自由 ーコムラン・ビームソングに寄せてー[1.ラーマ・ラージュの章]
眠らなければと思っているうちに夜が明けた。普段なら夜通し本を読んで、またやってしまったとコーヒーでも入れるところだ。けれど今日は鉛を飲んだように身体が重い。このままベッドの奥底へ沈み込んでしまいそうで、むしろそうであればいいのにと思う。私の知らないうちに、"アレ"が終わってしまえばどれほど救われるだろう。
自分らしくもない考えに力なく笑いが漏れる。
何をしている、ラーマ・ラージュ。いつものことだ。ただやるべきことをやれ。
制服に身を包んで自分を覆い隠す。デリーに来て以来15年、これが私の日常だ。自由を求める1万の民衆を叩きのめし、手助けすべき部族の青年を拷問し、白人の犬に成り下がってきた。約束を果たすために今日も同じことをするだけじゃないか。そうでなくて自由を手にできるものか。
机に置かれた命令書に目を通す。記されているのは探し続けていた男の名前。ずっと傍らにいた男の、本当の名前。
コムラン・ビーム。
群衆をかき分けるようにして刑場へ着くと、かつて弟と呼んだ男が眼前に繋がれた。
「跪くんだ、ビーム。」
言葉をかけても表情一つ変えずにいる。よく知る男の見たことのない顔。恐怖に震える男でないことは知っている。しかし、静かな表情の奥で何を考えているのか、今の私には知りようもない。
手元の鞭を握りしめると、自分がじっとりと汗をかいているのが分かった。
父さん…。
覚悟を決めるために思い出そうとしたのか、無意識に思い浮かんだのか。こんな時はいつも父の顔が浮かぶ。そして父との約束が。
顔を上げろ。父を撃ったあの日から、私に別の道などない。
勢いよく放った鞭が友の肉を打つ。
一度。
二度。
三度。
そして、幾度となく。
許せ、ビーム。獅子に正面から襲い掛かれば握りつぶされるだけだ。今まさに、お前はそうなろうとしている。だからせめて命を守れ。跪いて許しを乞え。お前の本心がどうあれ、この"ショー"さえ終われば連中は気が済むんだ。ひと月もすればお前の名前すら覚えていないだろう。武器を手にするその日まで、我々は奴らにとって虫けらに過ぎないのだから。
親友と呼べる男を縛り付ける鎖。その感触を確かめながらひそかに踏みしめると、大きく振りかぶって鞭をふるった。反動で親友の身体が崩れ落ちてくれることを願って。これが最後になることを願って。
もうやめよう、ビーム。自由への道はここに無い。
[2."名もなき奴隷の女"の章]
目の前に細かな血が飛び散るのが見えた。
服が汚れませんように。とっさにそう思った。幼いころ仕事の途中に転んだ時、服を汚したとマダムにひどく叱られ鞭で打たれたのを思い出す。打たれたところは赤く腫れ、今もかすかに跡が残っている。痛みをこらえながら汚れた服を自分で洗った。
痛いのは嫌い。だって、痛いんだもの。
白人は私たちにこんな刑を見せるのが好きみたい。痛みで泣き叫ぶ人、恐怖で失禁する人、果敢に耐えて命を落とす人。私たちはそれを見る。その度に教え込まれるの。お前は無力だ、抵抗するだけ無駄だって。
なかなか屈しない"罪人"に業を煮やして、見るもおぞましい武器が渡される。お仕置きで打たれた感覚が蘇って背筋がぞくっとなる。あの日、使用人のロバートは夜中にこっそり薬を届けてくれた。「すまない。私にはどうしようもないんだ。」という彼の言葉に、白人がどうしようもないのなら本当にどうしようもないんだなと思った。大丈夫、私は諦めるのがとても得意だから。
komuram Bheemudo...
komuram Bheemudo...
風に乗って聞こえてくる…なに…? 歌? 歌ってるの?
南の方の言葉かな。昔、出稼ぎにきたタミル人のおじさんが近所に住んでた。あの人の言葉にちょっと似てる。いつも明るくてみんなを笑わせてたおじさん。今はこの世にいないけれど。
コムラン…ビーム…それがあなたの名前なの?
血しぶきが四方に飛んでくる。さっきとは比べ物にならない大量の血。服が汚れてしまう恐怖と、勝手に動いて警察に目を付けられる恐怖の間で私はただじっとしていた。終わってほしい。早く、早く。こんな怖いのはもう嫌だ。
どうして諦めないの? どうして歌うの?
彼の誇り高い歌声が私を不安にさせる。穏やかな微笑みが不安にさせる。
閉じ込めていたものが出てきそうで怖い。
ビーム、あなたも知っているはず。私たちは無力だって。私たちの抵抗に意味なんて無い。私たちに誇りなんてない。それなのに。
どうして、涙が出てくるの?
彼の体が吊り上げられ、傷という傷から血が流れ出る。
ついに歌声が叫びへと変わる。
なんだかほっとしたようで、酷く悲しいようで、自分の気持ちが分からない。とにかくこの何かが終わってほしい。私が自分を閉じ込めておける内に。
その時。彼の血が一筋の川となって流れてきた。血液が少しだけ私の足に触れる。
あたたかい。
彼の血が触れた私の足。私の、足。
両足の人差し指には、いつ嵌められたかも覚えていないトゥリング。この小さな鎖が私を押さえつけている。人差し指のトゥリングは奴隷の証。私の体が私のものではない証。私の心が私のものではない証。私が、私のものではない証。
komuram Bheemudo...
komuram Bheemudo...
血にまみれながら、あなたはあなたであることを歌う。
それがとても大切なことであるかのように。
自分でいることを奪わせるなと言うように。
顔を上げると、みんな同じ顔をしていた。きっと私も同じ顔だった。
ああ、そうか。さっきから私の内側をざわざわさせていたもの。私たちがずっと閉じ込めていたもの。
これは、"怒り"なんだ。
[3.ジェニファーの章]
「まったく、これだから未開人は嫌なんだよ。」
「あいつら野蛮でどうしようもないぜ」
部屋の前を通る警官たちが口々に言うのを聞いて、ひんやりした悲しみがわいてくる。まだ刑場は騒然としているでしょうね。でも、私の部屋は普段通りで、喧騒なんてこの世のどこにもないみたい。籠の中の鳥というけど、鳥かごだって時にはもう少しうるさいでしょうに。
子どものころ、おとぎ話が好きだったわ。見たことのない動物たち、へんてこな草木に食べ物、歌って踊る家に、虹色の川。なにもかもが不思議なおとぎの国。そんなものが好きだった。
だからスコット伯父様についてインドへ来ることになった時も嬉しかったの。友達はみんな、あんな辺境へ行くなんてかわいそうだと同情したけど、私はワクワクして眠れないくらいだった。
でも、ここが良い場所じゃないことは鈍感な私にもすぐにわかったわ。良い場所じゃない理由が、私たちにあることも。
アクタル。いいえ、ビーム。それがあなたの名前だったのね。
あなたがくれたバングルをマッリに渡した時、泣き崩れるあの子を見てなにかあると思った。真っ先にエドワードが探している男を思い出したわ。でも、なんだか上手く理解できなかったの。だってエドワードや伯父様の言う「原住民」とあなたは、かけ離れすぎていたから。
私はね。嬉しかったの。あなたがジェニーと呼んでくれたこと。一緒に思い切り踊ってくれたこと。本当に嬉しかった。
この国の人はみんな私に優しいわ。でも、優しさの裏にはいつも恐怖がある。私たちがいい人間だから優しくしてくれるんじゃなく、私たちが酷い人間だから、優しくさせているのよね。あなたが私をマダムと呼んだような"優しさ"が、いつもそこにはあるの。けれど無邪気なあなたといると時々それを忘れられた。
なんて、都合のいい話ね。今日あなたを鞭打った彼を覚えてる。一緒にダンスを踊っていた彼。疲れ切ったあなたをおぶって歩いていた彼。そんな人にあなたを鞭打たせたんだわ。
私は結局、ただ見ていることしかできなかった。わかってる、野蛮な未開人は私たちの方。対等なつもりでいた分、私は伯父様より酷い人間なのかもしれない。
でも、それでもビーム。いつか力になりたいわ。心からそう思うの。本当はあの日、この部屋であなたに話を聞きたかった。あなたが瞳の奥で何を探しているのか知りたかった。そうできていれば少しは違ったのかしら。なにか、すこしでも。
あなたのために…いいえ、本当の自由のために、いつか一緒に闘える日が来ることを願っているわ。