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    アルカヴェ/転生パロディ
    もう二度と出会いたくなかったふたりが新教員と新入生になって出会い直す話。

    ⚠️落命表現があります。
    ⚠️キャラクターストーリーのネタバレを含みます。
    ⚠️あくまでもフィクションのためご都合的な設定を含みます。

    #アルカヴェ
    haikaveh

    再愛「なあ、アルハイゼン。生まれ変わったら他人がいいし、もう二度と君に会いたくない」

    そう告げたカーヴェの顔は思わず見蕩れてしまうほどに美しく、綺麗だった。
    首から下は焼け焦げ、赤黒い血が滲み、意識を繋ぎ止めている方が奇跡だと思えるほどだった。
    握った掌から徐々に温度が失われて行く。

    もう、長くは保たない。そう察するには十分過ぎるほどの出血量だった。

    「ああ、そうだな。君を幸せにすることも、満足に愛することも出来なかった俺とは──もう、出会わない方が良い」

    淡々と紡がれる言葉。しかしそこに籠められた想いは、まさに悲願に近しい。答えを聞いたカーヴェは最期に満足気に微笑み、その短い人生を全うした。

    そしてそれを見送ったアルハイゼンもまた、自身の胸部を深々と貫く瓦礫の破片による失血によって、間も無く命を落とした。


    ***


    ───運命は、巡る。

    時は現代。この春からとある高等学園の教員を務める事になったアルハイゼンは、時折見る夢に悩まされていた。
    夢の中の自分は誰かの手を握っていた。その誰かは金髪で、美しい赤い瞳を持っている。けれど夢の終わりには必ず二人して命を落としてしまう。どうあっても逃れることの出来ない結果に終わる夢を、この歳になるまで何度も見続けてきた。
    夢の内容はそれだけに留まらず、およそ現代では目にしたことのない景色を見て回ることもあった。その景色はひとつの大きな国であり、名をスメールと呼ぶことも分かっていた。そしていずれの夢にも必ず傍らには〝彼〟が居る。
    もしも前世と言うものがあるのなら、恐らくこの夢は前世の記憶を反映させているのではないか。そう考えたのも何度目になるのか分からない。
    眉間に走る鈍い痛みを指先で押さえて伸ばしながら、入学式の日を迎えたアルハイゼンは気だるげに体育館の隅で粛々と進む祝いごとを眺めていた。

    ……面倒だ。思わず欠伸をこぼしかけるものの、それは不発に終わることとなる。
    新入生を代表とする生徒のスピーチが始まろうとしていた。教壇の設えられた舞台上に、ひとりの生徒が歩みを進める。

    ふわりと靡くのは、美しい金髪。
    整った横顔から覗くのは、凛とした赤い瞳。

    ───運命とは、斯くも悪戯なもの。

    これはふたたび出会うはずのなかった二人の、あたらしい人生の噺。


    ***


    舞台に上がった生徒の名はカーヴェと言った。
    代表生徒と言うこともあり、その堂々たる佇まいは目にしたもの全てを惹き付ける魅力を持ち合わせていた。例えば、つい先程までは理事長や校長と言った学園全体を代表する者たちの祝辞をアルハイゼンと同じように気だるげに聞いていた生徒も、カーヴェの姿を視界に留めるや否やその美しさにごくりと喉を鳴らしてしまうほどに。
    挨拶として認められていた文章は何の変哲もなく、言ってしまえばただのテンプレート文だ。当たり障りのない言葉が連ねられたそれを良く響く声で読み上げていくと、やはりその魅力に気づいたものはカーヴェの姿から目を逸らせずにいた。

    「……以上をもちまして、新入生代表の挨拶とさせていただきます。ご清聴頂きまして、ありがとうございました」

    気が付けばスピーチは終わりを迎え、カーヴェが恭しく一礼すると共に空間全体に拍手の嵐が喝采した。ただの一生徒のスピーチがこれほどまでの盛り上がりを見せることなんて滅多とない光景だろう。
    一連の流れを眺めていたアルハイゼンもまた、カーヴェに魅了されたうちのひとりだった。しかしその理由はこの場に居る誰と分かち合えるものでもなく、アルハイゼンにしか理解することの出来ない感情が胸の中を支配していた。
    カーヴェの姿は夢の中で散々と見た存在にあまりにも酷似しているのだ。金髪に、美しい赤い瞳。何度見たかも分からない、脳裏に焼き付いた映像。瞼を閉じれば今でも鮮明に再生することのできるその映像の中で、カーヴェに良く似た人物がこちらを見ていた。……けれど、最後には必ず命を落としてしまうのもアルハイゼンは知っている。ただの偶然であれと願う反面、ざわつく胸はカーヴェが夢の中の彼なのだと言うことを結びつけようとしている。その結論を簡単に許すことの出来ないアルハイゼンは頭を振ってから、この退屈な式が早く終わることだけを考えていた。


    ***


    入学式は滞りなく終わり、生徒たちは予め配られていたクラス表や学園の見取り図に目を通していた。このあとは各々が宛てがわれたクラスの教室に向かって担任との顔合わせや軽い挨拶が行われる手筈だ。
    新任であるアルハイゼンは、まさか自分が担当するクラスがあるだなんて微塵も思っていなかった。それなりに優秀な頭脳を持ち合わせているがゆえに、生徒たちを任せても問題はないだろうと言う上からの判断だった。
    担当するクラスは1-C。教科は国語。せいぜい1年目は補佐をするくらいだろうと思っていただけに、憂鬱な気分が拭えない。深いため息を吐いて眉間に刻まれた皺を伸ばそうとしたが、もはや癖のようになっているその行為はほとんど無意識だ。なんとか気を取り直して、教室の扉を開く。

    瞬間、息を飲んだ。教室の中はざわざわと生徒たちの話し声で満ちていて、その中心に彼が──カーヴェが居たのだ。

    「おっと、先生が来たみたいだ。すまない、質問や雑談はあとで聞くから」
    「本当に? 絶対よ、カーヴェくん!」
    「……着席してくれないか」

    カーヴェの周りに群がっている生徒たちは男女どちらかに偏るでもなく、万遍ない好奇の目が一斉に彼に向けられていた。スピーチひとつでここまで人の興味を惹けると言うのも恐ろしいものだとアルハイゼンは肩を竦めながら教壇の上に立つ。
    新任の自分にはなんとも落ち着かない場所だ。初日からこんなにも鬱屈とした気持ちになるだなんて本当に何の因果なのだろうか。大きな咳払いをひとつこぼしてから、厳粛な空気に切り替わった教室内で淡々と業務を熟すことに専念する。

    「入学おめでとう。俺の名はアルハイゼン、一年間このクラスを担当する事になった。担当教科は国語。君たちと立場はそう変わらず、右も左も分からないがじきに慣れる。面倒ごとは極力起こさず勉学に励むように。何か質問がある者は?」

    一定のトーンで告げられた自己紹介は茶目っ気のひとつすらなく、ただただ機械的だ、とその場に居る生徒全員が感じたことだろう。
    出会ったばかりの者同士、或いは仲の良い者同士で入学を果たした生徒たちは互いの顔を見合わせながらふるふると首を振る。質問など出来る空気ではない、と誰もが思っていた。しかしその空気は一人の生徒の挙手によって崩されてゆく。手を挙げたのは他の誰でもなく、つい先程まで生徒の輪の中心にいたカーヴェだった。

    「はい、先生。お伺いしますが、先生にとって美とは何ですか?」
    「随分とアバウトな質問だ。辞書通りに答えるのであれば美しい、綺麗、優れている、立派だ、良しとする、と言った意味合いを持つ。しかし、今の君が聞きたがっている答えは恐らくこうではないだろう」
    「あはは、ご名答ですね。すみません、もう少しラフな質問をすれば良かったな」
    「構わない。それで、俺の思う美とは何か。答えは〝目に見えないもの〟だ」
    「へえ、目に見えないものですか? 興味深いですね。どうしてそんな答えに至ったのか、またじっくりとお話させてください。今は時間が無いでしょうから」

    適当なタイミングで質疑を切り上げるのも、先に控えたスケジュールへの配慮が出来るのも、流石は新入生を代表するだけあって完璧であった。その場にいた生徒たちは皆、カーヴェのそつのない身のこなしに舌を巻く。それはある種の一目惚れのような感情にも似て、中にはぼんやりと赤面している生徒もいた。
    教壇の上に立っていればそんな生徒たちの様子も嫌でも目に付いてしまう。これが今日という日から一年間続くことが確約しているのだ。アルハイゼンは増えてしまった頭痛の種にまた眉をひそめ、そして残りのホームルームの時間を生徒たちの自己紹介に割いたのであった。


    ***


    学園生活が始まってから一週間ほど経った、ある日の事だった。
    生徒たちも徐々に慣れを見せ始め、クラス内での役割の取り決めや各々が気になった部活動への入部の手続きなどがある程度済んだころだ。その日、アルハイゼンは放課後に生徒が残っていないかを確かめるため校内を巡回する役目を担っていた。窓の外の陽は傾き、オレンジ色のあたたかい光が教室の中をいっぱいに照らしている。一つ一つ教室の中を確かめ、人気がないかの確認を済ませながら施錠をしていく。
    三年までの教室はある程度の確認が終わり、次に通り掛かろうとしているのは専門的な授業に使う教室だ。一つ、また一つと中を見て回っていると、ある教室から人の気配がした。視線を上げて表記を確認すれば美術室、と書かれていた。

    「誰だ?」

    アルハイゼンが美術室の入口から中を覗き込むと、そこには夕陽に溶け込むようにして金色の髪が揺れていた。顔を確認するまでもなくその誰かが誰であるかを察したアルハイゼンは息を呑む。間違いない、カーヴェだ。
    カーヴェはアルハイゼンが入口に立っていることに気づいた様子もなく、丸椅子に座って目の前に置かれたキャンバスに筆を走らせている。窺うことの出来る横顔から垣間見えた表情は真剣そのもので、ほど近い距離にまで辿り着いてからようやくカーヴェがアルハイゼンのことを認識する。
    アルハイゼンはと言えば、そのキャンバスに描かれていたものを見て思わず言葉を失っていた。真白いキャンバスをいっぱいに埋め尽くしていたのは、現代では見たことのない造形をした建築物や樹々の絵だった。デタラメなように見えるその風景画は創作のスケッチだと言われたらそれまでであっても、アルハイゼンにとってはそうではない。

    何しろ、自分はこの景色に憶えがあるのだから。

    「わっ!? すみません、先生。すぐに片付けますから!」
    「カーヴェ。おかしなことを聞くが、これはどこを描いたものなんだ?」
    「え? ……ああ、このスケッチですか?」
    「そうだ。このような建物はあまり目にしたことがない。どこかの国だろうか?」
    「はは、笑わないでくださいね。このスケッチは──僕の夢の中に存在する国の景色なんです」

    夢の中という単語に、アルハイゼンは更に言葉を失ってしまう。まさか、そんな。自分だけが知っているはずの景色を、目の前にいる一生徒がこんなにも鮮明に描き写しているだなんて。
    どくん、と心臓が跳ねる。背中に伝う冷や汗からは意識を背けて、何か、なにか言葉を振り絞らなければと拳を握り締めた。そして、意を決してカーヴェに問う。

    「この国の名は?」
    「えっ、名前まで付けてるんだって分かりますか? 先生は着眼点が凄いな。だけど嬉しいですよ、興味を持ってもらえて」
    「良いから、教えてくれないか」
    「ああ、はい。この国の名前は──」

    ────スメール。
    知恵の国、スメール。

    カーヴェは屈託のない、けれど少しだけ年相応に恥じらうような笑顔を浮かべながら、確かにその名を口にしたのだ。

    疑惑が確信へと変わって行く。
    カーヴェが。目の前に居る、彼こそが。

    夢の中、ただの一度も救えずにいる、〝彼〟なのだ──と。


    ***


    アルハイゼン先生は、僕の顔を見て時折ひどく悲しそうな表情をする事がある。

    それに気付いたのはいつ頃の事だっただろうか。あの日、美術室でスメールと言う夢の中に存在する国のスケッチを見られた時から先生とは放課後に美術室で会うようになった。
    それは特に意図したものでも、約束を取り付けたわけでもない。言わば秘密の逢瀬だ。もちろん下心なんてものは存在しない。僕がただ放課後の美術室の雰囲気が好きで、一心不乱にスケッチを続けているだけだった。

    アルハイゼン先生は相変わらずと校内を巡回する職務を熟しているだけで、本来であれば僕は先生が巡回しに来るよりも前に帰らなくてはならない。
    何度も繰り返すうちに先生が見回りに来る時間帯は把握出来ている。けれどどうしてだか素直に帰る気になれなくて、先生が叱りに来るまでキャンバスに筆を走らせ続けた。

    「カーヴェ。また残っていたのか?」
    「うん? ああ、もうそんな時間だったのか。お疲れさまです、アルハイゼン先生」
    「勤勉な姿勢は感心するが、こう頻繁に居残りを続けられているとそろそろ上から叱責を受けそうなんだが」
    「あはは、先生なら上手く躱しそうですけどね」

    大きなため息と共に美術室に先生の靴音が響き渡る。先生の履いている靴はヒールの付いた革靴だ。静謐な空間に響く靴音は耳馴染みが良くて、この音を聴くことも楽しみのうちの一つになっている気がする。

    叱られてなお、僕は筆を走らせることを止めない。もう少しで一枚を描き終えることが出来る。真剣な眼差しの向く先に描かれたものは砂漠の中に聳え立つ古びた遺跡のような、仰々しい建物のスケッチだ。
    僕はこの遺跡のことを「キングデシェレトの霊廟」と名付けていた。理由は単純で、なんとなく王様が眠っているような雰囲気だったからそれらしい王様の名前を捻出したに過ぎない。加えて、王様が眠っているのであればここは墓のような役割を果たしているのでは?と思ったのだ。

    「今日は何を描いたんだ、カーヴェ」
    「砂漠にある遺跡です。王様が居るような場所をイメージしてみたんですけど、どうですか? 雰囲気ありますか?」
    「ふむ。味はあるよ、堂々と構えられた景観がそれらしい。恐らく貴重な資料や技術が遺されているんだろうな」
    「ははっ、先生は笑わずに聞いてくれるから嬉しいな。中は意外にもテクノロジーな感じが張り巡らされていたら面白いな、と思うんですけどね 」
    「霊廟なのにか?それはまた意表を突いた視点だ。…さあ、描き上げたのならそろそろ帰るんだ」
    「はい。いつも僕の妄想に付き合ってくれてありがとうございます、アルハイゼン先生」

    夢の中の国の妄想、もとい創作の話を辟易せずに聞いてくれるのは先生くらいのものだから僕もついつい話しすぎてしまう。
    画材を片している間、肩を竦めながらもアルハイゼン先生は静かに待っていてくれる。そうして帰り支度を済ませて、美術室の扉に足を向けた。そのときだった。

    (──あ。また、……〝あの顔〟だ。)

    僕のことを見ているわけでも、窓から射す夕陽を眺めているわけでもない。遠い、遠い視線。それは誰を、何を、その瞳に映しているのだろうか。
    僕には分からない。分かることといえば、アルハイゼン先生のその表情はひどく寂しそうで、悲しそうだと言うことだけだ。

    「すみません、先生。お待たせしました。このまま帰りますね、また明日」
    「うん? ……ああ、また明日。遅刻しないように」

    他愛のない挨拶を交わしてからようやく下校する。既にとっぷりと傾いた陽は、あと数十分もすれば完全に暮れてしまうだろう。
    僕には分からない。アルハイゼン先生が何を考えているのかなんて。分からないから、今日も見なかったことにする。

    ────あれ、でも。
    何かがおかしい、ような。


    「……僕、あの遺跡のことを〝霊廟〟だなんて一言も言ってないぞ?」


    ***


    カーヴェが意図的に居残りを続けている事は流石のアルハイゼンも気付いていた。
    必要以上に咎める事の出来ないその行為には頭を悩ませるばかりで、しかし彼の口から語られる〝夢の中のスメール〟の話をもっと聞きたいと願う心が片隅に存在しているのも確かだった。

    アルハイゼンは未だにあの夢を見続ける。
    そして気付いてもいた。あの夢で起きた出来事は紛れもなく過去の──前世での自分たちの最期の一幕を、鮮明に映し出しているのだと。

    カーヴェと再び出会ったあの日から、日増しに前世の記憶が呼び起こされて行く。
    スメール。知恵を象徴とする国。草神クラクサナリデビの統治する緑豊かな国。アルハイゼンはそのスメールの地で、教令院の書記官という一職員の立ち位置で働きながら日々を過ごしていた。そしてカーヴェはと言えば、教令院の出として〝妙論派の星〟と称されながら建築デザイナーとしてその名を馳せていた。

    先日カーヴェが見せてくれたスケッチは、スメールの中でも特に広大な砂漠地帯に存在するキングデシェレトの霊廟を寸分違わずに描き出していた。
    判断材料はもちろんそれだけではない。最初に見たのはスメールシティの最たる特徴である教令院を。ある日はアビディアの森を。またある日はパルディスディアイを。
    どれを見ても憶えのある景色ばかりだった。それをカーヴェの口から語られるのだ。あくまでも夢の中の国、自分の創作の話であると言う体で。そして恐らくそれは間違いではない。

    ──カーヴェには、前世の記憶が存在しない。

    でなければアルハイゼンのことを先生だなんて呼び続けられるはずがない。何せ前世ではカーヴェが先輩で、アルハイゼンが後輩だったのだから。

    「もう二度と君に会いたくない、か。……本当に、何の因果なんだろうな、これは」

    アルハイゼンはベッドの上で独り言ちる。
    眠りたくなかった。目を閉じればまた前世での記憶が瞼の裏で再生される。どれだけ睡眠時間が浅くともそれだけは実証済みだった。
    職員室でほんの数十分の仮眠を挟んだ時の話だ。前世のカーヴェが自分を叱り付けてくる姿を見て思わず反論してしまった。それも現実で、だ。
    その時の周囲の目と言えば、驚きと好奇が三割ほど。残りの七割は可笑しなものを見るような眼差しが向けられていたことは記憶に新しい。

    それでも人間の身体には休息が必要不可欠だ。眠らずには居られない。
    睡魔に抗うことをようやく止めた頃、時計の短針は四分の一をとっくに過ぎ去ってしまっていた。


    ***


    「────」
    「……ん……」
    「──…ゼン……アル…ハ……ゼ…」
    「うん……?」

    「──アルハイゼン! 起きろ! もう仕事に行く時間だぞ!」

    暖かな陽の光が窓から射し込んでいる。
    重たい瞼を持ち上げた先には光に反射してきらきらと輝く金髪を靡かせ、年不相応な膨れっ面を覗かせる同居人──カーヴェの姿が映っていた。
    ゆさゆさと肩を揺さぶられながら今が朝であることを理解する。しかし、まだ眠気の残る身体はすぐに動いてはくれない。

    「……あと少し」
    「君がそんなにグズるのは珍しいな。キスでもして起こすべきか?」
    「何だって?」
    「ほら、アルハイゼン。起きてくれ」

    柔らかい布団に全身が包まれる感覚と、枕が反発する感覚。カーヴェが纏った少し甘い香油の匂い。その全てが心地好くて、このまま目覚めたくないと思ってしまう。
    言葉と状況を理解するよりも先に、カーヴェの顔がすぐそばまで近付いていた。これはなんてことのない挨拶のひとつだ。

    だって、俺とカーヴェは恋人同士なのだから。

    あたたかな唇が触れる。伏せられた睫毛が揺れる。カーヴェは自分からキスをする時は緊張気味に眉をひそめる癖があるのを、俺は知っていた。
    忘れていたかった。思い出したかった。相反するふたつの心が揺れ動く。けれど今はどうでもいい。この愛おしさに浸っていたい。
    カーヴェに腕を伸ばす。このままベッドの中に連れ込んでやろうと、そう思ったのに。

    ───ぬるり。
    掌に、嫌な温もりが伝わる。

    「ぁ、」

    カーヴェがくぐもった声を漏らす。
    重なっていた唇が離れる。こぽり、とカーヴェの口の中から赤い液体が溢れる。
    口から、腹から、背中から。赤い液体が流れて、溢れて、止まらない。止まってくれない。

    「ぁ、るはいぜ、ん」
    「カーヴェ……? カーヴェ!!」

    必死に名を呼んだ。繋ぎ止めようとした。なぜ、どうして。
    君の温度が、また失われていく。

    「ある、はいぜん」
    「───きみはまた、ぼくをころすのか?」


    ***


    目が覚める。
    じっとりと嫌な汗が身体中に伝っていた。

    夢の中のカーヴェの最後の言葉が、耳から離れなかった。

    幸せな夢を見ることもあるものだと思っていたのに、結局とそれが叶うことはない。どうあっても最後にはカーヴェを喪う。それだけは避けられない結末なんだと思い知らされる。
    時計に目を移して時間を確認すると、眠ってからまだ一時間ほどしか経っていなかった。窓の外は暗く、朝陽が昇るまではあと一時間ほど掛かるだろう。
    あんな夢を見た手前では到底寝直す気にはなれない。……それよりも、全身に滲んだ冷や汗を何とかしたい。深いため息を吐いたアルハイゼンは長く伸びた前髪を掻き上げ、陰鬱な心を少しでも晴らそうとシャワールームへ向かった。

    「……絶対に憶い出させてはならない。こんな思いをするのは俺だけで──良い」

    祈るような声は熱く流れるシャワーに掻き消される。けれど何度洗っても夢の中で触れた生あたたかい血の感触は残ったままだった。
    カーヴェに憶い出させてはならない。前世での自分との関係も、今際の際も。文字通り胸の抉られるような思いをするのは自分だけで良い。

    水滴を掌で拭い取って鏡を覗き込む。近頃は寝不足なせいもあって酷い顔をしていた。
    それでも時は残酷にも過ぎてゆく。今日も、朝が来る。


    ***


    今日の天候は晴れ。アルハイゼンは自分の担当する国語の授業が終わったあとも立て続けて授業に出ていた。その教科はと言えば、よりにもよって真逆の科目である体育だった。
    それもこれも体育を担当している教師が急に熱を出したとかで当欠になってしまったためである。体育を担当する教師が自己管理を怠っている事に対して文句を唱えたい気持ちはあれど、この時間に代わりを務められる教師が他に居なかったのだ。至極面倒だ、と言った面持ちを隠しもせずアルハイゼンは今日の予定に目を通す。

    いつの間にか季節は夏になろうとしていた。とどのつまり、本日の授業内容は水泳である。
    昨今の高等学園ではほとんど無くなりつつある授業ではあったが、ここにはプールの設備が整っている。それも室内にだ。
    何を隠そう二人の通う令院高等学園は高大一貫校で、各種専門分野に精通した学科が幾つかある将来有望なエリートを教育するための学園だった。

    初めの準備体操だけは怠らずに、残りの時間は最低限の泳ぎ方の指南と自習として充てがう。アルハイゼンの手元の予定表にはそのように指示が出されていた。この水泳の授業は言わば生徒たちの息抜きを兼ねた授業なのだろう。
    もちろん、中には泳ぎが苦手な生徒も居る。そう言った生徒たちにはプールサイドのパラソルの下で見学に励んでもらうように、と同じく予定表に書き込まれていた。

    ひと通りの授業とも呼べない授業を熟したあとは本を片手に監視台で生徒たちの姿を眺めることに徹していた。そのとき、ふと学生たちの集まりが目に映る。輪の中心にいたのはまたしてもカーヴェだ。

    「カーヴェ、その傷は?」
    「ああ、これかい? 生まれつきのアザなんだ」
    「アザ? 随分と痛々しいアザだね」
    「はは、初めて見る人には大抵同じことを言われるよ。だけどちっとも痛くないから安心して欲しい。目に毒なのは申し訳ないけどね」
    「目に毒だなんてそんな事ないわ。ごめんなさい、カーヴェくん。深入りしちゃったわね」
    「大丈夫さ、気にしてないよ」

    相変わらず、彼の周りに集う男女の比率はどちらに偏ることもなく満遍ない。交わされる会話を耳に挟みながら、その光景は嫌でも視界の中に入ってくる。
    カーヴェ本人が口にしている通り、彼の胸元には広い範囲に渡って火傷のような痣があった。……アルハイゼンの心臓が、もう何度目かも分からないままにどくんと跳ねる。何しろ前世のカーヴェが今際の際に負った傷は酷い熱傷と刺創だったのだ。無関係であるはずがない。
    ここまで来て尚も逃れられない現実を突きつけられる。いっそ良く出来た偶然、良く似た別人であれと何度願ったことか。

    「何もそんな傷まで持ち帰る事はないだろう。この世に神様とやらが居るのなら……ただこの運命を呪うばかりだよ、カーヴェ」

    輪の中から目を逸らす。
    カーヴェから目を逸らす。

    ────運命から目を、逸らす。

    アルハイゼンが改めて読みかけの本に目を通そうとしたところで、無情にも授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いたのだった。


    ***


    放課後、相変わらずと美術室に足繁く通う影がひとつあった。
    その影の正体は言わずもがなカーヴェだ。カーヴェは部活動には所属しておらず、美術部が部室である美術室を使わない曜日を狙ってスケッチに勤しんでいる。そしてその日はアルハイゼンが校内の巡回を担当する曜日でもあった。

    カツ、カツ、とヒールの音が廊下から響く。シャッ、シャッ、と筆を走らせる音が室内に響く。
    そうして開け放たれた扉の先では、またか、と言わぬばかりに眉間に大きく皺を刻んだアルハイゼンの姿が在った。

    「カーヴェ。これで何度目だ?」
    「わあ! もうそんな時間だったのか。すみません、アルハイゼン先生!」
    「わざとらしい芝居は良い。まったく、君のその独創性はここでなければ発揮出来ないのか?」
    「芝居だなんて人聞きが悪いな。アルハイゼン先生だって何だかんだで僕のスケッチを見るのが好きなんじゃないですか?」
    「はあ……。否定はしないがこう毎回注意しなければならない俺の身にもなってくれ。それで、今日は何を描いたんだ?」
    「今日のは力作なんですよ。見てください、今日のスケッチは──」
    「……これ、は」

    樹々と花に囲まれた豪奢な外観の宮殿。中央には噴水が設えられていて、スケッチの中には描かれていない少し離れた場所にはガゼボが建っている。彼の口から語られずとも、その全てをアルハイゼンは知っていた。

    ──その場所の名はアルカサルザライパレス。彼が、前世のカーヴェが〝最高傑作〟とまで称した建築物の一つだった。

    「アルハイゼン先生?」
    「うん? ……ああ、すまない。あまりの出来栄えに言葉を失っていた」
    「……嘘だ」
    「カーヴェ?」
    「先生。あなたはどうして僕の絵を見てそんな顔をするんだ?」
    「そんな顔、とは。どんな顔をしていると言うんだ」
    「気付いていないのか。それなら尚更だ。あなたはいつからか僕の絵を見る度にひどく悲しそうな顔をする。それはどうしてなんですか?」
    「……」
    「答えてください、アルハイゼン先生。あなたは僕の絵の中に〝何を見ている〟んだ?」

    真剣な面持ちと声色でカーヴェがにじり寄る。指摘されて初めて気が付いた、と言った素振りではなかった。その答えを、恐らくこの男は知っている。
    しかし、どれだけ距離を詰めたところでアルハイゼンが口を開くことはない。沈黙は肯定でもある。答えを言うつもりはない、けれどスケッチを通して何かを見ている。カーヴェにとってはその沈黙だけで十分だった。

    「……分かりました、今日のところは帰ります。だけどいつか聞かせてください。先生が僕の絵を見て一体何を感じているのか。それとも、もっと踏み込んで言うべきかな」
    「待ってくれ、カーヴェ。俺は何も──」
    「〝スメール〟について知っていることを聞かせてください、アルハイゼン先生」

    夕陽に照らされたカーヴェが美しく微笑む。これ以上の言葉は必要ないだろう。そうして今日も画材を仕舞い込み、呆然と立ち尽くすアルハイゼンの隣をすり抜けて背中をトン、と叩いた。

    「それじゃあ先生、また明日」
    「……気を付けて帰るように」

    振り絞るように声を出してカーヴェの去っていく姿を見送る。
    彼の描く景色がだんだんと彼自身に、前世のカーヴェに近付いている。それを止めたいと願うのに、この世界ではただの教師でしかないアルハイゼンにはカーヴェが夢の中の景色を描き出す行為を阻止することなど出来やしない。

    憶い出させてはならない。前世のことを。スメールのことを。彼自身の事を。俺の事を。
    いつの間にか握り締めていた拳を開くと、爪先が食い込んだ手のひらは痛々しいほどに赤く染まっていた。……まるで無力な自分には為す術などないのだと、思い知らされているようだった。


    ***


    夢を見る。
    いつから見るようになったのか正確な年数は覚えていない。けれど、幼い頃からだったとは思う。
    夢の中にある景色は、僕が今住んでいる世界とはおよそ掛け離れた雰囲気をしていた。現代では見た事のないような植物に動物、オブジェや建築物、古めかしい遺跡なんかが印象的だった。

    ある日は大きな教会のような、あるいは学校のような場所。ある日は緑豊かな森林。ある日は植物園のような、庭園のような場所。またある日は広大な砂漠地帯。これらを統括して、僕はその夢の中の景色は一つの国であると結論付けた。そしてその国の名を〝スメール〟と呼ぶことにした。その名を付けた理由も覚えていない。いつからか僕の中で定着していたからだ。
    毎日とスメールの夢を見るわけではないけれど、頻度自体は多かった。スメールの夢を見るたびに、僕は目にした景色の特徴を事細かに日記に書き記していた。それがスケッチという形に変わったのは中学生の頃だっただろうか。生まれてこの方絵なんて描いたことがなかったのに、不思議とスメールの景色は迷いもせずに鮮明に描き起こす事が出来たのは今でも覚えている。……生憎と、褒めてくれる人はいなかったけれど。

    僕には父も母も居ない。父は僕が小学生になる前に事故に遭って帰らぬ人となってしまった。それ以来、母は心身ともに憔悴してしまった。出来うる限りのことを尽くして母を支えたけれど、母を完全に立ち直らせることは幼い自分には到底出来なかった。父のことはもちろん僕も愛していたし、尊敬していたけれど、伴侶として愛していた人を喪った悲しみには遠く及ばなかった。
    それでも母は強い人だった。僕のことを女手一つで育てるために仕事に打ち込んでいた。僕がそろそろ高校の受験に差し掛かる頃、出張で少し離れた国に行くことになった母はそこで新しい出会いを見付ける事が出来たと僕に打ち明けてくれた。それならば僕はその生活を邪魔するわけにはいかない。母を幸せにしてくれる人、もう一度笑顔にしてくれる人と出会えたのなら、それ以上の喜びはない。母の負った深い心の傷は僕では癒せないのだから。
    そして令院高校へ合格した時に僕は決意した。一人暮らしをして、母の手から離れることを。幸い父の遺した貯えが巨額だった事もあって、今後しばらくは生活に不自由することはなさそうだと思ってのことでもあった。母も応援してくれたから僕は一人でも大丈夫だと言い聞かせた。

    高校に上がってから、しばらく見ていなかったスメールの夢を見る頻度がまた増えた。思えばあの日からかもしれない。僕が気紛れに描き起こしていたスケッチをアルハイゼン先生に見られた日だ。彼は僕の空想の話に付き合ってくれる。それだけでも十分嬉しかった。
    けれど僕の描いたスケッチを見て悲しそうな顔をするアルハイゼン先生の姿を見た時から、どうしようもない違和感に苛まれるようになった。僕の見る景色は全て夢の中の話で、僕が生み出した創作物にすぎない。そう思っていたのに。

    『───霊廟なのにか?それはまた意表を突いた視点だ』
    先生のこの言葉は何の気なしにこぼした感想だったんだろう。でも、一目見てアレを〝霊廟〟だなんて見抜ける人はそう居ないはずだ。アルハイゼン先生がいくら聡くとも、外観だけを描いたスケッチからその言葉が飛び出すなんて偶然にしては出来すぎている。だからいっそのこと、先生を揺さぶってみる事にした。結果は案の定で、先生が何かを隠していることは明らかだった。

    スメールは僕の夢の中だけに存在する国ではない。なら彼は、アルハイゼン先生は、何を知っているのだろう。……アルハイゼン先生は、僕の何なんだろう。疑問も疑惑も深まるばかりで、胸の中に閊えたものが取れないまま、僕は今日も眠りに就いた。


    ***


    目を開くと、そこは現実ではなかった。ここはスメールだ、と夢の中でも認識出来るようになっていた。もはや明晰夢と呼んでも差し支えはないだろう。
    今日は珍しく屋外の風景を眺めるだけではなく、どこかのお店の中に居るようだった。目の前のテーブルにはジョッキが置かれているから、現代で言えば居酒屋のような場所だろうか? それにしても、今までとは違って一人称視点なのが少しムズムズする。夢を見ていると自覚は出来ていても、身体を自由に動かせるわけではないのだな、と新たな気付きを得た。この気付きについては後ほど日記に認めようと思ったのも束の間だった。

    僕が視点を借りている〝誰か〟が立ち上がる。カウンターに居る男性……たぶん、風貌からしてこの店の主だろうか。一言二言ほど挨拶を交わして、そのまま店を後にする。
    ふらふらとした足取りで夜道を辿っていく。酒に飲まれているんだろう。それを見ている僕まで酔いが伝わってきて、何とも言えない気持ち悪さだけがあった。その誰かはしばらく歩き続けて、やがて一つの家の前に辿り着く。鮮やかな緑色の屋根が印象的な、優しい雰囲気の家だ。

    ここはこの人の家なんだろうかと思いながら、何かが出来るわけでもなく眺め続ける。……鍵を探そうとポケットの中に手を入れたところで、手応えがないことに気が付く。誰かはとても慌てた様子で身体中のあちこちを探し始めるけれど、やはり見付からない。血の気が引いていく様子が僕にまで伝わってきた、そのときだった。

    「おかえり、████」
    「██████!」

    背後から声がする。男性の声だ。おそらく名前を呼び合っているのだと思う。けれど、どうしてだか聞き取れない。この視点を借りている〝誰か〟の名前も、自分の後ろにいる〝男性〟の名前も。

    男性が手を伸ばす。その手には鍵が二つ、握られていた。一つは銀色の鍵。もう一つはライオンに似たマスコットがついた金色の鍵だ。
    金色の鍵が僕の見ている誰かの手の中に握らされた。誰かが落としてしまったのか、男性が間違えて二つ持って行ってしまったのかは分からない。それをひどく安堵した様子で受け取ると、男性が扉を開いた。扉の先からは家の中が少しだけ見えて、屋内の色合いも落ち着いた黄緑色を基調として纏められていた。
    二人が家の中に帰って行こうとしたその時、酔いの回っていた誰かの足がとうとう縺れて転びそうになった。しかし、いくら待てども痛みがやって来ることはない。誰かの身体が男性の腕によって支えられていたからだ。

    「████。飲み過ぎるなとあれほど言っただろう?」
    「わ、わざとじゃないからな!? 不注意だ!」

    ……そのままお礼を言えば良いのに、誰かは恥ずかしさを隠すように、それでいて素直になれない様子で弁解をした。
    そこでようやく転びそうになった身体を支えてくれた男性の姿を見上げる。男性の顔を認識する。

    その顔は────。


    ***


    「……っ!!」

    目が覚める。そこは現実で、僕の部屋だった。
    冷や汗が身体中に流れて服が張り付いていて気持ちが悪い。
    確かに僕は〝男性〟の顔を見た。なのに思い出せない。ついさっきまで見ていたはずなのに、モヤがかかっているような感覚が記憶を曇らせる。
    僕は〝誰か〟の視点を借りていた。いったい誰の視点を借りていたと言うのだろう。分からない。判らない。解らない。

    だけど、その中でもひとつだけ分かることがある。僕が見ていた誰かは、男性のことをとても大切に想っていた。強く、何かを希うように。

    「僕は……何を忘れているんだ? ……いや、違う。僕は──何を、憶い出せないんだ?」

    憶い出せない。いや、憶い出してはならない。記憶の中に固く閉ざされた扉がある。一度は開きかけたのに、また閉ざされてしまった。……じんわりと目頭が熱を帯びる。いつの間にか僕の目からは涙が溢れていて、止まらなかった。
    憶い出さなくてはならない。夢の中のことを。スメールのことを。僕が見ていた誰かのことを。大切に想っていた誰かのことを。

    時計の針は進み続ける。今日も、朝が来る。


    ***


    件の夢を見てからしばらくの間はアルハイゼン先生とゆっくり話せる機会が訪れなかった。美術部がコンクールに出すための作品創りを始める期間が始まったのだ。落ち着いてスケッチを出来る場所が無くなった、とは思わない。そもそも美術室は授業のためと、美術部が使うためにある教室なのだから。
    今日も授業の終わりを知らせるチャイムの音が鳴り響く。担当教科の教師と入れ替わりにアルハイゼン先生がホームルームを始めて、連絡事項の通達や生徒たちへ別れの挨拶をする。そんなお決まりの流れで一日が終わっていくばかりだ。
    あの夢を見てからというもの、アルハイゼン先生の声を聞くと心がざわつくような感覚に囚われるようになった。きっとそれは僕が憶い出せない記憶に関連しているんだろうと、確信には至らずとも見当は付けられるようになった。だから早く彼に、アルハイゼン先生に話を聞きたいのに。スメールについて、あの夢について、聞かなくてはならないのに。タイミングとしては最悪だった。

    けれど、今日は違う。今日は美術部が作品創りのインスピレーションを得るために屋外に出ている日だと僕はあらかじめ知っていた。──やっと。やっとだ。アルハイゼン先生と話が出来る。
    クラスメイトたちに別れの挨拶を告げて、僕は迷いなく美術室へと向かう。今日描くものはもう決まっていた。あの家だ。緑の屋根をしたあの家を描こう。
    随分と久しぶりに感じる美術室の中に足を踏み入れて、真白いキャンバスと画材を広げる。馴染みの丸椅子に腰を下ろして筆を走らせる。ここまではいつもと何も変わらない。そして記憶を頼りに夢の中で見た景色を描き写す。その指先に迷いはひとつもなかった。

    描いて、描いて、描き殴る。いつの間にか陽は傾き始めていた。もうすぐアルハイゼン先生が巡回に来る時間だ。その前に完成させないといけない。いつもは鉛筆だけで終えるスケッチも、今日描いているこの家だけはどうしてもカラーで仕上げたかった。アルハイゼン先生に見せたかった。僕が見たままのあの家の色彩を。鮮やかな緑色を。
    やがて扉の外からカツ、カツ、とヒールの足音が聞こえてきた。聞き慣れているから分かる。これはアルハイゼン先生の足音だ。もうそんな時間か、と思うのはいつものことだった。……よかった、なんとか間に合った。絵の具の散らばったパレットと筆を片して、僕はその瞬間を待つ。息が詰まるような感覚がするのは初めてだ。

    少ししてから扉を開く音がして、静謐な美術室にアルハイゼン先生の声が響き渡った。

    「───カーヴェ。いい加減にしないか」
    「アルハイゼン先生! こうして放課後にお会いするのはお久しぶりですね」
    「何度も注意していたはずだ。君は部活動にも所属していないんだから早急に帰宅するんだ」
    「そ、うですけど…… 先生、それよりも、これを、」
    「今すぐ帰るんだ、カーヴェ」
    「……っ」

    アルハイゼン先生の険しい顔つきが、冷ややかな声色が、僕を突き刺す。怒気を孕んでいるようには見えない。けれど、ひどく無機質で冷たいのだ。僕のことを見る目が変わっているのは明らかだった。スケッチには目もくれずに、ただ扉の方を指して帰宅を促している。

    「アルハイゼン先生、お願いです。今日のスケッチだけは絶対にあなたに見て欲しいんだ」
    「聞こえなかったのか? 今すぐ帰るんだ、と言っただろう。それとも警備員を呼んで強制的に帰らせるべきか?」
    「どうしてですか!? 今までのスケッチは見てくれたのに! アルハイゼン先生!!」

    どれだけ必死に訴えかけてもアルハイゼン先生は動じない。僕のスケッチを見るつもりはないと全身で拒絶していた。ここまでする理由なんてひとつしかない。アルハイゼン先生はスメールについて言及されることを避けている。恐らくは僕が前回詰め寄ったせいだろう。だけど、それ以上の何かがある。アルハイゼン先生が〝スメールを拒絶する何か〟が。
    アルハイゼン先生は眉ひとつ動かさないままで僕が帰宅の準備をするのを待っていた。それでも、何がなんでも僕はこの絵を先生に見せたい。先生がどんな顔をするのかを知りたい。そこに僕が憶い出せない記憶の手がかりがあるような気がしたから。

    描いたばかりのキャンバスに手をかけて、丸椅子から立ち上がろうとする。そのときだった。

    「わっ!?」
    「カーヴェ!」

    キャンバススタンドに足を引っ掛けて転びそうになる。勢いよく立ち上がりすぎたのだ。しかし、いくら待ってみたところで僕の身体に痛みが訪れることも、地面に倒れ伏すこともなかった。何故なら、アルハイゼン先生の逞しい腕が僕の身体を支えていたからだ。

    「わ、わざとじゃなくて! これは不注意で──」

    ……唇が震える。僕がたった今紡いだ言葉は無意識にこぼれたものだ。でも、僕には覚えがある。だって、この言葉は。
    どくん、どくん、とうるさいほどに心臓が跳ねる。それと同時に、ズキズキと頭が痛み始める。僕はこの感覚を覚えている。いや、憶えている。今のこの状況は、夢の中の〝誰か〟の視点を借りていた時と同じ状況だ。なら、僕が取るべき行動はひとつしかない。
    頭が痛い。痛い。痛い、痛い!まるで憶い出すなと言われているみたいだ。でも、それでも。それでも、僕は……!
    鈍い痛みに抗って、ゆっくりと顔を上げた。その瞬間、目の前に映像が流れ込んでくる。夢と現実が交錯する。あれは〝誰か〟の視点なんかじゃなかった。


    僕自身カーヴェ〟だったんだ。


    「───アルハイゼン?」
    「………………!!」


    懐かしい響きで名前を呼ぶ。そして同時に憶い出す。夢の中、顔を上げた先に僕が見たのは──〝アルハイゼン〟の顔だったことを。

    先生は狼狽えた様子で僕の身体を支えていた腕を解く。そこでようやく僕の描いたスケッチの方へ視線を向けた。その表情は今まで見てきたものとは比べものにならないくらいの驚きと、深い悲しみに満ちていた。同時に、ひどく懐かしいものを見るような、そんな瞳をしていた。

    「僕の夢の中に出てきた人は──あなたなのか? この家はあなたと〝僕〟の家、なのか? 答えてくれ、先生。いいや、アルハイゼン!」

    思わず叫んでしまう。どうしてあなたがそんな顔をするのかが分からない。あと一歩、点と点が繋がりそうで繋がらない。そんなもどかしさがただひたすらに気持ち悪かった。
    アルハイゼンは叫び声を聞いても答えようとしない。それどころか僕から逃げるように美術室から出て行ってしまう。手首を掴んで引き留めようとしたけれど、力の差は歴然ですぐに振りほどかれてしまった。
    やっとここまで辿り着いたのに逃がすわけにはいかない。アルハイゼンのことを追わなければ。
    下校時間はとっくに過ぎている。さすがに残して行くわけにはいかなかったから手早く荷物をまとめて美術室を後にする。しかし、アルハイゼンの姿は既に校内には見当たらなかった。教室にも、職員室にもいない。どうして。僕は彼にとってそんなにも煩わしい存在なのか?
    分からない。判らない。解らない。教えてくれないのに分かるはずがないだろう!と、腹の奥底から静かな怒りが湧き上がってきた。
    今はとにかく、彼のことを探さなくては。


    ***


    校門をくぐり抜けて街の方へと足を伸ばす。すっかりと日が暮れてしまったこともあって空の色は暗く重い。このあとは雨が降る予報だっただろうか。そんなことを思いながら大通りに出る。すれ違う人々の声はざわめき、並び立つ街灯と店の煌びやかなネオンの光は眩しすぎて目に痛いくらいだった。アルハイゼンはどこに行ったんだろう。あちこち見渡してもそれらしき人は見当たらない。
    辺りにいるのはこれから帰宅するのであろうサラリーマンやOL、部活帰りの学生、今から遊びに行こうとしている派手な身なりをした男女、杖をつきながら歩く老人など様々だった。

    どうせ明日になれば会える。もう諦めて帰るべきなのかもしれない。そう思い始めた時だった。視線を上げた先、交差点の向かい側に彼が──アルハイゼンがいるのを見つけたのだ。

    「アルハイゼン! 待ってくれ、アルハイゼン!!」

    叫び声を上げたのとほとんど同時だった。足が、身体が、勝手に動いていた。絶対に逃がすものかと、アルハイゼンが居る方向へいつの間にか駆け出していた。


    ────だから、信号なんて見ていなかった。


    キキーッと地面を滑るタイヤの音と、クラクションの音がけたたましく鳴り響く。
    人と車とが衝突する。鈍く重い音が響く。ガシャン、ガシャンとガラスが割れる音が響く。グシャリと何かが潰れる音が響く。甲高い人の叫び声が響く。


    悲鳴が、轟く。


    「きゃああ! だ、誰か! 誰か救急車!!」
    「お、おい!! 大丈夫か!? 警察だ! 警察も呼んでくれ!!」


    ***


    「……なんの騒ぎだ?」
    現実を遮断するようにヘッドフォンから流れる音楽を聴きながら立ち尽くしていたアルハイゼンは、周りの様子がおかしい事に気が付く。どうやら騒ぎはすぐそこの交差点で起こっているようで、事故があったのだろうと推測するのは容易かった。

    とうとう自分の家を描き出したカーヴェから逃げてしまった。きっとカーヴェは前世のことを思い出したに違いない。あの瞬間に自分の名前を呼んだのは生徒であるカーヴェではなく、スメールにいた頃のカーヴェの声色だった。
    罪悪感が拭えなかった。憶い出して欲しくなかった。だから逃げてしまった。向き合う覚悟がなかった。そんなことばかりを考えて、ほとんど無意識に外に飛び出していた。
    今夜は一晩考えて、明日改めてカーヴェに説明しよう。手遅れかもしれなくても嘘をつかなくてはならない。俺が俺であることを否定しなくてはならない。……でなければ、今世のカーヴェはまた。

    アルハイゼンは一人思案する。そろそろ自宅に帰ろうと踵を返して騒ぎの起きている交差点を通りかかってみると、道路の中心には人集りが出来ていた。少し先からは電柱に衝突してひしゃげた車体から漏れたオイルの匂いが漂っており、地面には粉々に飛び散ったガラスの破片などがあった。
    それを目にしたアルハイゼンは酷い有様だとあくまでも他人事のように通り過ぎようとする。──だが。足を停めてしまう。いや、停めざるを得なかった。だって、

    オイルの混じった水溜まりの中に、見慣れた姿が在ったのだから。


    「…………カーヴェ? カーヴェ!!」


    ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。あれは水溜まりなんかじゃない。血だ。赤黒い血が排水溝へ流れ出して行く。
    辺りには面白半分に群がる人々の喧騒の声と、サイレンの音が谺していた。


    ***


    「アルハイゼンさん、落ち着いて聞いてくださいね。あなたの生徒さんは今、生死を彷徨う危機的な状況にあります」
    「……はい」

    事故が起きたあと、カーヴェはすぐに近くの救急病院へ運び込まれた。街の大通りでの事故であったことから病院への搬送にそう時間はかからなかった。しかし真正面から衝突したカーヴェの容態は重体で、現在は集中治療室で医師たちが手を尽くしてくれている。
    幸か不幸かその場に居合わせていた俺はカーヴェの保護者代わりとして付き添うことになり、今は別の医師から説明を受けている最中だ。そして俺はここに来て初めて、今世のカーヴェの身辺について知る事となる。

    カーヴェの父は既に他界していてこの世にはいないこと。母は別居していて今すぐに連絡が取れる状況ではないこと。俺からしてみればその何れも憶えがあることだ。だからと言って納得出来るわけがない。何故、どうして、今世でも。そう思わずにはいられなかった。

    「それで、あなたの生徒……カーヴェさんですが。出血量が酷く、今すぐに多量の輸血が必要なんです」
    「……、はい」
    「カーヴェさん自身に同意を頂ける状態でもなければ、親権者に連絡もつかない。そうなってしまうと我々の独断で輸血せざるを得ない。そこまでは良いのです。命を救う者として負うべき義務ですから。ですが……」
    「ですが……? どうしたんだ?」

    ぐっと堪えるように拳を握り締める。医師はどこか決まりの悪そうな顔をして言葉を続けた。

    「カーヴェさんの血液についてです。彼の血液型ですが、調べてみたところ極めて稀な血液型である事が判明しました。最近はそう言った血液型をお持ちの方でも緊急で対応出来るようにしてはいるのですが、その……非常に具合の悪い事に、現在当院にはカーヴェさんの血液型に対応した輸血パックがないんです」
    「何だって? では、カーヴェは? あいつはどうなるんだ?」
    「今から血液センターに掛け合って輸血パックを輸送してもらいます。ただ、血液センターもそう多くの在庫を抱えているわけではないことや、今から輸送してもらう間にカーヴェさんの生命力が保つかどうかは……現時点では分かりません」
    「……カーヴェの血液型は?」
    「え?」
    「カーヴェの血液型は、と聞いているんだ!」

    状況としては芳しくない。最悪の事態も想定して欲しい。目の前にいる医師は暗にそう告げている。そんなことを許せるわけがない。許してはならない。何より、カーヴェをここで死なせるわけにはいかない。
    もう二度と彼を失いたくはなかった。この手から温もりが失われていく姿を見たくはなかった。

    「あ、Rhマイナスと呼ばれる血液型ですが……!」
    「Rhマイナスだな。それなら俺の血が使える可能性がある」
    「なんですって!? アルハイゼンさん、あなたはそう診断されたことがあるのですか?」
    「正確な診断は受けていない。だが、祖母から口伝えに聞いたことがある。両親も俺も稀血であると。……だから頼む、カーヴェを救える可能性が少しでもあるなら調べてくれないか」
    「わ、わかりました!」


    ──あなたの身体に流れる血はとても珍しい血なの。
    ──特別ってこと?
    ──ええ、そう。特別だということはいつだって富なのよ。きっといつか役に立つときが来るわ。だから、あなたには怪我もなく健やかに、平和に過ごしてほしいの。それだけが私の望みだわ。


    ……どうして今世でも。その言葉は自分自身にも深く突き刺さる言葉だった。祖母も、両親も、もうこの世にはいない。俺に遺されたものは少なかった。だが、今この瞬間に祖母の言葉を思い出したという事は〝いつか役に立つとき〟が来たということだろう。

    採血を済ませて結果を待つ。しばらくすると、医師の表情は険しいものから希望に満ちたものへと変わっていた。

    「アルハイゼンさん! おめでとうございます!! あなたの血液型とカーヴェさんの血液型が一致しました……!」
    「そうか、良かった。なら今すぐ俺の血をカーヴェに輸血してくれ」
    「言っておきますが、かなり多量の血液が必要となります。あなたの方に影響が出ないとも限りません。ですから、そのリスクについては──」
    「良いから、早くしてくれ!」
    「っ!! わ、わかりました! アルハイゼンさん、こちらへ!」

    迷っている暇などない。一刻も早くカーヴェを死の淵から救い出したい。その思いだけが俺の心血を突き動かしていた。

    どうか、俺の血がカーヴェを救えますように。
    どうか、カーヴェが今世では幸せに過ごせますように。
    俺の血を全て捧げたって構わない。欲しいのなら命だってくれてやる。


    だから、どうか。
    もう一度、君の笑顔を────。



    ***


    目を開けると、辺り一帯はテレビの砂嵐のようなものに包まれていた。
    ここはどこだろう。いつも見ている夢……スメールではないことは確かだ。そしておそらく現実でもない。僕は一体どうしてしまったんだろうか。
    記憶が混濁する。確か僕はアルハイゼンを探しに街に出たはずだ。たくさん歩いて、歩いて、だけど見つからなくて。もう諦めようと、そう思って帰ろうとしたらアルハイゼンの姿を見つけて──それから、どうなった?
    頭がズキズキと痛む。状況が把握出来ていない。何が起きているのか分からないままに足を動かしてみると、問題なく歩くことはできた。ただ、歩いているという実感は湧かない。浮遊しているような感覚が近いのかもしれない。歩いても歩いても向かう先には砂嵐しかなかった。

    しかし、その砂嵐は突如として終わりを告げる。それこそテレビのチャンネルが切り替わったかのように、目の前に映し出されている光景が鮮明に色を帯びてゆく。

    そこはスメールだった。
    もう見慣れた光景だ、と思ったのも束の間のことだ。映し出される景色と共に、僕の頭の中に記憶が流れ込んでくる。

    ────それは〝カーヴェ〟の記憶だった。

    間違いない。スメールで生まれ育った僕の記憶だ。今まで夢だと思っていたものは全て夢じゃなかった。スメールは確かに存在していた国だったのだ。
    幼い僕が両親に祝福されながら育っていく。どこにでもあるような幸せな日々だった。けれどそれも長くは続かない。僕のわがままのせいで、父はいなくなってしまった。母からは笑顔を奪ってしまった。……ああ、そうだった。前世でも今世でも、僕は同じことを繰り返してしまったのか。
    冷たい家に独りで居ることに慣れたフリをした。いくら淋しくとも、孤独だろうとも、それが僕へ与えられた罰なのだからとすべてを飲み込んだ。
    教令院へ入学して、勉学に励んで、将来的には母のような建築デザイナーになることを志した。一心不乱に夢と理想を追い求めた。

    ここまできてようやく僕は憶い出す。青き春の日々を共にした彼のことを。互いの才能を認め合った友人のことを。

    「────アルハイゼン」

    そうだ。彼こそが僕のかつての友人であり、そして僕が思い描く理想像によってやがては袂を分かつ事となる人だった。憶い出した今でも腹が立つほどにひどい記憶だと思う。僕が彼の主張を理解出来ないように、彼もまた僕の主張に理解を示すことはなかったのだから。
    彼と友人となったことを心底から後悔した。彼はその賢さゆえに人の持つ痛みなど知る由もなかったのだ。目を背け続けた現実をいとも容易く突き付けてくるこの聡い男がたまらなく憎らしくて、そしてどうしようもなく苦しかった。それくらい彼のことを大切な友人だと思っていたから。

    それからの日々は何をしても空回りしていたように思う。もちろん成功しない日がなかった訳じゃない。けれど、どうしたって労力に見合わないことばかりだった。その事実を痛感するたびに、僕はアルハイゼンの言葉を思い出して落胆した。自分の追い求めていた理想も、芸術も、他人からすれば取るに足らないものでしかないのだと。
    建築物は基礎が整っていなければ呆気なく崩れてしまう。だと言うのに僕の足元はひび割れていて、いつ崩れてしまってもおかしくないくらいに歪な形をしていた。……家とはなんだろうか。僕には分からなくなっていた。あの日、酒場で君に再会するまでは。

    鮮やかな緑色の屋根の家。あれはアルハイゼンの家だった。破産した僕には帰る家なんてなかったのに、アルハイゼンはそんな僕のことを受け容れた。最初こそただのルームメイトとして過ごしていたし、何かしら気に入らないことがあるたびにいがみ合ったり議論することは避けられなかったけれど、僕はそれが嫌じゃなかったんだ。きっとアルハイゼンも同じ気持ちだったんだろうと思う。
    そうして同じ家で暮らすうちに、いつの間にか僕とアルハイゼンは惹かれ合っていた。明確な告白の言葉はなくとも、この賢くて不器用な男が僕を大切にしてくれていることは十分伝わっていたから僕も同じように大切にしていた。家に帰れば君がいる喜びにすっかり甘えていたんだ。

    アルハイゼン。僕の大切な後輩であり、友人であり、恋人だったひと。どうして憶い出せなかったんだろう。どうして憶い出したくなかったんだろう。蘇った記憶と一緒に愛おしさが溢れて止まらない。僕はまだこんなにもアルハイゼンのことが好きだ。それなのに彼は僕のことを拒絶しようとした。一体どうして。僕のことを嫌いになってしまったのか、あるいは前世のことだからと割り切ってしまっているのか?
    知りたかった答えは存外早くに訪れる。記憶の再生はまだ続いていた。

    ──そして僕は〝その瞬間〟を垣間見る。
    僕とアルハイゼンはボロボロに崩れた秘境の中で神の目の力を封じられてしまっていた。手持ちの武器も粉々に壊れてしまって、襲い来る魔物や敵たちに為す術もなく蹂躙され続けた。
    酷い有様だった。敵たちが退いて行く頃には僕の身体の首から下は焼け焦げて、腹からは何本もの鋭利な刃物が飛び出して赤黒い血溜まりを作っていた。まだ生きているのが不思議なくらいだった。
    そしてそれはアルハイゼンも同じだった。アルハイゼンの胸部には瓦礫の破片が深々と突き刺さっていた。呼吸をするたびにこぽりと唇から血が溢れる。もう、長くは保たない。お互いそう察するには十分過ぎるほどの出血量だった。

    結局、僕が幸せになることなんて許されないのだろうな。……悔しいな。やっと想いが通じたのに。僕はまだ君を愛しているのに。悔しくてたまらない。
    握り締めたアルハイゼンの手があたたかい。この温もりを手離したくない。まだ。まだ、君と生きていたい。だから。

    『なあ、アルハイゼン。生まれ変わったら他人がいいし、もう二度と君に会いたくない』

    ──君に呪いを残そう。もしも君が生まれ変わって僕のことを憶い出したとしても、聡明な君のことだ。僕がこう言えば何がなんでも君は僕を遠ざけようとするだろう。たとえ運命の歯車がもう一度僕たちを巡り合わせたとしても、もう二度と僕を哀しませたりしないように。もう二度と僕が憶い出すことのないように。

    『ああ、そうだな。君を幸せにすることも、満足に愛することも出来なかった俺とは──もう、出会わない方が良い』

    それで良い。それで良いんだよ、アルハイゼン。僕の方が何も憶えていなかったとしても、天邪鬼な僕のことだ。きっと君の行動に逆らって憶い出そうとする。何がなんでも君のことを追い求めようとする。憶い出せなくたって君のことをまた好きになる。


    (どうか、再び見つけて)
    (僕にまた、あいにきて────)


    スメールでの僕の記憶は、そこで途切れた。

    ……逢いたい。アルハイゼン、君に逢いたい。今すぐ伝えなくちゃならない言葉がたくさんある。
    だから早く、早く目を覚ますんだ。現実へ帰るんだ。

    気がつけば僕の目の前には眩い光が射していた。きっとそこが出口なのだと信じて歩き出す。
    ふと後ろを振り返ってみると、そこには僕の方を見て微笑む男女の姿があった。

    ──今度こそ幸せになるんだよ、カーヴェ。

    光に包まれてゆく僕が最後に聞いた声は、優しく祈るような父と母の声だった。


    ***


    目が覚めるとそこは病室だった。

    真っ先に目に入ったのは白い天井で、ピ、ピ、と規則的な機械音が鳴り響いている。
    身体は動かなかった。無理やり動かそうとしたら色んなところが痛んだから早々に諦めることにした。僕の腕からは点滴の管が伸びていて、その先は赤い液体の詰まったパックに繋がれていた。
    ……そうだ、僕は事故に遭ったんだった。自分の不注意が引き起こしたことだから罪悪感が否めなかったけれど、どうやら命を取り留めたみたいだ。

    病室の中を見回してみると、隣にもうひとつベッドがあった。そこには見慣れた姿が横たわっていて、その腕にもまた点滴が繋がれていた。茫然とした頭で状況を理解しようとする。
    間違いでなければきっと僕は彼に助けられたんだろう。……ぐっと込み上げる感情に名前を付けることが出来ない。喜びでも、怒りでも、悲しみでもない。ただ彼に命を救ってもらったという事実が僕の心臓を動かしていた。

    震える喉から声を振り絞る。彼に意識があるかどうかは分からなかったけれど、それでも今、この言葉を言わなければならないと思った。

    「──もう二度と君に会いたくないって言ったのにな、アルハイゼン」

    君に残した呪いを解かなくてはならない。そのまま言葉を続けようとするけれど、遮るようにベッドに横たわる彼──アルハイゼンから声がする。

    「俺も会いたくなかったよ、カーヴェ」
    「……! 君、起きて?」
    「もう二度と、君の声が聴こえないかと思った」
    「あ、アルハイゼン、僕は、」
    「君の目が覚めて良かった。……君が生きていて、良かった」
    「っ……! アルハイゼン、アルハイゼン!」

    目頭が熱い。今すぐにでもその腕の中に飛び込みたいのに出来ないのがもどかしい。アルハイゼンは今どんな顔をしているんだろう。覗き見える横顔から表情までは窺い知れなかった。

    「アルハイゼン。二度と会いたくないなんて嘘だ。僕はもう一度君に会いたかった」
    「……うん」
    「君をもっと愛していたかった」
    「うん」
    「アルハイゼン。……アルハイゼン。僕はまだ君を愛してる。だから、今度こそ、」
    「俺と共に幸せになってくれないか、カーヴェ」
    「……! 人のセリフを横取りするな!!」
    「君の口からばかり言わせるのもどうかと思ったんだ。だが、カーヴェ。まずは意識を取り戻したことを知らせるべきなんじゃないか?」
    「それは……うん。そうだな。アルハイゼン、ありがとう。きっと僕が命を取り留めることが出来たのは君のお陰なんだろう?」
    「詳しい話は医者から聞いてくれ。俺から言えることはただ一つだよ」
    「うん?」

    「おかえり、カーヴェ」
    「……ただいま、アルハイゼン。もう一度僕を見つけてくれて──ありがとう」


    ***


    それから長い月日が経過した。
    僕の身体に流れる血が希少な血であったこと。それを救ったのは同じく希少な血を持つアルハイゼンであったこと。意識不明の重体から回復を果たせたこと。全てが奇跡的だった。
    しばらくの間は入院生活を余儀なくされたが、幸いにも事故の相手は僕よりも軽傷だったようで示談という形で場は納まった。僕が未成年であったことも理由としては大きかったけれど。一連の騒動が起きている間に母も駆け付けてくれて、僕が一命を取り留めたことを知ったときにはひどく安心した顔をしていた。

    ただ、問題はアルハイゼンの方だ。
    事故が起きたのは放課後であったことや、その日の巡回を担当していたのがアルハイゼンであったこと。直接的な原因とまでは言えずとも、その場に居合わせていたこと……様々な要因が重なって、彼は令院高校から別の高校に異動という処分が下された。懲戒解雇にならなかったことだけは不幸中の幸いだろう。

    僕の身体は後遺症もなくすっかり快復して令院学園に通い続けている。あの後はきちんと美術部に入部して、コンクールでいくつかの賞を取ったりもした。エスカレーター式で大学に上がったあとは、かつてのような建築デザイナーになることを志して勉学に励んでいた。
    アルハイゼンが学園を去ることになってから、彼とは連絡を取っていなかった。その代わり、僕が退院するときにひとつだけ約束を交わしたのだ。


    そして今日はその約束が果たされる日だ。


    「───アルハイゼンのやつ、まさか忘れてないだろうな?」

    季節は春。僕は白いスーツに身を包みながら、令院学園の卒業式を滞りなく終えたところだった。まさか卒業式でもスピーチをする事になるなんて想像もしていなかったから、一つの大きなプロジェクトを終えた時のような気分だ。同時に、入学式のスピーチを任された頃が随分と懐かしく感じる。

    同級生たちからの二次会の誘いを断って僕は校門の前で一人佇んでいた。ただ人を待っているだけなのにどうにも落ち着かない心地だ。
    そろそろ陽が傾き始める。今か今かと来訪を待ち侘びていたそのとき、ようやく僕の待ち人は姿を現した。だが、思わず目を疑ってしまう。
    黒いスーツに身を包んだ彼のその腕の中には白いバラのブーケが抱えられていて、そしてそのまま迷いなく近づいてきたかと思えば僕にブーケを差し出したのだ。……その瞬間、かあっと頬に熱が集っていくような感覚がしたのは僕の気のせいではないと思う!

    「あ、アルハイゼン、君ねえ……!!」
    「すまない、すっかり遅くなった。卒業おめでとう、カーヴェ」
    「遅かったのもそうだが、なんだこのブーケは!? 小っ恥ずかしいだろ!!」
    「卒業祝いに花を贈ることは何らおかしくないだろう? 本当ならすぐそばで見ていたかったんだが、致し方ない」
    「そ、それはそうだけど……僕だって、君に一番に祝って欲しかったさ。だけどこればかりは仕方ない。新しい場所ではどうなんだ?上手くやれてるのか?」
    「問題ないよ。一番初めに担当した生徒がやんちゃだったお陰で大抵のトラブルには対応出来るようになった」
    「ぐ……! 誰のことかは分からないが、その生徒には感謝してもいいかもしれないな!」

    思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまうが、内心は嬉しくてたまらない。あの堅物のアルハイゼンが僕のためにブーケを用意してくれるだなんて前世では考えられなかったことだ。
    僕たちがこうして再会するのは実に数年ぶりだったが、何年の月日が過ぎようともアルハイゼンに抱く想いが変わることはない。現に今、僕の心臓はうるさいほどに脈打っている。アルハイゼンが僕に血を分け与えてくれたあの日から、僕はアルハイゼンに生かされているのだと思いながら日々を送ってきた。

    だけど、僕はもう子どもではない。アルハイゼンに守られているだけの日々は今日で終わりだ。

    「なあ、アルハイゼン」
    「どうしたんだ、カーヴェ」
    「僕も君も、随分と長い間我慢したと思うんだが。君はどう思う?」
    「そのために今日という日に約束をしたんだろう?」
    「ふふん、どうやら忘れてないようだな。それじゃあ、アルハイゼン!」

    その言葉を合図に、飛びつかんばかりの勢いで僕はアルハイゼンに思いきり抱き着いた。
    人目を憚る必要なんてない。僕たちを隔てる柵なんてない。だって僕たちはもう、生徒と教師なんかじゃないんだから!

    「アルハイゼン、君を愛してる。僕は何度だって君に巡り会いたい。いいや、巡り会うんだ。何度でも君を探して、そのたびに君とあったことを憶い出すよ。離してなんかやらないからな!」
    「まったく、大した自信だな。二度と出会いたくない、と言っていたのはこの口だったか?」
    「あれはそう言えば君が僕のことを余計に意識すると思っ──んむ!」

    言葉を言い終えるより前にアルハイゼンの唇が僕の唇を塞いでいた。人目を憚る必要はないとは思ったが、さすがにやりすぎじゃないか!? ……なんて騒いでいるのは心の中だけで、やっぱりどうしたって嬉しくてたまらない。
    この温もりを、この愛おしさを手離したくはない。もう二度と失うことのないように。もう二度と忘れたりしないように。


    ────運命は、巡る。
    この星のもとに生きている限り、俺たちは何度だってその姿を、面影を、捜してしまうだろう。

    最愛の君へ、再び巡り会うために。



    「──愛している、カーヴェ」
    「僕も──愛してるよ、アルハイゼン」
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