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    祝🎊ながいきの半神さま!開催おめでとうございます!
    (※pixivにて公開しております「キスで見送る」の番外編となっております)
    大学でモッテモテなホルスくんが、ヤバめな女に目をつけられてしまい…果たしてホルセトちゃんの運命やいかに。

    #ながいきの半神さま

    ホルス先輩争奪戦線 鳥肌と、血の気が引くような目眩。
     下を向いて固まってしまった甥の青褪めた顔を見て、考えるよりも先に目の前の皿を手首の外側で遠ざける。ホルスが手にしていたフォークを手刀で叩き落とした。テーブルの上に叩きつけられたフォークが滑り、勢いよく床に落ちる。フォークに付いていたクリームで汚れてしまった床には目もくれず、椅子から立ち上がりホルスの横につく。己の渾身の力をもって、みぞおちに拳をめり込ませた。
     コハ、と空気を吐いたホルスは反射的に腕で身体の前をガードしたが、なりふり構わず首根っこを掴み強引に立たせ、トイレまでホルスを引きずる。
     顔を便器の中心に来るように押さえ、丸まった背中をドンと叩いた。
    「吐け、早く! 全部出せ!」
    「う、ぉぇっ」
    「ああもうなんてもん食ってんだよなんなんだよあれ……! ホラ早く全部吐いちまえッ!」
     逞しい筋肉の隆起している背中を音が鳴るほど何度も叩く。
     一応言うが、虐待ではない。むしろ介護だ。
     気持ち悪さ、悍ましさ、恐ろしさで、大の男が両者共に半泣きだった。
     ホルスは目尻に涙を滲ませ、人差し指と中指を口内に突っ込んだ。舌の根を押し、自ら嘔吐感を迎える。ぐ、と迫り上がったものを耐えることなく吐き出し、その間セトはずっとホルスの背中を摩ってやっていた。悪態は吐けど、さすがに気の毒が過ぎたのだ。
     恋人に吐瀉物を見られることを恥じるようなウブな時期は過ぎている。胃をひっくり返して吐く恋人に、嫌悪感などは抱かない。吐くたびにビク、と痙攣する背中を、可哀想にと思いながら撫で続けた。
     さてどうしようか。片手でホルスを慰めながら、『あれ』を贈った相手の事を考える。
     ワンホールのケーキを作り、材料に髪の毛を混ぜた相手のことだ。

     ◆

     ホルスはモテる。
     そりゃもう、びっくりするほどおモテになる。
     ホルスと仲の良い友人たちは、皆少なくとも一度は「ホルスくんの連絡先教えて」と言われているし、比較的ホルスとよく喋る女性は、彼のファンから尖ったナイフのような目を向けられている。
     セトもモテる。こちらもびっくりするくらいモッテモテである。
     ただ違うのは『モテ方』だ。
     セトはとにかく美しい。自然な雄々しさの中に、怪我をするような苛烈さがある。神秘というほど華奢ではないが、目が離せなくなる妖しさを持っていた。
     対してホルスはもっと身近な、言ってしまえば庶民的な魅力。
     見上げるほどの逞しい体格。割れた腹筋とぶ厚い身体。袖から覗く太い腕。浮いた血管。節の立った指先。喉仏。静かに深く、腹の底に響く声。
     そしてなにより優しい。ひとえに彼の母親が、「優しく、紳士でありなさい」と教育したおかげである。本人自身はセトにしか興味のない男だが。
     セトは『触れてみたい』魅力だが、ホルスは『触れてほしい』魅力なのだ。
     そんなもん、そこらの女なんてメロメロのふにゃふにゃになるに決まってる。
     老からは「優しい子だね」と好かれ、若からは「お兄ちゃんかっこいい」と慕われ、男からは「あいつマジでアツいよな」と憧れられ、女からは「一度でいいからあの太い腕でガッチリ背中をホールド且つ手のひらで後頭部を固定された状態でめちゃくちゃエロいキスをしてほしい」と熱視線を向けられる。
     それがセトの、可愛い可愛い歳下の恋人だった。
     そんなぴよぴよの恋人は現在あらかた吐き終わり、ソファの上でうつ伏せに消沈している。
    「水いる」
    「……いります」
    「ん」
     コップいっぱいの水を差し出すと、緩慢に起き上がりながら受け取り一気に飲み干した。胃液が出るまで吐いたので、軽い脱水状態である。
     ぷは、とコップから口を離し、コンと音を鳴らしてローテーブルに置いた。セトもソファに座りたかったので、ホルスの身体を手で払う動作をし、横に詰めろと無言で伝える。
     ホルスはセトの背中側に片脚を一本乗り上げ、もう片方の脚をセトの膝の上に乗せた。長い両脚で身体を挟み込み、横から抱き締める。首筋に顔を押し当てた。
     ずいぶん大きな子供だなと思いながら、丸い頭を撫でる。短い毛をわしゃわしゃと乱し、顔を傾けて慰めるようにつむじにキスをした。
     何があったか、説明タイムに入ろう。


     ホルスは数週間前、一人の女性を痴漢から助けた。
     朝の満員電車。たまたま近くに立っていた女性の一人と目が合った。
     ホルスにとってはただの偶然だ。しかしその女性にとっては、死にたくなるような屈辱と恥辱から助けを求めるのに、必死に彷徨わせていた視線だった。
     ホルスと目が合った瞬間、女性は大きな目に溜まっていた涙を零し、はくはくと声にならない声で「助けて」と言った。
     すぐ後ろの、不自然なほど女性と密着していた男のネクタイを掴み上げ引っ張る。ビール腹の男は、自分よりもはるかにガタイの良い大男に掴み上げられ、なす術もなく次の駅で下され、ホルスによって駅員へ引き渡された。
     だがこの男が、とんでもない不届き者だった。
     駅員に「冤罪だ」とほざき、挙句ホルスと女性を交互に指差し「お前らグルだろ! 俺を嵌めるつもりなんだろ! ふざけやがって、人の人生めちゃくちゃにする気か! だいたいそんな短いスカート履いといて、触られたくなかったら自衛し、」
     と、唾を飛ばしながらそこまで言ったところで、顔の真横に風を切る音と衝撃音が鳴った。
     男が背にしていたホーム内の壁、顔のすぐ横に、ホルスが拳を叩きつけたのだ。
    「ふざけるなこの下衆が。どんな格好をしていようが、それは犯罪を犯していい理由にはならない。この女性に謝れ」
     精悍な青年の怒りに男は圧倒され、駅員はキュンとし、女性は恋に落ちた。
     男はその後常習犯だったと発覚し、悪質だとして警察に通報。後のことと女性は駅員と警察に任せ、ホルスは無事に帰宅した。
     しかし恋に落ちたこの乙女、駅員との会話からホルスが近隣の大学に通っていることを知り、なんと大学まで押しかけてお礼の品を持って参った。門の前で頰を染め、ホルスを見るなり、先日はありがとうございましたと震える手で小さな紙袋を渡したのだ。
     中身は連絡先と、クッキー缶。
     そう、クッキー缶だ。可愛らしいアイシングクッキーが敷き詰められた、SNSで話題になったこともある人気店の商品。決して人毛ケーキではない。
     重要なのは、この浪漫溢れるワンシーン、目撃者多数だったという点だ。
    『あの』みんなのホルスくんが、顔を赤くした女から、何がしかを受け取っている。
     みんな好きだから遠慮していたというのに。
     抜け駆けだと。
     許すまじ。
     彼女を外部の人間だと思わなかったホルスファンの女子学生たちが、抑えていた恋心を爆発させた瞬間である。
     翌日から目撃していた女子たちによる、ホルスへのプレゼントアタックが始まった。
     ここ最近、ホルスは毎日のようにお土産を持って帰ってきていた。奴はよく食べるし、それをファンもよく知っているため、胃袋を掴めというノリでたくさんの食べ物を与えられた。
     食べ物に罪はない。市販品なら貰ってもたぶんそこまで問題はない。ただ手作りはさすがにアブナイんじゃないかというのがセトの感想であったが、これについては後の祭りである。
     前述した通り、ホルスという男は優しかった。あくまで紳士に接し、セトの存在があるためお返しはしないが、貰ったものにはキチンと毎回お礼を伝え、突き返すことはない。
     その中途半端な優しさがいけなかった。
     こんなに好きなのに、どうして応えてくれないの。
     どうすれば私のものになってくれるの。
     まだ足りないの。何が足りないの。伝え足りないの?
     これなら伝わる?
     過激な恋する乙女たちは、さらなる行動を起こす。
     最初に首を捻ったのは、同じ学部の先輩から「がんばって作ったの♡」と言って渡されたテディベアだ。瞳の色が真っ赤なルビー色でセトを連想させたため、可愛いですね、ありがとうございますと何の疑いもなく持ち帰り、貰いましたと見せられたセトが一番先にゾッとした。
     学生時代、一時期ヤバい女と付き合っていたことがあるセトだから気付いた。ホルスにシッと一本指を口の前に立て忠告し、背中の縫い目を鋏でプツプツ切る。綿に包まれて出てきたゴツい精密機器は、疑いようもないくらいシッカリ盗聴器だった。念入りに壊した。
     次に愕然としたのは、友人から神妙な顔で「お前、最近大丈夫?」と心配された時だ。なんのこっちゃと聞いてみると、なんとホルスの盗撮写真が出回っていると言う。
    「部活の後輩のコがさ、お礼はするからお前の写真撮ってきてくれって言ってきたんだよ。あ、ちゃんと断ったかんね? けどなんか、聞いてみるとそういうやりとりが一、二くらいじゃないぽいんだよね。あちこちでやってるらしい。お前の写真と引き換えに〜ってやつ。危なそうなら一回センセたちに相談してみる? あれ、ホルス? おーい、聞いてる? ホルス?」
     とまあこんな具合なので気が遠くなり、この日は早めに家に帰り、気付け薬としてセト吸いをした。
     ここまでくると恋する乙女というよりも、ただのストーカー集団だ。
     そんなこんなで仕込まれた盗聴器の破壊と盗撮防止で気を張っていた中、久々にもらった美味しそうな甘味。
     久々にたべものもらった! 盗聴器付きじゃない! おいしそう! とニコニコの顔でありがとうございますと受け取ってしまったが運の尽きである。
     それがこの、細かく刻んだ髪の毛が大量に含まれたショートケーキだった。
     説明は以上となる。


     セトの耳の近くで、う、と小さな呻き声が聞こえた。
    「まだ気持ち悪いか?」
    「少しだけ……」
    「まあ気持ち悪いわな、そりゃ」
    「お騒がせを……食べる前に気付くんでした……」
    「過ぎたこと言ったってしょうがねえだろ。そんでどうする?」
    「? どうとは」
     まだ顔色の悪いホルスの背中に、腕を回してあやす。
     キッチンの方を顎で指した。シンク横の天板には、まだ食べかけのケーキが置かれたままだ。
     白いクリームに混じった黒く小さな塊。「ちょっと主張の激しいバニラビーンズかな? 手作りだしこんな感じなんだろう」と思い、一口食べてザラつきに違和感を覚えるまで気付かなかったのだ。向かいに座っていたセトが本来純白なはずのクリームに眉を顰め、切断面のスポンジ部分から飛び出た少々長く残っていた髪の毛に事の次第を理解し、尾骶骨から脳天にかけて鳥肌が立った。吐かせなければ、と繰り出した右ストレートである。
    「警察行くか?」
    「け、警察ですか」
    「冷静に考えて傷害事件級だろ。行くなら証拠品として保存しとくし」
    「……後輩なんです……」
    「仲良いわけ?」
    「いえ、特に仲が良いというわけではないんですが……」
     ホルスの言いたいことは分かる。「同じ学校の後輩を警察に突き出すのか」という意味だろう。
     だがセトにとて許せぬものはある。
     頰を寄せるとホルスも顔をすり寄せてきたので、鼻先同士をくっつけて戯れた。本来であれば平日夜のこの時間は、愛憎注入ケーキに頭を悩ませる時間ではなく、らぶらぶちゅっちゅいちゃいちゃタイムなのだ。
     まさか交際するなんて数年前までは夢にも思っていなかったことだが、無事ホルスがいないとダメな身体になった。可愛くて、健気で、一途で、愛情が重くて、たまに意地悪にもなる歳下の恋人。
     贈り物を断らなかったホルスも甘いが、そんな好意に付け込み歪んだ愛情を渡してきやがった外野に一番腹が立つ。「そんなこともあらぁな」で済む話ではない。
    「……分かった、嫌なら警察沙汰は避ける。気分的には通報してえけどな」
    「すみません……」
     ホルスの薄い頰の肉を無理やり掴み、形を変えるように摘む。むにむにと弄んだ。
    「なあ、お前に恋人がいることを知ってる奴らって、大学にはどんくらいいるんだ。少なくともお前にストーカーかましてる奴は知らねえんだよな?」
    「……たぶん、ですね。俺からは言ってません。知っている友人は片手で数える程度ですが、その方々から彼女たちが何か聞き出しているかは分かりません」
    「自分では言ってねえのか。……あ、そか、俺が前に口止めしたんだったか」
    「ええ、約束は守っています」
    「ふうん……」
     セトはしばらく黙り込み、思案げにした。片方の手はホルスの腕の側面を撫で、もう片方の手でぽってりした唇を揉んでいる。
     一定の間隔で起きる瞬きを横から眺め、気を引こうと耳たぶにキスをすると、セトは視線だけを横に向けホルスの頰をこしょこしょとくすぐった。
    「恋人がいるって女どもに言っちまえば」
    「……えっ?」
    「しのごの言ってらんねえだろ」
    「な、いけません!」
    「うるせっ」
     至近距離で大声を出したために、セトは弾かれたように横に首を逸らし、鼻の頭と目の下に皺を寄せた。思いの外大きかった自分の声にホルスがすみませんと慌てて謝り、セトの手をきゅっと握る。
    「明かす許可をいただけたのは嬉しいですが、こうなった以上危険です。叔父様に危害が加わるかも」
    「叔父サマだって言わなきゃいいだけだろ」
    「そういう問題では……」
    「……ふん。ならこっちで退治しとく」
    「は? たいじ?」
    「自分のことだけ気にしてろ。あと分かってるとは思うが、もう贈りモンは断れ。全部な」
    「あ、ええ、そうします。さすがにもう平然と受け取れる気もしないので……あの、退治とは?」
     ホルスの疑問を誤魔化すように唇を突き出して、開いた口の端にキスをする。今度は正面から唇に口づけ後頭部を撫で付けると、誤魔化されたことに不満げな顔をしたホルスも、同じようにセトの頭を柔く固定した。脚がセトの太ももを上から押さえ、首筋に鼻をくっつけスンと匂いを堪能する。
    「お前犬みたいだな」
    「……わん」
     ぶ、と吹き出し、指先でホルスの前立てをなぞった。

     ◆

     肩を軽く叩かれる。振り向くと友人が手を軽く上げており、頰を緩めた。
    「お疲れ様です」
    「っつかれぇ、行こ」
     本日の講義は午前までで終了だ。アルバイトのシフトも入っていないため、授業が終わり次第昼食を食べに行こうと友人と話していた。
     荷物をまとめ立ち上がり、雑談をしながら校内を進む。盗撮写真が出回ってから、事態を重く見た彼は何かとホルスを気にかけていた。いい人だ。
    「ねー、食い終わったら映画行かん?」
    「いいですね。何観るんですか?」
    「ストリートハンター」
    「すと……?」
    「結構有名な漫画なんだけど聞いたことない? 渋谷でお掃除屋を生業にしてる男主人公が、モップ片手に美人依頼人の問題を片付けていくハードボイルドストーリー」
    「それ本当におもしろいんですか? なんか、パチモン臭がするんですが……」
    「お前パチモンなんて日本語いつの間に覚えたのよ。おもしろいよー、俺もう三回目。主題歌好きすぎてそれ聴くためにエンドロール待ってる感じ」
    「三回……そんなに観たら内容覚えてるんじゃないですか?」
    「覚えてる。セリフそらで言える。いいの、何回観ても良いから」
     友人の足取りは軽く、ウキウキとした気分がまま表れている。
     いくら好きでも同じ映画を短期間に何度も観た経験はなかったが、何回見ても、の部分には共感できた。
     家で仕事をしているだろう恋人を思い浮かべ頰が緩む。セトの姿であれば何回、何千回、何億那由多焼き付けたって飽きはしない。
     他の友人や同学科の知り合いとすれ違い手を振りつつ、歩みが門に差し掛かる。
     門の支柱に添って佇んでいる姿を確認し、口の端が引き攣った。
    「あ、ホルス先輩っ」
    「……お、疲れ様です」
    「お疲れ様です。今日の授業は終わりですか?」
    「ア、ッスーー……ええ、ハイ」
     あの後輩だ。無邪気な顔で髪の毛入りケーキを作った女。
     つい後ろに一歩後退る。気付いていないのか、それとも気付かないふりをしているのか定かではないが、彼女は相変わらず頬を染め、上目遣いでホルスに迫った。横にいるホルスの友人のことなど目に入らない様子だ。
    「ホルス先輩、この間のケーキって食べてくれましたか?」
    「え、あ、ああ、ええっと……はい」
     どう答えるのが正解なのだろうと一瞬考えたが、もし「食べてない」と答えれば、なにか恐ろしいことが起こる気がした。しどろもどろに嘘を吐くと、彼女は花の咲いたような顔をし、胸の前で手を握り指を交差させる。
    「よかったあ、頑張って作ったんです! 胸焼けしちゃったらと思って、クリームは甘さ控えめに」
     いやいやそこじゃない。甘さの問題ではなく原材料の問題である。胸の少し上あたりに水平に整えられた髪が目についてしょうがない。気のせいかもしれないが、彼女はケーキを渡してくる数日前まで、もう少し髪が長かったような。
    「私お料理は好きなんですけど、お菓子作りはあんまりしなくて……お口に合いましたか?」
    「え、ええ。ごちそうさまでした」
    「本当っ? あのよかったらなんですけど、また作ってきてもいいですか……?」
    「あ、いえ……すみません、もう贈り物は受け取らないことに決めたんです」
    「……えっ」
    「えっ?」
     ホルスの一言に、不安げな顔で成り行きを見ていた友人までもが声を上げた。
    「その……お気持ちは嬉しいんですが、数が多くて。食べ物は食べきる前に傷んでしまったら申し訳ないですし、うちは収納スペースがそこまで広くないので、物をいただいてもそろそろ置き場に困っていて……なのでせっかくなんですが、すみません、お気持ちだけ受け取らせてください」
     大きな身体を縮こませ、会釈をするくらいの角度で頭を下げた。これは昨晩、ゼヒゼヒと虫の息で余韻に浸る叔父の身体を撫で回しながら、二人で考えた断りの文章だ。一字一句違えず、あくまで申し訳なさそうに告げる。
     彼女は眉をハの字に下げ、斜めがけのショルダーバッグの肩紐を身体の前で握り締めた。ついでにV字に開いた胸元を寄せて強調する。そこそこ豊かな胸の持ち主だが、正直バストサイズはホルスの方が悠に越している。
    「そ、ですか」
    「ええ、すみませんが……」
    「……わかりました。そうですよね、ホルス先輩人気者だし、もらいすぎても困っちゃいますよね」
    「あは、はは……」
    「びっくりしたあ、私のケーキのせいかなって思っちゃった」
    「は」
     歪んだ目尻に凍りつく。
     途端に微笑みに悪寒が走る。つやつやの愛されピンクリップが塗られた唇が次の言葉を紡ぐ前に、断りも入れず友人を俵担ぎにした。
    「ぐえ、え、ホルスッ!?」
    「すみません大人しくしててください」
    「え、ちょっ、おぇっ!」
     後輩にサヨナラも告げずダッシュする。周囲にいた人間全員の注目を浴びたが、目の前だけを視界に映し、青い顔で颯爽と駆けた。友人の背負ったリュックサックが、揺れる度に顔の横にガツガツ当たる。教科書の角っぽいものにこめかみを攻撃され痛かったが、気にならないくらいには心臓が破裂しそうだ。
    「ほらー、ホラーだ、無理です、むり……!」
    「え何、なにっ? 待ってホルス、恥ずい! 恥ずいってこれ!」
    「ちょっと我慢しててください! なるべく遠くに逃げるので!」
    「マジで何っ!? 俺どこに連れてかれちゃうわけ!? アタシを離して!」
     デカい男がデカい男を担ぎ、必死の形相で街中を駆ける。脳裏には昨晩残したケーキの残骸が蘇っていた。結局セトが「念のため」と言い、まだ捨てずに冷凍庫の中に保管してある。精神衛生上、外から見えにくいようにアルミホイルでぐるぐるに包んだが、今朝氷を取り出そうと冷凍庫を開けた際目に入り、呪いか何かを発酵させている気分になった。


     たまに寄る穴場の古いカフェに辿り着く頃には息が上がっており、よろける友人を下ろしながら前腕で扉を押し開けた。ドアベルの音と、涼しいくらいの空調に少し鳥肌が立つ。
     人の良い好好爺がやっている店だ。いつもと変わらない柔らかい笑みに二名だと伝え、滲んだ冷や汗を手のひらで後ろに撫でつけながら奥のボックス席に着く。二人揃って音を立てて腰を落ち着けた。
    「……なんかたぶん、死んだばあちゃんとちょっと会えた」
    「すみません、乱暴な真似を……」
    「いや別にいンだけど、なんかのアトラクションかと……」
     お冷やを持ってきたアルバイト店員に軽く頭を下げ、学校内にいた時よりもいささかげっそりした友人に、例のケーキについて説明した。ここまで振り回しといて、なんの説明もないのは理不尽だと思った。
     話を聞き終えた彼が、片手で傘を作るように額を抑える。喉の奥から搾り出すように「しんど……」と言った。
    「いやごめん。言葉選べなくてスマンだけど、さすがにキモくね?」
    「ですよね……」
    「てか怖い。人の好意ってこんなに警戒しなくちゃいけないもんだったっけ。え、それプレゼントしたのがさっきの子って話でしょ? サークル同じじゃなかったっけ?」
    「その通りです。だから困ってまして……」
     友人は「怖ぇ〜〜」と言いながらお冷やを一気に飲み干し、空になったコップを置いた。手に付いた結露を何度か両手を擦り合わせて拭う動作をする。
     立ててあったメニュー表を広げ、ランチメニューを選び注文した。友人はチーズハンバーグプレートに、ホルスはカルボナーラを平らげたが、各々食事を終えたがまだ胃袋に余裕があったので揃ってデザートを頼むことに決める。お互い甘いものは好きだ。
    「なんにする?」
    「ケーキ以外で」
    「ガチトラウマじゃん」
    「ケーキ系はしばらくは食べられなそうです……」
    「かわいそうになあ。こゆうのは? パフェ」
    「あ、うまそう……それのフルーツ盛りにします」
    「俺チョコの方にしよっと。コーヒー飲むっしょ? スマセーン!」
     手を上げて再び店員を呼ぶ彼を見ながら、少なくなった水を飲み干す。角切りサイズの氷をざらりと口の中に流し入れて食べると、注文を聞き終わった店員が、ついでに空になった皿を回収しつつ水のおかわりを注いでくれた。
     店員が立ち去り友人が、テーブルの前で腕を組んで身を乗り出す。
    「で、さあ、どうすんの? このままにしとくわけ?」
    「いえ、それについては叔父様が何かお考えのようで……あっ、えっと、あの」
    「うんうん分かった分かった、オジサマな。ここだけの話にするからだいじょぶだってば」
    「……恐れ入ります」
     ぺこ、と小さく頭を下げる。
     少し前まで彼にはよくセトとの惚気話を聞かせていたのだが、セト本人に「叔父と甥が付き合っていることを知っている」と友人に知れているとバレたところ怒られたため、以来甘々同棲生活を惚気ることはなくなっていた。ホルスに交際相手がいることを知らない者が多いのはこのためである。
     しかし今は非常事態。彼は口が堅い。頭を突き合わせてこそこそと内緒話を続けた。
    「退治すると仰っていたんです。具体的に何をするかは分からないんですが」
    「そんな害虫駆除みたいな……相当怒ってんね。まあ怒るか、普通に」
    「……ええ」
    「なに今の間」
     テーブルに身を乗り出して話していたが、先に到着したアイスコーヒーのため、二人ともテーブルから離れ身体の前を空けた。アルバイトの女の子が二人の前に紙のコースターと、その上にストローのささったアイスコーヒーのグラスを置く。一礼して去る前にちらりとホルスを一瞥し、ぽっと頬を染めた後唇をわずかに内側に丸め、そそくさとカウンターへ戻った。
     いい加減うんざりしたものを感じる。
     ホルスは本当に、心の底から、セト以外の人間には魅力を感じないのだ。それがたとえおっぱいの大きい可愛い後輩でも、お尻の大きい色気たっぷりの先輩でも、「おっぱいが大きいなあ」「お尻が大きいなあ」とは思えど、思うだけ。それだけである。
     自分を見つめて期待してくる他人の反応には気まずさしか感じず、振り切るようにコーヒーに口を付けた。
    「で?」
    「へ、はい?」
    「いやさっきの間は? なんかあんの」
    「ああ……えっと」
     友人もコーヒーを一口飲み、頬杖をついてホルスに向き合った。唇を尖らせてストローを食んでいる。
    「……少々お時間をいただいても?」
    「こわ。おっけ」
    「では……先ほどの話ですが、叔父様が俺のために怒ってくれたことにゾクゾクして……不謹慎ですが俺は叔父様に所有されているんだと、叔父様のものなんだと改めて知ることができたので、その点では感謝ですね。ちょ、そうだ聞いてください、ちょっともう、叔父様ったら愛が深いんです。俺ケーキ途中まで食べて、戻してしまって、けど叔父様ったら俺の背中をずっと摩ってくださっていて、介抱してくれて……つい弱ったふりをしてしばらく抱きついてしまったんですが、バレてないですかね? ……いや待て、もしバレてたとしても咎められてないということは、甘えを許容されていたということ……!?」
    「お待たせいたしました。季節のフルーツミニパフェと、チョコブラウニーパフェでございます」
    「ありざーす」
     注文の品が到着し、背景に集中線が出ているような顔をしたホルスの前にもパフェが置かれた。友人がカトラリーのカゴの中からスプーンを取り出し、片方を差し出したので軽くお礼を言いながら理性を取り戻す。
    「申し訳ありません、つい……」
    「いや、気持ちは分かる。好きな人の話するの楽しいじゃん? 俺もたぶんリサちゃんの話だったら寝ずに一週間話せる」
    「分かります」
    「しかもその一週間の間にさらに好きなところ増えていくから、終わんねンだなこれが」
    「そう……!」
     顔に力を入れ、噛み締めて深く頷くと、ホルスの人相が面白かったのか友人は鼻から空気を抜くような音を出して笑った。
     久々に気が抜けた気がする。
     スイーツ用の柄の長いスプーンの腹には紙ナプキンが巻かれており、解いて一口掬い、サイコロカットされた桃とソフトクリームを同時に頬張った。
    「……情けないです。学校でも助けていただいてばかりで」
    「……ん、あ俺のこと? いや気にすんなって、大したことしてないし。見て見ぬ振りの方が後味悪いわ」
    「いえ、俺が断るのが遅かったせいです。早いところ今日のように申し出ていれば、ここまでのことには発展しなかったでしょう」
    「やー下手に刺激すると逆効果だったりするし、しゃあない。てかオジサマ何するんだろね」
     彼はてっぺんの生クリームをたっぷり掬い、グラス型の容器のフチに飾られたブラウニーに塗した。一口大のブラウニーを口に運び、うめ、と溢す。コーヒーの氷がカロンと音を立てた。
     セトが何をするつもりなのかホルスにも見当がつかなかったが、同時にまさかな、と感じている部分もある。
     恋人の存在を公開してしまえと、セト自ら告げたのだ。
     ホルスにとっては願ったり叶ったりだ。こちとら「この世のすべての美しさを詰め込んだ愛する彼は、俺とお付き合いしてま〜〜〜〜す!」と、大声で叫びたい思いを常日頃から持て余しているのである。
     スクランブル交差点でスクリーンにキス画像を映し、生い立ちを交えながら語りたい。
     交際に発展するまでの出来事を映画化させ、右上にリアルタイムでいちゃついている自分達をワイプで映していたい。
     自慢したい。見せびらかしたい。誰よりも幸せなのだと全世界の人間に告げたい。
     だがセトはホルスと違い、二人の交際を人様に知られることに抵抗感を抱いている。知られてはいけないことだと。
     そんなセトが、ホルスを守るためだけに、恋人の有無を明かして良い許可を出してくれたという事実。
    「愛しい……口に含みたい……」
    「急になに……?」
     なんて男前で愛らしいのだろう。
     愛されているという実感で涙が出そうだ。
    「叔父だと言わなければいい」というセトの台詞は、すっかり頭からすっぽ抜けていた。脳みそのド真ん中に残った都合の良い部分だけが、ホルスの脳内に花を咲かせている。
     こういった状況でなければお言葉に甘えて公開するのだが、現在は髪の毛入りケーキを作るくらい行動力のある人間に危害を加えられている状態だ。交際相手がいることも、一緒に住んでいることも、万が一にでも知られたくない。セトがもし被害に遭ったらと考えるとゾッとする。
     それにしても退治とは如何程のものか。
     昨日は誤魔化されてしまったが、具体的に何をするつもりなのか、今夜にでももう少し詳しく聞き出そう。せめてセトの身だけは守らなければならない。
    「なんか思ったけど、あれだね」
     友人がグラスを引き寄せた。コースターが結露で張り付いたまま、グラスと一緒に持ち上がる。
    「これでもしオジサマが大学まで来てマウント取ったら、いよいよ韓ドラぽいよね」
    「ササキさん」
    「ふはは」

     ◆

     ホルスの通う大学の道路を挟んで向かい側に、軽食が取れるカフェがあった。
     午後になるとほとんどの利用客は学生になり、テーブルにノートや教科書を広げ、カフェオレをお供に勉強をしている姿が多く見れる。ノートパソコンと向かい合う会社員や、読書を楽しむ客も少なくない。
     そのテラス席で頬杖を付きながら、シーザーサラダの中のレタスばかりを選んで食べる男が一人。
     眼光がサングラス越しに大学の門をジッと貫く。若者たちの顔を一人一人見送りながら、腕時計の液晶をチラリと確認する。そろそろだな、と思い足を組み替え、レタスがなくなってしまった器を腕で避けた。
    「お」
     二.〇の視力が、門から現れた大男を発見する。恋人はセトが姿を確認した途端、門の端に立っていた女性を見てたじろいだようだった。
    「おお……?」
     セトからは女の背中と、ホルスとその友人らしき男の正面が見えている。何か話をしているようで観察すると、ふいにホルスが女に頭を下げる仕草を見せた。
     それから二、三話した後、遠目でも分かるほどホルスの顔が引き攣った。
     勢いよく横の男を担ぎ上げる。長い脚をフル回転させ、物凄いスピードで女からも大学からも離れていく。セトも女と同じように、二人が走り去った方を見送った。
    「……あの女か」
     立ち上がりつつアイスコーヒーを飲み干し、明細を人差し指と中指で挟む。無言で会計を済ませ、まだ門の近くに寄りかかりスマホを弄っている女の元に向かった。
     女は両手を使い端末に文字を打ち込んでおり、横から近づくとメッセージアプリの画面が見えた。
    「よお、お嬢さん。ちっと時間いいか?」
     サングラスをシャツの襟に引っ掛けながら呼びかける。急に声をかけられた女はパ、とセトの方を振り返り目を瞬かせた。燃える人形のようなセトの容姿にシンプルに驚いたようだったが、すぐ見知らぬ顔に怪しみ警戒を顕にする。一瞬だけ視線を揺らし、ほんの少し首を傾けた。
    「あ、んと、ナンパ?」
    「そうそう、ナンパ」
     あっさり嘘を吐く。状況を楽しんでいるわけではないが、こんなことでもなければ普段ホルス以外の若者と話す機会がないので、若い女性と会話をするのは久しぶりな気がした。
     セトの言葉に、彼女が肩ごと距離をとる。厚底のスニーカーが砂利を踏んだ。
    「あー、私好きな人いるからムリ」
    「奇遇だな、俺も好きな人いるんだわ。恋バナしようぜ」
    「……は? なに、きも。ケーサツ呼ぶ?」
    「カカ、呼ばれて困るのはたぶんあんたの方だよ」
    「はあ? ムリ、キモいから」
     女は先ほどホルスたちが去って行ったのと同じ方向に歩を進めたので、セトも離れないように後ろについた。
     棘のある声から、どこか焦りを感じたのは気のせいか。
    「まあ待てって、お嬢さん」
    「……」
    「泣かそうとは思ってねえよ。手を上げるわけでもない。指一本触れない。誓う」
    「……ねえマジでなんなん、誰? 怖いんですけど」
    「……あんたの好きな人の彼氏」
     立ち止まった女の目が見開かれた。
    「少し話そう。言いたいことも聞きたいこともある」
     明らかに混乱する女を見下ろし横を通り過ぎる。背中に見送る視線を感じたが、やがて大人しくついてきた。
     鼻でため息を吐く。
     つい言ってしまった。
     誰にもバラさないと決めていたはずなのに、恋人に危害を加えた悪人を前にして暴露してしまうほど、自分で自覚していたよりも憤っていたようだ。
     ここまで言うつもりはなかったんだけどなと、少しばかり後悔をした。


     大学の最寄りの駅まで歩き、駅前のコンビニに立ち寄る。五歩ほど離れてついてきた女に、「何飲む」と聞いたが、戸惑いと一緒に「いらない」と吐き出された。軽く頷いてから店内に入り、結局缶コーヒーを二つ購入して外に出る。
     逃げてるかも、とも思ったが、女はまだコンビニの外にいた。雑誌コーナー側のバリカーに腰掛けつま先を見ており、セトが戻ってくるなり立ち上がって視線を上げる。
    「ブラック。カフェオレ」
    「……いらないって言ったけど」
    「どっち?」
    「……」
     手にした缶を目の前に差し出す。女は不機嫌な顔で、セトの手からもぎ取るようにカフェオレの缶を奪った。ただプルタブに指をかける様子はなく、両手で握り込むように身体の前に固定するのみだ。
     残ったブラックのプルタブを片手で開け、女の横に寄りかかった。
    「なかなかインパクトの強いケーキだったな」
    「……なん、ハア? ……なにが」
    「あ? あんたが作ったんじゃねえの、あの髪の毛入ったケーキ」
    「……」
     女はセトの視線から逃れるよう、顔の水滴を切るみたいに俯いた。
    「胃酸ってのは強力だ。けど髪は消化できねえんだよ。知ってたか」
    「……知ってるけど」
    「知ってて入れたのか。なんで?」
    「……血、は」
    「血?」
     耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな声で、女は背中を丸めながら言葉を紡いだ。
     優しく聞いているつもりはまったくない。むしろ、ここに来るまでに下手な情けはかけないと誓った。調子に乗られ舐められたら、余計に厄介なことになる。
    「血は……消化されるから……つば、とかも。髪ならずっと一緒にいれるかもと思った、から」
    「…………あんまり理解はできねえけど、まあ分かったってことにしとくわ。で? あんたの望みはホルスと一緒にいることだったのか? ホルスの身体ン中で?」
    「……どうだっていいじゃん。理解できないならほっといてくんない? 分かってもらいたいなんて思ってないし」
    「被害が出てる以上、放っておくのは無理だぜ」
    「てかなんなの? もうケーキも何もかもあげないから、これでいいでしょ。電車来るからもう行く。マジでキモい、ナイわ」
    「待てってのバカガキ」
    「なっ」
     急に早口になった女が、駅の改札に向かって身体を動かした。それを言葉だけで拘束する。
    「あのなあ、あんたがよくても俺はよくねえんだよ。自分が何したかちゃんと分かってるか? 傷害罪だぜ、ハッキリ言って」
    「……なに、ケーサツ行けばいいの?」
    「だぁーら、そういうことじゃねえんだってば。なんでこの俺様がわざわざ出向いて、こうやって説教かましてんのかきちんと理解しろ」
    「……」
    「どこのガキとも知らねえ奴に可愛い恋人がちょっかいかけられて、危うく訳のわからんもん食わされそうになって、怒らない奴がどこにいんだよ」
     幼さの残るピンク色の下唇が、噛み締めた形に歪に歪んだ。
     女は言葉に詰まり、冷ややかな視線で射てくる恋敵を睨む。バッグの肩紐を握り締めた手は、力を入れすぎて表面の関節が白んでいた。悔しさと羞恥心で顔が真っ赤になる。
     初めて入ったサークルは最悪だった。
     中学から始めたテニスをまだ続けたいと入ったはずのテニスサークルは、ストレッチ程度の運動をやった後汚い居酒屋で通ぶって、浴びるように酒を飲むことがこの世で一番カッコいいと思っているような人種しかいなかった。馴染めずに早々に辞め、もう少し真面目に活動してくれるような、静かで自分でも馴染めそうなところはないかと友人に持ちかけたところ、「かっこいい人がいるから」と勧められるままに入ったのがホルスのいる文化系のサークルだ。
     一目惚れである。
     日本人とは違う体格の良さ、逞しさ。たとえあったとしても、それをおくびにも出さない下心のなさ。さわやかな微笑みと物腰。元カレたちにはなかったスマートな対応。生活態度も真面目で、悪い友人と連んでいる気配もない。
     完璧だ。しかも彼女の噂もない。この上ない。
     でも先輩、人気者。
     みんなホルス先輩のことが好きだった。
     みんなホルス先輩の彼女になりたかった。
     みんな同じだったのに、均衡はあっけなく崩れた。
    「だって、」
     鼻の奥がツンとする。
    「好きなんだもん」
    「……うん」
    「わた、私、ホルス先輩が好き」
    「俺ホルス先輩じゃねえから言われても困るんだわ」
    「は、ウザ!」
    「はいはいウザくて悪ぅござんした」
     目尻に涙を溜め鼻を啜る女と、それを静かにカケラほどの同情心もなくコーヒー片手に眺める男。コンビニに入ろうとした客はUターンし、出てくる客は三度見してから足速に立ち去り、アルバイトらしき若い店員は、野次馬精神で自動ドアから顔を覗かせた。
    「泣かれたところで、だ。可哀想って思ってほしいのか? 俺はあんたの言うホルス先輩みたいに優しくねえから、知らねえガキ慰めるなんてしねえぞ」
     にべもなく言い放つ。慈悲もない。伝家の宝刀『女の涙』は、セトには一切刺さらなかった。
    「ッあっぶね!」
     女は赤い顔をさらに赤くし、限界まで眉に皺を寄せたかと思えば、癇癪を起こしたように持っていた缶コーヒーをセトの顔面目掛けて投げつけた。反射的に顔の前を手で覆い、手のひらに当たった感触を握る。間一髪鼻っ柱が折れることは避けられたが、ふうふうと息を荒げ肩で呼吸をする女は、尚も攻撃性を顕にしセトを睨み続けた。
    「ねえ、彼氏ってマジで言ってんの?」
    「マジだけど」
    「ありえないんですけど」
    「何が?」
    「だって男同士じゃん」
    「そうだな。それが?」
    「そ、れって……それって、だって、私の方が良いに決まってる!」
     金切り声に近かった気がする。キン、とあたりに響いた叫びはヒステリックだが痛ましくもあり、昼下がりの駅前を通りがかる人々は皆二人の動向を見ていた。中には面白がり、スマホを横にして動画を撮っている者もいる。完全なる見せ物と化してしまった。
    「なんで? 男同士でしょ? 私の方が良いじゃん! 絶対! 譲ってよ!」
    「やだ」
    「なんで!」
    「だって、俺もあいつがいいモン」
     女は黒い涙を滲ませ、眉を寄せたまま口を開けっぱなしにした。
     目を瞑り、首元をガリガリ掻く。
     大人としての矜持でなんとか平静を装っているだけで、カフェテラスで女を見たときからずっと落ち着かなかった。
     この期に及んでまだ頭の隅で、「この女の言う通りだろう」と囁いている自分がいることに気付いてしまったのだ。
     血縁は変えられない。年の差だって埋められない。順当にいけば、どうしたってホルスよりも先に死ぬ。愛した人に置いていかれることの恐怖と孤独感を知っているのに、セトはいずれホルスに味わわせてしまう。
     家族だけど、紙の約束はできない。子供を孕むこともできない。何も残してやれない。同年代の、普通の女性と愛を育むほうが実りがあるやもしれない。それを阻んでいるのは他でもないセトだ。
     それでも、誰にも明かしてはいけないと己にした誓いを破ったのだ。撤回なんて絶対にしない。
    「あんた、俺に譲ってって言ってる時点で、あいつが俺のもんだって事はわかってんだろ」
    「そッ、そん、だって、だって……!」
    「んなに焦らなくても、あいつよりも俺のほうが先に死ぬ。いつか一人にする。あいつが一人になったとき、それでもまだ好きだったら、そんときは慰めてやってくれよ。いつになるかわかんねえけど」
     セトよりも体温の高い身体を思い出した。
     今更あの体温を手離すなんてできるわけがない。
    「譲ってやれるのはそれくらいだわ。だから他は諦めな。俺ンだから」
     下顎にグ、と皺を寄せた女は、歯を食いしばりついに涙を零し始めた。よほど悔しいのだろう。
     セトに噛み付くなんてなかなか骨のある女だとも思ったが、言い返してこない以上、キャットファイトはセトの勝利である。
     先ほど投げつけられた缶のプルタブを開け、その場で喉を鳴らして飲む。
     少女のような顔で泣く女は、白い喉仏が艶かしく上下に動くのを見て、詰まった呼吸とともに地団駄を踏みたい気持ちを飲む。
     勝てないと思ってしまった。
     勝てないと思った方が負けなのだ。
     横っ面を叩いた敗北感と、セトの色気に耐えられなくなる。
     想い人に愛されている男は、羨ましいほどに気高く美しかった。
     女はセトがコーヒーを飲み干す前に、険しい顔のまま駅に向かって立ち去っていった。足取りは一歩一歩が大きく、ショックを受けたばかりの歩き方ではない。最後の反抗心かプライドなのだろう。
     小さく華奢な背中を見送り、空になった缶をゴミ箱に入れる。
     セトもここまで駅を使ったが、女が乗る電車が出発してから帰ろうと思い再びコンビニに入った。野次馬をしていた店員がレジであらためてセトを凝視し、苛烈な美丈夫にドラマを思い描く。
     何か買うつもりではなかったが、パンコーナーを通ると小腹が空いた。ミニクロワッサンの袋を見つめて少々悩んでいると、出入口から自動ドアの開く音と入店音が聞こえる。
     二人分の若い声には聞き覚えがあり、反射的に棚の上に首を伸ばす。頭ひとつ飛び出た恋人と、見たことのある彼の友人の姿があった。
     ヤベ! と咄嗟にしゃがむ。しかし、いやなんで隠れる必要があるんだと冷静になり、ふぅと息を整えて緩慢に立ち上がった。
     セトも平均よりタッパがあるので、棚の上から赤い頭のてっぺんが覗く。すぐにえ、という戸惑いの声が届き、途端に大きくなった足音がパンコーナーに近づいた。
    「お、え、叔父様?」
    「ン」
     セトの姿を見つけたホルスが、目を剥き口を開けて硬直した。次いでどうしたという声とともに、二度目ましての顔もホルスの肩越しに現れる。二人揃って同じ顔をしたので、クッと喉の奥で苦笑いした。
    「おかえり」
    「……た、だいま?」
     彼の友人はホルスとセトの顔を何度も見比べ、いけないものを見てるような表情で、揃えた指先で口元を隠した。後退りし、そのまま店を出ていく。若いのに気が利くにもほどがあるなと感心し、おそるおそるセトに近づいたホルスに、再度おかえりと告げた。
    「ど、どうしたんですか。驚いた……用事ですか?」
    「ん、野暮用」
    「そうでしたか。ああ、本当にびっくりした。ついに恋しさで幻覚を見るようになったのかと」
    「危ねえな。お前飯食った?」
    「はい、さっき。そのまま映画行く予定だったんですけど、彼が彼女から連絡きて中止になりました。なのでもう帰る予定です」
    「ふうん。何見る予定だったんだ?」
    「ええと、スト、ストリートハンター? ってやつです」
    「あー、なんか話題になってるやつか? ……今から行くか」
    「えっっっっ」
    「うるせ」
     店内に響いてしまったホルスの声に、店員が再び野次馬モードになる。煙草の補充をする手は虚ろだ。
    「……デート?」
    「ご機嫌な奴だな、お前」
    「……夢ですか?」
    「なに、行かねえの」
    「行きます」
     食い気味に言い破顔し、うれしい、とセトの手を握った。家ならいくらでも好きにさせるが、さすがに人前だ。離せと軽く手を振ったが、ガッチリ掴まれた手は引き離せず、あの体温が指先に熱を加える。
    「夢だったんです、放課後デート」
    「はいはい」
    「映画の後、そのまま夕飯食べて帰りませんか?」
    「はいはい」
    「今日は宿泊しませんか?」
    「はいは、あ?」
    「言質取りましたからね。行きましょうか」
     今度こそやらかしたと天を仰ぐ。ほんのり期待が膨らんだ気がするが気のせいだ。
     結局何も買わずに退店すると、空気を読んで外でスマホを弄っていた青年が顔を上げ、セトに向かって首を傾け会釈した。ホルスがササキさん、と呼びかけ、太陽を照り返す笑顔で言い放つ。
    「俺もこれからデートになりました」
    「おまッ」
    「おお、オッケ。ねえちょっと最後に聞いてよ、リサちゃんがさあ、早く俺に会いたいんだって。今メッセきて、ホラこれ『早く〜』だってさ、早く〜って、はや、ッカーーーー俺の彼女可愛くない? 可愛すぎて女神とかに嫉妬されて天空を追い出された系……? 人間の可愛さ超越してんだけど、エもしかして妖精さんだった……? 俺が守ってあげないとじゃん、一生涯かけて……愛する……幸せ……え、結婚?」
    「わ、よかったですね、お互い楽しみましょう」
    「おお、また来週!」
     るんとしたホルスと、同じテンションでるんとしたササキが、すれ違いつつハイタッチを交わす。
     顔の表面がグツグツ沸騰しているのではと思うほど恥ずかしく、ホルスのつま先を思いっきり踏みつけた。
    「あ痛ッ」
    「この馬鹿がよ!」
    「お、叔父様、ごめんなさい、怒らないでください」
     スニーカーのつま先が潰れ、ホルスが眉を下げて背中を丸めた。キャンと吠えられ大きな身体を縮こませている様子に、心臓がきゅんとむず痒くなる。情けなさに可愛げを感じるのは惚れた弱みだ。
     ため息を吐いて、ホルスの額の生え際を乱暴に撫でた。最後のひと撫でと一緒に、頭を軽く押して突き放し、セトの行動にぽかんと口を開けた大男を置いてけぼりにして歩き始める。
    「ぇ、え?」
    「うっせえ、ホラ行くぞ」
    「……叔父様」
    「はん?」
     羞恥で体温が上がり、長い前髪の下にうっすら汗が滲んだ。赤い髪がこめかみの辺りに一束張り付く。いつも手首に巻いているヘアゴムを忘れてしまったので、鬱陶しさに手の甲で後髪を払った。
     ホルスは血飛沫を被ったような後ろ姿をぼんやり眺め、陶然とした気持ちのまま、セトの小指に自分の小指を絡めた。セトが肩を上に跳ね上げ勢いよくホルスを振り返り、絡んだ小指とホルスの顔を何度か見比べる。
    「なん、ハッ? オイ離せ……」
    「退治は上手くいきましたか?」
     髪と揃いの赤い眼が一瞬左右に揺れる。すぐに靴のつま先に視線を落としてしまったセトに我に返り、もしや今の自分の態度はまるでセトを責めているように見えるのではないかと思い直し、セトの手を小指ごと掬い上げた。
    「違います叔父様、責めているわけではありません。俺の勘違いかもしれませんが、ここまでいらっしゃるなんて、偶然が過ぎていると思ったんです。……学校に?」
    「……少しな」
     ホルスの勘の良さはセトもよく知っている。交際を明かしてしまったし、そのうち悪い噂となって、ホルスに知られてしまうかもしれない覚悟もしていた。相談せずに勝手に女にコンタクトを取ったことに今更バツが悪くなり、鼻の頭を人差し指でぽりぽり搔く。鼻水も垂れていないのに鼻を啜ったふりをして、空気を誤魔化す仕草を続けた。
    「彼女に会いましたか」
    「さっきまで」
    「話したんですか?」
    「まあな。話つけなきゃ埒あかねえだろ」
     そこまで言うとホルスの手が小指から離れ、今度は全体を覆うように手を握り直された。顔を見上げる。
     普段あまり見ないほどの形相でセトを見下ろしていた。怒っていることが如実に表れており、つい身体を強張らせる。
     口から反射で謝罪が出る前に、ホルスが言葉を被せた。
    「何もされませんでしたか」
    「は、あっ?」
    「怪我は?」
    「……いや、ないけど」
     言い切るとホルスは心底安心したようによかった、と呟き、風船の空気が抜けるみたいに巨躯から力を抜いてセトにしなだれかかった。
    「なっ、なん、オイ退け!」
    「嫌です」
     重たい腕がセトの首周りに絡みつき、首筋に安堵のため息がかかる。鼻先を押し付け甘える様子に、再び顎の下から熱が上がる。
     再度よかった、と耳元で囁かれ、引き剥がそうとして背中の生地を掴んでいた手から力が抜ける。通行人が振り返っているのにももちろん気付いていたが、離れられなかった。
     手のひらを広げ、背中を軽く摩る。
    「……今日の夜、何をなさるのかあらためて聞く予定だったんですよ。行動が早いです……」
    「……悪かったよ。何も言わないで」
    「あなたが無事ならいい」
    「……お前と付き合ってること言っちまったわ」
     背筋が固まったのを手のひら越しに感じる。ホルスがセトの両肩を掴みながらおそるおそる身体を離し、驚愕の面持ちでセトの顔を覗き込んだ。
    「……」
    「……んだよ」
    「……こういう時に使う日本語を、この間教えていただきました」
     ホルスは眉にぎゅ、と皺を寄せ、薄い下唇を丸めた。
    「尊い……」
    「それ日本のOTAKUがよく使う言葉らしいぞ」
    「じゃあ俺も叔父様のOTAKUです……」
    「馬鹿。彼氏じゃねえの」
    「おお……」
    「ブッハ!」
     ひんと涙を流し始めたホルスに吹き出し、背中をバンと叩く。よろけた身体の肩を組むと、ホルスもセトの背中に腕を回し、戯れに横から抱きついた。
    「暑い」
    「我慢してください」
    「映画行くんだろ、ほれ、しっかり歩け馬鹿」
    「どうしましょう。上映中に不埒なことをしてしまうかもしれません」
     横目でホルスを見ると、じ、と瞳で犯された。
    「レイトショーにしませんか?」
    「……エロガキ」
    「なにを仰います。あなたが悪いんですよ。可愛いことをするから……」
    「待てもできねえのか?」
    「できません」
     するりと腰を撫でた手に鳥肌が立つ。
    「俺は悪い犬ですから、あなたの手で躾けてください」
     腰を抱かれ、歩みを方向転換させられる。映画館とは反対の方向だ。
     夜の上映に出かけられる身体で帰してくれるんだろうか。疼いた背中に恥ずかしくなる。せめてシャワーを浴びる時間くらいは『待て』を守っていてほしい。

     ◆

     前方に姿の見えたミディアムヘアにぎくりとする。
     気づかぬふりをして立ち去れればよかったが、挙動が不自然になった瞬間に目が合ってしまった。
     ホルスの姿を見た彼女はほんの少し目を見開いたが、言葉交わすことなく横を通り過ぎる。
     そっけない態度に多少面食らったが、すぐ叔父の『退治』が功を成したのだと納得し、浅く深呼吸をしてから再び歩き始めた。
     あれから件の女はサークルを辞めた。連絡先も一応知ってはいたが、サークルという繋がりがないのであれば連絡を取る必要もないだろうとしてブロックした。セトにも彼女が辞めたことを伝えたが、さして大袈裟な反応はなく、静かに「そうか」とただ一言だけ告げられた。
     平穏だ。解決したのだ。
     じわりと足元から登ってきた感動に、密かにガッツポーズをする。
     実はセトが女と接触してから友人にも協力してもらい、『ホルスには将来を誓った恋人がいる』と噂を流してもらっていた。
     初めこそ「ホルスくんの彼女? どこのどいつ? その女は全員が平伏し納得ができるほどのイイオンナなのか」「女子アナかキャビンアテンダントほどの女ならギリ許してやらんこともない」と息巻くファンばかりだったが、友人の「誰がどう見ても最高につよつよの歳上の恋人。絶対勝てん」という攻撃に加え、「実はホルスの方が尻に敷かれ気味」と追加攻撃の噂を流し、「え? 尻に敷かれるホルスくん最高じゃない? そんなのめちゃくちゃかわいいが?」と、逞しい女たちはホルス×歳上彼女の推しカップルに夢を見る女へと昇華した。
     もちろん綺麗に諦めた奴ばかりではない。むしろ本気でホルスを好きだった生徒ほど、どうせ失恋するならきっちりフラれたいと最後の告白をしてくる者が多かった。しばらくの間は呼び出されることや連絡が多く、以前セトとらぶらぶちゅっちゅ中に告白メッセージが届いてしまった時は、その日一日拗ねたセトのご機嫌取りに手を焼いたくらいだ。
     しかしそれも段々と落ち着いてきた。あとは静かに終息していくだけであろう。確かに中には人のものであればこそ尚更燃え上がるタイプの人間もいるが、そんなものは一握りだ。まして学生。そこまで刺激的でリスキーな恋愛をするにはまだ早い。
     それに、相手はセトである。一枚も二枚も百枚も上手だ。そんじょそこらのお嬢さんに勝てるわけがない。
     そんなわけで平和が訪れ始めた学園生活にほっとしている今日この頃。
     本日はバイトもないため、講義が終わり次第直帰で自宅に戻った。ただいまと声をかけると、セトもいつもと変わらずおかえりと言葉を紡ぐ。手を洗ってうがいをしてからでないとハグさせてくれないので、部屋に鞄を放り投げ速攻で洗面所に寄り、リビングに戻るなり腕を広げた。
    「叔父様」
    「ハイおかえり」
    「はぁ……スゥ」
    「嗅ぐな!」
    「いて」
     スパンとこめかみを叩かれたが、幸せな痛みだと穏やかに微笑む。抱きついたまま後ろに倒れ込み、セトごとソファに腰掛けた。
    「今日、彼女とすれ違いました」
    「彼女? ……ああ、彼女」
    「忘れてたんですか?」
    「今思い出した。なんかされたか」
    「いいえ、なにも。一瞬目が合って、それで終わりです。本当に終わったんだと思います。よかった……」
    「お疲れさん。さすがにもうなんにもないだろうよ」
    「そう願います。最近は告白も少ないし、いい加減そろそろ落ち着いてくるかと」
    「世の中の非モテ野郎が聞いたら憤慨するような台詞だな。贅沢モノめ」
    「俺は叔父様にモテてればいいので」
     鼻先を赤い髪に埋める。シャンプーもトリートメントも同じものを使っているはずなのに、セトから香る匂いのほうが甘い気がする。ホルスを誘惑するフェロモンのようなものなのだろう。
     顎の下をセトの指先でこしょこしょとくすぐられる。目が合い、自然とキスをした。厚い下唇に吸い付き、脇腹を撫でる。
    「おい、夜まで待てよ」
    「……」
    「……お前それわざとだろ」
    「なにがですか?」
    「なにがって……なん、……ン!」
     セトがホルスの顔に弱いと気付いたのはつい最近だ。その顔でジ……と見つめていると、居心地が悪くなるのか照れているのか、ホルスの視線から外れようとする。そういうときはセトが観念するまで瞳を追いかけ、やっと再び目が合ったところでヂュッとキスをするのだ。
    「おンまえさぁ……!」
    「だって……」
    「だってじゃねえよエロガキ! 我慢しろ!」
    「叔父様のいけず……」
    「どこでそんな日本語覚えてくんだよお前ェ……」
     くるくると人差し指でセトの肩をくすぐり唇を突き出して拗ねると、セトもヂュッと音を鳴らし、突き出た薄い唇にキスをした。これで我慢しろと言わんばかりだ。
     ホルスから逃げるように立ち上がりキッキンに向かった後をついて、コーヒーを淹れる腹回りに腕を回す。
    「叔父様」
    「動きづらい離せ。なに」
    「嫌です。大好きです」
    「……ん」
    「ふふ」
     災難とも言える出来事だったが、セトの嫉妬と独占欲は収穫である。学校に来てまでマウントを取るなんて思いもしなかったのだ。
     可愛いひと。
    「俺はきっと、これからもずっとあなたに夢中なんでしょうね」
     横顔にキスをすると、セトの手元の動きが止まった。
     顔を覗く。やや迷いのあるような表情を浮かべていた。
    「お前、……」
    「……どうしました? ゆっくりでいいですよ」
     キッチンに向かっていたセトの身体をひっくり返し己に向き合わせ、瞼にキスをして頰を撫でる。
     セトはしばらくの間黙っていたが、やがてゆっくり顔を上げた。
    「俺が死んだら、執着する必要はないからな」
    「……ずいぶん急な話ですね」
    「……俺の墓の前で泣き続ける必要はない。寂しいと思ったら、温めてくれる奴のところへ行け。罪悪感を覚えなくていい。俺はそれを咎めない。俺は……お前が俺のせいで一人きりになることの方が嫌なんだ」
    「……」
    「ガキもつくってやれねえからな」
     やや自虐の混ざった言葉を聞き、たまらずセトの頭を抱え込んだ。
     指の隙間に絹糸の髪が流れ込み、セトがホルスの首元に頭を預けた。セトの瞼に唇を寄せる。長いまつ毛が唇の薄い皮膚をくすぐった。
    「どうしてそんなことを? なにかありましたか? 誰かになにか言われたんですか? あなたを傷つけるようなことを……」
    「違う。ずっと思ってたことを言っただけだ。俺はきっと先に死ぬ。順番だからな。お前に何も残してやれないことが負い目だ」
    「……今紡いでいる思い出は、残らないのでしょうか」
     もぞりと頭が動き、腕を緩める。顔を上げたセトの目は凪いでおり傷ついているようには見えなかったが、しかし葛藤があったのだろうと分かった。
     唇を端から端まで親指の腹でなぞる。むず痒いのか顔を背けようとしたので、顎を固定し触れるだけのキスをした。
    「……叔父様は優しいですね。俺のことが心配ですか」
    「……そりゃな」
    「ありがとうございます。けどあなたの代わりになる人なんて現れません」
    「……」
    「墓の前で泣くでしょうね。みっともなく喚くかもしれません。自棄にならない自信がありませんから。死ぬまで泣き暮らし、生活も疎かになって、恥ずかしい人間になってしまうかもしれません」
    「……それは」
    「けどそれは、俺があなたを愛しているからです。あなたを愛していた証になる嘆きです。ここに他人が入る余地はありません」
     セトの顔を両側から包む。ホルスの大きな分厚い手に、セトの小さな頭が収まった。
    「俺の悲しみも慟哭も、叔父様を愛していた証拠です。誰にも渡したくない。安心してください叔父様。生きてても死んでも、俺はあなただけのものです」
    「……ホルス、」
    「だからどうかそんなこと言わないでください。俺を温められるのは叔父様だけです。ずっとあなただけのものでいさせてください。俺は俺の棺桶には、あなたとの思い出だけを入れたい」
     額に、瞼に、唇に、懇願をするようにキスをする。それだけでは到底足りず、首筋に唇を滑らせた。強く吸い付き、服で隠れない位置に花弁を散らす。いつもであれば脳天に拳骨を落とされる位置であるが、セトは咎めなかった。
    「……俺の愛は伝わったでしょうか?」
    「……はあ。伝わった。分かったよ、もう……」
    「それはよかった。もうそんな悲しいこと言わないでくださいね」
    「……お前怖ぇよ」
    「ははは」
    「きも……」
     抱き締めあい、仲直りをする。お互いの背中を何度も摩り、しっとりと身体を抱く。
     セトは横顔を筋の浮いた肌にぺたりとくっつけ、内心大量の冷や汗をかいていた。ホルスの目があまりにも『マジ』だったからだ。
     ホルスの反応次第では、良い相手が見つかれば結婚しろとまで言うつもりだったが、下手なこと言わんでヨカッタ。
     気づかれないよう深く息を吐く。
     あの女にホルスが一人になったら慰めてやれと言ってしまったが、本当にそんなことをした暁には火に油かもしれん。己の発言の軽率さに少々後悔する。
    『男やもめに蛆が湧き、女やもめに花が咲く』
     初めて日本のこの諺を知った時はずいぶんな言葉だと仰天したが、きっとあながち間違いではない。いつだって先人は正しいことを言い伝えるのだ。
     ホルスにはきっと蛆が湧く。
     セトの墓前で行き倒れ、きっと本人はそれが一番の幸福だと信じたまま死ぬのだろう。心優しい者が温めようと身体を寄せても、邪魔をするなとあしらうのだろう。蛆が湧いても虫が集っても、セトが心の中にいる限り、他の何もかもはどうだっていいのだろう。セトがどう思うかもおかまいなしに。
     複雑だ。だがここまでの独占欲を見せつけられて、唇の先がムズムズするのもまた事実。ススス、とちゃっかりシャツの間に入り込んできた手を叩き落とさないくらいには。
     あの日の悔しそうな女の顔が思い浮かび、苦笑する。
     悪いなお嬢さん。こいつ俺にメロメロらしいわ。
     不埒な手のひらを受け入れ、首筋にキスを落とす。セトだけに高鳴る鼓動が愛おしく、しょうがねえ奴だなと耳たぶを齧った。


     了
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