尻ポケットの中で端末が震えた。
画面を見ずとも通知の内容に想像がつき、重いため息を吐く。
街灯の下で立ち止まり、ポケットからスマホを取り出し画面をつける。薄い板を取り出す腕の動きさえ億劫で、肩の角度をやや後ろに曲げたことで、皮膚の下から凝り固まった音が聞こえた。
表示に出てきたポップアップはやはり上司からのもので、明日朝イチの会議で使うデータはどこにあるのかという内容だった。
これ以上ため息を吐くまいと下唇を内側に丸め、そう言うと思ったのであなたのデスクトップにわざわざ・分かりやすいように・見つけやすいように保存させていただきましたと丁重に伝える。
元々この上司の案件だったはずだ。だというのに、いつの間にやらホルスが資料もなにもかもを作成している。こんなことは今に始まったことではないが、この仕事状況にはいい加減見切りをつけたい気持ちになっていた。
本来なら返信に既読がつき、なんらかの返事がきたのを確認してから閉じたほうがいいのだろうが、もうどうとでもなれという気持ちの方が勝り、未読のまま端末を乱暴にポケットに捩じ込んだ。
目と鼻の先にあったコンビニで酒を買い、行儀悪く道の途中で缶を開ける。ポケットの中で振動を感じたが、返信を見るのが嫌で無視をする。退勤後だというのに上司からのメッセージを見ていると、まるでまだ仕事中かのように思えてくるものだからうんざりするのだ。
死んだ顔で酒を飲みながら電車に揺られ、最寄りに着いたところでネクタイを緩めた。が、直後に首回りにまとわりついている紐に苛立ち、解いて通勤用の鞄に突っ込んだ。皺になるかもしれないが、それよりも肩の重みを少しでも軽くしたくて、シャツのボタンもいくつか外した。
ようやくアパートの前まで辿り着く。学生時代から借りており、慣れ親しんだ古い部屋だ。鉄製の階段は錆びが目立ち、築年数を物語っている。一歩一歩に体重をかけながらカン、カン、と革靴でゆっくり踏み締め、三階まで登りきった。
早くシャワーを浴びて寝たい。鍵穴にキーを差し込みドアノブを回すと、ドアが開かないことに気づいた。
「……は?」
あれ、今開けたよな? じゃあ最初から開いてたってことか。
思い至り、目を瞑って息を吐きながら天を仰いだ。いくら疲れていたと言っても不用心すぎる。
もう一度キーを回しドアノブを回すと、今度はちゃんとドアが開いた。しかし開けてすぐまた、とぼけた声を上げる。
廊下の奥、ワンルームの電気が点いている。
なにより人の気配がした。
「あれ、おかえり」
ひょ、と玄関先に向かって顔を出したのは恋人だった。赤い髪を後ろに纏め、ホルスがプレゼントした黒いヘアバンドでおでこを出している。右手には包丁、左手にはネギを握っていた。
「……ぉじ」
「おう。返事ねえから会社だと思ったわ。まだ飯できねえから先シャワー浴びてこいよ」
「……あ、ハイ」
セトは一声かけてあっという間に料理に戻っていった。
叔父の姿が見えなくなった後玄関のドアを閉め、自分の姿を見下ろす。
ネクタイもしていない、よれたシャツにスーツ。一日の疲れを纏った汗だく埃まみれの身体。ほとんど飲み干していたビール缶。疲労でやつれた顔つき。
引っ張り出した端末には、上司の返信とほぼ同時刻、セトからのメッセージも入っていた。
『家きた。帰り何時? 飯作っとく』
セトとは仕事の忙しさを理由に、数週間ほど会えていなかった。次の休みこそは、と思っていたが、フライングで会いにきてくれたのだろう。
足元には、今朝慌てて家を出たため出し損ねたゴミ袋があった。洗濯機には溜まった衣類と、たしかシンクにも洗っていない食器が重なっていたはずだ。布団も乱れたままで、掃除機だって最後にかけたのがいつなのか思い出せない。
蹲りたいような、なんだか泣きたいような気になった。
「お前なにしてンの」
「……叔父様」
玄関のドアにこめかみをくっつけて寄りかかっていると、物音がないことに訝しんだセトが部屋から出てきた。項垂れているホルスに声をかけ、近づき顔を覗き込む。
「どうした。誰かになんかされたか」
「そんな小学生みたいな……」
「うっせ。死人みたいな顔しやがって。とっととシャワー浴びて、飯食って寝ろ。明日も仕事あんだろ。だらだらしてっと遅くなるぞ」
「叔父様は、明日は」
「明日休み。有給」
「そう……ですか。すみません」
「ハ? なんで謝ってんだ」
セトはホルスの力ない声に首を傾げ、ホルスの鞄を受け取りつつ腕を引いて部屋に導いた。バターの香りが漂っており、なにか炒めていたのだろう、蓋がされているフライパンを一瞥する。
「いえ、なんか、休み合わせられればよかったですね、せっかくの有給だったのに」
「? 謝ることか? 急だったからな。今日ここ来るのも二時間前に決めたし」
「そう、でしたか。明日のご予定は?」
「お前の朝飯作って、洗濯して、掃除して、昼飯作って、ピクミンやって、お前の夕飯作る」
淡々と明日の予定を告げるセトにじわ、と込み上げるものを感じ、大きく息を吸って誤魔化した。
「うれしいです、待っててくださるんですか」
「忙しいんだろ、仕事」
「今は……そうですね、けっこう」
「お前は頼らなすぎなんだよクソガキ」
「ぁいた」
額を指で弾かれ、一瞬仰反る。セトはホルスの膝を足で蹴っ飛ばし、再度風呂を勧めた。
セトの言うことを聞きシャワーで冷水を被る。顔に水をかけ、滲んだ涙を一緒に流す。
恋人の顔を見て泣いてしまうくらいには、いつの間にかいっぱいいっぱいになっていた。
その後シャワールームを出て、セトが作ってくれた出来立てのあったかい夕飯を二人で食べている時も、ホルスは少し泣いていた。セトは何も言わず、スン、と静かに鼻を啜るホルスのグラスに水を注いだ。
食事の後並んで食器を洗い片付けている時、ふとセトが「あのさあ、」と話し始める。
「引っ越そうかと思ってよ」
「えっ。……仕事は?」
「今度うち完全リモートになるんだわ。まあパソコンさえありゃできるからよ、うちの仕事。前の部屋手狭だったし、その機会にと思って部屋探してんだけど、お前も一緒に引っ越さねえか?」
泡まみれの手をシンクの淵にひっかけた。セトはフライパンに残ったおかずをタッパーに移している。明日の昼飯に包んでくれるらしい。
「その気があるなら次の休み不動産屋行こうと思ってた。どうだよ」
「……行きます」
「ん。駅近ぇとこがいいよなあ」
移し替えて空になったフライパンを、追加で洗えと渡される。タッパーを冷蔵庫にしまったセトが振り返り、屈託のない顔で笑った。
「したらお前も早めに帰ってこれるし、朝だってギリギリまで寝てられんだろ」
このアパート駅遠いだろ、と言ったセトにキスをする。たまらなかった。
「……朝は叔父様の顔を見ながら起きられるってことですか? 最高ですね」
「は。言ってろ」
「……ガッカリしませんでしたか? 今日」
「あん?」
フライパンに洗剤を垂らし、手の泡を落とした。布巾で手の水気を切り、今日初めてセトを正面から抱きしめる。
「だらしなくて、幻滅しませんでしたか」
「いや、うちこれよりひでえときあるわ。きれいな方だぞマジで」
「本当に? 終わったと思ったんですけど」
「だってゴミ袋一個しかなかったぞ」
「朝出し損ねてしまって……」
「勝った。俺ん家最高四個」
「んふ、よ、四個……」
「出し損ねてたは出す気があったってことだろ。四個も溜めてるとそもそも出す気起きなくなってくるんだよ」
「片付いてよかったですね」
「苦情入ってからが本番だ」
「く、ふふふ……そうですか」
こめかみにキスをすると、セトがホルスの背中を摩った。あやしているに近いかもしれない。
しばらく抱きしめあい、またどちらともなく唇を寄せた。疲れ切っている上明日も仕事なので、今日はただ身を寄せて眠るだろう。
一緒にいれるなら、それだけでも充分幸せだ。
「良い物件あるといいですね」
「男二人いけるベッド置ける家じゃねえとな」
「誘ってますか……? 今からですか? 叔父様のためなら俺、がんばります」
「バカタレ今日は寝ろ。その顔色治すまでセックスはなし」
「え!!!」
「お前そんなデケェ声出たのか……」
わくわく同棲計画とともに夜が更けていく。
ホルスのシングルに無理やり身を詰め横たわると、セトは「もうじきこの狭さともお別れだな」と笑ったが、正直、買い間違えたふりをしてベッドはまた一回り小さいものを買ってしまおうかと目論んだ。
セトとくっついて眠るこの時間が、一番疲労回復に役立つのである。
了