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    蒸しパン

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    蒸しパン

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    ジカポ

     舞台上でのキスが偽物だってこと。それは誰に教わるでもなく大人になればわかるだろう。
    「まぁ、本当にする場合もありますけれど。うちでは2人縦に並んでしているように見せかけるわけですね」
     俺は劇団では長くいる方だ、もうすぐ8年ほどだろうか。だからある程度の演出やなんかの方向性はわかっているつもり。
    「そうなんだ。あれずっと気になってたんだよ」
    「演出だって分かっていてもドキドキしますよね」
     劇について興味があると話しかけてきたのは、同い年で、クラスの違う男だった。観劇をする方を趣味としていると言っていた。この演目についてどう思うかとか、俳優の誰が好きだとか。
     本当のところはどうかわからないけど。

     殴られてしまったのかな。
     誰にも見つからないように、物陰に隠れる。血が流れて、服が汚れた。それも見られたくないし、この顔も見られたくない。ふぅと短く息を吐く。もう帰ってしまおうか。鞄をたぐり寄せるけど、小さい鞄に頼りになるものは何も入ってない。どうしようかな。
     地面に座り込んでぼんやりとしていた。痛いけど、さっきまでのことはまるで思い出せない。どうやって殴られたのだろう。
     ちょっと手を動かしてみる。他に特に異常はなさそうだから、やっぱり顔に一発もらっただけなのかな。ただ、けっこう遠慮なく殴られたんだ。
     もう一度溜息を吐く。帰ろう、教室に戻るのも面倒だし、病院にも行った方がいいかもしれない。震える足を咎めるように叩いて、無理にでも立ち上がろうとした時。こっちへ向かってくる人の気配を感じた。
     とっさに顔を庇う。少し時間があったけど、そのまま目を閉じていた。逃げた拳が戻ってきたのかと思った。だけど、いくら待っても予想された痛みは襲ってこない。かわりに降ってきたのは穏やかな声だった。
    「……怪我してるの?」
     そっと目を開けると、視界に飛び込んでくる赤いコート。こんな校舎の外れたところにどうしてわざわざ来たのだろう。タイミングの悪い。
    「……ええ。ごめんなさい、ティッシュとか持っていますか」
    「ハンカチなら。血はまだ止まってない?」
     コートのポケットからハンカチが出てくる。無地でシンプルなハンカチだった。潤んだ瞳を見られたくなくて、つい目をそらす。
    「これで抑えて……、上は向かないで」
     もう一度謝ろうって、顔を見上げようとしたらやんわりと止められた。ちょうど俺もこんな顔を見られたくはなくて、おとなしく下を向く。ハンカチを顔に当てて、グッと抑える。簡単な応急処置。
     じんじん痛くて頭が回らないせいか、まともな言葉が浮かんでこない。何か話さなきゃと思うのに、思いつかない。ただ黙って、止血されるのを待つ。
     顔色が悪いとも指摘された。それは、血が苦手なだけだ。

     気がつけばハンカチは真っ赤に染まっていた。ハンカチは本来の用途以上に役に立っているみたい。
    「……後日、新しいもの差し上げます」
     ようやく言葉が出てきた。声が震えていたから、かなり聞きづらかっただろうな。
    「いいよ、ハンカチくらい」
     立ち去ろうとしないのは、俺の体がずっと震えているからだろうか。ぐっと踏ん張って立ってみようにも、気持ちが悪いような、バクバクするような。血を見るといつもこうだ。いつもこうだから、別に平気だけど。
     もう大丈夫ですと一応言ってみるものの、そこまで鬼じゃないと返ってくる。でもまだ立って歩けそうにもないし、放っておいて欲しい。適当にやりすごせそうにもないので、沈黙に耐えられなくて、怖くて。ちゃんと経緯を話した。ハンカチだって借り物で汚してしまったし。ただ、なるべく簡潔に。殴られたとしか言っていない。
    「、すれ違いませんでしたか、どなたかと」
    「ああ、そういえば1人走ってすれ違ったかも」
    「その人です。あなたとクラスは同じだったと思いますけど」
    「……そうだっけ? いたかなぁ」
     相変わらず同級に興味のないことで。まぁそれは、俺に対しての対応と全く同じことが言えるけれど。
     俺はどこまで覚えているんだっけ。もう少し人通りのある廊下で喋っていたはずだ。それから、手を引かれて、それで。そのあとは忘れてしまった。
     走って逃げたのなら、もしかしたら不意に膝でもぶつけたのかもしれない。鼻に入る感触に怖気付いて逃げたか。終わったことだしどうでもいいことではあるけれど、腹は立つな、それに怖い。よりにもよって顔を殴るなんて。
     ああもう、廊下じゃお尻から冷えちゃうし。もう帰って寝てしまいたい。手当てしなきゃとは思うけど、それも面倒。何もかも面倒だ。
    「もう本当に大丈夫ですから。失礼します」
    「マシになったのならよかった、送ろうか」
    「結構です」
     そこまでさせたくない。ただでさえダメにしてしまったハンカチの分の借りができてしまったのに。これでは返すのが大変だ。見返りない優しさなんてあなたから受けるのは恐ろしいことだ。
     でも嫌われたくなかったし、平気だと演技は上手くいったと思う。なんとか自然に笑って見せたつもりだから。じゃなくても、そうやって笑いさえすれば、踏み込んでこられることはない。
     案の定、気にした様子もなく気をつけてと一言。
     この優しさは舞台上の触れ合いと同じだ。俺の目にはこの人は世間一般からのまなざしを意識しているようにしか思えなかった。気を遣っているように、見せている、だけなのだと分かっている。助かるのは事実だけれど虚しくもなる。そんな茶番のような芝居を続ける必要もないし、家に帰って布団の中に潜ってしまおう。ちょうど明日が休日でよかったなと思ったりしながら、振り返らずに廊下を歩いた。
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