若主のプロポーズについて本気出して考えてみた あの頃の私はまだ子供で、ただの生徒にすぎなくて、先生のためになることをなに一つできずにいた。
なじみの定食屋さんが一週間ほど閉まるから、しばらく缶詰とご飯で過ごさなくてはいけない。先生がそう言っていた高校二年の秋も、私は食事の差し入れすらできる立場にいなくて、ただ「献立を一緒に考えましょうか」なんて言うことしかできなかった。
そのときの、ぱっと花開くような優しい笑顔、素直すぎるくらいに喜ぶ無邪気さ——先生の全てが眩しくて、ただひたすらに「好き」だと思った。
自分の感情がいけないものだということはわかっていた。誰も幸せにしないということも、なんとなく気がついていた。
だからあの時、私は溢れ出しそうになる「好き」を必死に呑み込んで言ったのだ。
「先生……早く結婚した方がいいですね」
そんな、心にもない言葉を。
♢
あれから数年が経って、なんだかずいぶん昔のように思えるその出来事を、私は白菜を刻みながらぼんやりと思い出している。背後には、最近福引で当たったという電気鍋を抱える先生——貴文さん。
「コタツでお鍋なんて贅沢だね。先生ひとりじゃ用意できませんから、君が来てくれてよかったです」
「その調子で目いっぱい感謝してください」
もう私の先生じゃないのに、まだ自分のことを『先生』なんて言う貴文さんに、おどけた調子で返してみる。すると困ったように目を細めて笑う彼が、たまらなく愛しかった。
あの頃は、こんな未来が待っているなんて思いもしなかった。物語のように惹かれ合い、運命のように『先生』と結ばれて、貴文さんと呼ぶようになって——今、彼の住むアパートで一緒に夕食の支度をしているなんて、そんな夢のような未来が。
「貴文さんってば、目をはなすとすぐ猫まんまと購買のパンだけで済ませようとするんですから……私が日頃どれだけ気にかけてるかわかってます?」
「わかってます。だって現にこうして、週に一度は僕の部屋に来て一緒にご飯を食べてくれる。僕はそれがとても嬉しい」
どきんと心臓が跳ねて、包丁を持つ手がぴたりと止まる。こたつに鍋を置く音がして、貴文さんの気配が音もなく背後に迫り来る。
私の胸の高鳴りを見透かしているかのように、あたたかなその気配は私を背後から抱きすくめて、暴れ出すその鼓動ごと両腕で包み込んだ。
はっと息を呑む。くすぐったいほど熱い吐息が耳元にかかって、背筋が震える。
ときどきこうして不意をつき、人心をかき乱すこの人の蠱惑が、大嫌いだけど大好きだった。
「ありがとう。いつも支えてくれて……そばにいてくれて」
「……あ、危ないです、包丁」
「じゃあ置いて」
甘い声で囁かれたら、逆らえない。まな板の上にそっと包丁を置けば、待ちかねていたかのように降り注ぐ、うなじへのキス。
「どこにも行かないでよかった……君といてよかった」
そう言って私の肩口に顔をうずめる貴文さんの声は、ほんの少し震えているような気がした。色素の薄い髪からは素朴な石鹸の香りがして、この人が何も変わっていないことを伝えてくれている。この人は何も変わらず、この家の匂いを漂わせながら、ずっとここにい続けている。
かつては、花が散るように消えてしまいそうだと思っていた『若王子先生』——彼がただの『貴文さん』になって、私のそばにずっといて、こんな言葉まで贈ってくれるなんて、あの頃の私が知ったらどんな顔をするだろう。
そんなことをちらりと考えながら、振り返って正面から貴文さんを抱きしめた。言葉もなく、きつくきつく私たちは抱き合った。両腕の中の熱が、夢のように心地よかった。
冷たくて狭い六畳間の台所に、まろやかな沈黙が満ちていく。いつまでも続くかと思えたそれは、少し低くした貴文さんの声で打ち破られた。
「ねえ……ひとつ、ワガママを言ってもいい?」
「ひとつと言わず、たくさん言ってください」
「ありがとう。じゃあ、二つ言わせて」
抱きしめる腕がしゅるりとほどかれて、ぱちり、目があった。嘘みたいにあたたかい眼差しが注がれる。
胸の中で泡立つように「愛してる」の言葉が溢れ出した。それと同時に、貴文さんの少し薄い唇もまた愛を紡いだ。
「週末だけじゃなくて、毎晩一緒にご飯を食べたい。僕が『ただいま』と言ったら『おかえり』と言ってほしい……僕が望むのは、それだけです」
「それって……」
貴文さんは黙って微笑んだ。細く長い指で私の髪を梳きながら、こちらをじっと見つめる。ただそれだけで、私は泣けるくらいにときめいてしまう。
ずっとこうして、苦しいほど甘い瞬間に浸かっていられたら。そんな私の願いを聞き届けたかのように、貴文さんは結んだ唇をほどいてたった一言呟いた。
「『先生は早く結婚したほうがいいですね』って言ったのは、君でしょう?」
その瞬間、瞬くように再生される、あの秋の日曜日。あれは私だけが覚えている苦い思い出だと、ずっとずっとそう思っていた。
けれど、貴文さんには——
「……なんて、贅沢過ぎましたか?」
自然と涙がぽろぽろとこぼれ落ちて、言葉に詰まる。貴文さんが不安げに私の顔を覗き込む。だめだ、泣くな。泣いちゃだめ。ちゃんと気持ちを伝えなくちゃ——
「先生……貴文さん、わたし……」
嗚咽で言葉に詰まる。涙は止まらないし、うまく話せない。けれど、絶対に伝えたい気持ちがあった。
「これからも……そばにいていいんですか?」
「『いていい』んじゃなくて『いてほしい』んです」
貴文さんのその一言で、あの苦いばかりの日々が、いけない恋に苦しめられるばかりの季節が——全て報われたような、そんな気がした。
貴文さんの綺麗な指先が、私の顎をそっと掬い上げる。キスの予感に唇が震える。
こんなにも大好きなこの人が、どこにも行かずにずっと一緒にいてくれるなんて——おかえりを言わせてくれるだなんて。そんな幸せ、あってもいいのだろうか。
そう思わずにはいられないけれど、貴文さんの少し暗くて澄んだ瞳が「あってもいい」と、そう言ってくれているような気がして、私はそっと目を閉じる。
いつかの灯台で交わした、潮の香りのする二度目のキスのようにまっさらな気持ちになって、誓いのキスが交わされた。ハグがなければまだ少し冷たい、春のはじめのことだった。