぴんと伸びた隙のない背筋ほど雄弁なものもない。
黒のハットにタキシード、宝石のように輝くスネークウッドの杖。晴れた雪原を思わせるホワイトヘア、ブルーの瞳。
薄く微笑みを浮かべたその老人は、調香師なのだと柔らかに言った。
「まだ生きていたか、しぶといな」
「あなたのための香りを拵えておりますと、どうにも血肉が踊るのです。グルメ細胞とは実に厄介ですな、死に時を失う」
「お前は殺しても死ななそうだがな」
「あなたの終わりには付き合いますとも」
「どうだか」
三虎様の前に恐れることなく立ち、軽口すら叩いて見せた調香師は右手に下げた黒のバッグから二つ、香水瓶を取り出した。
ひとつはアール・デコ調の美しいエメラルドのボトル。
ひとつは、シンプルで温かみのある、すりガラスのちいさなボトル。
「こちらはわたくしが敬愛してやまないあなたへ。お強く、昏く、深く……そして静謐を纏う香りにございます」
アトマイザーからムエットに吹き付けて二、三度振る。こちらまで漂ってきたトップノートはシトラスを中心に組まれているようだった。それでも爽やかさは感じない。冷淡でどこか乾いた香りが、音もなく流れて消えていく。
ムエットを持つ黒い背中は三虎様の間合いへ、そして懐へ入り込んだ。それをかの調香師は許されている。
玉座の前、足元に跪いて差し出したそれを大きな手がそろりと取って香りを聞いた。表情は変わらないが、ムエットに書かれた香調に視線を向けたところを見るに、好ましかったのだろう。
「悪くない」
「ありがとうございます。こちら、食事以外のどんな場面にもお使いいただけるよう調香いたしました。こうして玉座にあられるときも、どなたかとの会合も、ナイトフレグランスにしていただいてもよいでしょう」
食事以外?
片眉を跳ね上げ、視線をムエットから調香師に移した三虎様と同様疑問を覚える。ここ数年、三虎様の食欲は増すばかりだ。常に何かを口にしている姿を思えば、食事に向かない香りなど使い所は無いだろう。
何故、あえて使われない香水を作ったのか。
「ふふ」
瞬間、ぞくりと背筋が冷える。
殺気とも害意とも違うなにか。執念と、情熱と、狂気が地の底で泥濘となったような、そんな圧が調香師の背から滲んでいる。
「これはあなたの、虚、でございます」
完璧な笑みが仄暗い歓喜に歪み、口角が吊り上がっていくのを見てとうとう冷や汗が顎を伝った。
死の予感でも何でもない、ただひとりの人間の情に畏れを抱いたのはいつぶりか。
「……表現者は皆こうなのか?」
「さて、他のことは知りません。わたくしはわたくしの思うままにあるのみにて」
「ああもういい、次は」
肩をすくめた三虎様はムエットをアルファロへ渡し、次を催促した。
「では、どうぞ」
「……!」
ぶわり、三虎様の髪が翻る。
ムエットが握りつぶされる。ぎちぎちと拳を握る音がする。アルファロですら半歩下がる程の気迫。
「……貴様」
「オーデサントゥールにございます。ごくうすくかおり、一時間ほどで香りが飛ぶものですから、お食事の邪魔にはなりませぬよ」
「これを、食事に使えと?」
ビリビリと痛いほどに空気が震えても、調香師は決して揺るがない。
「これはわたくしが愛した、あなたのゆめ」
ムエットをくしゃくしゃに握りつぶした手を解き、調香師はすりガラスの丸いボトルをその手に置いた。無惨に砕かれるかと思ったまろく繊細な輪郭は、柔らかに握られるに留まった。
「そこまで許した覚えはない」
「許しを請うた覚えもございませんな」
「これは要らん。もう帰れ」
「いいえ、置いて帰ります。わたくしの愛はいつだって独善だと、知っていておまかせしてくださっているのはあなたです」
「……」
「それでは、わたくしはこれで」
調香師は恭しく一礼してタキシードの裾を翻し、ひとり本部の廊下を歩いて帰った。
去り行く黒のシルクを睨みつける三虎様の手に握られた、ちいさなちいさな香水瓶は結局その後も形を保ち続けた。
黒を基調にした三虎様の私室、ダークトーンの香水瓶が並ぶ棚から少し離れたところ。その白は静かに、確かに存在した。
調理場にこもってばかりの私はその香りを聞くことはなかったが、側付きのアルファロですらつけているのか気付けなかったと言う、ささやかな香り。
長い食事の時間に反し、たった一時間しか香らぬ夢うつつ。調香師が愛したという三虎様のゆめ。
どんな香りだったのだろう。
「スター、やる」
ひょいと投げられたそれを受け止めると、手にはいつかに見たエメラルドが輝いていた。
海山の底、耳に懐かしい波濤の音が常にひびく終の地にに、まさかこのエメラルドが連れられてきているとは思っていなかった。半分ほど使われたそれは、波のようにゆらゆらと煌めいている。
「良いので」
「構わん」
「では、ありがたく頂戴します」
体温を下げ、そっとボトルを握った。アルコールは油断すると揮発する。指の隙間からきらきら輝く黄金の装飾は、これまで見上げ続けた三虎様の姿に似ていた。
「あれは私の虚だと言ったが、お前の気品にも近い」
「、恐悦至極に、ございます」
「それから……」
今度は投げられることなく、そっと別の香水瓶を手渡された。
「これ、は」
あの白だ。
こちらはすでに空で、液体が揺れる感覚はない。海山の頂上からわずかに指す陽の光を受けて、暖かな橙に薄く染まる様は卵のようであり、繭のようでもあった。
三虎様の表情は逆光になって伺えない。まっすぐこちらを見据えているのか、微笑んでいるのか、私からは伺えない。
「好きにしろ」