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    マジでここから入れる保険探してる

    タイトル未定 ファウストは努めてグリーンフラワーを採取する仕事に夢中になった。萼を潰してしまわないように指先でやさしくつまみ、ゆっくりと剥がすように摘み取っていく。グリーンフラワーは花弁に傷がつくと傷むのが早くなってしまうので、ファウストはいつだってこの繊細な小花に注意深く接した。摘み取ったそばから青く瑞々しい香りが鼻腔に入り込んでくるのを肺腑に染み込ませながら、黙々と小さな花を摘み取る作業に没頭する。気まぐれにいくつか口に放り込むと甘くてしっとりとしていた。緑の萌える豊かな気配があたりを埋め尽くして、清浄な空気に満ちている。明るい日差しが木々のあいだをすり抜けて降り注ぎ、すこし暑く感じるほどだ。空は青く澄んで、遠くに雲がたなびいているのが見える。しばらく雨が降っていないので、東の国にしてはすこし埃っぽく感じるほどだった。
    「うわ、シノ、どうしたの」
     ヒースクリフの焦ったような声が遠くから聞こえてきて、ファウストはそちらへ注意を向けた。見ると、いつもの練習着姿のシノは、全身黄緑色に塗れている。
    「すごい量のミモザじゃん」
     ネロが揶揄うような声で笑い、言われたシノはすこしくちびるを尖らせて「ここがシャーウッドの森ならこんなことになっていない」と不機嫌そうに言った。黒く艶やかな髪の毛のうえにも、無遠慮なミモザの種が我が物顔で鎮座している。
    「最悪だ。ちくちくする」
    「シノ、動かないで。魔法で散らしてあげるから」
     ヒースクリフが呪文を唱えると、黄緑色だったシノは瞬きのうちにすっかり元通りになった。たくさんひっついてたね、とヒースクリフが笑っている。空中で苔のように丸く集められたミモザの種は、ヒースクリフの魔法で木々の向こう側へ吹き飛ばされていった。
    「ヒースはミモザにも優しい」
     その後ろ姿を見送りながら、シノはなんとも誇らしげな顔で言う。
    「お前はもうちょっと周りに気をつけろよな」
     無遠慮な二人の掛け合いにネロが苦笑いした。このちいさな従者は、主人であるヒースクリフを事あるごとに褒めそやして大事にしているが、肝心なところで彼の命令に従わない厄介な子犬だった。彼らはお互いを大事に思い合っている割に、意思疎通に難がある。
     ファウストはその様子をすこし離れたところから見ていた。なんだか花の香りがひどく強く感じられる気がした。
    「先生、どんなかんじ」
     遠くのネロが手を振ってファウストに合図する。
    「うん、いいのが採れたよ」
     返事をしながら、ファウストは三人のほうに足を向けた。一瞬陽が翳り、空を見上げると雲が一片急ぎ足で駆け抜けていく。風が出てきたらしい。すっかり元通りの姿になったシノが寄ってきて、ファウストのカゴの中から花弁をいくつか掠め取っていった。
    「うわ、もう苦くなってる」
    「こら、シノ。つまみ食いしないで」
     ヒースクリフが嗜める声を聞くともなしに聞きながら、ファウストはグリーンフラワーのたっぷり入った籠をネロに手渡した。
    「頼むよ、シェフ」
     受け取ったネロはいくつか見聞し、指先で花びらを擦り合わせるように揉み込んでよくよく香りを確認したあと、くちに放り込んでゆっくりと咀嚼してみせた。そのひとみがわずかに嬉しそうな輝きを覗かせる。どうやら満足のいく品だったようだ。
    「うん。せんせ、ありがと」
     ネロはファウストから受け取ったカゴを魔法で小さく仕舞い込んでから、ゆっくりと両手を頭上に上げて背中を伸ばした。関節包の空気が弾ける軽い音がファウストにも聞こえてくる。


     窓の向こう側に、ヒースクリフとシノが笑い合っているのが見えた。季節柄ずいぶん強くなってきた日差しを避けて、ミモザの木陰で肩を寄せ合っている。シノが指差す先を逐一丁寧に確認しては、手元の図鑑と照らし合わせているようだった。
    「熱心だねぇ」
     ネロがエプロンの端っこで雑に手を拭きながら、ため息を吐くように言う。
    「君もあのくらい取り組んでくれてもいいんだが」
    「それは言わないでよ」
     俺はしがない料理人だぜ、と笑うネロは、自称する通り先週のテストでも見事に赤点をとったばかりだった。ファウストは手元のカップを所在なく揺らした。すっかり冷えてしまった紅茶が、カップの壁にゆるく波模様を描く。
    「あんたまだそんなの飲んで、暑くないの」
     ネロが呆れたふうな声で言ったのをわざと黙殺して、ファウストは残っていた紅茶にゆっくりと口をつけて飲み干した。窓の向こう側ではヒースクリフが何やらシノに小言を言っている。あの子の声はシノよりいくぶん高いから、ずいぶん遠くまで聞こえてくる。
    「ネロ、」
     ファウストは言いかけて、その続きを言えなかった。言われたネロは気怠げに、けれど意識はファウストのほうをしっかり向いているのがわかる。ファウストはすっかり黙り込んで、空になったカップを意味もなく傾けた。わずかに底に滞留していた紅茶の残りが気まぐれな軌跡を描く。
    「…………いや、なんでも」
     言い淀んで結局言葉を濁したファウストに、ネロは気を悪くした素振りも見せずにただひと言、そう、と返して、それが彼の優しさだとわかっているので居た堪れなくなる。
     言うべきだったのか、言わざるべきだったのか、答えを見つけられないままファウストもまた押し黙った。言うべき言葉ならもっとほかにあったような気がするけれど、いずれにせよ、言ってしまえば取り消すことはできないのだからこれでよかったのかもしれない。窓越しに手を振る二人にファウストとネロも応えた。陽に透けるヒースクリフの綺麗な金髪がやけに目について痛かった。
    「元気だな……」
     ネロが若干げんなりした声で言った。夏の気配の色濃い今日、この日差しは齢三桁の自分たちには少しばかり堪える。
    「まったくだ」
     ファウストはカップを片手に立ち上がると、キッチンで湯を沸かした。茶葉の入った缶を手に取り、その中身がほとんどないことを思い出してうんざりする。贅沢をしているわけでもないのに、生きていくのは物入りだ。次から次へと消耗品が消えていく。
     残った茶葉を湯で煮出しながら、ファウストは手袋に包まれたままの指先を擦り合わせた。午前中に換気したせいか、日陰になっている家の中はすこし冷える。
    「ネロ、君もあったかいの飲む?」
     缶の底に残った茶葉を集めながら訊ねる。こんなことなら昨日ラスティカに貰った分を持ってくるんだった。
    「いらね。てかこの暑いのによくそんなの飲めるね」
    「へぇ。君って案外代謝いいんだ」
    「そういう問題か、これ」
     ネロの視線に眺められながら、ファウストは小さく肩を竦めた。湯気の立つカップをテーブルの上で冷ましながら窓の向こうを見遣ると、二人はちょうど図鑑遊びを終えたようだった。ファウストのすぐ隣では、足を組んだネロのつま先が神経質そうに揺れている。
    「せんせー、あんま無理すんなよ」
     呟くように言われた言葉に、かすかに首肯する。無理をしているつもりはないのだ。ファウストにとってはもうこれが普通なだけ。
     木製のドアが開き、シノとヒースクリフが顔を覗かせる。
    「ネロ、そろそろ帰るぞ」


     ファウストの息抜きといえば、二ヶ月か三ヶ月に一度、嵐の谷へ帰ることだった。あらかじめ休みをとってひとりで帰ってくることもあれば、今回のように予定や任務のついでに立ち寄ることもある。
     すっかりひと気のなくなった小さな家の中で、ファウストは静かに息を吐いた。西陽の差し込む狭い部屋の中は茜色ばかりで満ちて、影がいっそう黒々として見える。何をする気も起きず、ファウストは重たい身体を引きずるようにソファに腰掛けた。ついさっきまで賑やかだったのが信じられないほど辺りは静寂に満ちて、実態を持たない張り詰めた音が耳の奥で響いている。残酷なほど孤独な耳鳴りだけれど、実のところファウストは、この現象が嫌いではなかった。ひとはみな孤独を嫌い毒のように扱うけれど、外界との完璧な隔絶はファウストを正しく導き、癒してくれる。……これでいい。ひとりがいちばんいい。なんの憂いもなくぼんやりしていられる。家に帰る、という挙動そのものがファウストを安心させてくれる。
     この谷が、森が、ファウストの居場所を作ってくれた。ここ以外にはもうファウストのための場所はどこにもない。この静謐な精霊の森だけがファウストの拠り所で、もう、それだけで十分だと思えるのだ。
     秩序を守るものに、この谷は優しい。森を守り、精霊を尊重し、生きるのに足るだけの生活を遵守するならば、この谷はファウストを尊重してくれる。決して深くは踏み込んでこないけれど、静かに慰めてくれる……。
     ファウストはぐったりと四肢を投げ出したままソファから動けずにいた。
     あらゆる疲労がファウストの繊細な精神をすり減らし、まるで巨大な石臼に下敷きにされているのはあたかも自分自身であるような錯覚さえ抱きながら、ファウストはただじっと息を潜めている。ひと月の半分はこうして屍のような自分の抜け殻と対峙しなければならず、そのままならないことがファウストにとっては余計に不甲斐なく、また理不尽に感じられた。けれど以前と違うことは、魔法舎に生活軸がある以上、容易に嵐の谷へは戻れないことだ。以前であればいくら身体が言うことを聞かなくても家の中でただじっと耐えていればよかったけれど、先生としての任も担っているいまとなってはそうもいかない。どんなに時間を作ろうと苦心しても、ここに帰ってこられるのはせいぜい二ヶ月か三ヶ月に一度が限界だった。
     窓を閉め切っても、どんなに蝋燭に火を灯しても、薪を焚べても、重怠く沈んだ心を引き上げてはくれなかった。見つめた先の炎はファウストを嘲笑うように揺らめき、遠ざかっていく。ひどく疲れていて眠りたいのに、あたまの芯が騒がしくて目が冴えてしまう。ぼんやりと沈む意識とは裏腹に脳裏ではなにか思考のようなものが矢のように飛び交い、それはまるで腐った果物に集る羽虫に似て際限がない。
     ファウストは行儀のいい魔法使いだった。谷の不文律を侵すことも、精霊を粗雑に扱うこともなく、自然に逆らわず暮らしてきた。水に触れる指先すらもやさしく、あらゆる蕾を慈しみ、朝露ひとつも壊さないように森を歩くことだってできた。……それでも、今回ばかりはこの森も、アミュレットも、マナエリアでさえも、ファウストを守ってはくれないようだった。瞬きを繰り返すたびに、ファウストのからだからは時間と空間が概念ごと剥がれ落ちていくかのように遠ざかっていき、それをぼんやりと感じているあいだ、不思議とかなしくはないのだった。
     ファウストは古びたブリキの人形よりまだ錆びた動きで、いくつも蝋燭に火を灯した。このともしびを絶やさないうちはまだ大丈夫でいられると思えた。蝋燭が何本も何本も火にかけられ、歪み、潰え、ついには机の一角が溶け出した蝋の屍に食いつぶされるまで、あるいは朝日がファウストの真っ白な頬を照らし出すまで、そればかりを繰り返していた。


     授業が終わったばかりの夕暮れのことだった。教本のいくつかを返却するために立ち寄った図書室で、ファウストは深く息を吐いた。身体が重くて仕方がない。嵐の谷に帰ったばかりにも関わらず、思っていたよりもずっと体調がままならなくて歯痒かった。
     こんにちは、と、礼儀正しい声にファウストは小さく手を振って応えた。並んだテーブルの端のほうで、リケとオズが並んで研究ごっこをして遊んでいる。研究ごっこというのはリケとミチルが考えだした遊びのひとつで、図鑑などの文献の中からなんでも好きなものを選んで、それについて調べたことをレポートにまとめるといった、子供たちの自主性と知的好奇心に基づいた一種の自己研鑽のようなものだった。旧い魔法使いたちにとっては見慣れた事象でも、彼らにとってはなにもかもが目新しいできごとなのだ。この遊びで大切なのは正しい資料に基づいていること、それから、答えは自分たちで探すこと。魔法に始まり、動植物、妖精、自然科学、天文学についてなど、彼らの好奇心には分類の隔たりなどすこしも関係がないようだった。かつてのファウストがそうであったように。
     ふたりの興味にはそれぞれ違いがあって、リケは特に食べ物や動物といったわかりやすいものが好きみたいだった。ネロのあとをついて料理について勉強したり、シノと一緒に近所の草原や林に出かけたりしているのをファウストも見たことがある。一方のミチルは薬学や魔法について学ぶことが好きなようで、リケのように外に出かけるよりは、図書室で文献と睨めっこしていることのほうが多いようだった。いずれにせよ勉強熱心な子どもたちだ。シノやネロもあのくらい勉学に励んでくれればファウストの心労ももう少し減るのだろうけれど、生憎ふたりにはそういった兆しは見られない。
    「バジリスクは巨大な蛇です」
     黙って耳を傾けるオズに、聴かせるようにリケは言った。
    「あたまに王冠模様がついていて、毒がとても強いです」
     オズはリケの言葉に浅く頷いた。この親切で心優しい魔王は、子どもの遊びにも真剣に付き合っているらしい。ペンを握ったリケの手が、少しばかり辿々しい手つきで用紙にバジリスクの絵を描いていく。
    「それで、えっと、ふだんは砂漠に棲んでいて、トートという鳥から生まれます」
     リケは図鑑を一生懸命指で追いながら、覚えたての言葉を読み上げては用紙に何事か書き写していった。
    「よし、できました!」
     リケが花が咲いたような笑顔で言う。ファウストは思わずオズを見遣った。ファウストが見守る先でオズは何事か黙考し、重たい口を開く。
    「…………トートではなく、イビスだ」
    「え?」
    「イビスだ。トートは神話上の神の名に過ぎない」
     オズがゆっくりと言葉を紡ぐと、リケは怒ったように頬を膨らませた。
    「間違ってたってことですか? もう、そういうのはもっとはやく教えてくださいって、いつも言ってるのに!」
     もう書いちゃったじゃないですか、とリケが不満げに言うのを、オズがどこか困ったような顔で聴いている。
    「……すまない」
    「仕方ないですね、オズはのんびりなんですから」
     リケは再び用紙にペンを走らせ、文字のびっしり書かれたその紙を満足そうに眺めてからオズにお礼を言った。
     ふたりの向こう側の窓から夕陽が差し込んで、黒々とした影を描いている。その様子が何故か北の国で修行していた頃の自分と重なるようで、ファウストは無意識に瞬きをした。差し込む茜色の西日がフィガロの白い肌を染めるとき、何故かいつも不安だった。怜悧な目元がいっそう陰を帯びるのがどこか恐ろしくて……。
    「ファウスト、お願いがあるのですが」
     不意にリケがはきはきとした口調で言った。
    「ミチルのところに、一緒にお見舞いに行ってくれませんか」
     ファウストは本棚の隙間に教本として使っていた分厚い辞典をやさしく押し入れ、隙間を整えた。布の貼ってある背表紙の、厚くてざらざらした手触りが指先を離れていく。
    「僕が?」
    「はい」
    「オズがいるだろう」
    「もういません」
     その言葉にファウストが振り返ると、なるほどオズの姿は跡形もなくなって、そこにはただリケの細い影だけが伸びている。
     それに、とリケは小さな声で続けた。
    「オズはあんまりお喋りが上手じゃないですし。……ひとりでお見舞いにいくのは、すこし、こわくて」
     それきり押し黙ったリケの若葉色の瞳が、西日の赤に照らされて不思議なほど暗く見える。ファウストはひっそりと息を飲んだ。ファウストには、リケの純粋な感性が痛いほど眩しく、そして危うく見えることがあり、そればかりか不躾にもそこに自分の過去を重ね合わせるような真似をしては、この子どもの行く末を案じることすらあった。
    「お願いします、ファウスト」
     リケは祈るように両の細い指を組み合わせて言い、そうであるからには、ファウストには彼の頼みを断る手段はなかった。


     魔女風邪と呼称されるからには、それは魔法使いに特有な一過性の流行り病である。斯くいうファウストも、過去にはこの魔女風邪で一週間も高熱が続き寝込んだことがある。無理が祟ったのだねと微笑みながら、師匠のひんやりと冷たい手が額を撫でていった夜のことを、ファウストはなぜだかずっと忘れられなかった。
    「お見舞いには、花が必要だと聞きました」
     リケは言い、体温ですこし草臥れている、小さな白い花の茎を大事そうに手に持っている。細い月明かりが差し込んで、廊下の向こう側まで二人の影が頼りなげな表情で伸びていた。ミチルの部屋の前でリケは不安そうに立ち尽くし、手の中の花を思慮深い表情で見つめている。
    「大丈夫、ミチルも喜ぶよ」
     幼い魔法使いを励ますために、ファウストは努めて優しい声色で告げた。瞬間、まるい額がファウストを見上げる。
    「……オーエンが」
     リケは言葉を詰まらせながらも、なんとか声を発したようだった。廊下はしんと静まり返り、ドアの向こうからは何の音も聞こえてこなかった。
    「オーエンが、その花みたいに、ミチルも弱って死んじゃうんだって……」
     リケは言い、その言葉にファウストは息を飲んだ。細い肩に手を触れると、そのひとみはいつのまにか涙でいっぱいになっている。
     ファウストは手袋の指先でリケの涙を拭ってから、ゆっくりとその場に膝をついた。固く握りしめられた手の甲に触れると、冷えた指先は小刻みに震えている。
    「大丈夫。おまじないを教えてあげよう」
    「……おまじない」
    「その花も、ミチルも、きっと元気になるおまじない。リケにぴったりの優しい魔法だ」
    「ほ、ほんとうですか」
    「もちろん」
     教えてください、と、真剣な瞳がファウストを射抜く。月明かりに照らされる眼差しはきらきらと光っていたが、そこにはもう悲観的な色は見られなかった。
    「イメージがあれば大丈夫。何もかも上手くいくよ。……さぁ息を吸って」
     ファウストが促すと、リケは素直に深呼吸をして、真剣な眼差しで手の中のほっそりとした花を見遣った。薄い唇が呪文を紡ぎ、瞬間、魔法陣が仄かな煌めきを纏って空中に展開される。
     それは一瞬の出来事だった。ふと気がつくと、ドアが開いている。中からフィガロが気安い仕草で顔を覗かせていた。
    「やぁ、ふたりとも、こんばんは」
     フィガロが言った。
    「リケ、もしかしてお見舞いに来てくれたのかな」
     フィガロは長身をわずかに屈め、リケに目線を合わせるようににっこりと微笑んだ。リケが挨拶を返すと、ドアを大きく開いて手招きをする。
    「祝福の魔法だね、上手にできてる」
    「ファウストが……」
    「教えてくれたの? 素敵だね、彼はいい先生だ」
     二人に続き、ファウストもミチルの部屋へ足を踏み入れた。何処からともなく水の満ちた小瓶を取り出したフィガロが、リケから花を受け取って窓辺に飾っている。ファウストは何故だかひどく慎重にドアを閉めた。蝶番が軋む小さな音さえこの場の調和を乱すような気がした。
     部屋は暖かく、病人特有の弱々しく無気力な空気に満ちていた。薄暗い部屋の中、フィガロの背中の向こう側に布団の塊が見える。
    「リケが来てくれたよ」
     フィガロはリケの華奢な背中に手を添えながら言い、ミチルは乾いた声でそれに応えた。ファウストはそのやり取りを、部屋の隅でぼんやりと眺めた。
     布団の山の向こう側からミチルの細い手が伸びてリケと触れ合った時、ファウストにはミチルがなんだか違う生き物のように感じられた。熱病に冒され、重たい布団に圧しつぶされて、ミチルの輪郭は次第に歪んでいく。リケの花が不安げな顔で揺れ、それは室内灯のわずかな灯りのなかで大きな影となって壁一面を覆った。視界が回り、けれどファウストはそこから一歩も動けなかった。ほんの僅かにでも身じろぎしてしまえば、この空間の何か大事なものが粉々に砕けてしまうような気がした。
     咳き込む声が苦しげな響きを伴って部屋を覆っている。フィガロの手が氷嚢を取り換えるのをじっと見つめていた。ミチルの顔はフィガロの影になってよく見えないが、フィガロの繊細な手がその汗ばんだ額を拭い、髪の毛を優しく撫でつけているのが手に取るようにはっきりとわかった。かつて自分がそうされたように。リケが布団の上を遠慮がちに撫でて、それはいくつも往復を重ねるうちに滑らかで優しい動きに変わっていった。
     耐えきれず、ファウストはふらふらとした足取りで部屋を後にした。猫の子の一匹すら目を覚さないような慎重さでドアを閉める。廊下はひどく静かでひんやりとしている。ファウストはいつのまにかじっとりと汗をかき、手が小刻みに震えていた。知らず浅くなっていた呼吸に廊下の冷えた空気が入り込んできて咳き込む。心臓が早鐘を打つかのように嫌なリズムで脈打っている。


     春の雨が続き、中央の国はしばらく冷え込む日が続いた。
    「中央もこの時期は雨が降るのか」
     シノが言い、手についた雫を振り払った。窓硝子は湿気で白く濁り、シノが手のひらで雑に拭った部分だけまるくぽっかりとくり抜かれている。雨の多い東の国育ちらしく、ヒースクリフやネロもこのじっとりと陰鬱な雨には耐性があった。こんな日でも野外での戦闘訓練を提案するシノを退けるのに骨が折れたほどだ。
    「ほら、シノもこっち。宿題終わらせるよ」
     ヒースクリフが手招きする。
    「俺は雨の日は勉強に向かないんだ」
    「お前はいつも勉強に向いてないよ!」
    「なんだ、わかってるんじゃないか」
    「馬鹿言ってないでやるの。別にあたまが悪いわけじゃないんだから」
     嗜める言葉にシノは目を瞬かせ、にやにやと嬉しそうな表情でヒースクリフの隣の席に腰掛けた。
    「……褒めてないからな」
    「いーや、褒めたね。もっと言ってくれ」
     主君の呆れた視線を物ともせずにシノが言い、華奢な指先がペンを握る。
     ファウストはテストを採点する手を止めないまま、栗色の髪の毛を盗み見た。熱心に図鑑のページを捲りながら、ネロとあれこれ話しをしているのを眺め、そっと視線を逸らす。何かを誤魔化すようにサングラスのブリッジを指先で押し上げ、けれどそれを見ているものは誰もいなかった。
     ミチルを除く南の国の魔法使いたちは、任務でここ二日ほど魔法舎を留守にしている。定期的に行われる、病の沼の生態調査のためだ。毎回五日ほどで日程を組まれており、病み上がりのミチルは今回だけメンバーから外れていた。その間のミチルの扱いについて、なぜか最初から決まっていたかのようにごく自然と東の国が受け入れ、こうしてミチルは授業に参加する流れとなったのだ。あれから三日間魔女風邪に苦しめられたミチルは、顔色こそ悪くないがまだ時折りちいさく咳き込んだり疲れたような表情を見せることがあり、ファウストはそのたびに気を揉んでいた。
    「はちみつ入れるといい感じになるんだよな」
     ネロは机に片肘をついて、その手のひらに顎先を乗せながら言った。
    「あと、生地は一晩冷蔵庫で寝かせるといい」
     ネロの言葉を頷きながら聴いているミチルは、ペンを走らせて何事か紙に書きつけている。どうやら今回のミチルのレポートは、パンケーキ作りについてらしい。きっと先日の見舞いの礼なのだろうことが、ファウストにはすぐにわかった。
    「一晩も……」
    「そ、料理には根気が必要なの」
     困ったように眉を寄せるミチルに、ネロは悪戯っぽく笑って言った。
    「それに、一晩空いてる方が話題になるぜ。ソースをいくつか作り置きすることだってできる」
     とっておきの木苺を出してやるから、とネロは言い、ミチルはそれに頷いた。書き終えたばかりのレポートの真新しい紙をそっと指先で撫でてからファイルに仕舞い込む。
     ファウストは無意識のうちに、窓の向こうへと目線を向けていた。春の雨はいかにも冷え切っているような表情で静かに降り続け、萌え始めたばかりの新芽を励ますように優しく撫でている。ようやく採点の終わったテスト用紙の角を揃えてから、ファウストはひとりひとり教卓の側へ呼びつけて指導を行った。ヒースクリフの丁寧な筆跡や、ネロの癖字や、シノの力の入りすぎているインク溜まりは、そのまま彼らの個性を反映する鏡のように正確で、ファウストにはそれが手に取るようによくわかるのだった。筆跡の生み出す手掛かりは、彼らを導くのに最適な道しるべとなってファウストを案内してくれる。彼らにとっていちばんいいやり方をファウストはよく心得て、その通りに応用問題の解き方や、文献となる本の提案や、あるいは誤字の訂正をしていると、いつだってどこか身体の芯が落ち着いていくのがわかった。没頭できることがあるのはファウストには幸いであり、なにか考えごとをしているほうがよほど気が紛れるのだ。
     すべてのテストの返却が終わっても、ファウストは教室を出ようとはしなかった。雨がごくささやかないたずらとして窓硝子を叩いていく音が静かな教室に響いている。教室にはもう誰もいなかった。ファウストはなんだかぼんやりとして、自分の意識が引き剥がされて別のものになっていくような錯覚を覚え、その覚束ない感覚に不安を抱き、あるいは安心を覚えたりした。
     薄暗い教室のなかで息を潜めていると、自分の骨が軋む音すら聞こえてくるようだった。関節は滑らかな膜で覆われて、そのあらゆる隙間にファウストの秘密を隠してぎいぎいと歪な音を立てる。ひどく身体が重たかった。窓の向こう側に嵐の谷の幻想を見たが、それはすぐに遠ざかってファウストを失望させた。
    「ファウスト、飯」
     いつのまにかシノが、ドアの向こう側から顔を出している。教室は驚くほど暗くなっていた。日没の時間を過ぎてもまだ降り続ける雨の気配が、冷気をまとってファウストの足元に忍び寄っている。
    「……ぁ、いま、行く」
     咳払いで誤魔化しながら、ファウストは立ち上がった。喉は乾燥し、何日も声を出していなかったかのような音が空気に溶けていく。外套の前をぴったりと閉じても、すでに身体は芯まで冷え切っていた。


     ファウストに明確な変化が現れたのは、南の国の魔法使いたちが、病の沼の定期検査から戻ってきた頃だった。ファウストはこのことを誰にも言わなかった。この不思議な現象について、言語化するほどの気力が残っていなかったのだ。
     初めて気がついたのは、寝る前に結界を張ったときのことだった。いつものように触媒を配置して呪文を唱えると、それはわずかな抵抗を伴ってファウストに違和感をもたらした。結界の綻びこそなかったものの、気味の悪い違和感はファウストの感覚の奥に根を張り、それ以来、喉に魚の小骨が引っかかったような、あるいは小さなミモザの種が知らぬ間にくっついていた時のような違和感は、魔法を使うたびにファウストの心にさざなみを立て、不安となって降りかかった。
     不安は泥のかたちをしていた。油断していると足を取られそうで、ファウストはいつにも増してあらゆることに過敏になり、そうして神経をすり減らした。常に逆立っている精神は休まるところがなく、浅い眠りはさらに浅くなっていき常に頭痛がした。文献をいくつか漁ってみても、違和感の正体を掴むことはできなかった。
     ファウストが霞のような頼りなさでため息を吐いたのは、ちょうど『精神魔術と自意識』の第五巻を読み終えたときだった。「自我意識は彼我の乖離により確立される主観的な精神構造である」という文言から始まるその本は、辞書にも似た正確さでファウストを知識の奔流に巻き込んだが、そこに欲しい知識の片鱗を見つけることはできなかった。
     書架の合間を泳ぐようにして、ファウストは図書室のなかをあちこち歩き回った。腕に抱えた『精神魔術と自意識』の、一冊分の隙間を探していた。それは確かにファウストが自分で手に取ったもののはずだったけれど、どこから取り出してきたのか少しも思い出せなかった。靴底をすり減らすように歩き、何度同じ書架の前を通っても、たった一冊分の隙間はファウストから隠れてしまって見つけられなかった。
    「そんなに目をぱちぱちさせて、どうしたの」
     その瞬間、フィガロは書架に手をついて、ファウストの行く先を塞ぐかのように立っていた。
    「……え、?」
    「目だよ、そんなに強く瞬きしたらかわいそうだろう」
    ──こんな夜の遅い時間に会うだなんて思っていなかった。気配にまったく気づけなかったことに、内心がっかりする。たじろいで立ち止まったファウストの真っ白な頬に手のひらで触れて、フィガロはわずかに微笑んだ。親指でサングラスの下の皮膚を撫でられて息を呑む。
    「かわいい顔が台無し」
     息を吐くような静けさでフィガロが笑う。子どもを見守るような眼差しに、ファウストは一歩、二歩と無意識に後退りしていた。
    「な、にを」
    「……何か困ってる? 本が必要なら見繕ってあげようか」
     いかにも親切そうな表情でフィガロは言った。リケにそうしたように長身をわずかに屈め、伺うようにファウストを覗き見る。一瞬、目眩にも似た歪みが視界を覆い、ファウストは小さく頭を振った。
    「何も……」
     図書室の明るく保たれた光量が、サングラス越しのファウストの瞳を貫いて明滅する。見上げかけた目線を靴先に落として、ファウストはまた少し足を後ろに引いた。
    「何もない」
    「あ、ファウスト」
     気がつけばフィガロの声を振り切って、ドアの向こう側へ駆け出していた。もうとっくに日付の変わった空は漆黒に塗れて、月明かりが窓枠のかたちに行儀よく収まって廊下を照らしている。頬を包む手のひらの感触が優しくて恐ろしかった。……忘れもしない遠い昔、ファウストにあれだけの仕打ちをしておきながら、それが、いまさら、あんな優しいふりをして、なんだというのだ。あのとき、簡単に手を離したくせに、一度だって迎えになど来なかったくせに、こんなことになるまで、ファウストの名前すらきっと思い出さなかったくせに。
     ファウストの心臓は怒りと悲しみで脈打って、どくどくと血を滴らせている。耳元で鼓動が熱を持ち、呼吸が詰まった。階段を登り、部屋のドアを閉めて結界を張っても、まだ指先は微かな震えを伴っている。
     ミチルを看病したときの優しい眼差しを思い出していた。かつて自分のあたまを撫でた手のひらが、ミチルの柔らかく素直で、まっすぐな髪の毛を撫でるのを思い出すたびに胸が苦しい。肺の奥にミモザの種がくっ付いてしまったみたいに、上手に息ができなくなる。得体の知れない悲しみがファウストの胸を満たしていく。
     ファウストは震える手でアミュレットである蝋燭に火を灯した。小さな灯りが立ち昇り、闇に包まれた部屋をわずかに照らしだす。それだけでは足りなくて、ファウストは部屋中の蝋燭をかき集めた。いつしかテーブルは蝋燭でいっぱいになり、溶け出した蝋がカーペットにまで滴っている。手袋を脱ぎ捨てて炎の上に手を翳すと、それは生き物のようにファウストの肌を舐め、あたかも慰撫するかのように振る舞ってくれる。カーペットには蝋が滴り続けている。炎の熱で目が乾いていく。いつのまにか窓の外には夜明けの気配がしている。
     ファウストが『精神魔術と自意識』の本を置き去りにしてしまったと気づいたのはちょうどその時だった。窓辺で小鳥が鳴いていた。


     星を読むとき、ファウストはその繊細な性分を遺憾なく発揮することができた。占いについて造詣が深いわけでは決してなかったが、星図に従って遠くの宇宙に思考を差し向けるたびに、自分がなにか大きな渦の、目には見えないほどちいさな塵のひとつであることがわかるので、それがひどく安心するのだった。ファウストの見る宇宙のなかでは世界すら塵のひとつで、そこでは誰もかれもがひとりぼっちで揺蕩っていられた。他者に傷つけられることも、他者を傷つけることも恐れずにいられた。ホロスコープの円のなかは虹彩にも似た複雑さでファウストに語りかけ、宇宙は誰にでも等しくあることがわかる。きっと誰もが一度は辿ったであろう惑星の軌道を、ファウストもまた辿ってゆく。あらゆる先人たちが辿ってきたであろう周回軌道を、ファウストもまた辿るのだ。運命に従って。
     古い天球儀はファウストの指先の示す通りに行儀よく佇み、惑星は列をなして正確に並んでいた。外は相変わらず薄暗く、分厚い雲に覆われた空は陽の光をほとんど通さない。春雨に濡れている葉の緑すら、どこか憂いを帯びた表情をしていた。
    「……では、いま見せた通りに」
     ファウストが声をかけると、生徒たちはみな思い思いに星図のびっしり書き連ねられた分厚い辞典を捲ったり、天球儀を指先で突いたりした。魔力灯に照らされた天球儀の、金属のリングが鈍く光っている。
    「ファウスト、ここのハウスが違う気がする」
     シノがホロスコープの一部を指し示しながら言った。
    「……ああ、その精度を上げたいなら時間を正確にしたほうがいい。君の星を読んだときも、同じようにしたよ」
     答えると、シノはいくつか頷いて、教科書代わりの辞典を指先で捲り始めた。この子はファウストが誕生日の星を読んで以降、星読みの授業だけは比較的真剣に取り組むようになった。
     ヒースクリフは常と変わらぬ綺麗な姿勢で机に向かい、そろそろ飽きてきたネロはリングを無意味にくるくると動かしている。
     ファウストの誕生日を読んでくれたのはフィガロだった。
    「魔法は心で使うのだから、自分についていちばんに知っている人物は、常に自分自身でなければならないよ」
     そう言って、フィガロは星を見つけてくれた。フィガロの城のアーミラリ天球儀は、ファウストが使っているものよりよほど大きくて精密だった。よく磨かれた古い金属特有の艶があって、いっそう厳かに見えたことを覚えている。自身の生まれの正確な日付を知らなかったファウストは、そこで初めて誕生日を知った。ひとつ道が開けたような、不思議な気分だった。
    「一月十三日。思慮深く、真面目で誠実な数字だ。決断と自立の性質が強い。すこし内向的な部分もあるね……感情を言葉にするのは、あまり得意ではないように見える」
     惑星記号といくつかの線で繋がれたホロスコープを一箇所ずつ丁寧に指し示しながら、フィガロはそれが予め決まっていた言葉であるような力強さで言った。羊皮紙に描かれた図形をじっと眺めるファウストを、師は眩しそうな表情で見つめている。
    「……さぁ、ファウスト、せっかくきみの星を見つけたのだから、実際に見に行こう」
     背中に手を添えられ、促されるまま書斎を後にして、ふたりはテラスへ出た。吹き付ける風は冷たかったが、何故だか少しも気にならなかった。箒で雪雲を抜けると空気は凛と冷えて、頭上は星で溢れ、フィガロの白いゆびさきが天を指し示す……。
    「あ、」
     ネロが思わず、と言った声で呟いた声は、ファウストを一気に現実へと引き戻した。瞬間、あたりを一気に魔力が満たし、窓硝子の向こうが雷光で明滅する。激しい衝撃音は玄関ホール付近からであると予想がついたが、その揺れは教室まで響いてきた。シノがぱっと顔を上げる。
    「オズだ」
    「あいつらまたやってんのかよ……」
    「ここしばらく雨続きだったし、みんな気が立ってたもんね」
     三者三様に言い、空気は和やかだったが、もはや日常茶飯事ともなった魔法の応酬に呆れの気配すら滲んでいる。ファウストは淡々と授業の終了を告げた。厨房の無事を気にするシェフがいたからだ。
    「悪い、せんせありがと!」
     足音を立ててキッチンへ向かっていく水色頭を見送って、ファウストも立ち上がった。
     その時、魔力の衝撃が波となって空気を揺らした。同時に、天球儀の細い脚が不安定に揺れる。支えようと腕を伸ばしたファウストの視線の先で、真鍮の中心球がわずかに歪んだ気がした。
    「あ……」
     ファウストは思わず声を上げたが、それを気に留める者はいなかった。魔力の波に押されるように、ヒースクリフとシノが教室を出ていく。落下を免れた天球儀はファウストの手の中で沈黙し、ファウストはそれをじっと見つめた。再び落雷があって、窓の外が激しく明滅を繰り返し、魔力の波が魔法舎全体を揺らす。
     ファウストは天球儀を見つめ続けた。それは魔力の波に呼応するように脈打ち、歪み、やがて滲むように広がっていく。ナットが回り、黄道リングがひとりでに動く。その向こう側はひどく吹雪いて、夜空には星が映し出されている。焚き火が赤々と燃えている。吐き出す息は白く濁っている。樹氷が朝日を浴びて輝き、ダイヤモンドダストが冷え切った空気のなかで踊る。蝋燭の灯りは途切れることがなく、書斎はずっと温かくて、レモラの骨格標本が絶えず泳いでいる。ファウストの幼い頬を、フィガロの手のひらが撫でていく。


     ファウストは指先でそっと背表紙を撫でた。『精神魔術と自意識』は、ちょうど第四巻と第六巻の隙間がぽっかりと空いたままだった。持ち主のいなくなった空間は、それでも律儀に顎門を開き続けて主人の帰りを待っている。ここに寸分の狂いなく収まるものが誰なのか、彼らはすでに知っているのだ。空いた隙間を埋めるものは、元から収まっていたものでしかありえない。そうであるからにはすべての本は秩序に従って狂いなく整列し、そればかりか自らルールを守っているようにすら見えた。
     ファウストは本棚から『図解 世界の植物全集』をゆっくりと抜き取った。布張りの硬い表紙が指に引っかかり、古い紙のにおいが香る。連日の雨で、紙はどれも普段よりしっとりとしているように感じられた。今日も降り続けている甘雨は相変わらず冷たく、ファウストの冷え気味の身体をより一層冷たく凍えさせている。まだ正午を過ぎて少ししか経っていないはずなのに、切れ間のない重たい雲に覆われた空は黒々としていた。
     図書室の床にぐったりと蹲りながら、ファウストは指先で表紙に刷られた金字をゆっくりと撫でた。痺れる皮膚が、かろうじて布と文字の凹凸の隙間を拾う。
    「………………」
     階段を踏み外すことが増えた。それに倣うように、スプーンを取り落とすことも文字が歪むことも増えていったが、ファウストには少しも気にならなかった。雨は相変わらず降り続け、特に北の魔法使いたちをうんざりさせた。彼らが神経を尖らせるたびに、ファウストもまた触発されるように神経質になったり、ひどい頭痛に悩まされたりした。今朝もまた、ミスラとオズが暴れて応接室が半壊している。双子の目に留まるのも時間の問題だろう。
     表紙を捲り、ページを進めていくと、植物はどれも瑞々しい色で描かれていた。ミモザも、オナモミも、グリーンフラワーも群青レモンもマーシアも、初めから図鑑のなかの生き物であったかのような表情でファウストをじっと見つめてくる。そうしているうちに、突然視界がぐるりと回り、ファウストは咄嗟に右目を押さえた。罪を裁かれる罪人のような頼りなさで項垂れ、線の細い肩を震わせて床に手をついていると、自分がどんどん空間の端に引きずられていくかのような錯覚に陥った。本棚の一冊分の隙間がファウストを飲み込んでいく。
     図鑑のページが風もないのに捲れていき、その紙の擦れる音は次第に足音となって静かな図書室に響いた。カーテンがゆっくりと揺れ動き、魔力灯の明かりが微かに乱れる。歪む視界のなかに、真っ白な外套が映り込んだ。
    「あれ……ふふ、こんなところで見つけちゃった。こんにちは、ファウスト先生」
     オーエンは心底面白いという表情を隠しもせずに言った。不躾な闖入者に、ファウストの眉が僅かに顰められる。
    「ミスラったらまたオズにぐちゃぐちゃにされてる。つまらないから抜けてきちゃった」
     心底どうでもいいといった風に、オーエンが言葉を紡ぐ。
    「な、にを……」
     ファウストは震えるくちびるを開いた。息が苦しくてうまく声が出ない。オーエンから放たれる魔力は強烈なプレッシャーとなってファウストを覆った。
    「ひどいなぁ」
     血の気のない薄い唇が嗤う。
    「死にかけのお前にご丁寧に挨拶してやったっていうのに。ファウスト先生はそうやって僕のこと、無碍にするんだ」
     胸の奥が鈍く痛み、ファウストはますます顔を歪ませた。痛みと緊張で嫌な汗をかき、体温が下がっていくのがわかる。
    「……な、ん、、なに、」
     切れ切れに息をして、やっといらえを返したファウストを眺めて、オーエンは意地悪く微笑んだ。色違いの冷たい瞳がファウストを見下ろしている。
    「ふ、ふ、……なんだ、気づいてないんだ。つまんない」
     オーエンが言う。
    「いまのお前は死にかけの蛹みたい。ぐちゃぐちゃで、継ぎ接ぎだらけで、弱ってる。中身が空っぽすぎてはりぼてみたい。……ほら、その目。僕とお揃いだ。ふふ、そこから腐っていくんだね。お前の死はどんな香りがするんだろう」
     冷たい手のひらが手袋越しに頬を撫で、ファウストは咄嗟に顔を背けた。ファウストの目線に合わせるようにしゃがみ込んだオーエンは、口端で歪に笑いながら図鑑に手を伸ばす。
     すっかり変わってしまったページのひとつを、オーエンは指先で示した。
    「……夢の森だけのとくべつだよ」
     ファウストは息を呑んだ。真っ青だった顔からはさらに血の気が引いて、いまにも倒れ伏してしまいそうなほど酷く震えている。オーエンは何処からか黒々とした皮の、艶のある実を三つ取り出してファウストの手に握らせた。
    「あげる。本当に特別だから、内緒にしろよ。……特に、お前の大好きなフィガロにはね」
     手のひらに転がされた三つの果実を眺めながら、ファウストは何も言えなかった。ただ酷くあたまが痛くて、まともに物事を考えられない。図鑑の文字や絵は右目のなかで歪に引き伸ばされ、あるいは切り刻まれて、ファウストの眼前に無秩序に散らばっていく。
     パニックになりかけて呼吸を乱すファウストを、オーエンはただじっと愉快そうに見下ろしていた。
    「ばかなファウスト。いくらフィガロを信用したがったって、あいつは所詮北の魔法使いなのに」
     低く、蛇のようにじっとりとした声が、鼓膜に浸潤するようにして脳に入り込んでくる。ファウストは半ば狂乱し、あたまを強く振った。オーエンの意地悪い嘲笑は、まるで螺旋のように折り重なってさまざまに語りかけてくる。
    「……うるさい、っ」
    「あはは、ばいばい、ファウスト」
     最後まで気まぐれなまま、嘲笑とともにオーエンは姿を消した。現れたときのように前触れもなく、忽然と、些細な物音ひとつ立てずに。
    「……は、…………っ……」
     ファウストは乱れた息を必死に整えるように深く息を吸った。ちかちかと視界が明滅し、指先が痺れている。オーエンが何をしたかったのか少しもわからなかった。……いや、あの気まぐれで意地悪な魔法使いを相手にして、ファウストが理解できることは元来少ない。確かなのは、いまここに、ハヂアの実があることだけ。
     ファウストは呼吸の乱れが治らないまま、吸い寄せられるように開かれた図鑑のページを見つめた。
    ──ハヂアの実。北の国、夢の森でしか採れない悪夢の果実。幹も葉も花も黒く、果実は致死性の毒を含み、ひとたび体内に入ったが最後、対象の意識を奪い、呼吸を麻痺させる。果実はかなり糖度が高く、古い時代には自決や安楽死のための薬として北の国の民たちに親しまれてきた。毒は恐怖心を和らげ、前頭葉に作用して多大な多幸感と幻覚を齎す。果実は直径約五センチメートルで、一粒食すだけで人間の大人ならば三時間で死に至る劇物とされる……。
    「……は、っくそ、さいあく………」
     色違いの瞳の、いっそ憐れむような視線を思い出して、ファウストは低く呻いた。無様にも床に這いつくばり、あまつさえいちばん触れられたくないことを見透かされた歯痒さで吐き気がする。ファウストは震える手で図鑑を閉じると、ハヂアの実をポケットに仕舞い込んだ。薄いカーテンの向こう側に、どんよりと濁った空が見えた。


     ファウストが目を開いたとき、すでに夜半を過ぎていた。驚いて跳ね起きると、背中がぎしりと嫌な音を立てて軋み、その痛みに思わず眉を顰める。図書室は相変わらず沈黙を守り、その沈黙にファウストもまた守られていた。起き上がった反動で視界が歪み、耳鳴りが脳を通り抜けていく。身体は冷え切っていて、あちこちが変に痛んだ。
     『図解 世界の植物全集』は、ファウストが最後に見た状態のまま、床の上で居心地悪そうに黙っている。ファウストはそれを拾って、傷つけないようにゆっくりと元の場所に戻した。
     ひとけのない廊下は、厄災の光でぼんやりと明るかった。半分ほど膨らんだ月が、壁の合間を縫うように窓硝子越しに光を投げ入れてくるのを、ファウストは夢現のまま眺めながらどうにか足を進めた。歩くのも億劫なほど疲れ切っていた。一歩足を動かすたびに全身が軋み、その不気味な感覚が余計に疲労感を増幅させる気がした。
     キッチンには誰もいなかった。よく磨かれたシンクがぼんやりと鈍色に光っている。隅の方に瓶詰めされた木苺のジャムを見つけて、ファウストはそこでようやく身体の力が抜けた気がした。
     ネロによって綺麗に整理されているキッチンは常に画一的な表情をしているように見えるが、その実季節や天気によって微妙に顔色が変わることをファウストは知っている。時期になれば、群青レモンのシロップ漬けや乾燥スパイスなどがひっそりと並ぶだろう。
     ファウストはシンクに手をついて、詰めていた息を吐き出した。身体中が痛み、ぎこちない歩きかたをしたせいで変な筋肉に力が入っている。まさか図書室の床で寝こけるなんて思っても見なかった。水を飲んだらすぐ部屋に引き返そう。
    「……ファウスト様?」
     聞こえた声に、ファウストは手に持ったグラスを取り落とした。大袈裟なほど大きな音で、床に落ちたグラスが割れる。気を抜きかけていた精神が瞬時に過緊張に引っ張られ、一瞬で血の気が引いた。
    「すみません、驚かすつもりは、」
     暗闇から抜け出るように現れたレノックスが慌てて謝罪するのを手で制し、ファウストは束の間目を閉じた。驚かされたのは一度や二度ではない。レノックスは魔力が弱いこともあって、空気に溶け込むのがすこぶる上手いのだ。シノとはまた違う実践的な対人スキルは、ファウストを驚かせるには十分すぎた。
    「……いや、ぼくこそ、すまない……」
     緊張で上擦る声を誤魔化して、ファウストは足元に視線を向けた。グラスは粉々に砕け散って、月明かりのもとできらきらと光っている。靴音を立てながら近づいてくるレノックスに何故かひどく萎縮しながら、ファウストは震える手を握り込んでいた。
     呪文を唱えようとして、半分も言霊を紡がないうちに胸に激痛が走り、ファウストはその場に膝をついた。耳元で何かが割れるような小さな音が聞こえたのと同時に、布を食い破って硝子が足に突き刺さったのを知覚する。硝子は確実に皮膚を割いたが、四肢が痺れて感覚は遠い。
     限りなく細い糸で無理に心臓を締め付けられるかのような痛みに、ファウストは顔を顰めた。レノックスの焦った声が近づいてくる。
    「ファウスト様、」
     ああ、頼むから、そんなに大きな声を出さないで。そう思うのに、胸の痛みは長く続いてファウストから呼吸と言葉を奪い去っていく。視界が歪んでいくのをどうすることもできないまま眺めていた。なにもかも、まるで映写機が映す遠い物語のように現実感がない。
     同じようにしゃがみ込んだレノックスの腕を気やすさを装って何度か軽く叩いて、そこでファウストはようやく呼吸を取り戻した。
    「……っ、すまない、大丈夫……すこし胸がつかえただけだ」
    「ですが……」
    「いい、大丈夫だ」
     レノックスの言葉を遮るように告げて立ち上がる。服を払うと、硝子の破片たちが小さな音を立てて床に落ちていく。レノックスはそれきり何も言わずに、黙って砕けた硝子たちを片付けた。
     砕けた硝子を眺めていると、ファウストは、何故だか不安にならずにはいられなかった。粉々になったグラスの、滑らかで鋭利な断面を見るとなおさらだった。ひとつだったはずのものが呆気なく壊れてしまった事実が、何故だかファウストを酷く落ち込ませた。
    「……それは」
     ファウストはほとんど無意識に声を出した。テーブルの上に、『精神魔術と自意識』の第五巻が置いてある。レノックスの仕業であることは明らかだった。
    「ああ、それですか」
     レノックスは硝子の破片を隈無く集め、紙袋に収めてからファウストの側へやってきた。
    「フィガロ先生が、読んでみて答えがわかったら教えてくれと」
    「フィガロが……」
     レノックスの声をぼんやりと聞きながら、ファウストは、あの日フィガロと交わした言葉を思い出そうとした。けれど思い浮かぶのはファウストの頬をそっと撫でていった指先と、あの不安げな瞳ばかりで、それ以外の記憶はほとんど朧げだった。
     それが、なぜ、レノックスにこの本を渡したのだろう。ファウストは表紙を指先でなぞってみたが、そこからは何も読み取れはしなかった。
    「とにかく、今日はもう休みましょう」
     レノックスに促されるまま、ファウストはキッチンを後にした。重たい身体を引きずるように歩き、階段をゆっくりと登っていくあいだ、ファウストもレノックスも何も言わなかった。酷く疲れていて、今日起こったいくつかの出来事について、深く考えるほどの余裕はなかった。特に、オーエンのことは……。
     はっとして、ファウストは外側からそっとポケットに触れた。三つの小さな果実はまだそこにあった。部屋にたどり着き、レノックスにおやすみの挨拶をしてからも、ファウストは妙に神経が昂ってなかなか寝付けなかった。キッチンに行ったのに水を飲み損ねたと気づいたのは、ようやく眠気がやってきた朝方のことだった。

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