正解のない、こたえあわせ。(後)一週間が経った。
予定通りであれば、今日はセルジュが合流する日だ。
カーシュは待ちきれず、朝食を摂り終えてすぐに単身オパーサの浜へ向かった。
気温はまだ上がりきっていないが、水面と白い砂に反射する朝日が眩しい。
何もない静かな砂浜の、波打ち際にひとり佇む。
寄せては引いてを繰り返す浅い水色を見つめ、大切な存在に想いを馳せる。
セルジュのいない一週間はとても長く感じた。
半身が欠けた感覚だった。
早く顔が見たい。
どんな顔をして現われるだろうか。
元気になっただろうか、それともずっと引きずったままだろうか。
星色のお守り袋を持たないカーシュは、緑色の次元の揺らぎを見ることができない。本当にセルジュが来るのかどうか不安になる。
時折、着地点のあたりをまだかまだかと到着を待つ。
——朝に弱えあいつがこんなに早く来るとは思わねえが…セルジュはまだか?
色恋沙汰に慣れてねえから緊張してるだけ、ってのはわかりきってたのによ…また一人で勝手にイライラして、セルジュを傷つけちまった。
俺も……
……いや、会って話して、スッキリしてえ。
…待てよ、そもそも嫌になっちまって、来ねえとも限らねえ……
そんなことになったら、俺は——!
「……馬鹿か、俺は!」
拳を握りしめて地団駄を踏み、他ならぬ自身への怒りに震えるカーシュ。
自身の不器用さに、ほとほと呆れる。
はじめて実った愛情を、伝わった想いを、
壊してしまったかもしれないから。
やり直しができるなら、したい。
時が戻せるものならば。
もっと飾らず、優しく振る舞いたい。
……誰よりも強くて優しい、セルジュのように。
そのとき。
砂浜の上空、五メートルほどの高さから微かに緑色の光彩が漏れ出たかと思うと、光彩は強い輝きを放ち粒子となって弾けた。
そして弾けた光の中心からセルジュが現れて、膝から勢いよく砂浜に着地した。
今まで一緒に行っていた時空転移の瞬間をはじめて客観的に見たカーシュには、空から降り立つセルジュの姿と、遠い昔に蛇骨館の蔵書で見かけた『天使』が重なって見えた。…そういえば、この浜は『天使も迷う場所』とも言われていたか。
待ち焦がれた相手の神々しさに呆然とするカーシュとは裏腹に、膝についた砂を払いながらゆっくりと立ち上がるセルジュ。ふう、とひとつ小さなため息をついたところで、ようやく目の前に立つ想いびとに気づいたようだ。
「あ…」
セルジュは、『どうしてカーシュがここに?』とでも言うような驚きを漏らして、目と口を大きく見開いた。
驚いた顔すら愛おしい。カーシュは、その愛しい名を早く呼びたくてたまらなかった。
「セ…うぉっ!」
カーシュが名前を呼び切る前に、セルジュが勢いよく飛び込んできた。
待ち侘びたセルジュに会えた喜びと急に抱きつかれた衝撃で、カーシュの威勢のいいがなり声が少し上擦った。
高い体温、清潔な白い道着、よく手入れされた曇りひとつない防具、陽の下で鍛えられた胸筋、ほのかに香る華やかで優しい花とハーブの香り。
一週間ぶりに安心できる場所を見つけて、セルジュは瞳を閉じて、体に刻み込むように肺の奥まで深く息を吸い込む。白い道着に皺が出来そうなほど背中まできつくきつく抱きしめて、離そうとしない。
密着して、セルジュの表情が窺えない。肩口に熱い呼吸が吹きかかるのを感じる。今までにない強い抱擁にどうしていいかわからず、カーシュは恐る恐る背中に手を添える。その手は、ほんの少しだけ震えている。
「…ど、どうした? なんか怖えことでもあったか?」
「会いたかった」
波にかき消されないはっきりとした告白に、鼓動が早まりカーシュの顔に身体中の血が集まっていく。
「! …お、おう」
「また会えて、うれしい」
「…そうか」
ふたたび強く抱きしめられると、拒絶を恐れてただ添えていただけの手はようやく安心して少年の背中を包み込んだ。
包み込む手から震えがなくなったことに気づいて、セルジュはひとつ大きく息を吐き、緋色の瞳に向き直った。
大切なことは、目を見て話したいから。
「ボク、気づいたんだ。
カーシュのこと、すごく好き」
「…!」
真剣な表情から次々と放たれる甘くて熱い言葉の数々に、カーシュの顔はさらに赤くなる。『一週間離れただけで、こんなにも大人の顔つきになるのか…』と、愛らしさの中にりりしさを宿した少年の成長にときめいた。
「何をしてても、カーシュのことが思い浮かんだ。
これ食べてほしいなとか、カーシュとならこうしてたな、とか」
離れている間に積もった思いを伝えたくて、セルジュも顔を赤らめながら言葉を紡ぐ。
「離れてる間に『もらってばっかりじゃだめだ』ってわかったんだ。
だからまた会えたら、照れてばっかりじゃなくて、ちゃんと改めて自分の気持ちを言おうって決めてたんだ」
もともと、セルジュはあまり積極的に喋る方ではない。そんなセルジュが一生懸命に自分の気持ちをたくさん発している様を見て、カーシュは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。
「…すまねえな、気負わせちまって。俺が至らねえばかりによ」
表情を曇らせるカーシュ。そんな表情が見たかったわけじゃない。すぐに謝罪の言葉がセルジュの口を衝いた。
「ボクも、ごめんなさい……!最初からちゃんと自分の気持ちを言えばよかった。そうしたら、カーシュに嫌な思いをさせなくてすんだのに…」
眉尻を下げ、一週間前の自身の行動を悔やむセルジュ。それを見て、さらにカーシュの表情は曇る。
「嫌な思いなんか、してねえよ。むしろ、俺がおまえを困らせちまってるだろ」
「困ってないよ、だいじょうぶだよ」
すきなひとを安心させたくて、セルジュは白い道着の背中を優しくさすって、口角を上げて笑顔で応える。また『辛そうな顔』を見せて、心配させてはいけないから。
健気なセルジュの想いが伝わったのか、カーシュは気持ちを落ち着けるために緋色の瞳を一度閉じ、「おまえにばっかり喋らせて、俺の気持ちを話せてなかったな」と前置きした上で語り始めた。
「…想いが通じたのが嬉しくて、つい気取っちまったがよ……本当は、触れたり、それっぽい言葉を投げかけるたび……おまえとおんなじくらい緊張してた」
いつもの威勢は形を潜め、静かに語るカーシュ。セルジュは、ただ黙って見守る。
「何より、わからねえんだ。好きな相手にどうやって振る舞えばいいのか、嫌われねえか、傷つけちまわねえか……そんなことばっか、考えちまう。だから、うまくいかなくて、イライラして、空回りしちまって…情けねえ」
——同性だからとか歳の差があるからとか以前に、長年『愛していた人』に想いが伝わらなかった恐怖が、根底にあるのかもしれない。
ただ、今は違う。
セルジュは、戸惑いながらも想いを受け止めてくれた。
『好き』という気持ちを、心の奥底に仕舞い込まなくていい。
そう、何度も何度も心の中で自身に言い聞かせていたはずなのに——
「ボクと、いっしょだね」
心地よく耳を撫でる軽やかな声色に、閉ざしていた緋色の瞳が大きく見開く。
目の前には、まっすぐ見据える海の色の瞳があった。風に流れる青い髪も、愛嬌のある太めの眉も、まだ子供のあどけなさを残す林檎色の頬も、やわらかくてあたたかいとわかった桃色の唇も、少しずつ大人の骨格に成長しつつある首筋から胸元にかけてのラインも、すべてが愛おしい存在が。
「ボクも、こういうのはじめてだから……どうしていいか、わからなかった。けど、安心した。カーシュもいっしょだって、わかったから」
朝日を浴びたやわらかなセルジュの笑顔は、全てを許す優しさに満ち溢れている。
自身への怒りで強張った顔つきになっていたカーシュの表情から、徐々に険しさが抜けていく。
「カーシュは優しいから。ひとの嫌がることは絶対にしないってわかってるよ。だから、心配しないで」
「セルジュ……」
愛しい名をようやく呼べたその声色は限りなく優しく、ただひとりの愛しい存在を想うその顔は安堵感に満ちている。互いに想いを通わせることの幸せを、噛み締めている。
「……それに……えっと……」
先ほどとは打って変わって、セルジュの声が徐々に小さくなり、ついには口をつぐんでしまった。さっきまでまっすぐ視線を捉えていたのに、少し逸らしている。よほど言いづらいことを抱えているらしい。今度はカーシュがそっとセルジュの背中を撫でて、『ゆっくりでいいぞ』と無言で伝える。手袋越しでも鍛えたことがわかる分厚い掌に撫でられて、セルジュはほんの少し長い瞬きと深呼吸をしてから、改めて口を開いた。
「……あの、『恋人』っぽいことするときね、いつもより、もっともっとカーシュがかっこよく見えて……その、ちょっと緊張しちゃっただけ、だから。嫌じゃない、よ」
気持ちを素直に告白したセルジュも、『かっこいい』という褒め言葉を不意に浴びたカーシュも途端に顔が茹で上がった。
先の宣言通り、セルジュは自身の気持ちを頑張って伝えてみたものの、まだ少し照れがあり言葉がたどたどしくなってしまった。カーシュもまた、無意識に幼馴染と自分を比較してしまい、自己肯定感を上げるような言葉を素直に受け取ることに慣れていない。
互いに赤らんだ顔を見つめ合う。朝日に照り付けられ、ほんの少し汗ばんでいる。この瞬間、『顔が赤くてもかっこいい(可愛い)』と想い合っていることは、ふたりともわかっていない。
「…まっかだね」
「…おまえもな」
「……ふふっ」
鏡写しのような赤さに、セルジュはつい吹き出して笑い始めた。「こら、笑うんじゃねえ!」と恥ずかしがるカーシュが、年上なのになんだか可愛らしく見えて、笑いが止まらなくなった。あまりにも楽しそうなセルジュを見て、つられてカーシュも笑い出してしまった。
いつものようにおしゃべりして、笑い合っている。
それだけなのにとても嬉しくなって、セルジュは笑いの余韻を引き摺りながらカーシュの胸元に頭を預けた。セルジュを抱き止めて、頭を優しく撫でるカーシュ。呼吸をするたびに、花とハーブの香りがふわふわと漂う。
一連の動きに緊張は全くなく、甘くて愛おしい時間がふたりの間に流れる。
抱擁を解いたら、また戦いの日々が始まる。
龍神の復讐を止める旅が。
この星の命運を賭けた戦いが。
最後まで、ふたりで歩めたら。
全てが終わったとき、ふたりでいられたら。
今まで、どうしていいかわからなかったけど。
ふたりなりの愛のかたちが、ようやく見えてきて。
育て始めたから。
胸の内に、やりたいことがたくさんある。
「カーシュ」
「ん?」
「これからも、よろしくね」
「…ああ!」