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    メモ:フィガファウ 7/25まで

    タイトル未定 ファウストは努めてグリーンフラワーを採取する仕事に夢中になった。萼を潰してしまわないように指先でやさしくつまみ、ゆっくりと剥がすように摘み取っていく。グリーンフラワーは花弁に傷がつくと傷むのが早くなってしまうため、ファウストはいつだってこの繊細な小花に注意深く接した。摘み取ったそばから青く瑞々しい香りが鼻腔に入り込んでくるのを肺腑に染み込ませながら、黙々と小さな花を摘み取る作業に没頭する。気まぐれにいくつか口に放り込むと甘くてしっとりとしていた。緑の萌える豊かな気配があたりを埋め尽くして、清浄な空気に満ちている。明るい日差しが木々のあいだをすり抜けて降り注ぎ、すこし暑く感じるほどだ。空は青く澄んで、遠くに雲がたなびいているのが見える。しばらく雨が降っていないので、東の国にしてはすこし埃っぽく感じるほどだった。
    「うわ、シノ、どうしたの」
     ヒースクリフの焦ったような声が遠くから聞こえてきて、ファウストはそちらへ注意を向けた。見ると、いつもの練習着姿のシノは、全身黄緑色に塗れている。
    「すごい量のミモザじゃん」
     ネロが揶揄うような声で笑い、言われたシノはすこしくちびるを尖らせて「ここがシャーウッドの森ならこんなことになっていない」と不機嫌そうに言った。黒く艶やかな髪の毛のうえにも、無遠慮なミモザの種が我が物顔で鎮座している。
    「最悪だ。ちくちくする」
    「シノ、動かないで。魔法で散らしてあげるから」
     ヒースクリフが呪文を唱えると、黄緑色だったシノは瞬きのうちにすっかり元通りになった。たくさんひっついてたね、とヒースクリフが笑っている。空中で苔のように丸く集められたミモザの種は、ヒースクリフの魔法で木々の向こう側へ吹き飛ばされていった。
    「ヒースはミモザにも優しい」
     その後ろ姿を見送りながら、シノはなんとも誇らしげな顔で言う。
    「お前はもうちょっと周りに気をつけろよな」
     無遠慮な二人の掛け合いにネロが苦笑いした。このちいさな従者は、主人であるヒースクリフを事あるごとに褒めそやして大事にしているが、肝心なところで彼の命令に従わない厄介な子犬だった。彼らはお互いを大事に思い合っている割に、意思疎通に難がある。
     ファウストはその様子をすこし離れたところから見ていた。なんだか花の香りがひどく強く感じられる気がした。
    「先生、どんなかんじ」
     遠くのネロが手を振ってファウストに合図する。
    「うん、いいのが採れたよ」
     返事をしながら、ファウストは三人のほうに足を向けた。一瞬陽が翳り、空を見上げると雲が一片急ぎ足で駆け抜けていく。風が出てきたらしい。すっかり元通りの姿になったシノが寄ってきて、ファウストのカゴの中から花弁をいくつか掠め取っていった。
    「うわ、もう苦くなってる」
    「こら、シノ。つまみ食いしないで」
     ヒースクリフが嗜める声を聞くともなしに聞きながら、ファウストはグリーンフラワーのたっぷり入った籠をネロに手渡した。
    「頼むよ、シェフ」
     受け取ったネロはいくつか見聞し、指先で花びらを擦り合わせるように揉み込んでよくよく香りを確認したあと、くちに放り込んでゆっくりと咀嚼してみせた。そのひとみがわずかに嬉しそうな輝きを覗かせる。どうやら満足のいく品だったようだ。
    「うん。せんせ、ありがと」
     ネロはファウストから受け取ったカゴを魔法で小さく仕舞い込んでから、ゆっくりと両手を頭上に上げて背中を伸ばした。関節包の空気が弾ける軽い音がファウストにも聞こえてくる。


     窓の向こう側に、ヒースクリフとシノが笑い合っているのが見えた。季節柄ずいぶん強くなってきた日差しを避けて、ミモザの木陰で肩を寄せ合っている。シノが指差す先を逐一丁寧に確認しては、手元の図鑑と照らし合わせているようだった。
    「熱心だねぇ」
     ネロがエプロンの端っこで雑に手を拭きながら、ため息を吐くように言う。
    「君もあのくらい取り組んでくれてもいいんだが」
    「それは言わないでよ」
     俺はしがない料理人だぜ、と笑うネロは、自称する通り先週のテストでも見事に赤点をとったばかりだった。ファウストは手元のカップを所在なく揺らした。すっかり冷えてしまった紅茶が、カップの壁にゆるく波模様を描く。
    「あんたまだそんなの飲んで、暑くないの」
     ネロが呆れたふうな声で言ったのをわざと黙殺して、ファウストは残っていた紅茶にゆっくりと口をつけて飲み干した。窓の向こう側ではヒースクリフが何やらシノに小言を言っている。あの子の声はシノよりいくぶん高いから、ずいぶん遠くまで聞こえてくる。
    「ネロ、」
     ファウストは言いかけて、その続きを言えなかった。言われたネロは気怠げに、けれど意識はファウストのほうをしっかり向いているのがわかる。ファウストはすっかり黙り込んで、空になったカップを意味もなく傾けた。わずかに底に滞留していた紅茶の残りが気まぐれな軌跡を描く。
    「…………いや、なんでも」
     言い淀んで結局言葉を濁したファウストに、ネロは気を悪くした素振りも見せずにただひと言、そう、と返して、それが彼の優しさだとわかっているので居た堪れなくなる。
     言うべきだったのか、言わざるべきだったのか、答えを見つけられないままファウストもまた押し黙った。言うべき言葉ならもっとほかにあったような気がするけれど、いずれにせよ、言ってしまえば取り消すことはできないのだからこれでよかったのかもしれない。窓越しに手を振る二人にファウストとネロも応えた。陽に透けるヒースクリフの綺麗な金髪がやけに目について痛かった。
    「元気だな……」
     ネロが若干げんなりした声で言った。夏の気配の色濃い今日、この日差しは齢三桁の自分たちには少しばかり堪える。
    「まったくだ」
     ファウストはカップを片手に立ち上がると、キッチンで湯を沸かした。茶葉の入った缶を手に取り、その中身がほとんどないことを思い出してうんざりする。贅沢をしているわけでもないのに、生きていくのは物入りだ。次から次へと消耗品が消えていく。
     残った茶葉を湯で煮出しながら、ファウストは手袋に包まれたままの指先を擦り合わせた。午前中に換気したせいか、日陰になっている家の中はすこし冷える。
    「ネロ、君もあったかいの飲む?」
     缶の底に残った茶葉を集めながら訊ねる。こんなことなら昨日ラスティカに貰った分を持ってくるんだった。
    「いらね。てかこの暑いのによくそんなの飲めるね」
    「へぇ。君って案外代謝いいんだ」
    「そういう問題か、これ」
     ネロの視線に眺められながら、ファウストは小さく肩を竦めた。湯気の立つカップをテーブルの上で冷ましながら窓の向こうを見遣ると、二人はちょうど図鑑遊びを終えたようだった。ファウストのすぐ隣では、足を組んだネロのつま先が神経質そうに揺れている。
    「せんせー、あんま無理すんなよ」
     呟くように言われた言葉に、かすかに首肯する。無理をしているつもりはないのだ。ファウストにとってはもうこれが普通なだけ。
     木製のドアが開き、シノとヒースクリフが顔を覗かせる。
    「ネロ、そろそろ帰るぞ」


     ファウストの息抜きといえば、二ヶ月か三ヶ月に一度、嵐の谷へ帰ることだった。あらかじめ休みをとってひとりで帰ってくることもあれば、今回のように予定や任務のついでに立ち寄ることもある。
     すっかりひと気のなくなった小さな家の中で、ファウストは静かに息を吐いた。西陽の差し込む狭い部屋の中は茜色ばかりで満ちて、影がいっそう黒々として見える。何をする気も起きず、ファウストは重たい身体を引きずるようにソファに腰掛けた。ついさっきまで賑やかだったのが信じられないほど辺りは静寂に満ちて、実態を持たない張り詰めた音が耳の奥で響いている。残酷なほど孤独な耳鳴りだけれど、実のところファウストは、この現象が嫌いではなかった。ひとはみな孤独を嫌い毒のように扱うけれど、外界との完璧な隔絶はファウストを正しく導き、癒してくれる。……これでいい。ひとりがいちばんいい。なんの憂いもなくぼんやりしていられる。家に帰る、という挙動そのものがファウストを安心させてくれるのだった。
     この谷が、森が、ファウストの居場所を作ってくれた。ここ以外にはもうファウストのための場所はどこにもない。この静謐な精霊の森だけがファウストの拠り所で、もう、それだけで十分だと思えるのだ。
     秩序を守るものに、この谷は優しい。森を守り、精霊を尊重し、生きるのに足るだけの生活を遵守するならば、この谷はファウストを尊重してくれる。決して深くは踏み込んでこないけれど、静かに慰めてくれる……。
     ファウストはぐったりと四肢を投げ出したままソファから動けずにいた。
     あらゆる疲労がファウストの繊細な精神をすり減らし、まるで巨大な石臼に下敷きにされているのはあたかも自分自身であるような錯覚さえ抱きながら、ファウストはただじっと息を潜めている。ひと月の半分はこうして屍のような自分の抜け殻と対峙しなければならず、そのままならないことがファウストにとっては余計に不甲斐なく、また理不尽に感じられた。けれど以前と違うことは、魔法舎に生活軸がある以上、容易に嵐の谷へは戻れないことだ。以前であればいくら身体が言うことを聞かなくても家の中でただじっと耐えていればよかったけれど、先生としての任も担っているいまとなってはそうもいかない。どんなに時間を作ろうと苦心しても、ここに帰ってこられるのはせいぜい二ヶ月か三ヶ月に一度が限界だった。
     窓を閉め切っても、どんなに蝋燭に火を灯しても、薪を焚べても、重怠く沈んだ心を引き上げてはくれなかった。見つめた先の炎はファウストを嘲笑うように揺らめき、遠ざかっていく。ひどく疲れていて眠りたいのに、あたまの芯が騒がしくて目が冴えてしまう。ぼんやりと沈む意識とは裏腹に脳裏ではなにか思考のようなものが矢のように飛び交い、それはまるで腐った果物に集る羽虫に似て際限がない。
     ファウストは行儀のいい魔法使いだった。谷の不文律を侵すことも、精霊を粗雑に扱うこともなく、自然に逆らわず暮らしてきた。水に触れる指先すらもやさしく、あらゆる蕾を慈しみ、朝露ひとつも壊さないように森を歩くことだってできた。……それでも、今回ばかりはこの森も、アミュレットも、マナエリアでさえも、ファウストを守ってはくれないようだった。瞬きを繰り返すたびに、ファウストのからだからは時間と空間が概念ごと剥がれ落ちていくかのように遠ざかっていき、それをぼんやりと感じているあいだ、不思議とかなしくはないのだった。
     ファウストは古びたブリキの人形よりまだ錆びた動きで、いくつも蝋燭に火を灯した。このともしびを絶やさないうちはまだ大丈夫でいられると思った。蝋燭が何本も何本も火にかけられ、歪み、潰え、ついには机の一角が溶け出した蝋の屍に食いつぶされるまで、あるいは朝日がファウストの真っ白な頬を照らし出すまで、そればかりを繰り返していた。


     授業が終わったばかりの夕暮れのことだった。教本のいくつかを返却するために立ち寄った図書室で、ファウストは深く息を吐いた。身体が重くて仕方がない。嵐の谷に帰ったばかりにも関わらず、思っていたよりもずっと体調がままならなくて歯痒かった。
     こんにちは、と、礼儀正しい声にファウストは小さく手を振って応えた。並んだテーブルの端のほうで、リケとオズが並んで研究ごっこをして遊んでいる。研究ごっこというのはリケとミチルが考えだした遊びのひとつで、図鑑などの文献の中からなんでも好きなものを選んで、それについて調べたことをレポートにまとめるといった、子供たちの自主性と知的好奇心に基づいた一種の自己研鑽のようなものだった。旧い魔法使いたちにとっては見慣れた事象でも、彼らにとってはなにもかもが目新しいできごとなのだ。この遊びで大切なのは正しい資料に基づいていること、それから、答えは自分たちで探すこと。魔法に始まり、動植物、妖精、自然科学、天文学についてなど、彼らの好奇心には分類の隔たりなどすこしも関係がないようだった。かつてのファウストがそうであったように。
     ふたりの興味にはそれぞれ違いがあって、リケは特に食べ物や動物といったわかりやすいものが好きみたいだった。ネロのあとをついて料理について勉強したり、シノと一緒に近所の草原や林に出かけたりしているのをファウストも見たことがある。一方のミチルは薬学や魔法について学ぶことが好きなようで、リケのように外に出かけるよりは、図書室で文献と睨めっこしていることのほうが多いようだった。いずれにせよ勉強熱心な子どもたちだ。シノやネロもあのくらい勉学に励んでくれればファウストの心労ももう少し減るのだろうけれど、生憎ふたりにはそういった兆しは見られない。
    「バジリスクは巨大な蛇です」
     黙って耳を傾けるオズに、聴かせるようにリケは言った。
    「あたまに王冠模様がついていて、毒がとても強いです」
     オズはリケの言葉に浅く頷いた。この親切で心優しい魔王は、子どもの遊びにも真剣に付き合っているらしい。ペンを握ったリケの手が、少しばかり辿々しい手つきで用紙にバジリスクの絵を描いていく。
    「それで、えっと、ふだんは砂漠に棲んでいて、トートという鳥から生まれます」
     リケは図鑑を一生懸命指で追いながら、覚えたての言葉を読み上げては用紙に何事か書き写していった。
    「よし、できました!」
     リケが花が咲いたような笑顔で言う。ファウストは思わずオズを見遣った。ファウストが見守る先でオズは何事か黙考し、重たい口を開く。
    「…………トートではなく、イビスだ」
    「え?」
    「イビスだ。トートは神話上の神の名に過ぎない」
     オズがゆっくりと言葉を紡ぐと、リケは怒ったように頬を膨らませた。
    「間違ってたってことですか? もう、そういうのはもっとはやく教えてくださいって、いつも言ってるのに!」
     もう書いちゃったじゃないですか、とリケが不満げに言うのを、オズがどこか困ったような顔で聴いている。
    「……すまない」
    「仕方ないですね、オズはのんびりなんですから」
     リケは再び用紙にペンを走らせ、文字のびっしり書かれたその紙を満足そうに眺めてからオズにお礼を言った。
     ふたりの向こう側の窓から夕陽が差し込んで、黒々とした影を描いている。その様子が何故か北の国で修行していた頃の自分と重なるようで、ファウストは無意識に瞬きをした。差し込む茜色の西日がフィガロの白い肌を染めるとき、何故かいつも不安だった。怜悧な目元がいっそう陰を帯びるのがどこか恐ろしくて……。
    「ファウスト、お願いがあるのですが」
     不意にリケがはきはきとした口調で言った。
    「ミチルのところに、一緒にお見舞いに行ってくれませんか」
     ファウストは本棚の隙間に教本として使っていた分厚い辞典をやさしく押し入れ、隙間を整えた。布の貼ってある背表紙の、厚くてざらざらした手触りが指先を離れていく。
    「僕が?」
    「はい」
    「オズがいるだろう」
    「もういません」
     その言葉にファウストが振り返ると、なるほどオズの姿は跡形もなくなって、そこにはただリケの細い影だけが伸びている。
     それに、とリケは小さな声で続けた。
    「オズはあんまりお喋りが上手じゃないですし。……ひとりでお見舞いにいくのは、すこし、こわくて」
     それきり押し黙ったリケの若葉色の瞳が、西日の赤に照らされて不思議なほど暗く見える。ファウストはひっそりと息を飲んだ。ファウストには、リケの純粋な感性が痛いほど眩しく、そして危うく見えることがあり、そればかりか不躾にもそこに自分の過去を重ね合わせるような真似をしては、この子どもの行く末を案じることすらあった。
    「お願いします、ファウスト」
     リケは祈るように両の細い指を組み合わせて言い、そうであるからには、ファウストには彼の頼みを断る手段はなかった。


     魔女風邪と呼称されるからには、それは魔法使いに特有な一過性の流行り病である。斯くいうファウストも、過去にはこの魔女風邪で一週間も高熱が続き寝込んだことがある。無理が祟ったのだねと微笑みながら、師匠のひんやりと冷たい手が額を撫でていった夜のことを、ファウストはなぜだかずっと忘れられなかった。
    「お見舞いには、花が必要だと聞きました」
     リケは言い、体温ですこし草臥れている、小さな白い花の茎を大事そうに手に持っている。細い月明かりが差し込んで、廊下の向こう側まで二人の影が頼りなげな表情で伸びていた。ミチルの部屋の前でリケは不安そうに立ち尽くし、手の中の花を思慮深い表情で見つめている。
    「大丈夫、ミチルも喜ぶよ」
     幼い魔法使いを励ますために、ファウストは努めて優しい声色で告げた。瞬間、まるい額がファウストを見上げる。
    「……オーエンが」
     リケは言葉を詰まらせながらも、なんとか声を発したようだった。廊下はしんと静まり返り、ドアの向こうからは何の音も聞こえてこなかった。
    「オーエンが、その花みたいに、ミチルも弱って死んじゃうんだって……」
     リケは言い、その言葉にファウストは息を飲んだ。細い肩に手を触れると、そのひとみにはいつのまにか涙でいっぱいになっている。
     ファウストは手袋の指先でリケの涙を拭ってから、ゆっくりとその場に膝をついた。固く握りしめられた手の甲に触れると、冷えた指先は小刻みに震えている。
    「大丈夫。おまじないを教えてあげよう」
    「……おまじない」
    「その花も、ミチルも、きっと元気になるおまじない。リケにぴったりの優しい魔法だ」
    「はい」
     教えてください、と、真剣な瞳がファウストを射抜く。月明かりに照らされる眼差しはきらきらと光っていたが、そこにはもう悲観的な色は見られなかった。
    「イメージがあれば大丈夫。何もかも上手くいくよ。……さぁ息を吸って」
     ファウストが促すと、リケは素直に深呼吸をして、真剣な眼差しで手の中のほっそりとした花を見遣った。薄い唇が呪文を紡ぎ、瞬間、魔法陣が仄かな煌めきを纏って空中に展開される。
     それは一瞬の出来事だった。ふと気がつくと、ドアが開いている。中からフィガロが気安い仕草で顔を覗かせていた。
    「やぁ、ふたりとも、こんばんは」
     フィガロが言った。
    「リケ、もしかしてお見舞いに来てくれたのかな」
     フィガロは長身をわずかに屈め、リケに目線を合わせるようににっこりと微笑んだ。リケが挨拶を返すと、ドアを大きく開いて手招きをする。
    「祝福の魔法だね、上手にできてる」
    「ファウストが……」
    「教えてくれたの? 素敵だね、彼はいい先生だ」
     二人に続き、ファウストもミチルの部屋へ足を踏み入れた。何処からともなく水の満ちた小瓶を取り出したフィガロが、リケから花を受け取って窓辺に飾っている。ファウストは何故だかひどく慎重にドアを閉めた。蝶番が軋む小さな音さえこの場の調和を乱すような気がした。
     部屋は暖かく、病人特有の弱々しく無気力な空気に満ちていた。薄暗い部屋の中、フィガロの背中の向こう側に布団の塊が見える。
    「リケが来てくれたよ」
     フィガロはリケの華奢な背中に手を添えながら言い、ミチルは乾いた声でそれに応えた。ファウストはそのやり取りを、部屋の隅でぼんやりと眺めた。
     布団の山の向こう側からミチルの細い手が伸びてリケと触れ合った時、ファウストにはミチルがなんだか違う生き物のように感じられた。熱病に冒され、重たい布団に圧しつぶされて、ミチルの輪郭は次第に歪んでいく。リケの花が不安げな顔で揺れ、それは室内灯のわずかな灯りのなかで大きな影となって壁一面を覆った。視界が回り、けれどファウストはそこから一歩も動けなかった。ほんの僅かにでも身じろぎしてしまえば、この空間の何か大事なものが粉々に砕けてしまうような気がした。
     咳き込む声が苦しげな響きを伴って部屋を覆っている。フィガロの手が氷嚢を取り換えるのをじっと見つめていた。ミチルの顔はフィガロの影になってよく見えないが、フィガロの繊細な手がその汗ばんだ額を拭い、髪の毛を優しく撫でつけているのが手に取るようにはっきりとわかった。かつて自分がそうされたように。リケが布団の上を遠慮がちに撫でて、それはいくつも往復を重ねるうちに滑らかで優しい動きに変わっていった。
     耐えきれず、ファウストはふらふらとした足取りで部屋を後にした。猫の子の一匹すら目を覚さないような慎重さでドアを閉める。廊下はひどく静かでひんやりとしているファウストはいつのまにかじっとりと汗をかき、手は小刻みに震えていた。知らず浅くなっていた呼吸に廊下の冷えた空気が入り込んできて咳き込む。心臓が早鐘を打つかのように嫌なリズムで脈打っている。


     春の雨が続き、中央の国はしばらく冷え込む日が続いた。
    「中央もこの時期は雨が降るのか」
     シノが言い、手についた雫を振り払った。窓硝子は湿気で白く濁り、シノが手のひらで雑に拭った部分だけまるくぽっかりとくり抜かれている。雨の多い東の国育ちらしく、ヒースクリフやネロもこのじっとりと陰鬱な雨には耐性があった。こんな日でも野外での戦闘訓練を提案するシノを退けるのに骨が折れたほどだ。
    「ほら、シノもこっち。宿題終わらせるよ」
     ヒースクリフが手招きする。
    「俺は雨の日は勉強に向かないんだ」
    「お前はいつも勉強に向いてないよ!」
    「なんだ、わかってるんじゃないか」
    「馬鹿言ってないでやるの。別にあたまが悪いわけじゃないんだから」
     嗜める言葉にシノは目を瞬かせ、にやにやと嬉しそうな表情でヒースクリフの隣の席に腰掛けた。
    「……褒めてないからな」
    「いーや、褒めたね。もっと言ってくれ」
     主君の呆れた視線を物ともせずにシノが言い、華奢な指先がペンを握る。
     ファウストはテストを採点する手を止めないまま、栗色の髪の毛を盗み見た。熱心に図鑑のページを捲りながら、ネロとあれこれ話しをしているのを眺め、そっと視線を逸らす。何かを誤魔化すようにサングラスのブリッジを指先で押し上げ、けれどそれを見ているものは誰もいなかった。
     ミチルを除く南の国の魔法使いたちは、任務でここ二日ほど魔法舎を留守にしている。定期的に行われる、病の沼の生態調査のためだ。毎回五日ほどで日程を組まれており、病み上がりのミチルは今回だけメンバーから外れていた。その間のミチルの扱いについて、なぜか最初から決まっていたかのようにごく自然と東の国が受け入れ、こうしてミチルは授業に参加する流れとなったのだ。あれから三日間魔女風邪に苦しめられたミチルは、顔色こそ悪くないがまだ時折りちいさく咳き込んだり疲れたような表情を見せることがあり、ファウストはそのたびに気を揉んでいた。
    「はちみつ入れるといい感じになるんだよな」
     ネロは机に片肘をついて、その手のひらに顎先を乗せながら言った。
    「あと、生地は一晩冷蔵庫で寝かせるといい」
     ネロの言葉を頷きながら聴いているミチルは、ペンを走らせて何事か紙に書きつけている。どうやら今回のミチルのレポートは、パンケーキ作りについてらしい。きっと先日の見舞いの礼なのだろうことが、ファウストにはすぐにわかった。
    「一晩も……」
    「そ、料理には根気が必要なの」
     困ったように眉を寄せるミチルに、ネロは悪戯っぽく笑って言った。
    「それに、一晩空いてる方が話題になるぜ。ソースをいくつか作り置きすることだってできる」
     とっておきの木苺を出してやるから、とネロは言い、ミチルはそれに頷いた。書き終えたばかりのレポートの真新しい紙をそっと指先で撫でてからファイルに仕舞い込む。
     ファウストは無意識のうちに、窓の向こうへと目線を向けていた。春の雨はいかにも冷え切っているような表情で静かに降り続け、萌え始めたばかりの新芽を励ますように優しく撫でている。ようやく採点の終わったテスト用紙の角を揃えてから、ファウストはひとりひとり教卓の側へ呼びつけて指導を行った。ヒースクリフの丁寧な筆跡や、ネロの癖字や、シノの力の入りすぎているインク溜まりは、そのまま彼らの個性を反映する鏡のように正確で、ファウストにはそれが手に取るようによくわかるのだった。筆跡の生み出す手掛かりは、彼らを導くのに最適な道しるべとなってファウストを案内してくれる。彼らにとっていちばんいいやり方をファウストはよく心得て、その通りに応用問題の解き方や、文献となる本の提案や、あるいは誤字の訂正をしていると、いつだってどこか身体の芯が落ち着いていくのがわかった。没頭できることがあるのはファウストには幸いであり、なにか考えごとをしているほうがよほど気が紛れるのだ。
     すべてのテストの返却が終わっても、ファウストは教室を出ようとはしなかった。雨がごくささやかないたずらとして窓硝子を叩いていく音が静かな教室に響いている。教室にはもう誰もいなかった。ファウストはなんだかぼんやりとして、自分の意識が引き剥がされて別のものになっていくような錯覚を覚え、その覚束ない感覚に不安を抱き、あるいは安心を覚えたりした。
     薄暗い教室のなかで息を潜めていると、自分の骨が軋む音すら聞こえてくるようだった。関節は滑らかな膜で覆われて、そのあらゆる隙間にファウストの秘密を隠してぎいぎいと歪な音を立てる。ひどく身体が重たかった。窓の向こう側に嵐の谷の幻想を見たが、それはすぐに遠ざかってファウストを失望させた。
    「ファウスト、飯」
     いつのまにかシノが、ドアの向こう側から顔を出している。教室は驚くほど暗くなっていた。日没の時間を過ぎてもまだ降り続ける雨の気配が、冷気をまとってファウストの足元に忍び寄っている。
    「……ぁ、いま、行く」
     咳払いで誤魔化しながら、ファウストは立ち上がった。喉は乾燥し、何日も声を出していなかったかのような音が空気に溶けていく。外套の前をぴったりと閉じても、すでに身体は芯まで冷え切っていた。


     ファウストに明確な変化が現れたのは、南の国の魔法使いたちが、病の沼の定期検査から戻ってきた頃だった。ファウストはこのことを誰にも言わなかった。この不思議な現象について、言語化するほどの気力が残っていなかったのだ。
     初めて気がついたのは、寝る前に結界を張ったときのことだった。いつものように触媒を配置して呪文を唱えると、それはわずかな抵抗を伴ってファウストに違和感をもたらした。結界の綻びこそなかったものの、気味の悪い違和感はファウストの感覚の奥に根を張り、それ以来、喉に魚の小骨が引っかかったような、あるいは小さなミモザの種が知らぬ間にくっついていた時のような違和感は、魔法を使うたびにファウストの心にさざなみを立て、不安となって降りかかった。
     不安は泥のかたちをしていた。油断していると足を取られそうで、ファウストはいつにも増してあらゆることに過敏になり、そうして神経をすり減らした。常に逆立っている精神は休まるところがなく、浅い眠りはさらに浅くなっていき常に頭痛がした。文献をいくつか漁ってみても、違和感の正体を掴むことはできなかった。
     ファウストが霞のような頼りなさでため息を吐いたのは、ちょうど『精神魔術と自意識』の第五巻を読み終えたときだった。「自我意識は彼我の乖離により確立される主観的な精神構造である」という文言から始まるその本は、辞書にも似た正確さでファウストを知識の奔流に巻き込んだが、そこに欲しい知識の片鱗を見つけることはできなかった。
     書架の合間を泳ぐようにして、ファウストは図書室のなかをあちこち歩き回った。腕に抱えた『精神魔術と自意識』の、一冊分の隙間を探していた。それは確かにファウストが自分で手に取ったもののはずだったけれど、どこから取り出してどうやって読んでいたのか少しも思い出せなかった。靴底をすり減らすように歩き、何度同じ書架の前を通っても、たった一冊分の隙間はファウストから隠れてしまって見つけられなかった。
    「そんなに目をぱちぱちさせて、どうしたの」
     フィガロは書架に手をついて、ファウストの行く先を塞ぐかのように立っていた。
    「……え、?」
    「目だよ、そんなに強く瞬きしたらかわいそうだろう」
    ──こんな夜の遅い時間に会うだなんて思っていなかった。たじろいで立ち止まったファウストの真っ白な頬に手のひらで触れて、フィガロはわずかに口端を笑の形に持ち上げている。親指でサングラスの下の皮膚を撫でられて、ファウストは息を詰めた。
    「かわいい顔が台無し」
     息を吐くような静けさでフィガロが笑う。子どもを見守るような眼差しに、ファウストは一歩、二歩と無意識に後退りしていた。
    「な、にを」
    「……何か困ってる? 本が必要なら見繕ってあげようか」
     いかにも親切そうな表情でフィガロは言った。リケにそうしたように長身をわずかに屈め、伺うようにファウストを覗き見る。一瞬、目眩にも似た歪みが視界を覆い、ファウストは小さく頭を振った。
    「何も……」
     図書室の明るく保たれた光量が、サングラス越しのファウストの瞳を貫いて明滅する。見上げかけた目線を靴先に落として、ファウストはまた少し足を後ろに引いた。
    「何もない」
    「あ、ファウスト」
     気がつけばフィガロの声を振り切って、ドアの向こう側へ駆け出していた。もうとっくに日付の変わった空は漆黒に塗れて、月明かりが窓枠のかたちに行儀よく収まって廊下を照らしている。頬を包む手のひらの感触が優しくて恐ろしかった。
     遠い昔、ファウストにあれだけの仕打ちをしておきながら、それが、いまさら、なんだというのだ。あのとき、簡単に手を離したくせに、一度だって迎えになど来なかったくせに、こんなことになるまで、ファウストの名前すらきっと思い出さなかったくせに、いったい、なんだというのだ。
     ファウストの心臓は怒りと悲しみで脈打って、どくどくと血を滴らせている。耳元で鼓動が熱を持ち、呼吸が詰まった。階段を登り、部屋のドアを閉めて結界を張っても、まだ指先は微かな震えを伴っている。
     ミチルを看病したときの優しい眼差しを思い出していた。かつて自分のあたまを撫でた手のひらが、ミチルの柔らかく素直で、まっすぐな髪の毛を撫でるのを思い出すたびに胸が苦しい。肺の奥にミモザの種がくっ付いてしまったみたいに、上手に息ができなくなる。得体の知れない悲しみがファウストの胸を満たしていく。
     ファウストは震える手でアミュレットである蝋燭に火を灯した。小さな灯りが立ち昇り、闇に包まれた部屋をわずかに照らしだす。それだけでは足りなくて、ファウストは部屋中の蝋燭をかき集めた。いつしかテーブルは蝋燭でいっぱいになり、溶け出した蝋がカーペットにまで滴っている。手袋を脱ぎ捨てて炎の上に手を翳すと、それは生き物のようにファウストの肌を舐め、あたかも慰撫するかのように振る舞った。カーペットには蝋が滴り続けている。炎の熱で目が乾いていく。いつのまにか窓の外には夜明けの気配がしている。
     ファウストが『精神魔術と自意識』の本を置き去りにしてしまったと気づいたのはちょうどその時だった。窓辺で小鳥が鳴いていた。
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