千羽千晶、初恋二年生になってから放課後が楽しみになった。折部に会えるから。
一年の文化祭、一緒に回る友達もいなくて、人の少なそうな科学部の展示を覗いたんだっけ。どうやら部員も暇そうにしていて、俺が来たことに遅れて気が付くと、
「特に面白いものもないんですけど」
とか言いながら飴くれた。
実際に面白いものはなかったんだけど、することもないので、文化祭が終わるまで部員に混じって駄べっていた。うるさくなくて良かった。
話の途中でこの部が廃部になるかもしれないって聞いた。とにかく部員が少ないので活動実績がない。そのうち実験室も使わせてもらえなくなりそうだと。三年生が引退したら後がないらしい。
俺と同じく一年らしい、丸眼鏡の部員が困った顔をしながら、
「仕方ないけどなあ」
と言ったのが不思議となんだか悔しくなって、
「俺、入部します」
とか勢いで言った。彼は目を丸くして、
「大丈夫?」
とだけ言った。彼が折部だった。
それから、部員でもないくせに放課後に科学部の部室に遊びに行くようになった。たまに実験を手伝ったりしながら、折部とだらだら喋った。
「俺、やっぱりこの部活に入るよ」
と改めて言ったのは、夏休みが明けてすぐのことだった。
「え、本当に? ありがとう」
折部は大袈裟なくらい喜んだ。
それからも特に何かが変わったということはなかったけれど、俺は毎日が楽しかった。放課後の時間が楽しみだったし、学校に来ることも楽しくなった。
多分、折部のことが好きになったから。
もともと特別かっこいい奴ではなかった。
ヒョロガリで肌も真っ白いし、理系は得意だけど勉強が出来るわけでもないし。真面目で流行に疎くて全然話も合わないし。
多分、他のやつにはつまらない奴だと思う。でも俺には面白く思えた。俺とは全然違う人間だったからだと思う。俺が俺のままでいられたから。
それはとても楽なことだった。
あと、よく笑うところも好きだ。折部は俺の中身のない話を笑って聞いてくれる。それが嬉しくていつも話しすぎる気がする。恥ずかしい。
ただ、好きになったからといって、折部とどうにかなりたいという気持ちは不思議となかった。だからといって、何をどうこうしたいという具体的な考えもなかった。
なんというか、折部とずっと友達でいたいと思っていた。具体的に何がしたいとかはなくて、ただ、このままでいたかったんだと思う。
でもそうじゃなかったのかもしれない。
俺は折部のことが好きだと言ったし、それは嘘じゃない。でも、本当にそれだけだったんだろうか。
折部が熱中症になった日のことを思い出した。
猛暑日だった。昼休みに飯を食っていると、教室の窓から、渡り廊下をフラフラしながら歩く折部が見えた。声をかけようかと思ったけど、そのときは忙しそうにしていたのでやめた。そのまま購買にでも行ったのかなと思っていた。
放課後になった途端、折部のクラスメイトから保健室に運ばれたと聞いた。さすがに驚いたし心配だった。折部の教室に行くと、彼はもういなかった。帰ったか早退したんだろうと思ったけど、念のためと思って保健室に行った。
保健の先生は、一時間くらい前に親御さんが来たと言った。ベッドに横たわる折部は眠っていた。少し息苦しそうだった。そのときには俺は帰ろうと思っていたんだけど、なぜかベッドの横にある椅子に座ってしまった。
正直、俺は興奮していた。今、折部が目の前で寝ている。起きないかな。起きないでくれ。そんなことをずっと考えていた気がする。
しばらくすると、折部の瞼が開いた。彼は寝惚けた顔で辺りを見回して、俺と目が合うと、
「……あ」
とだけ言った。俺は何を喋ったらいいか分からなくて黙っていた。すると折部は急に起き上がって、ベッドのすぐ横にある小さな冷蔵庫を開けた。中から何かを取り出して俺に見せた。
「これあげる」
そう言って彼が俺にくれたのはパピコだった。なんで?と思ったけど黙って受け取った。折部はまたベッドに倒れた。そしてすぐに眠った。ちょうどそのころ保健の先生が戻ってきたので、俺も帰ると言って保健室を出た。
パピコを食べながら帰った。頭が冷えた。
その日は寝つきが悪かった。友達が熱に苦しんでいる姿に興奮した自分が気持ち悪くて死にたくなった。
次の日。折部は学校に来たけど、熱中症はすっかり良くなっていたようで元気そうだった。
放課後、部室に行くと、折部は本を読んでいた。彼は顔を上げて俺を見ると、
「どうしたの?」
と言った。俺が答える前に、折部は自分の隣をぽんぽんと叩いた。俺はそこに座った。
「昨日はありがとう」
「別に平気」
「パピコ食べた?」
「あれってなんでくれたの」
「好きでしょ」
「そうだけど、なんで」
「マックスコーヒーいつも飲んでるから。コーヒー味好きなのかなって」
折部はいつもの調子でそれだけ言うと、また本を読み始めた。俺もそのままそこに座ってぼーっとしていた。しばらくすると、静かな部室に雨粒が窓を叩く音が響いた。雨が降り始めたようだった。すると折部が顔を上げて、
「帰らないの?」
と訊ねた。俺が何も言わずにいると、折部は鞄からノートを取り出して何かを書き出した。少しすると俺の前に差し出した。
そこにはこう書かれていた。
「友達でいてくれてありがとう」
俺は何も言えなかった。折部はそれを気にする様子もなくまた本を読み始めた。彼がページをめくる音がいやに大きく聞こえる。雨が部室の窓ガラスにぶつかる度に部屋が揺れた気がした。俺はなぜか泣きたくなったけど、涙が出ることはなかった。ただ涙が落ちないように天井を見ていた。
しばらくして、トイレに行くふりをして帰った。
家に帰って、寝た。その晩は悪夢を見た。内容は忘れてしまったけど、ひどい夢だったことだけは覚えている。朝になって目が覚めると汗だくで気持ちが悪かったのでシャワーを浴びた。バスタオルで髪を拭きながら洗面台の鏡を見ると、そこには泣きそうな顔をした俺ではなく、いつもの無表情な俺が映っていた。
それからも特に何も変わらなかった。俺は毎日折部と一緒にいたし、相変わらず部室にもよく行った。折部のことが好きだった。どうしようもなく、こじらせた恋をしているのだとようやく気づいた。
俺は折部のことが好きだ。友達としてじゃなく好きだ。それは間違いない。
でも確かに俺たちは友達で、たとえこの先どうなっても、それだけは変わらないと信じていた。だから恋なんてどうでもいいと思っていた。このままでいたかった。
このままでいいと思っていたし、それが一番いいんだと今でも思っているけれど、それでもずっと考え続けていることがある。
俺はただ臆病で、自分の本当の気持ちを知られるのが怖かっただけなんじゃないかと思う。そしてそれを隠すために嘘をついていたんじゃないだろうか?
俺がもし自分の気持ちに素直になっていれば何か変わったのだろうか?例えば、あの雨の日に告白していたとしたら気持ちは晴れたのだろうか?
もし俺が告白したら、折部はどんな顔をするんだろう?きっと彼は笑顔で振ってくれる。
いいや、結局のところ、俺は自分に都合のいいことしか考えていないんだ。だから、きっとこの先も何も変わらないと思う。ずっとこのままでいるんだと思う。でもそれでいいと思っている。それがいいと本気で思っている。
部室の扉を開けた。
机には折部のノートが置きっぱなしにされている。トイレかなにかに行っているのだろう。彼のいない部室は、いつもと同じ時間が流れていて、俺はその空気にほっとする。
椅子に座ると、窓から吹き込んだ風がカーテンをなびかせた。机に置かれた折部のノートがぱらぱらと捲れる。
「友達でいてくれてありがとう」
見覚えのある文字が目に留まった。胸が苦しくなる。俺は、これからもずっと折部のことが好きなんだろうと思う。友愛か恋愛か、不確かな形だけれど。でも、それを確かめることは一生ないんだろう。
いつかこの気持ちに向き合うときが来るんだろうか?そのときは来るかもしれないし来ないかもしれない。どっちだっていいと思った。俺たちは友達でいたいと本当に思っているし、それだけは変わらないから。
俺はただ、今日も明日も折部のことが好きなだけなんだと思う。
「ずっと友達でいようね!」
そうページに書き足すと、折部が戻ってこないうちに帰った。