正解のない、こたえあわせ。 (前)『カーシュがすき』。
それは、セルジュの中でほのかに芽生えた、初めての感情。
見つめているだけで心臓の鼓動が早まり、想うだけで全身に熱い血が巡る。
想いが通じ合っていると知れた。
言葉では言い表せないような喜び。
ただ、セルジュにとってはこれが初めての『恋』だった。
初めてのことは、どうしていいかわからない。
わからないから、何もできない。
ふたりきりになると、緊張して固まってしまう。
『恋人』らしいムードに慣れてなくて、与えられる全ての言動に対して照れてしまう。
…『すき』な気持ちは、一緒なのに。
そして、その雰囲気は相手にも伝播し。
過剰な照れは、相手が手を出しづらい雰囲気を作ってしまい。
最近、二人の間には少しだけぎこちない空気が漂っている。
「セーちゃん! 休憩は取らなくていいのかい!」
昼食を摂ったのは三時間ほど前だろうか。陽は西へと傾き始めている。まだ空は青いが、もう数時間経てば夜が訪れるだろう。
アナザーワールドのエルニド本島にて、しんがりを歩くママチャが先頭を進むセルジュに大声で呼びかける。自然と早足になっていたセルジュが足を止めて振り返ると、後にぴたりと着けて歩いていたカーシュも同様に足を止める。ママチャが早足になっていた二人に追いつくと、カーシュは腕を組みながら語り始める。
「おばさん、そんな暇ねえんだよ。空中に浮かぶ塔へ行く手段を一刻も早く見つけなきゃならねえ。だが手がかりがねえ以上、世界の隅々まで探すしかねえだろうが」
「アンタに聞いてないんだけど」
当たり前のようにセルジュの代わりに答えたカーシュを睨みつけ、横に押し退けるママチャ。退けられたカーシュは不機嫌そうにママチャを睨むが、無視された。ママチャは一つため息をついたのち、優しい笑顔を浮かべてセルジュの前に立つ。
「…セーちゃんはどうだい? 疲れてないかい?」
ママチャの穏やかで愛嬌のある笑顔は『無理しないで言ってごらん?』と語りかけてくるようだ。コルチャを叱り飛ばしていた印象が強いが、その優しさに何度も救われてきた。
一方で、横に退けられたカーシュが気になってしまうセルジュ。『休憩なんかとってるヒマはねえんだよ』と言わんばかりの緋色の瞳は、ずっとママチャを睨み続けている。
横目で一瞬カーシュの様子を確認したのち、一度瞬きして、平静を装って答える。
「えと、まだ、平気…です」
歯切れの悪い返事に、ママチャは一瞬で顔をしかめる。
「うーん…今のセーちゃんの顔、見てらんないね。たまにしか付き合えないあたしでもわかるくらいには、なんか抱えた顔してるよ」
「…えっ、そうかなあ…元気なんだけどなあ…あはは」
カーシュとの雰囲気の悪さを悟られたくなくて、咄嗟に苦笑いで誤魔化すセルジュ。
セルジュとカーシュとあとひとりが日替わり、と言う布陣で星の塔へ行く手段を探し回っているが、ママチャは久しぶりに合流したばかりで、それまでのセルジュと仲間達の様子はわかっていない。
「…なんか気になることでもあんのか、小僧?」
仲間として以前通り『小僧』と呼びかけるが、カーシュの表情に心配と苛立ちが見え隠れする。
その理由がわかりきっているからこそ、胸が苦しくなる。拳を胸の前で握りしめながらセルジュは平静を装う。ぎゅ、と皮の手袋が鳴る。
「…なんでもないよ」
「なんかあるんなら言えよ。それこそてめえが倒れちまったら話にならねえぞ」
今度はカーシュがママチャを押し退けてセルジュに詰め寄り、左肩を掴む。
肩を掴まれたセルジュは、びくりと体を震わせ目を逸らした。
——ボクが気まずい雰囲気を作っちゃったから、みんなといる間は心配をかけたくないのに…
出かけた言葉をぐっと飲み込んで、小さく一息吐き、返答した。
「…大丈夫、だよ」
「てめえ…」
明らかに何かを言いたそうな顔をしているのに、本音を引き出せない。
そんな苛立ちに、カーシュの眉間の皺が深くなり、肩を掴む力が強くなる。
セルジュの心臓が早鐘を打つ。
胸の前の拳が、ふたたび強く握りしめられる。
海の色の青い瞳が、逸されたまま閉じられる。
場の空気がどんどん重くなる。
「はいはい、何があったか知らないけど、ふたりで勝手に話を進めるのはやめな!」
見かねたママチャがセルジュとカーシュの間に割り込んで大声を出し、二人を引き剥がした。
唖然とするセルジュと、眉間の皺がさらに深くなるカーシュ。双方の視線はママチャに注がれている。
困惑するセルジュと怒りに震えるカーシュの顔を二度三度じっくり見つめ、「んー…」と数回唸ったのち、大きく頷くママチャ。
「…ん。わかった。セーちゃん、アンタはちょっと休みなさい」
「えっ…」
突然の提案に、セルジュの海の色の青い瞳が大きく見開かれる。
そして、ずっと付き添ってきたカーシュは納得がいかず再びママチャに詰め寄り怒鳴る。
「おいおばさん、勝手に決めんな!」
カーシュの威勢に負けず、睨み付けてママチャが応戦する。
「勝手なのはアンタでしょうが! さっきからセーちゃんのことをわかった風に喋って! 若い子が辛そうな時に、大人がしっかり見守ってやらなくてどうすんだい!」
「ぐっ…」
ぐうの音も出ず、悔しさから拳を握り締めるカーシュ。
その様子がわかったセルジュは、首を振りながら提案を下げようとする。
「でもママチャさん、カーシュの言う通りだよ。ボクが休んでたら、世界が……」
「少なくとも、そんな辛そうな顔してる子に危ない冒険はさせたくないね。何事ものめり込み過ぎないで、一旦距離を置くのは大切だと思うよ」
同じく首を振って、母親的な目線からセルジュを諭そうとするママチャ。はたして、これは旅のことを指摘されているのか、それとも今起きていることを見透かされているのか。
「セーちゃんには、世界中に仲間がいるじゃないか。こっちにも、もう片方の世界にもさ。なら、みんなで探したほうがいいじゃない。あたしの知ってる子達でよければ、改めて伝えておくよ。『セーちゃんが困ってる』って言えば、みんな助けてくれるさ」
「ママチャさん…」
ずっと胸の前で握りしめていた拳が解けた。
旅を進めていけば行くほど大きくなる目的と使命は、わずか十七歳の少年に託すには大きすぎるものだった。今に至るまでほぼ休みなしで旅を続けてきたこともあり、心身ともに疲労の限界だったことも事実だ。
…だからこそ、旅の最中で新しい心の拠り所となったカーシュと気まずい雰囲気になってしまったのは、セルジュにとって望まない展開だった。
そんな中で、優しい言葉をかけられたら…
じわじわと、目頭が熱くなってくる。
ママチャは押し退けたカーシュに向き直り、腕を組みながら語りかける。
「騎士さんのお仲間も、まさかセーちゃんに任せっぱなしで何もしてないわけじゃないだろう?」
「当たり前だ! 龍騎士団総出で手がかりを探してるに決まってんだろうが!」
当然、と言った様子で返答するカーシュを見て、ママチャは深く頷き、セルジュの肩に優しく両手を置いた。
「ならよし。だから、セーちゃんはおうちで休んできなさい。一週間くらい休んだら、また新しい気持ちで向かえると思うよ」
「…ごめんなさい」
——ほんとうは旅よりも、カーシュと雰囲気が悪いことがつらいだけなのに。そんなことで、みんなに迷惑をかけちゃダメなのに…!
情けなくて、涙が出そうになるのを堪えて頭を下げるセルジュ。そんなセルジュを見て、優しく肩を二回叩いて安心させようとするママチャ。
「セーちゃん、謝り癖がついちゃったみたいだね。そこは『ありがとう』でいいんだよ。たまにはわがまましたっていいじゃない」
ヤマネコに姿を奪われてから『ごめんなさい』がセルジュの口癖になってしまった。姿が戻ってからも完全に抜けきらず、度々カーシュを含めた他の仲間からも『謝らなくていい』と優しく諭された。自身の情けなさが少しだけ許されたような気がして、首を垂れたセルジュの瞳から涙が溢れた。
「ご…ありがとう、ございます…っ」
顔を見られたくなくて。
カーシュの顔が、なんとなく見られなくて。
表情が見えないように、右手で顔を押さえながらセルジュは顔を上げた。
手を離したら、涙がこぼれてしまいそうだから。
歯を食いしばって、泣くのを堪えた。
ママチャは優しい笑顔を浮かべながら、セルジュの一挙一動を見守った。
「よしよし。じゃ、家に帰ってる間はぜーんぶきれいさっぱり忘れること。次に会う時にしみったれた顔してたら、追い返すからね」
かくして、セルジュは単身アルニ村へと帰された。
時空を越える瞬間にカーシュとママチャがオパーサの浜にて見送ってくれた。ママチャが何も言わず、笑顔で大きく手を振り続けてくれたのに対して、カーシュは腕を組みながら「…しっかり休めよ」とだけセルジュに伝えた。その表情は、落胆しているようにも、怒っているようにも見えた。
元いた世界のオパーサの浜に降り立ってからも、しばらくひとりでうつむいていた。
——カーシュ、ぜったい怒ってるだろうな……
ボクのせいでずっと怒ってるのがわかってたのに、こんなかたちで別れて……
……どうすれば、よかったのかな。次に会うときに、なんて言ったらいいんだろ。
「ごめんなさい」かなあ。けど、また謝ったら怒られちゃいそうだし……
そもそも、また会ってくれるかなあ…もう着いてきてくれなかったら、どうしよう……!
考えすぎて砂に沈んでしまいそうだ。
握り締められた肩がひりつく。
背中に受ける夕陽も痛い。
太陽から逃れようと、なんとか足を動かす。
とぼとぼとした足取りで自宅に戻ると、機織りをしながらセルジュの母・マージが迎えてくれた。
お気に入りの香木の香りと、見慣れた母の姿に、セルジュの気持ちも自然と落ち着く。そういえば、古龍の砦で姿を取り戻してから自宅に戻ってなかった。
「あら、おかえりなさい、セルジュ」
「…ただいま、かあさん」
「元の姿に戻ったのね。もう旅はおしまい?」
機織りの手を止めたマージの声は嬉しそうだ。きっと、全てを片付けて戻ってきたのだと思っているのだろう。
ただ、戦いは終わっていない。ほんとうは、休んじゃいけないのに。
また涙が出そうになるのを、ぐっと堪える。ここで涙を流したら、きっと心配をかけてしまうから。
「ううん、ちょっとだけお休み。しばらくしたら、また行かなきゃ」
セルジュの言葉を聞いて、マージはほんの少し肩を落とした。
「…そう。まあ、たまにはゆっくりしていきなさい」
頷いて、セルジュは二階の自室へ向かう。
そのままベッドに伏せると、泥のように眠った。
…夢も、見ないほどに。