先程から警報機が鳴り響くanathemaの薄暗い廊下を、ボクを抱えたアズールが息を切らせながら走っていた。何度も身を隠しながらやり過ごし、どうにか出口がないかと彷徨う。赤いライトの色に染まる廊下は、まるで地獄へとつながる一本道にしか見えない。
「クソッ! 最悪だッ!!」叫ぶアズールの悪態も、警報機のサイレンでかき消されほとんど聞こえない。
アズールの頬を滑る汗が滴り、抱き上げたボクや、ボクの胸元に乗ったボクたちの子の上にポトポトと落ちる。これだけでアズールがどれほど必死に、ボクたちを助けようとしてくれているのかが分かる、がボクには、余計アズールの気持ちがわからなくなっていた。
ボクの呪に巻き込まれただけのアズールが、どうしてここまでしてボクを助けようとしてくれるのか……?
いつもの彼なら、契約のひとつでも取り付けただろうし、助かる見込みのない逃走など、きっと頼まれたって断ったはずだ。それにボクだって、巻き込んだ彼がボクを見捨てても決してキミを恨んだりしなかった。
けれど思い返せば、嘆きの島でイデア先輩とオルトと対峙し、雷霆の槍に全魔力を注ぎ倒れた際も、助けてと言葉に出さなくても、アズールは契約なんかしなくとも意識を失ったボクを助けてくれたじゃないか……
アズールが人魚の本能で危機を察知し、物陰に身を潜めると、銃を持った警備員の足音が廊下に響く。
「いたか!?」「いや、ここからは簡単に逃げられないはずだ」「手の空いてるやつにも声を掛けて探させろ!!」
バタバタと通りすぎる足音が遠ざかると、ほんの少しアズールの警戒が緩み、詰めた息を吐いた。
数十秒の休憩を挟み、アズールがボクを抱えて立ち上がる。そんな彼に向かって出たボクの言葉は、「どうして?」のかすれた一言だけだ。
ボクの切れ切れの声に、アズールが苦虫を噛んだ表情をちらりと向けた。
「そんなの、僕の方が分からない……このままだと、あいつらに殺されて、僕達だって薄くスライスされてどんな風に実験されるかなんて分かったもんじゃない……家族や学園には、解呪に失敗した事故とでも言えばどうとでも揉み消せますからね」
そこまで分かっているからこそ、どうしてなのか分からない。
言葉を発する力さえないぐったりしたボクの顔を見て、アズールが舌打ちする。それほど医療の知識がないアズールですら、今のボクの容態は危険なようだ。
「リドルさん僕にはね、叶えた夢がたくさんあったんです」
〝ある〟ではなく〝あった〟と過去形にしたアズールは、ボクを抱え、出口のわからない廊下をまた走り始めた。
「あの日、あなたの呪が発動して巻き込まれた時……僕はあなたに裏切られたと思った。僕を信用させて罠にはめるために、あんな事をさせられたと思ったんだ。僕は少なくともきっと、リドルさんに対して友人と……自分から言う程には、あなたに対しての好意を自覚していたから……だから、僕にあんな事をさせて、裏切ろうとしたあなたに……リドルさんが僕を、なんとも思っていないんだとそう考えて、本当に腹が立ったんだ……僕だけが、あなたを友人と思っていたんだと、現実を突きつけられたと思った」
あぁ、だからキミはあの時あんなに怒っていたのか……
「けれど、ここに来てあなたとセックスを繰り返している内に、わからなくなった。あなたを欲しいと思う気持ちが、呪いのせいなのか、僕の本心なのか……気づきたくなくて、気づかれたくなくて……あなたには酷いことをした自覚がある。なのにおまえときたら、義務だとか責務だとか、いつものマイルールを持ち出して、あんな……レトルトのオートミール粥ひとつの為に、知らない男に犯されて……僕がどれだけ腹が立ったか分かってないだろッ!?」
あの件に関しては、今だって別に間違ったとは思っていない。キミにはきっと必要な食事だったし、あのきっかけがなければ、こんな風に今理解し合えたか分からない。
「本当は……こんな状況下で言うつもりはなかったんだ。無事に解呪して、産まれた子供を引き渡して、学園に戻って落ち着いてから、あなたをモストロ・ラウンジに呼んで、新たに関係を築こうとそう、思っていたのにッ! あなたが、僕との子を大切だと言った言葉が、胸が締め付けられるぐらい、嬉しかった……僕には、あれだけ夢があったはずなのに、あなたと子供と、一緒にいる夢を一番に見て、諦めきれなくなったッ!!」
汗だと思っていた雫は、いつしか彼の涙に変わっていた。アイスブルーの瞳からこぼれ落ちる涙が、ボクの唇にぽたりと落ちる。まるで切り取った海のような塩気が苦しい。彼の本心を知ったのに、ボクはもう終わりだなんて……
ボクの意識すら遠い身体の力が完全に抜け落ち、それに気付いたアズールが「しっかりしろ!」と、ボクを連れ戻すために呼び掛ける。
「僕たちの子を抱きしめてやるんだろ!? おまえはまだ何も、何ひとつ出来ていないだろ!??」
アズールが突き当り角を曲がると、警備員と鉢合わせし、やつらは「いたぞ! こっちだ!!」と声を張り上げ、ボクを抱え逃げるアズールを追った。
アズールの足も、もう限界だった。それでも、一歩でも遠くに、ボクと子供と三人、ほんの少しでも遠くに逃げるために、アズールは本当に必死に、走ってくれたんだ。
「僕は一度決めた夢は絶対に叶える! だから、リドル——おまえのその夢も、全部、僕が全部叶えてやるッ!!」
子供と一緒に、リドルが笑顔で暮らせるように……僕が全部、おまえの夢を叶えてやるから、だからッ!!
死ぬな、死なないでくれ……
僕をおいていくなよ、リドル……僕はおまえが——
アズールが言い掛けた言葉の最後は、銃声によってかき消され、ボクの耳に届くことはなかった。
*
そして、次に訪れた世界。タルタロスから帰還して間もない頃、アズールはボクの手のひらに口づけしこう言った。
——愛していますリドルさん、どうか僕だけのリドル・ローズハートになってくださいと……
まるであの時に言えなかった、魂に刻まれた言葉を無意識に伝えようとしたアズールは、その先で身ごもったボクを学園から連れ出しそして、イヴァーノに会わせた。
これが奇しくも、フロイドと繰り返したあの数千回の世界で超えることの出来なかった世界に、ボクたちを引っ張ることとなった。
しかし、ボクの夢、願い……その代償に失ったものは、あまりにも重く。一体どれだけ、この繰り返された世界の隅に積み重なったんだろうか?
そして、二人が必死に与えてくれた、たった一回の奇跡さえ、今はもうその山上に積み上がるだけだ。
アスターとサミュエル……
あのたった一度の奇跡でしか出会うことの出来なかった、ボクの大切な宝物。
この始まりの世界を巡り、ボクはずっと、彼らにどうしても、たったひと目でも会いたかった。
もう一度、この幾千の世界を経て出会うことの出来たキミたちに、ボクはどうしても会いたかった。
会って抱きしめて、ボクのところに生まれてきてくれてありがとうと、そう伝えたかった。
だからどうか——
「ボクの大切な、アスターとサミュエルに会わせて——」
祈る様に願ったボクの手の中、最後の呪石の欠片が割れると同時。
今はもう暗闇だけだったボクの世界に「かあさん」と、ボクを呼ぶ懐かしい声が聞こえた。
あぁ、キミたちはこんなに近くにいたんだねと、振り返ったボクの目の前。堆く積まれた赤い砂の山二つ。
その上に、ボクに背を向け座わる、アスターとサミュエルの後ろ姿があった。