泣くな嘆くな明日まで マネージャーの顔から水が漏れていたのでそれは何だと聞くと「なみだ」だという。ヴィータの作りはメギドと全然違う。メギドは、フォトンのような、存在に必要不可欠なものをあえてこぼしたりはしない。中にはそういうやつもいるかもしれないが。ヴィータは顔の部分から水をこぼす。モデルにしているとはいえ、変だ。歌だけを目的にヴァイガルドに渡ってきたから、ヴィータの機能は知らないことだらけだ。たまたま「歌」が俺の個と合致して、たまたまヴィータの喉が歌うのにちょうど良かった。それは幸運だった。ヴァイガルドに来てからも幸運だった。マネージャーがいた。
マネージャーは、ため息と一緒に悪態をついて、俺の視線にハッとしたのか、へらりと笑って見せた。水が伝った痕跡が斜めになって、それは乱暴に拭われた。
俺たちの旅は上手くいくこともあれば、いかないこともある。今は後者だ。ゴルドっていう丸い物が、何をするにもとにかくヴィータには必要で、マネージャーは大体それがなくて落ち込む。でもそれはいつものことだから、俺たちはゴルドがなくても楽しく過ごしている。
マネージャーは俺が歌う場を作ってくれる。マネージャーの仕事を簡単に言うとそういうことらしい。歌う場を作るために色んなヴィータと交渉しに知らない所へ飛び込んでいく。時には辛辣に当たられて、マネージャーの気持ちが弱ると酒を飲む。酒は好きでないので歓迎しないが、俺のために仕事をしていると分かるので強くも止められず、せめて宿で介抱するのが常だった。
今回もそうなるとおもった。でも違った。嫌な奴と喋ったのかもしれないし、マネージャーが普段より疲れていたのかもしれなかった。でもマネージャーがこんな風に顔から水をこぼして、苦しそうに歯を食いしばるのを、初めて見た。
「……涙」
「そう、ヴィータはな、悲しいとか辛いとかで泣くんだよ。金がなくても泣きたいけどな!」
「分かる。俺もそうだ」
「とか言ってお前泣かないもんな~。はあ……あー最悪だよ、お前に一番見られたくなかったんだけど!」
マネージャーはわざと大声で、明らかに誤魔化している調子だった。袖で顔をごしごし拭って、いくぶんかさっぱりした顔をした。
「……なんで」
見られたくないんだ、と続けようか迷った。ヴィータにとって涙を見せることは、弱さや不名誉であるかもしれないと思い至ったからだ。言葉は途中で途切れてしまった。口を閉ざした俺を見たマネージャーの赤い目元が緩む。
「そりゃ、『マネージャー』だからな。俺がお前を引っ張って支えるんだから、金の心配とかさせたくねえし。余計な不安を抱えた歌手をステージに上げる訳にはいかないだろ」
どうやらマネージャーは俺に心配をかけさせまいとしていたらしい。己が弱さをさらけ出すことを恐れたのではなく、俺の抱くだろう不安を気にかけるマネージャーは少し照れくさそうだった。そんなマネージャーを見るとますます何を言っていいか分からなくなる。
マネージャーは、お前の歌が理解されないのが悔しいという。誰よりも才能があるのに、磨けば光るのに、と酒場で管をまく。
戦争社会に馴染めず出奔した自分の、歌という新しい戦績を誰よりも評価し共に喜んでくれたのがマネージャーだった。今では副官がこいつで良かった、と思っている。出会って過ごした時間はまだ短くとも、そこに確かな信頼があるのは素直に嬉しく、居心地が良い。
それでも、俺はマネージャーのことをよく知らないのだと思った。マネージャーの感じていること、知らない感情。ヴィータの涙について。悲しいとか辛いとか腹が減ったとか金がないとか。
「……あ、あと嬉しいときもあるかもなあ」
だしぬけにマネージャーが言うので、すっかり考えごとをしていた俺は反応が遅れてしまった。なんのことか分かる、と言うと、お前が聞いてきたんだろと呆れて返される。
「ヴィータが泣くときさ。すごく嬉しいことがあったときにも涙は出るんだよ。覚えといたほうがいいぜ、そういう設定でいくんだろ」
メギドである自分がヴィータの多様な感情や様々な思考回路について考え始めて幾分も経たないうちに、もう例外が現れた。涙というのは悲しみや辛さだけで出るものではないというのだ。
マネージャーはいつも俺のことを最優先に考えて大事にしてくれるのに、そのとき俺の考えていたことは、マネージャーの感じる感情を、もっと言えば辛さや悲しみ苦しみをもっと、そばで見て味わいたいと思っていた。
このひとりのヴィータが感じたものを俺も感じてみたい。俺が歌で上手くやったらお前は成功なんだろう。楽しさや喜びはめいっぱいやるから、お前の暗くて冷たい、誰かに見せたくないっていう感情の中も覗いてみたい。
ロキ、早く大舞台で俺を嬉し泣きさせてくれよ、とマネージャーは冗談めかして、しかし半分以上は本気であろう顔で笑う。そこに涙の跡はもうない。気を取り直したマネージャーはすっかりいつもの調子に戻っていた。
俺は、そんなの御免だぜ、期待するな、と言いながら、いつか、と思う。
いつか、お前の感じたことすべて、見てきたものすべて、全部をもらって歌ってみたい。
そうしたら。
「――考えてみたら、お前の前で俺の格好がついた試しなんかねえかも」
齢食ってから、こんな場面でようやく気付くなんて、呆れちまうだろ。
かすれた声をより近くで聞き取るために身を乗り出した。――本当は必要ない、聞こえる。でも近くにいたかった。マネージャーの、木の幹のような皺の刻まれた、柔らかく乾燥した手を握る。
「お前は誰よりも輝いてて、なのに見てて危なっかしいから、道を作ってやりたくて、どうにかしたくて必死だった。――なあ、必死だったよ、俺」
わかっている。返事の代わりに手を強く握って答える。
「『マネージャー』って自分で言い出した手前、歌手の前では……お前の前では、頼れる存在でいたかった……情けなくて、ごめんな」
「……そのままでいいんだぜ♪ お前のままで♪ 情けなくて格好悪くても……♪ それが俺の信じたマネージャー♪」
他の患者の迷惑にならないように静かに歌うと、マネージャーは見たことのない顔をしていた。褒められてんのかわかんねえよ、と泣きだしそうに笑う。
俺は、こんなに年月が経って、こんな場面でまた、マネージャーが新しい表情を見せたことに途方もない気持ちになっていた。もっと早くに、俺のそばでそういう顔をすればいい、と言いたい気持ちと、これだから気に入っているのかもしれないという諦めが半々だ。
マネージャーは、またな、ロキ、といって目を閉じる。
俺のやるべきことは、マネージャーが眠りにつくまで歌うことだった。
ひとひとりの全てを欲しがってはみたものの、食い尽くすことは出来なかった。目を閉じているマネージャーを見ながら、またいつか出会ったら次はどうやってみようかと考える。マネージャーはまたな、と言ったのだ。もう嘘は見破れる。だから悲しくはない。けれど頬を重力に従いゆっくりと落ちていく水滴は、自身が流れる理由を知らなかった。