対岸の、その先に進むには。 後編「来ますよ、セルジュ!」
「うん、イシトさんっ」
二度の警備交代を経た翌日。少しうわずったセルジュの声が聞こえる。
セルジュとほぼ言葉を交わすことがないまま、ここまで来てしまった。
案の定、名前も呼ばれやしない。
出発の直前に「眠れたか」と声をかけたが、セルジュが朝に弱いのも相まって、軽く頭を下げられた程度のやりとりしかできていない。その瞼は、赤く腫れ上がっていた。一度目の交代の後には床に転がってぐっすり眠っているのを確認したので、少しでも休ませる事ができたのが幸いか。
目の前には、もはやヤマネコでもセルジュでも無くなったもの——『神』を自称するフェイトが、前のめりに構えている。ゆうに十メートル以上はあるかと思われる巨大な上半身を揺らしながら、床を突き破って相対している。こんなものが地下に埋まっていたのか。
赤銅色の光沢を持った人間の身体に少年のような幼い顔が乗っており、一瞬の隙もなくこちらを睨みつけている。既にフェイトは初手で『マナフィーブル』を発動させ、場のエレメントの威力を半減させている。『マナコール』を発動し、威力が高まったエレメントで攻撃するいつもの作戦が読まれている。こいつが運命の書を通して、エルニド全土の人間たちを陰からコントロールしていたのだから、情報はすべて筒抜けだ。
半減効果はフェイトにも適用されているが、先天属性に合わせて偏らせたエレメント攻撃は場に『黒』の気をもたらし、フェイトの攻撃の威力を後押ししている。少しずつだが、劣勢へと向かっている。合間に回復を挟むが、どうしても威力が上がらない。
何よりまずいのが、反する白の先天属性を持つセルジュには、半減した効果でも十分なダメージになっているということだ。戦闘前からなんとなく動きがぎこちないと感じていたが、集中的にダメージを与えられてさらに動きが鈍っている。スワローを構える事ができず、肩で大きく息をしている。助けてやりたいが、先程食らった超高温の熱線のせいでダメージを受ける度に身体的疲労が積み重なっていき、パワーを貯めることが難しい。息をするのも重い。おそらく、熱線に呪詛でも込められていたのだろう。姿は変わっても、相手の嫌がることをしてくるのがヤマネコらしい。
『カウント進行、1——』
ダメージは確実に入っているが、気にも留めず謎のカウントを進めていくフェイト。イシトが無表情の巨人の額に向かって銃を連射するも、フェイトにはあまり効いていないようで、『それがどうした?』とでも言いたげに首を傾げている。
「くっ、どうすれば……!」
『神に歯向かおうとしても無駄だよ』
ヤマネコとセルジュと、それから幼い子供の声を複数混ぜたような不快な合成音声が耳を撫で、無表情を貫いていた口元がにやりと吊り上がる。
『カウントゼロ、ダークエナジー発動——』
突如、天を仰いで大口を開いたかと思うと、そのぽっかり開いた口元に青黒い負のエネルギーが集まっていく。今まで刻んでいたカウントは、これを発動させるためだったようだ。集まるエネルギーに肌がひりつく。間違いなく、あれに当たったらひとたまりもないことがわかる。
「やべえ、散れ!」
声を張り上げ、仲間たちに注意を促す。金属製の軽い靴音が遠ざかる。おそらくイシトのものだろう。
……セルジュは?
後退しようとして足をもつれさせ、よろけそうになっている。
まずい。
狙われる。
力を振り絞って、セルジュの方へ駆け寄る。
「セルジュ……っ!」
「あ……っ」
咄嗟に飛びついて少年に覆い被さり抱きしめ、少年ごと床に倒れ込もうとする。
一歩遅かった。
絶叫を上げ、長年溜め込んだ負のエネルギーが放たれる。
背中に焼き付くような激痛が走る。
覆いかぶさったまま、部屋の端まで少年を巻き込んで吹き飛ばされる。
思ったより空間が広く、壁に激突することは免れた。
痛い。痛い。痛い。痛い。
背中全体が脈打つように血を流しているのがよくわかる。
呼吸が、ままならない。
水を含んだような、変な音がする。
セルジュは無事か。
なんとか顔を上げて、安否を確認しようとする。
…今日初めて、ようやくまともに見られた愛しい顔は、今にも泣きそうだ。
俺の事で、泣かせてはいけない。
背中の痛みに構わず、柔らかな頬へ手を伸ばす。
心配させまいと、不思議と笑みが溢れてしまう。
「…………だいじょ……ぶ…か……」
ひとこと発するたびに、口の中に鉄の味が広がる。
意識が、少しずつ薄れる感覚がある。
海の色の青くて大きな瞳が、心配そうに見つめている。
その顔が血と汗と埃にまみれていても、かわいいと思ってしまう。
…なんて、呑気だろうか。
「ボクは大丈夫……ごめんなさい、こんな大けが……!」
苦しそうな吐息が混じった、悲痛な声が聞こえる。
自分のせいで悲しい思いはしないでほしいが、もう声が出ない。
少年は寝転んだまま血まみれの背中を抱きしめて、エレメントで傷を塞ぐ。
自分の血の香りに混ざって、ほのかに海と石鹸の香りがする。
青い光に包まれ、呼吸が少しずつ楽になっていく。
背中から、水が流れるような感覚がなくなっていく。
生命が、繋がった。
今にも泣きそうな瞳を閉じて、少しでも治癒の威力が高まるように集中する少年の表情は、優しくもあり美しくもあり、また年齢以上に大人びて見えて。
ふつうなら、戦場の恐ろしさだとか血を見た怖さでこういった事はできない。
ふと、ツクヨミの言葉が頭をよぎる。
『セルジュは強い子だ。自らの意思で前に進んで、他人の痛みや悲しみに寄り添える』
ああ、そうだったな。
こいつは——セルジュは、間違いなく強い。
過保護になる必要はないんだ。
こうやって、支え合えばいい。
息苦しさが去る。ひりつく感触はあるが、動ける程度に傷口は塞がったようだ。
自身も辛いだろうに、目の前の男を治癒した少年は少しだけ息を上げて微笑む。
……本当に、誰よりも優しくて、強い少年だ。
その言葉は、ごく自然に口から出た。
「……ありがとう、セルジュ」
「……うん」
わずかばかり、少年の顔に朱が差す。
既に血が止まった背中がふたたび抱きしめられると、ふたりを白い光が包み込む。
全体回復エレメント——リカバーだ。
セルジュの治癒だけでは回復しきらなかった傷が癒やされる。満身創痍だったセルジュの顔からも、疲労が抜けてゆく。
発動したのは……
「ふたりとも、大丈夫ですか! 動けるようであれば、戦列に復帰を!」
遠くの方からイシトの声がする。
間合いを取ってフェイトを牽制しながら、地味にエレメントパワーを溜めていたようだ。
……ったく、相変わらず空気の読めないパレポリ野郎だ。
ただ、その正確な銃撃のおかげで助かったのも事実だ。先程まで辛そうだったセルジュも、今のエレメントである程度回復できたようだ。
邪魔にならないように身体を起こし、片膝を立たせて呼吸を整える。
同時に少年はゆっくりと立ち上がり、手をこちらへと差し伸べた。皮の手袋には、先ほど抱きしめた背中の血が付着している。…仲間の血に塗れていても、なんて清らかなのだろう。
手を取り、力強く握った。
…絶対に、この手を離さない。
「行こう、カーシュ!」
「……ああ!」
慢心したのか、それともあの凶悪な一撃を撃つために必要な動作なのか。
フェイトの行動パターンが読めた。
エレメントを発動する順番も、セルジュを狙う戦法も、変わることがなかった。
ならば、それに乗るまで。
肉体強化や魔法防御増強、回復のエレメントは全てセルジュに。
相反する属性は相手にとっても不利なら、セルジュを攻撃の要として攻め込む。
言葉を交わさずとも、セルジュやイシトにもその意図は伝わった。
運命の書にはない、目の前で更新される情報にフェイトは精彩を欠いた。
大きく振りかぶったセルジュがとどめの一撃を喰らわせたとき、
フェイトは再び天を仰ぎ、嘆きの声を上げて倒れ込んだ。
そして。
本当に、『ヤマネコを倒して終わり』ではなかった。
凍てついた炎に近づくキッド。
それを必死の形相で止めようとするツクヨミ。
キッドが炎を解放する。
遠くにいるはずなのに、しかしはっきりと聞こえる六龍の目覚めの咆哮。
彼らの封印が解けたのと同時に、天龍の島の地中に埋まっていた遺跡——『星の塔』が姿を現した。
龍たちは、星の痛みと悲しみを免罪符に、人間たちへの復讐を高らかに宣言した。
彼らは融合し、人間を滅ぼさんとする別の生命体に変貌した。
別人のような冷たい顔で、歴史を語るキッド。
凍てついた炎を奪い、泣きながら空に飛び去るツクヨミ。
そして、ツクヨミごと凍てついた炎を持ったまま、彼らは根城に向かっていったのだった。
そう、六龍は自分達を封印していたフェイトを処分するために、自らの加護を与えてまでセルジュを、憎き人間達を利用していたのだ。
ツクヨミにも結局裏切られた。
なにもかも、龍神たちの掌の上だったのだ——
「いっっっ……てえぇえ! ルチアナてめえ、もっと丁寧に治療しやがれ!」
「してるわよ。薬が染みているだけだわ。それよりあなた、なんでこんな傷を受けて生きているのかしら。細胞を採取して調べてみたいわね」
「うるせえな…人をモルモット扱いすんじゃねえ」
フェイトとの戦いから二日後。
俺は天下無敵号のベッドの上で治療を受けていた。
龍騎士団の面子、それからセルジュとイシトとで今後の方針を話したのは覚えている。その後の記憶がない。
今は上半身だけ道着を脱がされてうつ伏せになり、背中の傷の治療を受けている。ドクはガルドーブにて急患が入ったとのことで来れず、代わりに科学者のルチアナが治療に来たそうだ。一応、日々生傷の絶えない団員を治療しているのは承知の上だが、この女の狂気じみた性格を知っているだけに、実験と称して傷口に何が施されていないか心配になる。
曰く、会議を終えた後から丸二日寝たきりだったらしい。エレメントだけでは身体の内部が治療しきれておらず、龍たちの行いに激怒したことで背中の傷口が開き、さらに戦いの中での出血量が多く貧血で倒れた……とのことだ。戦いの最中はアドレナリンが出ていて痛みに耐えられていたのだろう。
「ただ、思ったより傷の治りがいいわね。ほとんど傷口は塞がっているから、安静にしていれば明日には普通に動けると思うわよ。セル君のおかげかしらね」
「セ…小僧がなんだって?」
こういう時のルチアナが意外とめざとい。呼び方が変わったことで心情の変化を悟られないようにせねば。それよりも、ルチアナの話の続きが気になる。
「あなたのこの傷、セル君を庇って出来たと聞いたわ。だからかしらね、わたくしが到着するまでの間、つきっきりで看病していたそうよ。わたくしが到着した後も、夜中に絶えずエレメントで治療していたみたい。…今はようやく安心して眠ったそうよ」
「あいつが…」
本当に、健気な奴だ。
庇った直後も、泣きそうな顔をしながら治療をしてくれた。
謝る機会を失ったままな上に、さらに借りができてしまった。
…早く、セルジュとふたりきりで話がしたい。
また少し目を閉じたら、すっかり夜になっていた。窓から差すふたつの月明かりが、今日はなぜか悲しく見えるのは気のせいだろうか。
小走りな足音と、ドアを軽く二回ノックする音が聞こえる。ルチアナが包帯を取り替えにでも来たか。
「誰だ?」
「…セルジュだよ」
今いちばん聞きたかった声に、心臓が跳ねる。我ながら単純だ。
おそらく、もう起き上がっても大丈夫だろう。背中に響かないように体を起こし、ベッドサイドに腰掛ける。痛みはほとんどない。
入室を促すと、少年がゆっくりとドアを開けてやってくる。眠っていたからか、バンダナとベスト、手袋を外した黒いシャツと緩いパンツ姿だ。手にはランタンを持っている。ろうそくの明かりに照らされた顔は、太陽の下で見る朗らかさとはまた違った趣だ。心なしか、緊張しているようにも見える。
空いている中央のベッドを指差して、座るように促す。ランタンをベッドサイドに置いて少年はゆっくりと向かい合わせになるように腰を下ろすと、小さな声で尋ねた。
「…けがの具合は、どう?」
「ああ、悪くねえ。夜中も看病してくれたんだってな。おかげで、明日には動けるらしい。ありがとな」
「…よかった」
ほんの少しだけ微笑む少年。笑顔が固い。つられて微笑むが、何となくぎこちない空気が互いの間に流れている。まだ、クロノポリスでの出来事を謝罪できていない。この気まずさを解消したい。早く、謝らねば。
「…あのよ」
「…あのさ」
二人同時に口を開き、目を見開いて驚き合う。
「…カーシュ、先にどうぞ」
「…いや、おまえからでいい」
先を促す。きっと少年も、この空気の重たさを気にしているに違いない。まだ怒っているなら吐き出させてスッキリさせたい、と思っていたら、少年は腰から折れたように深く頭を下げた。
「…ごめんなさい」
まさか向こうから頭を下げられるとは意外だった。しかも、ずっと下げ続けている。セルジュに謝られるようなことなど、何もないはずだが。
「頭を上げろよ。謝るようなこと、してねえだろ」
つとめて優しく声をかけると、ほんの少しだけ頭が上がる。まだ、顔は見えない。
「…カーシュの言う通りだって思ったから。ボクひとりでヤマネコにかなうわけないって、この前怒られたばっかりなのに。また指摘されて、ムキになって…」
「…いや、それに関しては俺が悪かった。おまえの実力はわかってたのに、怒鳴り付けちまってよ…嫌な思いをさせて、すまねえ」
こちらの謝罪に反応して、頭を上げる少年。謝らないで、と首を振る。しかし、顔色はすぐれないままだ。
「でも、いざフェイトと戦ってみたら、怖さが込み上げてきたんだ…ボク達のことを知り尽くした、あんな大きな敵に勝てるのかって。龍に勝てたから強くなったって、思い込んでただけだった」
フェイト戦序盤のぎこちなさは恐怖心が原因だったか。仲違いも影響し、より不安にさせたに違いない。炎に照らされた青い瞳が、心情を吐露して悲しみに潤み始める。
「けど、ひどい態度を取ったのに、カーシュはっ、ボクを守って、大けがを…!」
大粒の涙が溢れる。
「もう、ボクのせいで誰も傷ついてほしくないのに…! 本当に、ごめんなさい…!」
この少年は、本当に優しく、清らかだ。
仇敵が自分の姿を取って人々を傷つけた事実に、心を痛めていた。他人の傷に共感し、寄り添い、涙を流せる心の優しさは、この少年の長所だと思う。ただ、これ以上泣いてほしくない。
「その気持ちで充分だ。実際、おまえがすぐ治療してくれたおかげで致命傷にはならなかったわけだしよ。
それに、エルニドに住むすべての民を守るのが俺の仕事だから、これぐらいのケガなんかどうってこたあねえ。あんまり気にすんな」
これは心からの想いだ。自分の職務に誇りを持っているし、いつでも命を張る覚悟はできている。だから、あの場面で身体を張ってセルジュを守れたことは最善策だったと思っている。
「でも…」
つい「何が不安なんだ」と遮りそうになったが、この前は勢いで発言して失敗した。口を突いて出そうになった言葉を飲み込み、続きを待つ。
すると、月と炎に照らされた少年は一度口を結ぶと拳で涙を拭い、真剣な面持ちでこちらに向き直り、口を開いた。
「…ボクだって、カーシュを守りたい。カーシュのこと、大切だから」
ん?
…大切?
……大切
脳が言葉を認識した途端、心臓が跳ねるように暴れ出す。つい胸を押さえてしまう。顔に熱が集まる。言葉を発した当の少年も、言い切って恥ずかしくなったのか、伏し目がちに斜め下に目線を落として顔を赤らめた。
「…ボクじゃ、役に立たないかな」
「いや……そんなことは、ねえ、が……」
動揺しすぎて若干片言気味になってしまった。それが否定に聞こえてしまったらしく、途端に少年の赤らんだ顔から熱が引いていく。
「…やっぱり、ボクが守りたいって思うのは、変だよね」
「……変じゃねえ」
「えっ?」
気がつけば、少年が座るベッドサイドに並ぶように腰掛けていた。
そして、何もつけていない両手を握って。
「俺は、守るんじゃなくて支え合いてえ。
…おまえが、大切で、好きだから」
……言ってしまった。
もう、しまっておけなかった。
溢れるこの気持ちを。
憧れのあの方にはずっと秘めていた気持ちを。
彼女は、別の形で見守ると決めたから。
自分も、この少年を大切に思っているから。
この強い少年と、いつまでも並んで歩んでいきたい。
言い切って、場の静寂が戻ってくる。
自分の鼓動の音。
波の音。
風の音。
船の揺れる音。
すべてがやたら、新鮮に聞こえる。
そして、握った両手のたくましさ、やわらかさ、暖かさ。まだ発展途上の、自分よりもひと回り小さな体温の高い手。日に焼けていない部分は、ほんのり白い。
普段、互いに手袋をつけているから素手を見る機会はなかなかない。ましてや、獣に姿を奪われていた少年の身体の細かな部分を見たり、触れたりする機会はなかったから、新鮮に見える。
「……いや、好きとか迷惑だよな、悪い」
ずっと握ってて、不快に思われたりしないだろうか。不安になって、手を離した。というのも、さっきから少年が言葉を発しないままだからだ。大きな目をまばたきさせて、口を少し開いたその表情は、言葉を当てはめるとすれば『驚き』が一番しっくりくる。それはそうだ。旅の仲間だけど、さんざん傷つけあってきた、しかも同性に、いきなり『好き』だなんて言われる方が困るだろう。セルジュがいうところの『大切』は、自分の『好き』と認識がズレているのかもしれないから。
発言に後悔はしていないが、
困らせるようなら好意はそっと胸の中にしまい込もう。
今までだって、そうして生きてきたのだから——
「ううん、違う、違うよ」
大きく首を振る少年。首の動きを止めると、頬を赤らめ、真剣な眼差しでこちらに向き直り、手を握る。年齢の割に可愛らしく幼い顔立ちではあるが、まっすぐで意志のこもった表情は初めて会った時より凛々しく見えて、胸が高鳴る。
「…あのね。笑わないで聞いてほしいんだ」
一度頷いて話の続きを促す。ほんの少しだけ、手を握る力が強まる。
「…ボク、ヤマネコの姿になってからずっと落ち込んでた。いろんな人が怖がったり酷い言葉を投げてきたりしたけど、キッドがボクに襲いかかってきて、ツクヨミもいつの間にかいなくなっちゃった時が、とっても悲しかった。けど、カーシュはいちばん落ち込んでた時にそばにいて、いろんな話をしてくれたよね。それがとっても嬉しくて、少しずつ元気になれたんだ。
最初は…怖い人だと思ってたけど、優しいし、いつも助けてくれるし、元気をもらえるし、間違ったことは叱ってくれるし、背が高くてかっこよくて、気がついたらずっと目で追いかけてた。寝る前も、カーシュのこと考えるようになった」
沈む少年のためにいろいろと話をしたのは間違いではなかった。さらに、思わぬ量の賛辞をもらえ、正直顔がにやけそうになる。ただ、それで茶化していると思われて、機嫌を損ねてもいけない。緩みそうになる口元を縛って話の続きを待つ。
「ボクをかばってくれた時に、ボクのせいで絶対に死んでほしくないって思った。 看病の間も、気がついたらカーシュのことばっかり考えてて。また声が聞きたいな、お話したいな、一緒に旅がしたいな、隣にいてほしいな…って。他のみんなのことはもちろん好きだけど、カーシュは特別に好きで、大切なんだって気づいた」
一呼吸置くと、やわらかな笑みが浮かぶ。
「いっしょの気持ちで、嬉しいよ」
ふわりと、頬が桃色に染まる。暗がりでもわかる変化だ。とてもかわいい。
長い間、心に居たものが、大きな別のものに変わっていく。
「『支え合う』っていうの、大人っぽくてカッコいいね。守るっていうとちょっとえらそうだから、そっちの方がいいな。気づけてよかった。教えてくれて、ありがとう」
守るという一方的な行動ではなく、互いに支え合えば良いと気付けたのは、この少年のおかげだ。それなのに、まるでこちらの手柄であるかのように、たくさんの賛辞で讃えてくれる。言葉のひとつひとつが、染み渡って満たされていく。
本当に、この少年にはかなわない。強くて、優しくて、愛らしい。どんどん好きになっていく。想うだけで無敵になれる感覚だ。
——もう、我慢できない。
たまらず、少年を抱きしめた。
「あ…っ、えっと……」
どうしていいかわからないようで、少年の腕は二度三度さまよい、そのまま胸に沿うように置かれる。背中に触れないように、気を遣ってくれたみたいだ。
暖かい。自分より一回り小さい。適度に筋肉の乗った、大人の数歩手前にいるしなやかな体躯。呼吸が聞こえる。勢いの良い鼓動が聞こえる。日差しを浴びた、海の香り。ここにある。
数日前までは、好意を自覚していなかった。
今ははっきりとわかる。
この気持ちをしまい込まなくていい。
セルジュが、好きだ。
「おまえは充分強え。支え合うことだって、おまえが助けてくれなきゃ気付けなかった。俺だって、おまえにたくさん教わってる」
「ボク、何もしてないよ…?」
「そういう、おまえの飾らねえ素直なところがいいんだよ。真似しようったってなかなかできねえよ」
少し身体を離して、海の色の青い瞳をしっかりと見据える。
大切なことは、目を見て伝えたいから。
「おまえは俺だけじゃなくて、ダリオやお嬢様も救ってくれた。この前の戦いだって、お前が救ってくれなきゃ死んでた。そんな強くて優しいおまえが『好き』だ。仲間とかダチ以上に、大切にしたい」
『好き』という言葉を伝えられた安堵からか、全身に血が巡るのがよくわかる。腕の中に収まる青くて大きな瞳が潤み、頬に朱に染まり、早まる鼓動が耳に届く。抱き締めた腕から熱が伝わる。その様が、可愛くて、愛おしくて。
「…どうしよ。ボク、すっごいドキドキしてるよ」
「聞こえてる」
「なんか、くすぐったいけど、『好き』って言われてすごいうれしい」
「…そうか…」
「カーシュも、すごいドキドキしてるね」
「そりゃ、好きなやつに告白したらドキドキするに決まってる」
「…そっかあ、いっしょ、だね」
互いに顔を赤らめて、笑みが浮かんだ。
…が、少年の顔からはすぐに熱が引いた。
「…へんなこと、聞いていい?」
少年の声色が神妙になる。不安は、できる限り晴らしてやりたい。努めて平静な声色で返答する。
「なんだ?」
海の色の青い瞳が、夜の闇に泳ぐ。発言を迷っている様が伝わる。少年が気持ちを整頓するまで待つ。唇を一度結び、ため息をついて、不安は発せられた。
「…その、カーシュは…
リデルさんのこと、…」
『リデル』の名前を聞いて、その先の内容はすぐにわかった。あれだけリデル、リデルと騒いでいた男が、こんなにも心変わりしたのだから驚いたに違いない。
ただ、もうその先の言葉は必要ない。
だから、不安そうな声を唇で遮った。
「ん……」
触れた唇は想像以上にやわらかくて、暖かくて。
この先の歯列は、口内は、どうなっているんだろう。どんな味がするんだろう。
どんどん先に進みたくなるが、はやる気持ちを抑えて、ゆっくりと唇を離す。
「お嬢様は、ダリオに任せた。今は、おまえが一番大切だ」
言い切ると、また海の音だけが辺りを支配する。
少年はゆっくりと右手の人差し指と中指で自身の唇をなぞる。綺麗な青色の瞳が少し潤んでいる。
——また勢いで行動しちまった!
今度こそ、不快な思いをさせてしまったに違いない。これで関係が壊れたなら、自身の愚かさを一生恨む。
「…悪い、嫌だったか?」
謝罪し、様子を伺う。瞳を潤ませたまま、少年はゆっくり首を横に振る。
「ううん。ボク、よく知らなかったんだけど…こういうのも、あるんだね。
その……男のひと同士で、キス、とか。ボク、はじめてした」
その声に驚きは混じっているが、嫌がってはいない。目が合うと、顔色は赤みを増す。その様がとても可愛らしい。落ち着いてきた鼓動が再び暴れ出しそうだ。
今まではダリオへの劣等感だとか、リデルへの憧れが強すぎて一歩先へ進めなかった。同性を好む趣味はなかったはずなのに、この少年に触れるたびに、声を聞くたびに、もっと好きになる。もっともっと、知りたい。
「俺だって初めてだ。男同士でも、好きじゃなきゃしねえし、できねえ」
『好き』と言われて、少年の顔はさらに赤みを増す。ああ、本当に可愛らしい。
『好き』という感情が、温かくて瑞々しくて、こんなにも心地良いものだったとは。好きになれて、本当によかった。
「…あのさ。もう一回、してみていい?」
意外なリクエストに驚いたが、潤んだ瞳でねだられたら、断る理由はない。
返答がわりに、今度はすこし長めに唇を重ねた。
過去を清算して。
少しずつ一緒に歩みを進めて、お互いを支え合って。
愛情を育んでいければ、こんなに嬉しいことはない。
この先の困難も、ふたりで一緒ならきっと乗り越えられる。
月に煌々と照らされた今、この恋は実を結んだばかりだ。