地平の星空を見た。
スモッグと街の灯りで灰色に烟った、ビルの隙間から覗くバンカラ街の夜の空を。
あの日、あのタコに言われた言葉をずっと反芻している。
「見上げたらそこに空がある。それだけのことでしょ。」
彼女は、それがさも当たり前のように言った。
その言葉が、ずっと胸の奥で燻っている。
「…」
ほぅ、と息を一つ、吐く。
何度見上げても空は灰色で…星々は見えやしない。
「…行けば、見えるのかな。」
ふと、気になった。
あの空へ飛べば…スモッグと街の灯りが届かない、空の彼方へ高く飛べば、彼女の言っていた景色が見える可能性があるのではないか?と。
思い立ったら、走り出していた。
ビルの隙間を縫い、非常階段を駆け上がる。
そうして辿り着いた、この街で一番高いビルの上。
走って乱れた呼吸を整える間もなく、身体中のインクが沸き上がる。
高く、何処までも高く。
あの雲を越え、星をも掴む勢いをイメージして。
沸き上がったインクが、足元で渦を巻く。
そこに身体を沈め…一呼吸。
次の瞬間、一匹のイカがインク溜りから空へ射出された。
ーーー飛び上がった瞬間、気付く。
高さが、全然足りないことに。
このままでは、雲どころか…あの烟るスモッグすらも超えられない。
…それでも。
一度、飛び上がったのなら、限界まで。
空に溺れるように、がむしゃらに。
腕を伸ばす。無理をした身体の軋みを無視して、天に届けと。
無論、その手は何も掴むことなく…程なくして、落下を開始した。
「…やっぱ、無理かぁ。」
ぼやきながら着地の為に身体をひねろうとした、その刹那。
視界の端に、一条のか細い光が映る。
勢い良く振り向けば、黒い地平線の上、弱く輝く一番星。
その光が、いつか見た景色に…酷く良く似ていて。
「…ははっ。」
乾いた嗤い声が喉から溢れる。
目の奥から込み上げた衝動を抑えるように、目を覆った一人のイカは。
そのまま、灰色のビル群へ…呑まれるように落ちていった。
ー衝撃、鈍い痛みが頬に走る。
「っで!?」
思わず跳ね起きようとして…今度は全身が悲鳴を上げ、また横たわる。
周囲の状況を確認すると、どうやら落ちた先は幸いにもゴミ山の上で、それらがクッションになっていたようだ。
そこから引きずり出され、赤紫色のげそを持つタコに膝枕されている…というのが現状らしい。
タコはというと、いつもの笑顔はなく、何の感情も読み取れない無表情で見下ろしてくる。
「…ごめん、心配かけたね。」
撫でようと伸ばした手も、ペシッと叩き落とされる。
「…ごめんって。」
二度目の謝罪。
それでもタコは無言で見つめてくる。
「…もう、こんな無茶しないから。」
それを聞いたタコの耳がピクリと動く。
少し首を傾げ、本当に?というように視線を投げかけてくる。
「ホントだって。」
カラカラ笑い、全身の痛みを無視してタコを抱きしめる。
「…もう、大丈夫だから。」
ポンポン、とタコの背中を叩く。
それに対して、タコはぎこちなく…でも、縋るように抱きしめ返して。
ービルの隙間から、朝日が差し込む。
…胸の奥を焦がす衝動は、もう、消えていた。