正解のない、こたえあわせ。(中)翌日。
「セルジュ……!
いつまで寝てるの
いい加減、もう起きなさい、セルジュ!」
とても懐かしい雰囲気で起こされた。…そういえば、村で生活していた時はこんな感じだった。旅の間は、カーシュが起こしてくれるのが当たり前になっていたからちょっと懐かしい。
お日さまはまだ天高く登りきっていないから、これでも頑張って早く起きられた方だな…とセルジュは思った。
眠い目を擦りながら一階に降りると、母が「ねぼすけなのは、旅に出ても変わらなかったわね」と苦笑しながら朝食を用意してくれた。
ケチャップがかけられたふわふわのスクランブルエッグとちょうど良い焼き加減のパンが、懐かしいカラフルな皿に乗せられて出てきた。
セルジュは食卓に着いてパンを齧りながら、『そうそう、こんな感じだった…』と頷いた。朝に弱いセルジュとグレンでパーティを組むと、早く起きたカーシュが「遅えぞてめえら!」と言いながら、焦げる寸前の濃いきつね色のトーストを焼いてくれた。それに慣れたせいか、実家のトーストはなんだか柔らかく感じた。
綺麗に食べ終わって皿を洗うと、母に「せっかく帰ってきたのだから、ご近所に挨拶してらっしゃい」と言われたので、のんびりと村を歩き回ることにした。長く村を離れていたにも関わらず、見知った人々がいつものように声をかけてきた。旅に出ていたことも、ヤマネコの姿になっていた事も、村の人たちはお構いなしだ。
ふるさとは何も変わらない。時間の流れがとてもゆっくりに感じる。旅の間は、一日があっという間に過ぎていったのに。……『世界の危機が訪れている』なんて教えたら、みんなはどんな顔をするだろうか。
——…そうだ、村長はどこにいるんだろう… 村長も手がかりを探してくれているのなら、着いていかないと…
この村の中にも、セルジュの旅の仲間——ラディウス村長とポシュルがいる。ポシュルはこの旅の中での一番長い付き合いだし、ラディウスはヤマネコの姿になった直後からずっと支えてくれた。きっと、今の旅の目的はイシトを通じてこちらの世界の仲間たちにも知れ渡っているはずだ。二人とも実力は充分だが、ポシュルは大切な友だちのひとりだし、村長は元アカシア龍騎士団四天王とは言え高齢だから無理はさせたくない。早く見つけないと。
「村長を探してるんでしょ、セルジュ」
あたりを探そうとして首をきょろきょろさせていると、聞き慣れた声がした。声のする方へ振り向くと、レナも変わらず桟橋にいた。いつも通り、海で泳ぐ子たちの見張りをしているようだ。もうひとりのレナとおととい会ったばかりなので、見慣れた……と言うと怒られるかもしれない。
「おはよう。あと、おかえり。セルジュ」
「…ただいま、レナ」
元気な笑顔で挨拶するレナ。レナまで優しいと、ちょっとソワソワする。こっちのレナは一緒に旅をしていないから、旅の間に何があったかなんて、きっと知らない。
「あの、村長はどこか…」
『村長』の名前を聞いて、「やっぱりね」と言うような顔をして言葉を遮るレナ。
「早いうちから、ポシュルを連れて出かけて行ったわよ。まぶたに傷のある、大きな男の人が迎えに来てたわ」
——きっと、ザッパさんだ。三人で手がかりを探してくれてるんだ。
ザッパもヤマネコの姿になった頃からずっとお世話になっている大切な仲間のひとりだ。さりげなく見せる優しさや、豪快に振る舞う姿はカーシュにそっくりで、頼り甲斐がある。
とは言え、頼りきりも良くない。居場所を聞いて、村長達に合流しなければ。
「そっか…で、どこに…」
「それなんだけど、『セルジュが着いて来ないように見張っていてくれ』って言われたわ。なんでかしらね…セルジュは、何か村長に用事でもあったの?」
「…ううん、今度でいいや。ありがとう、レナ」
きっと、昨日のうちに単身で村に戻ってきたことを知り、村長が気を遣って『着いて来ないように』と言い渡したのだろう。
感謝しなければいけないのに、なんだか申し訳なくなって、すぐに桟橋を離れた。
自宅に戻ると、出来上がった織物を抱えて出かけようとしているマージがいた。サイズが大きいところを見ると、力作らしい。
「おかえり、セルジュ」
「…ただいま。かあさん、どこに行くの?」
「近所の方に頼まれていた物を渡してくるから、ちょっと
夕飯の下拵えをしておいてくれるかしら。魚を捌いておくくらいでいいから」
言って、すぐにマージは家を出て行ってしまった。アルニ村では機織を生業とする女性が多いが、マージの織物は村の中でも評判だったから、きっと今回も快く引き受けたのだろう。
キッチンの方を見ると、おおよそ四十センチほどの魚が一匹、トマトと卵、きゅうり、小松菜が籠に置いてある。どれもつやつやとして、新鮮そうだ。『下拵えだけでいい』とは言われたものの、せっかく家にいるならひととおり作っておけば母も楽だろう。母の手織りのエプロンをつけながら献立を考える。
魚を手早く三枚におろす。旅の最中でも魚が釣れれば捌いていたので、手慣れたものだ。身が大きくふっくらとした白身魚なので、さらに切り分けて、小麦粉をまぶしてバターで焼こう。
トマトときゅうりは一口大に切って、塩胡椒とナンプラーで和える。あっさり食べやすいサラダにした。ついでに、もう一品に使う予定の小松菜も一口大に切っておく。
バターを置いたフライパンを温めながらもう一つのコンロには大きめの鍋を置き、水と出汁、ナンプラーを注いで温める。その間に別の器に卵を割って溶いておく。
バターが溶けたのを見計らって、小麦粉をまぶした魚を一枚ずつ置いて皮目から焼いていく。
一枚焼けたところでスープが沸騰してきた。切っておいた小松菜を入れて、灰汁を掬いながらもうひと煮立ちさせる。
魚を焼きながら、スープが再沸騰したのを見計らって溶き卵を流し入れ、火を止める。黄色い卵が雲のようにふわふわとスープに浮かんでいて、美味しそうだ。
魚も必要な分だけ焼けたので、出来上がった料理をお皿に持って食卓に並べていく。
白身魚のバター焼きに、きゅうりとトマトのサラダ、小松菜と卵のスープ。
それに常備食のひと口サイズのパンを合わせて、バランスよく。
「…ん。上手にできた」
食卓を見つめてひとりつぶやくセルジュ。日々、家事をこなすことが当たり前になっているので、旅の最中も料理の出来に自画自賛することはなかったが、今すぐ誰かに食べさせてあげたい出来だ。
「ただいま、夕飯作ってくれたのね」
納品を終えたマージが帰ってきた。荷物がない分、足取りが軽そうだ。
「おかえり、かあさん。とりあえず置いてあったもので適当に作っちゃったけど、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。それにしてもいいにおいね。旅の間にずいぶん料理が上手になったみたいね。ありがとう、セルジュ」
「えへへ……」
いくつになっても、母に褒められるのはなんだか嬉しい。セルジュから照れた笑みが溢れる。
が…食卓を見たマージの顔は、笑顔から驚きに変わる。
「……あら、セルジュ。ちょっと多くないかしら。母さん、こんなに食べられないわ」
「え……あっ!」
指摘されて、ようやく気づいた。親子二人で数日に分けて使うべき食材を、旅の最中の癖で三人分使ってしまった。白身魚が食卓に三切れ並んでいるのが何よりもの証拠だ。厳しい旅に向けて英気を養うために、サラダやスープも一般的な三人前よりかなり多めだ。
…カーシュはいつも、「騎士は体が資本だからな!」とか、「てめえらも育ち盛りなんだから、たくさん食ってでかくなれよ!」って言いながら、なんでもたくさん食べてくれたから。
ただ、今はカーシュはいない。せっかく上手に出来たのに…。
「ごめんなさい…えっと、どうしよう…」
食卓を埋める料理たちに、親子二人で頭を抱える。食べ盛りのセルジュでもこんなに食べられない。食品を保存できるような技術もないので、明日の朝には痛んでしまうだろう。会心の出来栄えなのに、セルジュはしょんぼりと肩を落とした。うーん、と唸ったマージが愛息の力作を無駄にしないよう、案を捻り出した。
「頑張って作ってくれたのでしょう、謝らなくてもいいわ。こんなに取っておけないから、食べられる分だけ取り分けて、残りはご近所さんに分けてらっしゃい」
「そ、そうだね…」
——カーシュなら、きっとたくさん食べてくれたんだろうなあ…
取り分ける皿を用意しながら、セルジュの脳裏に美味しそうに食べるカーシュの笑顔がよぎって、胸の奥が締め付けられた。
近所におかずをおすそ分けし終わったところで、ようやく自分達の分の食事にありつけた。
外は雨が降り始めた。そういえば、こちらのアルニ村は雨が多いのだった。
愛息の料理を目の前に「おいしそうね」と嬉しそうにつぶやくマージ。一方で、セルジュは表面上はつとめて呑気に振る舞おうとする。
「いただきます」
「…いただきます」
木のスプーンでスープを頬張る。…美味しくできたはずなのに、なぜか塩辛く感じて、胸の奥がひどくざわざわする。それをかき消したくて、押し込むように料理を次々と口の中に入れていく。早く料理をなくしたくて、木製のスプーンがあわただしく料理をさらう音が食卓に響く。
様子のおかしい息子を見かねて、マージが口を開いた。
「…セルジュ、早食いは良くないわよ。いつもはもっとゆっくり食べていたでしょう?」
「あ…」
フォークに持ち替えて大きく口を開け、今まさに口の中に入れようとした状態のまま固まるセルジュ。目線の先で、マージが心配そうに見つめている。子どもっぽいことで叱られてしまいばつが悪くなったセルジュは、やや眉をしかめて、ひどくゆっくりとフォークを口の中におさめ、テーブルにフォークを置いて白身魚をもたもたと噛んだ。
わざとらしいスローモーションぶりに、しょうがないわね、とため息をつくマージ。
「帰ってきてくれたのは嬉しいけど…どうしたの? 昨日、あなたが寝ている間に村長が心配して家を訪ねて下さったのだけれども……仲間の皆さんと何かあったの?」
『仲間』という言葉を聞き、セルジュの胸の奥がずきんと痛む。
別れる直前にカーシュに強く掴まれた左肩を無意識に触っているのに気づいて、ほこりを払うようなしぐさをする。
——ママチャさんに、家に戻ってる間は旅のことは忘れろ、って言われたから、かあさんには内緒にしなきゃ…
ちょうどよい味付けのはずなのに、やたら重く感じる白身魚を飲み込んでからセルジュは口を開く。
「……なんでもな…」
「なんでもない、じゃないでしょう。あなたが『なんでもない』って言う時は、何かある時だわ」
図星を突かれ、青い瞳が食卓に目線を落とす。母親に心配をかけない言葉を探してから口を開く。
「……ちょっと疲れちゃったから、みんながおやすみをくれただけだよ」
「…本当にそれだけかしら? どんなに疲れたりへこたれても途中で放り出す子じゃないもの、あなたは」
一瞬だけ母の方に視線をやると、真剣なまなざしが注がれる。
……そうだ、カーシュにも『なんでもない』と言って機嫌を損ねてしまった。
『かあさんにはかなわないなあ』と思い、ふたたび視線を食卓に戻し、料理を食べさせたかったひとの顔を思い浮かべながらセルジュは口を開き始める。
「…すごく、優しいひとがいるんだ。けど、優しくて…優し過ぎて。
いろんな気持ちが邪魔して、もらった気持ちも素直に受け取れなくて、何もお返しできなくて…ちょっと、ぎこちない雰囲気になっちゃったんだ。
ほかの仲間が休んでおいで、って言ってくれたんだけど、その人とはけんか別れみたいになっちゃって」
優しくされると、照れてしまう。
嬉しいのに、恥ずかしい。
好きなのに、どうしていいかわからない。
甘い雰囲気になった時、緊張して、体がこわばって。
それが相手にも伝わって、手を出しづらい雰囲気ができてしまった。
しゅん、と肩を落とすセルジュを見て、マージは顎に右手を当てて、愛息の悩みの根源を探った。
「…その人に優しくされるのが嫌なの? それとも、その人のことが怖いの?」
マージの問いに、セルジュは迷いなく答えた。
「前はちょっとだけ怖かったけど、今は全然平気だし、優しくしてもらえると嬉しい」
昼と夜の境目の薄くて青い紫色の髪に、赤く燃える夕焼けの色の大きな瞳。
同性のセルジュから見てもかっこいいと思える、鼻筋の通った精悍な顔立ち。
初めて出会った時は、敵として立ちはだかった。
何度か対立したこともあるが、もう気にしていないし、恐怖心もない。
協力関係を結んでからは、さまざまな局面で助けてくれ、落ち込んでいた頃に他愛もない話をしてくれた。一緒にいて楽しいし、元気をもらえる。
何より…どんなことがあっても、ずっとそばにいて、味方でいてくれると言ってくれたから。
だから、好きになった。
「じゃあ、その人にどうしてあげたいの?
嫌いなわけではないから、ぎこちないままというわけにはいかないでしょう」
——どう、したいか……
お互いを大切に思っていた。
同じ気持ちだと知れて、嬉しかった。
気持ちを伝え合った日は、最高に幸せな気分だった。
その日から、より一層大切にしたいと思った。
傷つくことが多かった旅の中で、新しく生まれた温かい感情。
ここにたどりつくまでに、たくさんのものをもらったから。
守られてばかりは嫌だから。
頑張ってる姿を知っているから。
…してあげたいことが、いっぱいある。
海の色の青い瞳を一度だけ閉じ、開くと同時に母親に向き直った。
そして、真剣な面持ちで。
「いっしょにいたい。
いつも守ってくれるから、もっと強くなって守ってあげたい。
ボクや仲間たちを支えてくれてるから、甘えて欲しい。
…ずっと、大切にしたい」
まっすぐな宣言に、マージは思わず目を白黒させた。そして、いつの間にかとても凛々しくなったひとり息子の情熱を受け止めて、やわらかく微笑んだ。
「あらまあ。…そんなに大切に思えるなら、恥ずかしがる必要はないんじゃない。もらったものを、素直に受け止めたらいいんじゃないかしら」
「素直に…けど、やっぱり恥ずかしくてさ」
言葉遣いは乱暴かも知れないけれど、仲間想いで、とても友達想い。
いつもさりげなく助けてくれる。
世界中から嫌われて、海の底に沈んだような気持ちが、明るく照らされた。
ふたりきりのときは、輪をかけてすごく優しくなる。
ふだんと違う、声色が。
手袋を外した、まめだらけの温かい手のぬくもりが。
燃えるような、赤い瞳が。
やさしいキスが。
まっすぐでまぶしい、太陽のようなひと。
今この瞬間も、顔を思い出すだけで胸がふんわりと温かくなる。
「相手が全てをわかってくれると思って気持ちを伝えないでいると、少しずつ相手の気持ちもすり減ってしまうわ。
だから、嬉しい気持ちも感謝の気持ちも、日頃から照れずにちゃんと言った方がいいわよ。…伝えられなくなってしまう前にね」
カーシュは照れや緊張で何もできないセルジュを見て、手を出さなくなった。
そこから、ぎこちない雰囲気に発展した。
もしかしたら、『嫌がってる』と勘違いされてしまったのかもしれないけれども。
きっと、これが『すり減る』ということなんだろう。
セルジュの父は、ある日突然姿を消した。幼かったためその頃の記憶は曖昧だが、母が毎晩涙を流していたことだけは覚えている。いつの間にか泣かなくなった母は、『すり減って』しまったのだろうか。
こころがすり減ったら、『好き』というきもちが消えて、いまの関係もなくなってしまうのだろうか。
心残りがあるまま、万が一旅の中でお互いに何かがあったら…
…それは、いやだ。
だから、すこしずつ変わらないと。
後悔がないように、
たくさん受け止めて、
たくさん返さないと。
だいすきだから。
セルジュの心から、迷いがなくなった。
「うん、そうする」
「もちろん、全てを受け止める必要はないわ。いい関係を築くなら、嫌だと思ったことを伝えるのも大事なことよ」
「大丈夫だよ、嫌だなって思ったことは一度もないから」
その表情は、セルジュの父・ワヅキの在りし日の姿が重なるほど頼もしくもあり、やわらかく微笑んでいて。
旅の間に成長した息子を見て『もう心配することはない』と悟り、マージは心の底から安堵した表情を浮かべた。
「…大切だと思える人に出会えたのね。大変なこともあったけど、セルジュが笑えているのならよかったわ」
「かあさん…」
——そっか、ボク、今まで笑えてなかったんだ…
セルジュが掌で自身の頬をこねる。きっと今まで、ママチャが言うところの『辛そうな顔』を浮かべていたのだろう。母はそんな様子を見て、心配したに違いない。カーシュにも、たくさん嫌な思いをさせたはずだ。
カーシュだけじゃない。ママチャや、村長や、ザッパが。みんなが、セルジュのことを気にかけてくれている。そんなありがたみに感謝した。
「今日のごはん、とても美味しくできてたわ。今度は、その人に食べてもらえたらいいわね」
「うん、そうだね。ありがとう、かあさん」
外はすっかり雨が止み、ふたつの月が優しい光を放っていた。