ハム 宮城は思った。自分は数を数えるのは得意のはず。四則演算がおぼつかなくては球技をやるのに心もとない。いや、本当は数なんてどうでもよいかもしれない。ただ、点数がつけば勝敗が分かりやすいからシュートあたりの得点が決まっているだけで、数字の概念を無視したってバスケットボールのおもしろさは変わらないだろう。ゴールにボールが入ると気分がいいし、パスが回ると気分がいい。思考は横道に逸れる。
あっけらかんと晴れている。空はすかすかして薄青色で、雲が少ない。
コンビニエンスストアの脇を通る。私道なのに、誰でも通れる。持ち主の気前がよいのかわざわざ「私道ですがご自由にお通り下さい」と看板を立ててある。これ幸いにと、店舗の外壁と隣の月極駐車場との間を通り抜ける。道の左右に花を植えた鉢やらが並んでいて、そのうち一つは野良猫の寝床になって久しく、いつもキジトラ柄の毛並みがふさふさと生えている。
今日は月のはじめから数えて十五日目で、来月とかいうものがすでに対岸に見えているころ。時刻は朝八時四十五分。平日だったら、このあたりの小学校では一時間目の授業がはじまる頃あい。先ほどから道で見かける乗用車の数はちょうど十二で、頭上を飛ぶカラスの数は今のところはまだたった五羽。
宮城は両手をジャケットのポケットへ収めて首をすくめ、寒気に耐えた。
自分は数を数えるのは得意のはず。しかし、数え損ねたものもある。認めるのは業腹だが、考えたって分からないものは分からないので仕方ない。
宮城はそのまま、駅前まで出て、公衆電話をつかった。ほとんど野ざらしの受話器はきんと冷えている。カードがないので小銭を入れた。手帳もないので、記憶を頼りに架電する。しまった、こんな時間に電話して、保護者が出たらどうする? しかし耳元にははっきり、聞きなじんだ部活の先輩の声が届く。
「はい、三井です」
機械越しに聞くと、ずいぶん出来のよい青年の声のように聞こえる。
「あー……」
意味もなく、返事にもならない声が漏れた。みやぎ、と受話器が言った。
「質問があるんですけど」
足を組みかえて姿勢を崩す。肩に受話器を挟み、足元に打ち捨てられた電話帳を拾った。湿って、乾いて、ページのすべてが波打っている。宮城はそれを電話台の傍らに置き直した。
三井は「課題の提出期限は三日前だったぞ」と言った。
「三年の課題なんか知るわけないでしょ」
「数学が手ごわかった」
「アンタだけじゃないの」
「学年一の数学博士も『一味違う』って言うくらいだったぜ」
「高校生のくせにドクター名乗ってんの?」
「周りが勝手に言ってる」
「カワイソ」
「本当に博士になるかもしんねーだろ」
三井の声の裏に、食器の打ち合うような音がする。食事時だったのかもしれない。
「学士がとれるかも不明な人がなんか言ってら」
宮城が言うと、三井は愉快気に吐息で笑って、それから「で?」と切り出した。
「ああ、あの」
肩に挟んだ受話器を手に握り直す。
「一個、聞いておきたいことがあって」
「言えよ」
「三井サンて、いまオレと付き合ってます?」
三井は十五分かかって現れた。部屋着に多少の余所行きの雰囲気を足したような恰好で、防寒着の前を開けたまま、手に財布を握っている。
「はよーございます」
改札手前の外壁に凭れたまま、片手を上げて挨拶する。三井は「ん」とだけ言い、上がった息を均すように深呼吸した。三井が息を吸っても吐いても、その口元から吐息が白く上がって、日の光に絡まって消えていった。
「お前、この辺くわしいか?」
上着のポケットへ財布をねじ込み、宮城の顔をじっと見てくる。
「ぜんぜん」
半ば嘘だったが、三井は「そうか」と納得して、「どっか入ろうぜ」と歩き出した。
「どっかってどこ? 墓?」
壁から背中を剥がして、追いかける。
三井の背中が応える。
「喫茶店とかだよ」
喫茶店内は期待ほど暖かくもなかった。全体に木の匂いがしていて、他に客はいなかった。店主らしき人物はカウンター内側にいながら、首に襟巻をしている。
席につくと、キャスター付きの台座に乗ったストーブが現れて、宮城らの足元を温めだした。店主が言うには吹き抜けをつくったせいで暖房の効きが悪く、開き直って客ごとに暖房器具を派遣してこの問題を解決することにしたということだった。
三井はトーストとミルクコーヒーとピザトーストを頼み、宮城は好奇心に駆られて甘酒とハムサンドを注文した。パンにパンを追加する三井のことが信じられず、そのままそう伝えると、「オレはチャーハンのお伴に白飯を食べる」と回答があり、宮城は「そっすか」と言うだけにした。
「三井サンの中でピザトーストってチャーハンなんだ」
三井は無言でミルクコーヒー入りのマグを傾け、窓の外を見た。店先を、カラスがよちよち歩いている。
「二羽っすね、カラス」
カラスは小枝をくちばしに挟んで、振り回している。小枝の先に冬の太陽の光が凝って、粒となって光っている。
「おー」
「オレ、数かぞえんのは得意な方だと思ってたんですけど」
甘酒が届いた。思っていたより、ずっと量が多い。
「不得手ではないよな、確かに」
「でもひとつ、かぞえ漏らしたことがあって」
「んー?」
「アンタと、いま何度目なのか分かんなくなった」
届きたてのピザトーストから耳をむしるのをやめて、三井が宮城へと顔を向ける。
宮城は三井と付き合っては別れ、別れては付き合うのを繰り返してきた。だいたい、五回ほどはこなしたように思っている。正確なところを忘れてしまった。付き合ったのが何度で、別れたのは何度だったのかが、定かでない。
そもそも、と宮城は思った。甘酒をすする。
「付き合うって何? って感じではあるんですけど」
「…………」
三井は手拭きで手を拭って、ミルクコーヒーに砂糖を足した。
「オレがいろんなコに告白すんのは結局、『告白をしたい』からであって、それをしたらどうなるってのが確かだったわけでもないなって最近よく思うんですよ」
「ボールを投げて受け止めてもらえるならそれでいいってか? シュートを望んでパスを出したわけじゃなく?」
「んー……」
「お前のボールをゴールまで運んだのはオレだけ?」
「一番最初は、アンタがオレに告ったんじゃん」
「そーだよ」
三井と『付き合っ』て、それがどうだったのか宮城にもよくわからない。どちらともになにか変化があったようにも思われず、関係を解消してみたところでまた変化もなかった。ただ、お互いの間に口約束が横たわっていて、その間は、お互いに同じ約束を他人とは結ばないよう努めていた。
まだ中身の残るマグを手元から遠ざけ、身を乗り出して三井は言った。
「オレはお前と『自分たちは付き合ってます』って約束できるとうれしいし、誇らしい気分でいられる」
「……よかったすね」
「お別れすると落ち込む」
「そうなんだ」
「でもそれでお前がこの世から消えるわけじゃねえし」
「まあね」
「宮城はむすんでひらいてが好きらしいから」
「どういうこと?」
三井はテーブル上で手を握り込み、次にぐっと大きく開いた。指の関節それぞれ一つずつまでぴんと力がこもって、指がしなやかに反った。
「むすんでひらいたら、また結ぶだろ? それでいいなら、それでいいんだよ」
窓の外で、カラスが飛び立っていった。鋭い鳴き声が二つあり、目を凝らすと、日向にぽつりと細い小枝が落ちているのが見えた。
「えー、と、じゃあ」
宮城は膝の上で拳を作り、すぐにほどいた。
「いまは?」
宮城が問うと、三井はすぐに「七回目」と応えた。
「付き合ってます?」
「別れてる」
「うお……」
「でも」
大変お待たせしました、と店主が宮城の分のハムサンドを届けた。礼を言って、皿を受け取った。みっしり並んだサンドイッチのひとつを、宮城はそっと取って三井のピザトーストの隣へ置いた。それから「でも、なに?」と目を細める。
「今から付き合ってることに出来るんなら、オレはそうしたい。なあ宮城、どうだ? このあと映画でも観て、適当な食い物片手にデカい公園を歩き回るのは」
「これ食べてからなら」