このバイトをはじめてもう二年が経とうとしていた。誰かをもてなすことや喜ばせることは嫌いでなかったし、この容姿を生かしてほんの僅かな時間働くだけでそれなりの収入が得られるのはよかったと思う。しかし、女の理想に合わせて何度も何度も自分を作り変えるのは苦しいものがあった。
そうしている間に虎於の心は確かに擦り減って限界を迎えていた。理想を求めるがあまり怒鳴ってくる女や、肉体関係を強いてくる女もいた。
客足が絶えたら辞めようと考えていたが、そんな気配を見せるはずもなく、辞めるタイミングを見失ってしまっていた。
そんなある日、数ある新規客の中から変わったカウンセリングシートが送られて来ていて、いつもよりも丁寧に読んでしまった。
各選択肢はすべて〈その他〉にされていて、最後の備考欄にはこう書かれていた。
〈彼氏として借りますが、彼氏扱いはしません〉
気になった。虎於だってたまには客を選びたい。予定していた勤務スケジュールを一度白紙にして、最優先でその客を入れた。売り上げは一番出しているし、一度もペナルティを食らったこともないので、このくらいのわがままはと掛け合えばすんなり通った。
さらに詳しく個人情報を見るとどうやら一個下の男で、男性は客として取らないルールはなかったが虎於自身初めてだったので少し緊張した。それに何となく冷やかしでもなさそうだったので来るべき日に向けて準備を進める。
約束の日、待ち合わせの駅前で何度も時計を確認してそわそわして待っていた。
服装は女が好みそうな清楚系でまとめるわけではなく、自分の好きな服に袖を通し、髪だっていい意味でいつものようにはセットしなかった。同年代の男と遊んだ経験がほとんどない虎於はこれで大丈夫だろうかと何度も前髪を触って、緩む頬を引き締めた。
「あの、トラさんですか?」
声を掛けられた方を振り返ると、目線の少し下に目つきこそ良くはないが、笑顔が印象的な青年が立っていた。少しだけ頬を赤らめてこちらを見上げるのに見惚れてしまって、思わず返事を忘れそうになったのを、慌てて返事をした。
「はい、そうです」
いつものように事務的な定型文を声に出せば、さらに明るくなった笑顔がまっすぐこちらに向けられる。
「今日はよろしくお願いします」
丁寧に挨拶をした彼に、いつものように注意事項と契約内容の確認をして百八十分のタイマーを進めた。
スマホの画面に映る数字の減るそれを電源ボタンで黒にすれば、目の前の人物の彼氏になる合図。一度瞬きをして、世界を変える。
依頼人の彼も大きく深呼吸をすると、ふわりと笑って手を取った。
「トラ、トラが好きなところに行こう!何したい?俺に教えて」
デートプランは何も考えなくていいといわれていたが、まさかこんなことを言われるとは思っていなかった。驚いて「そうだな」とあたりを見回した。
自分の好きなことをしていいなんて、今まで注文されたことなんてもちろんあるわけがなく、首を捻った。
ちょうど見上げた位置にビルの大きな広告が目に入った。ずっと好きなシリーズのヒーロー映画。いつもの客相手だったら絶対に選ばないもの。
いつかは見に行こうと思っていたが、今回好きなことをしていいと言われたのだ。職業病的なところから若干躊躇いつつも提案をすれば、トウマは「じゃあ行こう」と肯定してくれる。
手を引かれて映画館の方へと向かう。その間もトウマは虎於の好きなこと、したいことを聞いてきた。いつもだったらしつこいと思ってこちらから話を逸らすのだけれど、そんな感情は一度も抱くことなく、虎於もはなしをしていて気持ちよかった。
映画が始まり百二十分弱、終わって劇場を出た後も高揚感で足元がふわふわする。
近くのファミレスに入って、二人で買ったパンフレットを広げながら、万人受けするように作られたハンバーグをつつく。
あのシーンがかっこよかった、あの展開にはドキドキした。
虎於にとってそんな話ができる時間は幸せだった。トウマもニコニコと虎於の話を聞いてくれる。
まだ話し足りない、そう思ったときタイマーがカバンの中で鳴った。
この終わりの瞬間がなぜか寂しくて、虎於はトウマに初めて自分から延長はどうするかと尋ねたが、トウマが三時間分の料金と今日の雑費をきっちりと払った。
帰りたくなくてわがままを言いそうになったが、自分と相手はしょせんキャストと客の関係。ただ、ファミレスを出て解散するときにトウマはこう言った。
「またな、トラ」
伸ばした手は空気を掴んだ。けれどそれは決して空しいものではない。
また会える、そう約束をしてくれた。早速次のことを考える。
どこに連れて行こうか、何をしようか。今度はトウマが好きなことを知りたいな。いや、それよりも今日は楽しんでもらえただろうか。
いつもだったら帰りに営業としてお礼の連絡を入れるのだが、うっかりトウマと連絡先を交換するのを忘れてしまった。
初めて自分の言葉でお礼を伝えたいと思ったのに、この気持ちを一体どこにしまえばいいのだろう。
胸の奥から湧き出る気持ち、頭の中はすでにトウマのことで一杯になっている。
【ずっと気持ちがぐわーってなって、頭の中がトラ君のことで一杯なんだ】
いつかの客がそのあとに行った言葉が、自分の口からも出てくる日が来るだなんて。
「……これが、恋」
御堂虎於、二十一歳。はじめて恋をした。
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「御堂……御堂!」
聞き覚えのある声で、やっと意識が戻ってきた。声のした方へ顔を向けると、数少ない友人と呼べる人間の一人、和泉三月が呆れたような顔を見せていた。
「どうしたんだ?朝から様子がおかしいとは思ってたけど、もう抗議終わったし、昼休みだぞ」
「わ、悪い……そうだな、昼……」
「本当にどうしたんだ?やっぱバイト……」
そう三月が心配するのを首を振って否定した。首を傾げながら隣に座って虎於の話に耳を傾けてくれた。
「和泉、歳の変わらない男と遊びに行くならどこを選ぶ?」
「どこを?んー相手によるんじゃねえの?それこそ、二人で行くのか、何人かで行くのかとかで話は変わってくるし……って、どうした」
「ああ、いや。何でもないんだ。ただ、喜ばせたい相手がいて」
消し跡が残った黒板を、何の意味もなくぼうっと見つめる横顔はあまりにも綺麗で思わず見とれてしまうほどだったと、後に三月は語っている。
長く生え揃った睫毛が控えめに伏せられつつ、口元は優しく弧を描いている。それこそ、恋をした少女のような雰囲気をまとっており三月は思わず聞いてしまった。
「好きな相手?」
小さく「ああ」と答えた後、我に返ったのか顔を一気に赤くさせて、言い訳を必死に早口で並べた。
「いや!そんな訳じゃないんだ、その、好きなやつってのは、ともっ、友達としてってことで!だから、そいつを喜ばせたいが、ほら、俺ってそういう男友達と遊びに行く機会が少なかったというか、不慣れだろ⁉だから聞いたと言うか、本当に、ただ喜ばせたいだけなんだ!」
「あーはいはい。そうだな、喜ばせたいもんなあ」
適当にあしらいつつも、虎於の要望に対して友として頭を悩ませた。ひとまず昼食をとるためにテラスに向かうことにした。
虎於は最近本格的に始めた自炊の成果物である弁当を広げながらできるだけ周りに話を聞かれないように細心の注意を払いながら話を進めた。
「まあ、世の中とやかく言うやつもいるけど、俺は応援するぜ。だって御堂がそんな緩んだ顔して講義もまともに聞いてないくらいには夢中なんだろ」
「か、揶揄うな……」
「揶揄ってなんかいないよ、俺はまじめに御堂のこと応援してやろうと思ってるのに心外だな」
「そ、れは悪かった」
そんな話をしながら虎於は三月にその相手であるトウマについて話を始めた。
たった一度だけ客として三時間を共にしたこと、連絡先は知らないこと、「また」と約束はしてくれたこと、話をきちんと聞いてくれたこと。
そんな話をすればはじめこそ肯定的に頷いていた三月だったがだんだんと表情を曇らせた。
「……待て御堂、つまりその相手については何も知らないってことでいいか」
「あ」
「だよな⁉やっぱり自覚なかったか」
天を仰いだ三月は、虎於からもらった情報を整理しながら箸を進める。
何はともあれ、あまりよくないのだろうが連絡先を交換するところから始めなくてはならない。そうしなければ接触することも不可能だ。
「連絡先……を交換するのを今度は忘れないようにしないといけないな」
「まあ、そうだな。そのお相手さんのことを喜ばせたいとか、そういうこと考えるなら、コミュニケーション取らないとわかんないし。けど、個人的に連絡取るのってペナルティとかってやつになんないのか?」
「それは問題ない。ほら、バイト用に支給されてるスマホのほうに仕事用のラビチャがあるだろ。営業も兼ねてるから、法と会社の規定さえ犯さなければ別にどんな会話をしていようと問題ないらしい」
「問題ないならいいけど……トラブルに巻き込まれるなよ」
「それはまあ、そうだな」
弁当が空になって、三月は一コマ空きコマを挟んだ後、もう一コマ今日は講義があるらしい。虎於は今日はこのまま終わりなので、正門まで見送ると着いて来てくれた。
「この後はバイト?」
「夜にな。それまで何もないから今から支度と下見をしてくる」
「大変だなーよくやるよ」
「トウマに出会わなかったら先週のうちに辞めてたさ。じゃあ、また」
「おう、頑張れよ!」
三月の言葉に返事をし、大学の緑地整備をしている人たちに挨拶を軽くして、自宅につま先を向けた。
自宅に帰って常連の指定通りに着替えをする。相手は最近流行りのいかにも地雷系な子で、時折癇癪を起すから扱いには十分気を付けなくてはならない。「次はこれを着て」と渡してくるハイブランドに今日も身を包み、服に合わせて髪をセットしてメニュー通りの御堂虎於が完成する。
首元は広いはずなのに、息がしづらい。それでもトウマの「また」があるから頑張れる。不確実なその約束にすがれるのは、きっと好きな相手だからだろう。
トウマが見せてくれた笑顔を思い浮かべながら家を出て、今日行く予定の場所へ下見に行く。下手に詳しくても他の女と行ったと思われてしまい癇癪を起されてしまうのでどのルートをとるか、どの店に入るかを考えて、待ち合わせ時間に間に合うように探索をしたら、今日もいつもの駅前で待つ。
「トラくん」
「ああ、久しぶりだな。今日は五時間だったよな」
「うん、早く行こ?みぃ、トラくんに会うためにいっぱいお仕事頑張ったんだ」
十センチ近くある厚底でもかなり差のある身長差がその差を埋めようと必死になっていた。その必死さが恋なのかと思うと、初めて彼女に同情できた。自分だってトウマと埋まらないこぶし一つ分をどうにかして埋めたいとあの時は腰が痛くなるのもお構いなしに藤間が話せば屈むことを心がけた。
一人称が自身のあだ名である彼女をエスコートとは名ばかりの介護じみたものを今日も要望通りに勤めていく。
「みぃね、今日トラくんに会うために一杯お仕事頑張ったって言ったよね」
「ああ、俺のために仕事を頑張ってくれたのはうれしいよ。俺も早く会いたかったんだ」
「えへへ。トラくんに会うんだーって思ったら、おっさんたちの汚い手も身体も不思議と我慢できるんだ。ねえ、今日でもう会うの五回目だよね……?ねえ、もうみぃたち両思いだよね?こんなにあってるし、いっぱいトラ君のために頑張ってきたからさ、そろそろいい?」
前言撤回、この女には同情できない。金を貢げば客としての関係が終わって、抱いてもらえるなんて安直な考えを持っている。この客は今日限りで終わりで本部に自身のブラックリストに入れてもらわなくてはと頭の隅にメモを残した。
運が良いのか悪いのか。この手の客のあしらい方はすっかり板についてきたので、うまくその話題をそらしつつ、適当な服屋に入って上から下までコーディネートをしてあげる。
まったく自分の好みでないそのフリルを褒めたたえて、ご機嫌取りを進める。
求められた動作、求められた言葉、求められた理想。
手を伸ばされたそれら全てを淡々とこなして、名も顔も知らない他人に対しての承認欲求を満たす道具として扱われてやる。
少し高めのレストランに入って、それ相応の所作をこなしながら不慣れなカトラリーの使い方をカンに触らないように教えつつ、味のわからない食事を作業のように進める。
「おいしいね」
「……ああ、おいしいな」
目立つ涙袋の影がこちらを見る。
うっとりと目を細めたところで、時計を確認すると終了三十分前が迫っていた。食後のデザートも運ばれてきたし、今日はここで解散になるだろう。
丁寧に盛られたケーキにフォークを突き刺して、舌の上に乗った小麦のざらざらとした感覚を確かめて、シャンパンで流し込んだ。
「ねえ、トラくんもうすぐ時間だけどさ、この後予定ある?」
「……ああ、この後は少し家の予定が入ってるんだ。今まで会うために後回しにしていたから、今日こそ顔を出さないと怒られるんだ。ごめんな」
「そっかぁ……じゃあ、また一緒にデートしようね。すぐに入れるから約束だよ?」
「……」
返事はしなかった。
彼女の恋と勘違いして濡れた目を最後に見て、ほかの客よりも分厚い封筒をレストラン前で受け取ったのが最後に見る姿になった。
今日もようやく偽りの自分でいる時間が終わって肩の荷を下ろした。
やっぱりトウマと食べたハンバーグのほうがおいしかったなと、ブラックリスト入りの連絡をしながら夜道を歩いて帰った。