言葉は世界、世界は言葉 カルナの言語機能が「バグった」。分析をしていたダ・ヴィンチは困った顔で首を傾げ、「二つ、仮説がある」と椅子を回してくるりとこちらを振り返った。控えていたマスターは身を乗り出して頷き、彼の異常を最初に発見したアルジュナはその背後に無言で立っている。
「まず、彼が話しているのはどの自然言語でもない。サンスクリットでもないし、もちろん英語でもない」
マスターはちらり、とアルジュナを振り返り、「そうなんだ」と頷いた。アルジュナは黙ってカルナを見つめている。ダ・ヴィンチは何事かカルナへ話しかけ、それに彼が頷いた。
「アルジュナは、彼が言っていることは分かるかい」
「……いえ」
ダ・ヴィンチは頷き、脚を組んだ。「仮説は二つある」と指を二本立て、「一つ」と親指を上げた。
「単純に、彼が言語を忘れてしまった。一種の退行だね。こちらは簡単な話で、記憶を取り戻せばいい」
「もう一つは?」
尋ねるマスターに、ダ・ヴィンチは人差し指を立てる。
「二つ。普遍文法の変数が弄られている」
「普遍文法」
初めて聞く単語に、ダ・ヴィンチは「人間が生まれつき持っている言語能力についての仮説だね」と頷いた。
「この言語能力に、冠詞や名詞の性の有無、屈折、時制の在り方なんかを入力して人間は一つの言語……母語をマスターする。ノーム・チョムスキーの提唱した仮説さ。要は、プログラムの環境設定をするようなものだと思ってくれたまえ。ひとつひとつの条件を設定し、英語なら英語、イタリア語ならイタリア語、日本語なら日本語。そういう風に、最適なカタチに整えていくのさ」
マスターは少し頭を抱えた後、「つまり、カルナさんはそれだとどういう状態なの」と尋ねた。ダ・ヴィンチは肩をすくめて眼鏡を外し、「それが全部、めちゃくちゃになっているのかも」とため息をついた。
「忘れているだけなら、聖杯から知識をインプットし直す必要があるだけ。でも普遍文法の変数が弄られていたら、そこにはトレーニングが必要になる可能性もある」
「どうして?」
「仮説の上に仮説を重ねた、危うい仮定だけど。取扱説明書とデバイスが与えられたとしよう。きみは一回説明書を読んだだけで、デバイスを扱う玄人になれるかい? さっき言った言葉を思い出すっていうのは、取扱説明書とデバイスと一緒に、説明書を熟読した記憶まで取り戻すって意味さ」
マスターはそれに沈黙した。アルジュナは「分かりました」と頷き、「カルナ」と声をかけた。自分の名前に反応した彼に、母語で語りかけようと口を開く。しかし、言葉が出なかった。口ごもる彼に、ダ・ヴィンチは「気を取り直して、私はデータでも取ろうかな」とウィンクをした。さぁさぁ、出てって出てって。彼女の工房から締め出された二人は顔を見合わせ、ばたんと閉じた扉に目をやった。奥では何事か声が聞こえる。
「……よく分からないけど、早く収まるといいね」
ぽつりと呟いたマスターの声に、「そうですね」とアルジュナは曖昧に頷いた。
結局、カルナのバグは一晩経ってから解決された。復旧した、と真顔で言う彼に、アルジュナは「そうか」と頷くことしかできなかった。
「結局どういう状態だったんだ」
「分からん。オレは自然に存在しない言語を喋っていたようだ」
アルジュナは馬鹿みたいに頷くことしかできなかった。
「復旧した際、ダ・ヴィンチに『おかえり』と言われた」
彼は珍しくさらに言葉を続け、アルジュナを見た。その目の炯炯とした光に、アルジュナはいつもながら息を呑む。
「はじめに言葉ありき。人間は、言葉によって世界を切り取り、再構築する。それで言うならば、オレはあの時、カルデアでただ一人の異邦人だったのだろう。共通語を知らぬ、オレのみの世界で生きる異邦人だったのだ」
その言葉がなんだか腹立たしくて、自分も異邦人になりたかったとアルジュナは思った。同じ言語を二人だけ話す、二人きりの異邦人。
アルジュナは「ふざけるなよ」と小さく呟き、カルナを睨んだ。カルナは薄っすらと微笑み、「オレもそう思う」と頷いた。ここはカルデア。国籍も世代も生まれも育ちも何もかも異なる人々が、一つの言語で繋がる小さな共同体。