愛の才能 渡り廊下を歩いていると声をかけられた。
「アズール!」
名を呼ぶ声に振り返る。
「どなたかと思えばリックさんじゃないですか。おつかれさまです。」
「うん、ありがとう。この後の予定は?」
「寮長会議が入っています。」
「そうか。君の方こそおつかれさまだね。仕方ない、それじゃあまた明日。」
「はい。また明日。」
手を振って後ろ姿を見送る。すっかり見えなくなってから改めて会議室へと向かう。
定例の寮長会議は二ヵ月に一度開催される。もしも長期休暇がなかったとしても、年間に六回ぽっちしか開催されない。ただし、これはあくまで「定例」の寮長会議である。実際のところ、NRCはトラブルが多く、「臨時」の寮長会議がその二倍以上開催されている。おかげで数週間に一度は招集されることになる。
NRCの元寮長、なんてのは卒業後も役にたつ肩書だ。あの名門の、それも寮長だったなんて、さぞや優秀で人望も厚かったのでしょうなあ、などと評される。ビジネスでも役にたつから、ぜひとも欲しかった肩書だったのだけれど、これほど時間を奪われるものだとは。いや、そもそもモストロ・ラウンジを開店させるにあたって必要な立場だったから、寮長にはならざるを得なかったのだけれど。
会議室の前でまずは時計を確認した。リックさんに声をかけられたからいくらかのタイムロスが発生しているはずで、もしかすると遅れてしまったのではないかと思ったからだ。会議開始時刻3分前。予定から2分遅れの到着となってしまっているがきちんと間に合っている。特に問題はない。
ノックをしてからドアを開くと僕以外にも空席があった。既にいるのは、レオナさんとヴィルさん、リドルさん。それからマレウスさんの代理であろうリリアさん。想定通りといえば想定通りのメンバーだ。ヴィルさんとリドルさんは元からこのようなことはきちんとするであろうタイプだったけれど、レオナさんは意外で、普段あれほど怠惰なくせに寮長会議にはきちんと顔を出す。自身が―サバナクローという――群れのリーダーだということを正しく認識しているのだろうと思う。マレウスさんは「招待を受けることができない」という体質――妖精族は陸の、ましてや海の常識では量りきれないところがある――らしく、寮長会議の招集も彼まで届かないことがままあった。代わりにそれを承知しているリリアさんが出席をする。普段は人を食ったような振る舞いをするが、代理の身であるここではいたって常識的だった。
資料をとって空いていた席に着く。会議開始時刻までもう間もない。
そう思っていると外から足音が聞こえた。いくぶんか乱暴に駆ける音。
「悪ィ! 遅れた!」
バタリとドアが開いてカリムさんが飛び込んでくる。
「定刻だ。カリム、さっさと席におつき。」
リドルさんの言葉に、すまねえ、と笑って近くの席にどかりと腰を下ろした。
「イデア先輩は欠席か。アズール、君なにか聞いていないのかい?」
「いえ、特には。」
「あ! そうだ、さっきそこでイデアに会ったんだった!」
リドルさんと僕との会話を遮るようにカリムさんが声をあげた。ほら、と抱えていたタブレットを机の上に出す。見慣れたイデアさんのタブレットだった。なるほど、カリムさんに捕獲されて連行されたというところか。
リドルさんはぎろりとタブレットを睨み、生身で出席するよう注意をした。いつもの光景だ。
ふよふよと浮き上がったタブレットはまるで反省でもしているかのように力なく移動し、空いている席に着いた。もちろん、実際に席に座ると何も見えなくなってしまうから、席の上で浮いただけだし、ついでに言えば殊勝そうな態度はふりであって、実際はなにも反省してはいないのだ。だって、イデアさんはいつだって、対面であることの無意味さを口にしている。僕としては、時と場合による、としか言いようがない。イデアさんの主張もわからなくはなかったし、リドルさんが苛立つのも十分に理解ができた。結局のところ、ふたりとも頑固だから歩み寄れていないのだ。たとえばリドルさんが、普段はそれでもいいですが必要なときは生身で出席してください、とでも譲歩すれば、イデアさんとて必要に応じて生身での出席を承知しただろうと思う。あくまで僕の予想だけれど。
僕は資料を一部とってイデアさん――タブレットの前に広げてやる。タブレットでもカメラで資料の文面を読むことはできるが、ページを繰ったりはできない。イデアさんはちゃっかり僕の隣の席について、そういった作業を僕に任せていた。ささやかな作業に対してもイデアさんはちゃんと対価を支払ってくれるので、僕は喜んで引き受けている。
滞りなく会議が終了し、解散となる。僕は卓上から自身とイデアさんの資料を回収し、タブレットを捕まえた。
「待ってください。一緒に行きます。これ、届けないといけませんし。」
会議は終わったのだから不要といえば不要かもしれない。けれど今後の行事についての情報が何点か含まれていたし、手元にあるに越したことはないと思う。もちろん、イデアさんは既に情報をデータとして取り込み済みかもしれないがそんなことは関係ない。資料を届ける、というのは建前で、実際は対価の取り立てだからだ。
鏡舎から鏡を抜けてイグニハイド寮へと向かう。
イデアさんと僕は同じ部活に属していて、それなりに仲がいい。友人と呼んでいいのかはわからなかったけれど、普通の先輩後輩よりはずっと親しい間柄だった。ただ、そう思っていたのは僕だけなのかもしれない。だって、僕は彼のことをなにも知らなかった。家業のことも、オルトさんのことも。親しいのだからなんでも話せというものではないことは理解している。僕にだってイデアさんに言っていない、言えないことがいくつもあった。それでも。それでも水臭いのではないかと思うのだ。たしかに僕に話したところでなにも変わらないかもしれない。けれど吐き出すだけでも楽になることだってある。
それに、僕は自分にできないことなんてなにもないと思っている。もしもできないことがあったとしたら、それはただ努力が足りないだけだ。さらに努力を積めば解決することだ。だからそのときの僕が役に立たなかったとしても、いずれ解決できるだけの力を得ることだってあるだろう。それに期待して話してくれればよかったのに。
それともやはり、あのひとにとって僕は、それさえも期待できないほどの、とるに足らぬ人物だったということなのだろうか。
そんなことを鬱々と考えてしまう。僕の中に答えがあるはずもないのに、栓なきことだ。
エントランスを抜け、ロックを解除する。手順は以前イデアさんから伺っている。
本当はこんな特例よくないんだけど、でもまあ、君、資料届けに僕の部屋来ることも多いし……、と言い訳しながら発行されたIDカード。これがあればイグニハイド寮の共有部分には自由に立ち入れた。寮生たちも慣れたもので、僕を見かけてもなにも言わない。
「イデアさん、僕です。資料を届けに来ました。」
ドアの前で声をかけると微かな電子音のあと、静かにドアがスライドした。中は相変わらず散らかっていて、椅子に座ったまんまのイデアさんがこちらを見ていた。積まれたものに躓かないように気を付けながら中へと入り、イデアさんへと近づいて、手にしていた資料をタブレットとまとめて渡した。
「ありがと。」
とりあえず受け取った資料をぱらぱらとめくってそのままぽいと卓上に投げる。初めて目にする資料でもないのだから、雑な扱いも責める気にはならない。たとえポーズであったとしても、目を通す素振りを見せている分、このひとにしては随分マシな対応だと思う。
「リドルさん、怒ってましたよ。」
「いつもこのとですなぁ。」
歯を剥いて笑う。まったく気にしていない。それはそうだろう。なにせ事実毎度のことなのだ。気になるならとっくに改めているだろう。
「で、お届けものをかってでて、わざわざここまで来てくれた君にはどんな対価をお支払いすれば?」
「棘のある言い方しますね。そうですねえ、いまはこれと言ってないので、次の部活のゲーム、僕に選ばせてくれればいいですよ。」
対価目当てだというのはその通りなのだけれど、毎度毎度派手にまきあげるわけでもない。特に必要なものがなければとるにたらぬものを条件に。なにもとらないのはそれはそれでいけない。対価が必要だということを忘れてもらってもらっては困るので。対価は必要。けれどここのところ負けてもらっているな……、そう思わせるのが重要だ。そうしておけばいざ大きな対価を持ち出したときに、仕方ないな、と引き受けてもらえる。ひとによってやり方を変える必要はあるけれど、イデアさんはそういうひとなので。
「りょ。あ、そうだ。そういえばこの前、君が気になるっていってたゲームだけど、オークションに出てるの見かけ……、」
遮るようにアラートがけたたましく鳴り響いた。
「な、なんですか!?」
「え、あ、ちょ。ちょっと待ってね。」
イデアさんが見慣れない端末を取り出して、操作をする。そうするとアラートが鳴りやんだ。うるさかった音が止んでほっとする僕の前で、イデアさんが表情を変えた。視線は端末の上。おそらく、アラートの原因を確認しているのだろう。
「えー……と。えっとね、アズール氏、残念なお知らせが、あります……。」
「残念?」
「イグニハイド寮がロックされました。」
「は? 寮が??? ロック?????」
「オクタにも鏡の鍵はあると思うんだけど。」
「鏡? 鏡舎のですか?」
「そ。」
NRCに存在する七寮――特殊な扱いとなるオンボロ寮を除く――は地理的には学園と隔たれた場所に存在する。そこへは学内鏡舎に存在する鏡によって魔術的に接続されていて、これによって敷地内にあるのと同様の恩恵が受けられる。たとえばネットワークだとか、妖精による空調設備だとか。
鏡によるこの接続は鏡の表裏双方からの開錠によって成立していて、鍵はそれぞれ、学園、各寮で管理されている。もっとはっきりと言ってしまえば、学園側の鍵は学園長が、寮側の鍵は各寮長が管理している。つまりオクタヴィネル寮の鍵は僕の管理下ということだ。管理方法については各寮――あるいは各寮長――に一任されているので、オクタヴィネル寮ではセキュリティボックスでの管理としている。
イデアさんの言う鍵はこれのことだろう。
「基本的には双方からの開錠状態を常とするということになってはいるけれど、状況によって鍵がロックされるのは知ってるよね。」
「はい。防衛的観点からですよね。」
地理的に隔絶しているため、特定の寮のみで感染症等が流行る場合がある。また、その地域が政治的に不安定な状態となり、外部からの圧力がかかる場合もある。そういった際、学園は他学生を守ることを名目に、特定の寮に繋がる鏡をロックし、一時的に使用不可とすることができる。こうなるとその寮からは学園へ移動することができなくなる。
また、それとは逆に、賢者の島側がそういった状況に陥った場合は、寮の側からロックをかけて被害を防ぐこともある。
近年はそういったこともなく、鏡の接続が切られたという話は聞いたことがないけれど。
「でもさあ、一方的に接続切られるなんて困らん?」
「はあ。たしかに切られた寮としては困るでしょうけれど……学園がより多くの生徒を優先するのは仕方ないことでしょうし……。」
「うちの寮は困るんだよね。ネットワークは独自で構築してるからいいんだけどさ、空調が本当に困る。それならこっちで独自に電気引かせてくれって話なんだけど、うちは立地が特殊すぎて、それはそれで難しいという……。いっそ寮内に発電設備作ろうかと思うた。」
発電設備ってこのひとなに言ってるんだ。いや、本気でやりかねないところがあるので、そしてそれを実現してしまえるであろう技術もあるひとなので、思いとどまってくれてて本当によかったと思う。
「ので、向こうから接続切れないようにしたんだよね。具体的には鏡舎のイグニの鏡の前に障壁を設置して、向こうから施錠ができないようにしてる。ただそれだと向こうが困るのもわかってるので、うちとしては電源確保のために魔術的接続だけを維持できればいいわけで、その障壁で物理的に隔絶させてるの。」
わかるようなわからないような。ただそんな障壁はいままで目にしたことはない。今日だって僕は鏡を通ってここまでやってきている。物理的な隔絶はなかった。
「それが発動しました。」
「……意味がわからないんですけれど。」
「学園側の鍵になんらかの異変があればそれを感知して、イグニ寮は自動的に防衛モードに移行するの。障壁の顕現ですな。さっきのはそのアラーム。いま、イグニ寮は物理的障壁のせいで学園と行き来できなくなってる。」
「は? え、ちょ。さっきの、ロックされたって……僕、帰れなくなったってことですか!?」
「有体に言うとそう。」
「なにが有体だ! さっさと障壁解除してくださいよ! それぐらいできるシステムなんでしょう!?」
「うーん……それがさあ、これ、そもそも特殊な状況下でのシステムなんで……簡単に解除できないんだよね。まずは六時間、操作を受け付けない。六時間後から操作可能にはなるんだけど、向こうとこっちと両方からの操作が必要で、打ち明けるとこっちからの操作ができない。オルトがいないので。」
「オルト? オルトさん? オルトさんがいないとどうして操作ができないんですか?」
「イグニの鍵はオルトが持ってるからね。よりによって今日はオンボロ寮でお泊り会らしくて。つまり、内側からの操作に必要な鍵が外にあるので、なにもできないんだよね。」
「その話だと一生解除できないじゃないですか!」
「待って。待ってって。ちゃんと話聞いて。まだ終わりじゃないから。六時間は確定でロック。六時間後からは手動操作を受け付ける。その間に手順に従ったロック解除操作が行われればその場でロックが解除される。または、ロック延長の操作が行われればロック時間が延長される。どちらもされなければ、十二時間後に自動的にロックは解除。鍵が外にあるからロックの解除処理が行えないのと同様、ロックの延長処理もできないし、十二時間後には自動的に解放されます。」
十二時間って。
時計を確認する。時刻はまだ夕方で、十二時間後なら明け方だ。外泊にはなるが出席には影響ないだろう。ラウンジの方は仕方ないがジェイドとフロイドに任せることにすればなんとかなるはずだ。
「……仕方ありませんね。今夜はこちらでお世話になります。他に何人ぐらい他寮生の閉じ込めが発生しているんですか?」
そうと決まればさっさと必要なことを済ませてしまおう。メッセージアプリでジェイドに状況を共有し、ラウンジの営業と外泊手続きを依頼する。
その際ジェイドからの返信に変わったところはなかったので、オクタヴィネル寮は学園との魔術的接続を断たれてはいないようだ。つまり、イグニハイド寮だけ――もしくはオクタヴィネル寮以外のいくつかの寮――が対象だったということだろうか。あるいは、そもそも異常を誤検知した可能性も否定できない。鍵にどの程度のことが起こると起動するのかもあとで確認して、場合によっては改善を求めよう。
「エントランスの入場記録見る限り、君だけみたい。まあうちはだいたいみんな陰キャなので……お泊りにくるお友達なんかほとんどいないんですわ……うわ……切なすぎん?」
他にいないと聞いてほっとした。こんな理由で外泊手続きが大量発生していたら各寮長が発狂しただろう。
それに、それならゲストルームも空いているはずだ。
「それじゃあゲストルームの使用手続きお願いできますか。他の利用者もいないみたいですし、空いてますよね?」
「あ、無理です。」
「は?」
「イグニはゲストルームの使用申請は一週間前までなので。」
「今回のこれは特例では? だいたい一週間前ってなんですか。遊びにきていた友達が急に泊まることになった場合どうするんですか。」
「いやだからイグニ寮生にそういうお友達はほぼいないんだな~。」
「……すみません、悪気はありませんでした。つまり、一週間前の時点でもうゲストルームは埋まっている、ということですか? 空いてないんですよね? 友人以外の訪問者は結構いらっしゃると、そういうことですか?」
「んん……。あのね、怒んないでね。」
「内容によりますね。」
イデアさんは、絶対怒るじゃん……、と絶望的な表情をして、でも言わなきゃそれはそれで怒るよね、と口を開いた。よくわかってるじゃないですか。
「うち、ラボあるでしょ。研究したり、物作ったりする寮生多いので。」
各寮には寮特有の施設が存在する。たとえばオクタヴィネル寮は人魚の生徒が属することが多く、その点不便のないような設備が整っている。一年生が使用する四人部屋でさえ、部屋にバスルームが備え付けられていて、不慮の事態に対処できるようになっている。また、寮自体が海中に建てられていて、人魚の状態でそのまま海中に出ることのできる部屋もあった。研究者気質の生徒が多く所属するイグニハイド寮では、ラボがそれにあたるのだろう。
「でもラボの数は限りがあって、全寮生が使用できるわけじゃない。申請がかぶると基本的には上級生優先だし、そもそも日単位じゃなくて、期間で押さえたりするから、希望したからって使えるわけじゃない。僕の方でチェックして、ラボじゃないとどうしようもないって内容だったら優先的にラボを使用できるようにしてるんだけど、それでも足りないときは全然足りない。で、どうするかというと、ゲストルームを使ってる。一週間前の時点で空いてたらラボ替わりに使用してもいい。ただし汚染はしないこと。あと使用申請が入ったらその日までに退室すること。うちは四年生が帰ってくるときぐらいしかゲストルーム使わないので、こういう運用になってるわけ。」
他寮の運営に口を出すものではない。イグニハイド寮はこれで巧く回っているのだろうから部外者の僕が口を出すところではない。それは承知している。
「つまり、ゲストルームは寮生が使用していて、僕が泊まる場所がない、ということですか?」
「ゲストルームの状況はその通りなんだけど、アズール氏は拙者の部屋泊まればいいのでは?」
「……却下です。」
「え? なんで? 何回か泊まったことあったじゃん。え、それとももしかして拙者めちゃくちゃ寝相悪かったり、いびきがうるさかったりする? それでもう同じ部屋には泊まれないってこと!?!?!?」
「違います。……僕、お付き合いしてる方がいるので。」
「は?」
「恋人がいるんです。さすがにあなたの部屋に泊まるわけにはいかないじゃないですか。」
「え? え? え? ちょっと待って。アズール氏にお付き合いしている方が??? 待って。なにそのリア充。アズール氏だけは裏切らないと思っていたのに……。」
裏切るも裏切らないもないでしょう。別にそんな約束した覚えもないんですから。
「えー……っと。これ、セクハラになるかもしんないので、嫌なら答えなくていいんですけど、その、拙者と同じ部屋には泊まれないというのは、もしかしなくてもアズール氏のお付き合いしている方というのは、彼氏……ということでしょうか。」
「どういうことです?」
「いや、彼女なら拙者のことは友人とか……そういうので済むじゃん。友達の部屋に泊まった、とか陽キャはあるんでしょ? よくわかんないけど、拙者はそれで全然問題になっていませんし……。そうじゃないってことはつまり、アズール氏がお付き合いしているのは拙者と同性……。」
「なるほど。理解しました。そうですね、たしかに恋愛対象になり得ない属性と見做されれば問題は発生しませんね。その通りです、僕がお付き合いしているのは男性ですね。」
ただ、あなたが問題になっていないのは性別云々はまったく関係なく、ただその情報が共有されていないだけじゃないでしょうか。
イデアさんはこう見えてシュラウド家の嫡男で、随分と幼いころに許婚を宛がわれたのだという。長く会ってはいないらしく、本人は、もう顔も名前も覚えてないけどね、と言っていた。これはさすがに嘘だろう。顔はともかく、名前は成長したとてそうそう変わるものでもないのだから、イデアさんが忘れてしまっているはずがない。単純に僕が知らない人物だから、名前を伏せただけなのだと思っている。
「もしかして……NRC生……とか……。」
「なにか問題が?」
「いや、具体的になにかあるわけじゃないです……。ね、ねえ、だ、誰か聞いても平気……?」
おそるおそる切り出されて少し考える。誰が恋人かを訊ねるなんて完全にセクハラだ。けれど僕の恋人は学内にいるので、ここで答えずともいつか知ることにはなるだろう。それに、そもそも僕は隠してもいないので、答えることに否はないのだけれど。
「リック……リチャード・ホープさんです。」
「……誰。二年生?」
「三年生ですよ。3ーBです。」
「拙者と同クラですが!?!?!?」
「そうですよ。」
「え、うわ。どうしよ、マジわからん……誰……。」
「あなた全然生身で出席しないし、しても周囲に興味なんてないからですよ。そんなことだろうと思ったからあなたには相談しなかったんです。どんな方かはケイトさんにお聞きして、問題がなさそうだったのでお付き合いしました。」
実際はケイトさんに確認するだけでなく、身辺調査を行ったけれど、それを伝える必要はないだろう。とにかく、リックさんはなにひとつ問題のない男性だった。モストロ・ラウンジも頻繁に利用してくれていたらしく、ポイントカードを使用した依頼も数度あったが、内容は魔法薬学の素材集めといった他愛もないもので弱みにもなりそうになかった。
「……向こうから告白をしてきた、ってこと?」
「そうですよ。二週間ぐらい前ですかね。以前から僕のことが好きだったらしいんですが、インターンに出る前にせめて告白を、と一念発起されたとか。」
「君を好きとか趣味悪……。」
「なんとでもおっしゃい。とにかく、そういう理由なのであなたの部屋には泊まれません。ゲストルームが使用できないのはイグニハイド寮の問題なんですから、なんとかしてください。僕は完全なる被害者なので。」
「あー……だからもう僕の部屋でいいじゃん……。」
「だから僕には恋人が、」
「でもいままでに何度か僕の部屋に泊まったことあるじゃん。それでなにかあった? これまでなにもなかったんだから、今回だってなにもないに決まってるでしょ。」
「それは……。」
そうかもしれない。恋人ができた、というのは僕個人の話であって、イデアさんにはなんの関係もない。だからイデアさんはいままでとなにも変わらないし、もしもなにかあるとすればそれは僕の問題になるだろう。そして僕は『そうならないように』するのだからなにも起こるはずがない。それはその通りだ。
イデアさんの部屋に泊まるとなにかされるんじゃないか、なんてとんだ思い上がりだし、失礼な物言いだった。ただ、たとえなにも起こらずとも人間の雄はこういうことをよく思わないに決まっているから、予防線を張ってしまう僕の言い分もわかってもらいたい。
僕がイデアさんを疑っているわけではなくて、リックさんが僕とイデアさんの関係を疑いかねないのが面倒なのだ。
「……わかりました。どうせあなたの部屋に泊まる以外の選択肢はないんでしょうし、あなたの部屋でいいですよ。」
それでも結局のところ、イデアさんの部屋にお世話になるしかない。事実選択肢がないのだ。仕方ないだろう。
イデアさんとリックさんは同じクラスではあるけれど、イデアさんはほとんど生身で出席していないし、そもそも名前も覚えていなかったようなクラスメイトと交流があるはずもない。イデアさんとリックさんが話すことはほぼないはずで、ならば僕が黙っておけばこの出来事をリックさんに知られることもないだろう。落としどころはこのあたりか。
「さすがア氏、ちょう上から~。自室を提供する拙者に普通にありがとうとか言えんの?」
「だから僕は被害者だと言ってるでしょうが。」
「ふひひ。すみませんなあ、イグニ寮の防衛システムが優秀すぎて。」
「バカおっしゃい。そうだ。オクタヴィネル寮は問題ないようだったんですけれど、本当に鍵に異変があったんですか?」
イデアさんがシステムに触れたのをきっかけに、僕は気になっていたことを口にした。
「う~ん……。それは拙者にもわからんと言うか……ただ少なくともこのシステムが反応したの、拙者が入学してから初めてなんだよね。システムに異常があったならそっちのアラートがあがるはずだし、この数年のうちには一度もなかったことが鍵に起こったことはたしかっぽい。」
「……イデアさんが構築されたわけじゃないんですね。」
意外だ。イデアさんは突出した魔導工学の才能を持っていたから、てっきりこういったものはすべてイデアさんの代で導入されたのだと思っていたけれど、そういえばそもそもイグニハイド寮自体がそういう寮だ。イデアさん以前にだっていくつかのシステムは稼働していたに決まっている。
「拙者は寮長として引き継いだだけですね。えーと……ドキュメントどこだ……。」
イデアさんが端末を操作して引継ぎ資料を探す。資料自体はすぐに見つかったらしく、テキストを確認するよう、視線が左右に何度か動いた。
少し待っていると、イデアさんが唸り声をあげて、申し訳なさそうに僕を見る。
「あ―……ええと、その、まことに申し訳ないのですが……。」
「どうしましたか。」
「あまりにもささやかなことにでも反応するみたい、これ。」
「ほう?」
自然と声が低くなった。
「いや、あのね? 拙者もいまのいままで知らなかったので……不可抗力なので……そんな詰めんでもろて……。」
「とりあえずどの程度で反応してしまうか、さっさと吐いてください。」
「こわ……。えっとこれはあくまで資料に載っている情報なので、正しいかどうか、当時は正しくてもいまがどうなのかはわからないんだけど、学園側の鍵はキーボックスに保管されているらしくて。」
「学園長が持ち歩いているわけではないんですね。」
「場合によったら他の職員が使用する可能性もあるわけですし。で、まずはキーボックスの開錠を検知します。」
「はい。」
「次にキーボックスの扉が開かれたことを検知して。」
「続けてください。」
ここまでは特におかしく感じる部分はない。鍵に至るまでの障壁が解除されたことを検知するのは正しいことだと思う。
「……イグニの鍵になにかが触れたら発動します。」
「……は?」
いきなり雑すぎないか? それだと他寮の鍵をとる際に触れてしまっても発動するじゃないか!
「せめて『取り出されたら』にしましょうよ!!!」
「ごめんて! 拙者も知らなかったんだってば!」
「知らないって時点で引き継げてないじゃないですか! 寮長職職務怠慢ですよ!」
「それはそう。ごめんね、アズール氏……。」
本人も思うところがあったのか、あっさりと折れてしおらしく謝られた。
許してくれる?、と言わんばかりの視線に、全然悪くないはずの僕の方が大人げなく責めたみたいになってしまって、居心地が悪い。ずるい。こんなの許すしかないじゃないですか。
「……し、仕方ありませんね。もう起こってしまったことですし、これ以上あなたを責めてもなにも変わりません。ただ、同様のことが今後起こらないようにシステムの修正を申し入れます。早急にご対応ください。」
「も、もちろん! なにをもって異常とするかの定義から再検討するので実際の改善にはちょっと時間かかるかもだけど、その間は検知部分のみ残して、障壁は自動で展開しないようにするので……。」
検知されるとイデアさんに通知されて、イデアさんが状況を確認したうえで、必要であれば手動で障壁を起動するという。完全に停止させることができないのは、本当にロックされそうなときには対応が必要だからだという。ついでに言うと、こんなことができるのはイデアさんがリモートでの受講を許可されている――アラートがあがり次第対応ができる――からで、来年度には使えなくなる方法らしい。だから今年度中になんとかするね……、とイデアさんは遠い目をした。
本当にそれで大丈夫なのか、すべての判断をイデアさんひとりが下して問題ないのか、言いたいことはいくらでもあったが、状況的に飲むしかない。まあ少なくともひとの判断が挟まる以上、事故ではなく、人為的な起動にはなるから、責めるところができることだけはたしかだ。
僕は不承不承ながらイデアさんの提案を受け入れ、この話を切り上げることにした。生産性のない話題を続ける意味はないと思ったからだ
となると、僕は今晩、ここに泊まることになるわけで。
「……イデアさん、食べ物ってなにかありますか?」
「……だ、駄菓子……とか……? あ、ごめん! ごめんなさい! いやでも本当にないんでござる! い、インスタント麺ぐらいなら!」
インスタント麺……。不健康がすぎる。一食抜くか、妥協するか難しいところだな。
「あと一応共用キッチンに自由に使っていいものがなにかあるかもだけど……生鮮食品はないと思う……。」
「でしょうね。」
それでも確認ぐらいはしようと案内させると意外に大きな冷蔵庫が備え付けられていた。中身を確認すると卵や牛乳が入っている。加工肉や野菜もいくらか。あるじゃないですか、生鮮食品。炭酸飲料のペットボトルやプリンの容器には名前が記入されていたから、おそらく記名がないものは自由に使ってもいいものなのだろう。
「意外とあるじゃないですか。」
続けて棚を漁る。ジッパータイプの保存袋にぶちまけられたパスタがあった。袋がないから不明だけれど、この細さならおそらくは早ゆでタイプだろう。
「パスタにしますか。」
「え! 作るの!?」
「作りますよ。イデアさんも食べますか?」
キャベツとシメジ、ベーコン。鷹の爪はなかった。ニンニクもなかったけれど、すりおろしのチューブがあったからこれで代用にする。
大き目の鍋がなかったので、小鍋で茹でるよりはマシかと思ってパスタは半分に折ってレンジにかけた。水は少し多め。その間にキャベツとベーコンを切る。シメジは石突を落として手でほぐす。フライパンを火にかけオイルとニンニク、ベーコンを炒める。キャベツとシメジを加えて調味、パスタの茹で汁で乳化、パスタを投入、混ぜ合わせて完了。
僕が料理をする間、イデアさんは隣でずっとそれを見ていた。
「手際いいっすな……。」
「多少はできないとフロイドに強く出られませんからね。マスターシェフ受講後もいくらかの練習は続けています。」
僕に足りていなかったのは調理スキルであって、元々段取りは悪くない。一般的なものであればレシピもわかるから、手順の構築はできる。
「ね、さっきの乳化だよね? なんであんなことするの?」
「よく見てますね。そうですねえ、オイルってさらさらしてるじゃないですか。そのままじゃパスタにからみにくいですよね? 乳化させるととろみがついて、ソースがパスタにからみやすくなるんです。パスタとソースが一体化する。まあ、ひとことで言うと、その方が美味しいから、ですね。」
「ほーん。ちゃんと理由あるんだ。」
「当然ですよ。そうじゃなきゃ無駄な手順になるじゃないですか。省略しますよ、そんなの。」
「アズール氏、料理は愛情、とかミリも思ってなさそう。推せる。」
「そうでもないですよ。愛情に限らず、作る方が食べる方へのなんらかの情があれば、それはいくらかは料理に影響を与えると思います。たとえば、親が子に作る場合、苦手な野菜を細かく切ったり、そういった工夫をするでしょう? ……念のためですけれど、これは一般的な家庭の話であって、あなたのご家庭には当てはまらないかもしれませんが……。」
「あー。だいじょうぶだよ。別にそういうの気にしない、っていうか、うちも、こどもの頃は母さんが作ってくれたの食べたりしてたし……。総合栄養食とか食べてるのはどっちかいうと拙者の趣味……。」
イデアさんのご実家は特殊だったから、あてはまらないかもしれない。イデアさんやオルトさんを見ていれば、ご両親が惜しみない愛を注ぎ育てたことは間違いないだろう。けれど、食育が施されていたかは不明だったし、万が一自身の言葉でイデアさんがそれを疑ってしまわないようにとフォローしたのだけれど、まったくもって杞憂だったらしい。はたして趣味という単語で片づけてよいものかは甚だ疑問が残るが、口を出す領域ではない。
「そうですか。はい、できました。イデアさん、どうされます? 食べます?」
「食べます?、って……。一皿しかないじゃん……。」
「一人分ですし。」
「え。ますます意味がわからん……。拙者が食べるって言ったらどうするの……。」
「小皿に取り分けますよ。最初に確認したときあなたなにも答えなかったじゃないですか。だからとりあえず一皿に盛りました。食べないかもしれないのに皿を汚すの嫌なので。」
「あ、はい。ええとじゃあ、ちょっとだけイタダキマス、ちょっとだけ……。」
「はい、どうぞ。」
ちょっとだけ、を二度も口にされたので、本当に少量を小皿に取り分けて差し出した。食べられる以上の量を与えて残されるのは困る。
「ありがと。」
イデアさんは受け取った皿に握りしめたフォークを突き刺すようにしてパスタを巻き取った。相変わらずカトラリーの扱いはなってないが、僕が指摘することでもないだろう。ただ、どう考えたって普通に持つ方が扱いやすいはずなのだ。わざわざ使いにくい方法が一般的になるはずがない。使いやすく、かつ見目のよい扱い方がマナーとなる。それに逆らった持ち方で食事ができるのだから、いっそ逆に器用なひとだな……。
「!」
フォークごと口に含んだイデアさんの表情が変わる。
「ふふん。どうです? おいしいでしょう?」
「う……。お、おいしい……です……。え、ウソでしょ? 塩胡椒しかしてないじゃん……。」
「ベーコンの脂もありますし、それからキノコは旨味成分が含まれるんですよ。」
「ふええええ……科学。……ねえ、もうちょっと食べたい、って言ったら怒る?」
「怒りませんけど……僕、もう手をつけてますよ?」
フライパンにはもうなにも残っていない。最初に一度僕の皿にすべてを盛って、手を付ける前にその中からイデアさんの分を取り分けた。イデアさんが食事をしているということは、僕だって食事をしているということで。現時点で残っているパスタは、僕の皿の上にしかなく、そのパスタは既に僕が口を付けたものだった。
「いいよ、別に。」
いいよ!? いや、よくないですよね!? 食べかけですよ、これ!
衛生的にどうなんだ、と思っているところに、イデアさんの手が伸びてくる。パスタの中にフォークが差し込まれ、いくらかの量を持って行ってしまった。
は? ちょっと。いま、口をつけたフォークを突っ込んできていなかったか……!?
反射的にイデアさんを見ると、僕の皿からパスタをさらったフォークをそのまま口に運んでいた。つまり、食事に使っていたフォークと、パスタを取り分けるのに使用したフォークは同一のものであることが確定した。
皿に残ったパスタを見る。少しばかり量が減っただけでさっきまでとなにも見た目は変わらない。変わらないけれど絶対的に違うものなのだ。先ほどまでここにあったのは自分が食べているもの。けれどいま目の前にあるのは他人が口をつけたもの。
イデアさんが気にしなくても僕は気にするんですけども……!
どうしてこちらの許可も待たずにフォークを突っ込んでくるのだ。信じられない。
僕は皿の上のパスタをじっと見た。処分するには忍びない。イデアさんが手をつけたとは言え、それだけのことなのだ。床に落としたわけでもないのだから。イデアさんに食べてもらうというのが最善――イデアさんは僕の食べかけのものでも気にならないらしいので――なのだけれど、残念ながらイデアさんの食は細く、さきほどとっていった分で十分なようだ。となれば僕が食べるしかないのか……。
こんなもの、実際のところただの気持ちの問題だ。もちろん、感染症等の疑いがあるなら話は別だけれど、イデアさんは不健康そうに見えて実際は健康体だ。不健康そうに見えるのは、ただの不摂生によるもので病気の類ではない。つまり、このパスタを口にしたところで、僕に害はないだろう。
覚悟を決めて口をつければ本当になんということもなかった。見目はともかく、味はいいな、と自画自賛できるパスタだった。
ロックが解除されるのは明日早朝だったから、とりあえずは眠る必要がある。イデアさんの部屋には当然ながらベッドはひとつしかなく、いままでは気にせず一緒に寝ていたがどうやらそれは特殊らしいということに最近気が付いた。最近というか、リックさんとお付き合いを始めてからなので、ここ二週間ぐらいのことだ。
僕は人魚だったから、もともと陸の常識には欠けている部分があった。ジェイドとフロイドもそうだ。僕たちの距離感は近く、それは陸の人間から見れば近すぎるぐらいだった。あのふたりは兄弟だったから、さらに顕著でひっついていることに違和感がないらしい。僕はさすがにそこまでではないけれど、三人でひとつのベッドに潜り込んだことは一度や二度ではなかった。
そういった環境にいたものだから、イデアさんの部屋に泊まる際に、イデアさんと同じベッドで寝るのは普通だと思っていたのだ。だってベッドがひとつしかないのだから、そうするしかないじゃないか。
でも違ったのだ。陸の人間の距離はもっと離れている。具体的にはリックさんなんだけれど、お付き合いを始めたというのに、手を握ったのだってまだ数回だ。当然、ハグなどはまだしたことがない。そうなって初めて気にしてみれば、たしかに僕とジェイド、フロイドのような距離感の人間はほとんどいなかった。そう、僕らの距離感は陸の人間からしてみれば近すぎたのだ。
では、同じように陸の人間であるはずのイデアさんはどうなのかと言われれば、このひとはそもそもひととの付き合い自体が希薄で、一般的な距離感なんて知らなかったのだ。そうしてどうやらオタクと呼ばれる人種は基本的に他人との距離は遠く、高い壁により隔てられているらしいが、心を開くと一気に距離が縮まるものらしい。僕は聞き上手な上に、陸の文化に興味があったから、イデアさんのマニアックな話を傾聴し、気になることをどんどん聞いていた。おかげで早い段階でイデアさんに味方認定されパーソナルスペースへの侵入を許されてしまっていた。
つまり、僕が一般的だと思っていたイデアさんとの距離感は、全然一般的でなかったのだ。
仮にもお付き合いしているひとがいる中、一緒のベッドで眠ることは許されるのだろうか?
たしかに、イデアさんにとってはなにも変わらないのかもしれないし、なにかが起こってしまうこともないのだろうけれど、こちらには立てねばならぬ操があるのだ。
けれどかと言って。
僕はイデアさんの部屋を見回した。床に物が散乱している。とてもではないが、ひとひとりが横臥するスペースが確保できるとは思えない。だいたいこんな床に寝たくない。イデアさんが自身で言いだすならともかくも、家主に床で寝てもらうわけにもいかないだろう。
「……。」
答えは出ない。
「アズール氏、シャワー浴びるでしょ。着替えどうする? 拙者のでよければ貸しますが。」
そうか。
たしかに今まで何度か泊まってはいたけれど、それはもともとそういう予定で泊まっていた。最初から泊まる前提だったから、支度を整えてお邪魔していたのだけれど、今日は違う。まったくそんなつもりがなく訪れたところ、不慮の事故で閉じ込めをくらってしまったのだ。当然、なんの準備もない。
「……いくら洗ってあってもさすがにあなたの下着を着けるのは遠慮したいんですけど。」
「え、これ拙者disられてる???」
別にイデアさんのものに限らず、誰の下着でも嫌なので、ごく普通の感覚だと思う。
「まあ、それは冗談として。パンツは新しいのあるから。はい、これ。」
未開封のパッケージに入った下着を手渡された。確認するとグレーのボクサーブリーフ。サイズはM。イデアさんは痩せぎすではあったけれど骨格がしっかりしているからこのサイズなのだろう。節制に節制を重ねた僕のウエストは70を切っていたからサイズが合っていない。とは言え、新品であるから、多少大きくともゴムで融通は利くだろう。つまり、借りるのに問題のない下着だった。
「ありがとうございます。後日新しいものを買ってお返ししますね。」
「いや普通に返してくれれば構わんが?」
「嫌ですよ。」
それって一度僕が履いたものをイデアさんが履くということじゃないですか。
「じゃあ別にいいよ、返さなくて。別にパンツに困ってませんし。」
「そういうわけにもいかないでしょう。一方的にいただくなんて。」
「迷惑料。そう、迷惑料だよ。アズール氏はイグニのシステム不具合に巻き込まれたわけだし、その不具合が発生した一因には僕の怠慢があるわけだし、結果必要になったものなんだから君が普段する必要はなくない?」
「それは……。」
そう。そうか、そうだな。迷惑をかけられているのは僕の方だ。よし! イデアさんには床に寝てもらうことにしよう!
「上はTシャツでよき?」
「あ、はい。お借りします。」
イデアさんが取り出したのは何度か着たと思わしきもので、でも状態は悪くない。首元もまったくくたびれていないし、本当に数度着ただけだろう。まあ、Tシャツは下着と違ってイデアさんの着用済みでもそれほど気にならないので、問題はない。
受け取ったTシャツと下着を手に、僕はイデアさんの部屋付のバスルームへ入った。
バスルーム、と言いはしたが、イデアさんの部屋のそれはシャワーブースに毛が生えたようなものだった。イグニハイド寮の水回りはオクタヴィネル寮のそれと比べると随分と貧弱だ。ただ、これはおそらく、イグニハイド寮が劣るわけではなく、オクタヴィネル寮が手厚すぎるのだ。あくまで僕の想像ではあるけれど、他寮もイグニハイド寮とどっこいに違いない。
シャワーブースよりは広いスペースにけれどバスタブは設置されていない。浸かりたければ共用浴場を使用しろということだろう。そもそも部屋にバスルームが備え付けられているのはゲストルームと寮長室だけだといことだった。
流しっぱなしの湯で髪から顔、身体を洗う。こんな全身をまとめて洗うなんて自寮では絶対にしないけれど、今日は特別だ。なぜかというと、単純にイデアさんの部屋のバスルームには全身洗い用のソープしかないからだ。せめてシャンプーは別にしてほしい。持ち込まなかった――その予定がなかったのだから当然だけれど――ことが後悔される。
水分を拭って下着と借りたTシャツを身に着ける。借りた……もらった下着は実際に履いてみればショートパンツのような丈で、脚が剥き出しになってしまうが仕方ない。見苦しいかもしれないが、そう思うならなにか下着の上に履くものを貸してくれればよかったのだ。そうしなかったのはイデアさんの責任なので、僕は悪くない。
ドライヤーはないから髪は風魔法で乾かした。これについてはイデアさんの髪が燃えている以上、せめてドライヤーを置け、とは言えないだろう。
「お先にいただきました。」
「おつおつ~。じゃあ拙者も入ってくるでござる。ゲームでも映画でも好きにしてて。」
「はい、いってらっしゃい。」
入れ替わりにバスルームへと向かうイデアさんを見送って、僕はさっさとベッドの上にあがった。散らかっていて座る場所がないというのもあるけれど、先にベッドを確保してしまおうという魂胆だ。ふふ、これでとりあえず僕がベッドで眠れることは確定したぞ。
脚まであげて、奥の壁に凭れるようにして座る。それからイデアさんが置いていったリモコンでチャンネルを切り替えた。時刻的にバラエティーが多く、ニュースの類はやっていない。つまらないな。イデアさんの言っていたように映画でも見た方がいいかもしれない。たしかこのボタンでイデアさんが契約しているサブスクの動画視聴サービスに切り替えられたはず。あ、いけた。
なにがいいかな、とサムネイルを送っていると観るものが決まるより先にバスルームから音がして、ややあってイデアさんが出てきた。入ってから出てくるまで十分も経っていない。
「……髪、洗いました?」
「洗いました~。」
「身体もちゃんと洗ってます?」
「洗ってるって。置いてあったでしょ、全身洗いのソープ。いつもこんなもんだよ。」
そうか。こんなものだと言われてしまえばどうしようもない。置いてある以上あのソープを使用しているのだろうし、それがわざわざ全身洗い用なのだから、全身を洗っているはずだ。
「なんだ、なにも見てないの。」
「あなたが出てくるのが早すぎたんですよ。」
「どうする? なんか見る? それとも寝る?」
ちらりと時計を見る。22時。寝るのに早い時刻ではないが、健康な男子学生が眠たくなってしまう時間でもない。ただ、いまから映画を観るとなると遅くなりすぎる。
「寝ますか。」
「え? 早くない?」
「早いですけれど、明日の朝が早いですし。6時には解除されるのでしょう? それまでに支度をしたいので、5時台に起きることになりますし。」
「なる。じゃあ寝ますか。」
「はい。」
凭れていた壁から身を起こし、向きを90度回転させて足先を布団に滑り込ませる。そのままぱたんと倒れ込もうとしたところでストップがかかった。
「待って。もっと向こう詰めて。」
「え?」
「そんな真ん中にいられたら寝れないでしょ、僕が。」
「一緒に寝るんですか?」
「え?」
「だって、僕お付き合いしてる方がいるんですよ? そんな僕と一緒に寝る気なんですか?」
「……あー……。それは君の都合でしょ。今までだって一緒に寝てたんだからいいじゃん……。」
なにも起こらないから、とイデアさんは繰り返した。
なにも起こらない。なにも起こらないのだからなにも問題はない。
本当になにも問題がない?
納得はたぶんできていなかったと思う。できていなかったのに、僕はイデアさんの指示に従った。ベッドを半分空けるように、奥へと詰めた。
空いた隙間にイデアさんが乗ってくる。
僕はそんなイデアさんをぼんやりと見ていた。ライトがイデアさんの陰に隠れて、視界が少し薄暗くなる。
イデアさんの顔が近い。ああ、このひと本当に顔がいいな。ひとつひとつのパーツが派手で、けれどそれらが丁度よいバランスで配置されている。結果的にけして下品にはならず、むしろどこか沈鬱な雰囲気さえ漂わせていた。
本当に、なにも起こらない……?
こんなに近いのに……?
そう思った次の瞬間だった。唇が、触れる。キスをされたのだ、とすぐにわかった。混乱はあると言えばあり、ないと言えばなかった。数瞬前にはその可能性に至っていたし、けれどどうしてそんな可能性が発生してしまったのかはわからなかった。
触れた唇はすぐに離れ、けれどまた重ねられる。短い間隔で、触れて、離れて。繰り返されるうちに、僕は薄く口を開いた。その隙を逃さないようにイデアさんの舌が差し込まれる。咥内に入り込む、イデアさんの舌。イデアさんの舌は大胆で、まったく遠慮がなかった。
しばらくして唇を解放された。息が上がっていた。視界は濡れている。ずいぶんと長い時間だった気がしたけれど、滲む視界で確認した時計は、寝るか否かを確認されたときから三分と経過していなかった。
「ど、して……。」
舌が痺れたみたいになっていて、うまく回らない。
「どうして、こんな……?」
「……したかったから。」
「僕、恋人が、いるんです……。」
「知ってる。」
わかっていない。だって、こんなのひどい。なにも起こらないって言ったくせに。なんの問題もないって言ったくせに。
それなのにイデアさんはまた顔を寄せてきて、僕にキスをした。熱い舌が僕の咥内を蹂躙する。本当に嫌なら噛めばいいのに、なぜだかそれはできなかった。
「ひどい。」
「ひどくない。」
短いキスと、その合間の口論。僕の声はどこか舌っ足らずで甘えているみたいに響く。そんなはず、ないのに。
「なにもないって言ったのに。」
歯列をなぞられる。
「僕、どうしたらいいんですか……?」
口蓋をくすぐられた。
「こんなの、だめなのに……。」
舌を伸ばす。僕から。
「ひどい。ひどい。あなただって……許嫁がいるくせに……。」
「……ごめん。」
舌の表面を擦り合わせて。
許嫁を裏切って、僕にキスをして。恋人を裏切って、あなたのキスを受け入れて。
こんなの問題しかないじゃないか。
それなのに僕らは何度もキスを繰り返した。唇を深く噛み合わせて、舌を絡めて、唾液を交換するようなキスを。何度も。
官能的なそれに僕の身体は興奮してしまって、きっとイデアさんにも気づかれていたと思う。だってお互いの距離が近すぎた。僕がイデアさんの肉体の変化に気が付いたのだから、絶対にイデアさんだって気付いたに違いない。けれど僕たちはお互いに触れることはもちろん、自ら自身を慰めることさえしなかった。そうしてただただ何度も、キスだけを繰り返した。
やがて明け方が訪れ、僕はイデアさんのベッドを這いだした。僕は壁際に寄せられいたから、ベッドから降りるためにはイデアさんを乗り越える必要がある。イデアさんは眠っていた。昨夜は飽きるまでキスをして、まどろんで、目が覚めれば相手が寝ていようとお構いなくキスをした。そうすれば相手も目を覚まし、またキスを繰り返す。おかげで早い時刻にベッドに入ったにもかかわらず寝不足だ。当然と言えば当然のことであったけれど。
僕はイデアさんを起こさないように気を付けてイデアさんを乗り越える。四つ這いで、右手をイデアさんの向こうに付いて、それから右脚。覆いかぶさるようにしてイデアさんを越え、膝をつく。よし。あとは左手と左脚を……。
と思ったところでイデアさんが動いた。
「わ!」
当然だ。どれだけ気を遣っていようと身体を乗り越えるのだ。手や膝をついた部分はマットレスが沈むに決まっているし、イデアさんがそれにきがついてもまったく不思議ではなかった。
ついた手を掴まれ、崩れたところにそのままキスをされた。昨夜と違うのは、僕がイデアさんの上にのり上げてしまっていることぐらいで、けれど初めて僕らは密着した。
イデアさんの身体は思っていたよりもずっとしっかりしていた。肉が少ないだけでもともと骨格はしっかりしたひとなのだ。肩は僕よりずっと広くて、僕はすっぽりと抱きこまれてしまった。
「い、いであ……さん、やめてください……。」
何度もキスをした。いまさらなにも変わらない。変わらないけれど僕は。僕らは。
僕が訴えるとイデアさんはあっさりと拘束を解いてくれた。僕はのろのろと起き上がり、仰臥したままのイデアさんを見た。イデアさんはひどく困ったような表情をして、それからなにかを諦めたように目を伏せた。
「ごめん。」
昨夜も謝られた記憶がある。
けれどそれはなにに対して?
僕にキスをしたことなのか、僕に恋人を裏切らせたことなのか、あるいは。あるいは自身の許婚を裏切ったことなのか。
どれなのか僕にはわからなくて。だから許すも許さないもなにも言わずに起き上がって部屋を出た。
昨夜説明を受けた通り、イグニハイド寮のロックは解除されていて、僕はそのまま鏡舎を抜けて、自寮へと戻った。
あれから十日程が経つ。僕はまだリックさんとお付き合いを継続していた。裏切ってしまった、という後ろめたさはあった。あったけれどどうしようもない。
あの直後、イデアさんは二日ほど生身で授業に出席をした。当然、その間にリックさんと顔を合わせることは可能だったはずだ。顔を合わせ、僕がリックさんを裏切ったことを告げることが。けれどイデアさんはそうしなかった。だからリックさんはまだ僕の裏切りを知らない。
そうして、逆にそんなことがあったせいで、僕は自身の裏切りをリックさんに切り出すことができなくなってしまっていた。だって、イデアさんは告げなかったのだ。それなのにどうして僕が言える? 裏切りを告げれば相手を問いただされるのは当然の流れだ。誰とキスをしたのか。そのときにイデアさんの名前を出せるはずがない。
僕自身はイデアさんとは会っていない。正確には、授業で見かけてはいる。けれどそれだけだ。一度あった部活は欠席されてしまって、話はまったくしていない。
イデアさんはどうするんだろうか。表向き、体調不良による欠席と届けられていたけれど、たぶん建前だ。あんなことがあったから、僕を避けているのだと思う。でも、一度ならそれでよくても、これから先も部活はある。いっしょになる合同授業だってあるだろう。そのすべてを避けるつもりだろうか。あのひとならあり得るところではあるけれど、それでは進級が危うくなるに違いない。結局、どこかで諦めて僕と顔を合わせざるを得ないだろうに。
「アズール。」
「あ、はい。」
物思いにふけっていると名前を呼ばれ、慌てて僕は反応した。リチャード・ホープ、リックさん。僕の恋人。恋人といるのに、僕はイデアさんのことを考えていた。僕はリックさんを裏切ってばかりだ。
「どうしたの、心ここにあらずって感じだけれど。」
「いえ、ちょっと気になることがあっただけです。」
「大丈夫?」
手を取られる。指を絡めるようにして、包み込んで。あの頃はまだ数度だった接触が、いまはいくらか頻度が増している。時には肩を抱かれたり、腰を抱かれることもあった。なにもおかしなことではない。恋人同士なのだから。ただの先輩と後輩なのに、唇を重ね合わせるよりもずっと。
「僕で相談に乗れることなら相談に乗るよ。いくらでも頼って欲しい。」
気を遣ってくれるやさしいひと。
「寮のことなので、本当に気にしないでください。」
すべて嘘なので。
「……アズール。」
「わ!」
引き寄せられて、バランスをくずす。胸に抱きこまれて、ああ、あのひとと違うな、と思った。あのひとの身体はもっと硬かった。骨ばっていて柔らかさなんて微塵もなかった。
「嫌なら言って。」
てのひらが頬に触れ、ゆるく顔を持ち上げられる。キスをされるのだ、と理解した。だって僕たちは恋人同士なんだから。キスだってするに決まっている。
僕は受け入れるため、そっと目を閉じた。それなのに瞼の裏に浮かぶのはあのひとの姿ばかり。これは誰に対する裏切りなんだろうか。
皮膚に触れる呼気で、リックさんの顔が近づいてくるのがわかった。こわい。逃げ出したい。こんなやさしいひとなのに。恋人なのに。
そのときだった。
「アズール!」
叫ぶような声が聞こえた。突然名を呼ばれ、僕は反射的に目を開く。すぐ近くでリックさんも目を見開いていた。いいところを中断するように呼ばれた僕の名に面食らっているようだった。
声のした方を振り返る。……本当は振り返るまでもなかった。だって、声でわかる。普段、あんな大きな声なんて出さないくせに。
「イデアさん……。」
そこには案の定、イデアさんが立っていた。拳を握りしめ、真剣な表情で。
「どう、されたんですか?」
このタイミングで。
「別れた!」
「え?」
「婚約、解消したから!」
「え? は、はい……?」
「もともと顔も名前も知らない子だったんだ! シュラウドはいつだって、もしものために許婚を持つ。でも僕は君が好きだから……もしもの相手なんて要らないって交渉して破棄してきた!」
待って。ちょっと、待ってください。なんて?
もしものための許婚。わかる。シュラウド一族は絶えるわけにはいかないから、確実に次代に繋ぐための仕組みがあることは。僕はそれが許婚だと思っていたのだけれど、これはもっと逼迫した場合のものだったらしい。つまり、もしもの場合のためだけに用意されている。鑑みるに、当主、あるいは次期当主が自ら伴侶を娶れなかった場合にのみ、許婚と結ばれる。状況によってはお相手の青春時代を搾取し、その後、何事もなかったかのように婚約が破棄されることがあるという、あまりにもひどい仕組みとも思えたけれど、背に腹は代えられぬのだろう。財はある家系だから、金銭による補填はされるのであろうし、あるいはもっとしっかりとした償いのシステムもあるのかもしれない。
ともあれ、いま問題になっているのはそこではない。
「あなた……僕のことが好きなんですか!?」
「決まってるだろ! そうじゃなきゃキスなんてしない!」
「キス!?」
声をあげたのは僕じゃなくてリックさんだった。恋人とキスをしようとした瞬間に登場したクラスメイト。なぜか突然宣言される許婚との婚約破棄。理解が追いつかず声をあげられないままに、告げられたのは恋人の不貞だ。狼狽は当然だろう。
「あ、アズール、きみ……シュラウドと、キスを……?」
引き攣った表情と上擦った声。肯定するしかない事実だったけれど、少しためらった。リックさんのことは嫌いではない。お付き合いしているのだから当然だ。気が利いて、優しくて、快活で、顔も良い。ラストひとつは除くとしてもどれもイデアさんにはない美点だ。そんなひとに、僕はあなたを裏切ってました、なんて簡単に伝えられるはずがない。
なんとかここは穏便に話を切り上げられないか、と算段をするも、イデアさんは許してくれない。
「僕は君が好きだからキスをした! 許嫁がいるくせにずるいことをしたと思ってる。だからちゃんと破棄してきた。アズール、僕は君を好きだから、君にキスをしたい……!」
どう聞いたって、これは僕が――少なくとも一度は――イデアさんのキスを受け入れてることになる。たしかにそれは事実ではあるのだけれど。
「ねえ、君はどうなの。僕とキスをしてくれたのは、僕を好きだったからじゃないの?」
ああ、もう! 完全に言ってるじゃないですか! 僕があなたのキスを受け入れたって! 恋人であるリックさんを裏切ったって!
突然、ぐいと強く抱き寄せられた。当然、イデアさんではない。目の前の、リックさんだ。
「リックさん……?」
「シュラウド、訂正しろ! アズールは僕の恋人だ。辱めはやめてもらいたい!」
リックさん……!
抱き寄せる手は震えている。リックさんはわかっている。僕がイデアさんとキスしたことは事実だと。そのうえで、僕の尊厳を傷つけるなと言ってくれているのだ。
このひとはとてもいいひとで、きっと僕の過ちも受け入れてくれるのだろう。でも、本当にそれは過ちだったのだろうか?
「……リックさん、すみません。」
「アズール……?」
「あなたのことは好ましく思っています。僕にはもったいないぐらいのひとだ。」
「待ってくれ。そんなことはない! もったいないなんてことはない! 君は僕の恋人で、僕には君を守る義務が……!」
「ありがとうございます。でも、僕は受け入れたんです。キスをしてきたのはイデアさんですけど……僕にあなたという恋人がいるのを知ったうえでキスをしてきた、クズですけれど……僕、受け入れたんです。イデアさんと、何度もキス、しました。あなたへの罪悪感はあったのに、止められませんでした。……イデアさんを好きだったので。」
「嘘だ、やめてくれ!」
「離してください。……そうしないとなにされるかわからないですよ。」
「え……?」
理解できていないらしいリックさんを導くように、僕は視線をイデアさんへと向けた。なにひとつイデアさんの方が正しいところなんてないのに、なぜか彼は権利を害されたような表情をしている。リックさんが僕の恋人であること。リックさんが僕を抱きしめていること。リックさんが僕に縋っていること。すべてが許せないのだ、あのひとは。
僕に従いイデアさんを見たリックさんは、やがて、ああ、と溜息をついた。肺の中の空気をすべて押し出すような、絶望的な溜息だった。僕を抱きしめていた腕から力が抜ける。脱力した腕はそのまま、すとんと落ちた。
「さようなら。」
僕は抱擁から解放され、自由になった身体でイデアさんの方へ向かう。
「僕も別れました。」
「……うん。」
「あなたのこと好きなので、キスされたいです。」
「うん。……ごめん。」
「なにに謝ってるんですか?」
もうなんのしがらみもないのに。
近づくとイデアさんが腕を広げ、僕を迎え入れてくれた。そのまま抱き締められる。唇が耳元に寄せられて、小さな笑い声。
「きみの元カレにだよ。恋人を奪ってごめんね。」
なんてひどい男。リックさんとは大違い。
ああ、けれど。大好きな男とのキスは、他のなにもかもをどうでもいいと思わせてしまうのだった。