Shine *
大きく立ちのぼる赤
轟々と燃えて 全てを焼き払う
誰にも負けない 真っ赤な炎
眼下で繰り広げられる拳のぶつかり合いを見ながら、水戸洋平はそんなことを思っていた。どこにでもある不良同士の喧嘩だ。いや、正確にはたった一人に六人がかりで暴行を行っているのだから、喧嘩というよりは一方的な暴力だ。本来ならば──。しかし現実は全く負ける気のなさそうな一人と、数で打ちのめそうとする六人の、まさしく戦いだった。
赤い髪の男のことを洋平は知っていた。三日前、担任の後について入ってきた転校生だ。
大きな体躯に鋭い目、極めつけがあの赤髪。
否応なしに目立つ容姿では、不良達の目を避けて通ることは出来なかっただろう。
「さーて、どうしたもんかね」
人目の届きにくい小さな橋桁の下。しゃがみこんでガードレールの隙間から覗き見ればようやく視界に入る。そんなおあつらえ向きの場所だ。通報されることもまずないだろう。
あまりに一方的にやられるようなら、早めに間に入って片づけてしまおうと思っていたのだが。これはなかなか面白いことになってきた。
「あれ? 洋平、おめー何してんだ?」
かけられた声に振り返ればお馴染みの顔ぶれが揃っている。
「よう、お前ら。面白いもんが見れるぜ」
「なんだよ。って、ありゃあ洋平んとこの転校生じゃねーか」
「六人がかりか、卑怯な奴らだな」
全員がなんだなんだと覗きこみ、最後には呆れながら洋平の顔を見た。
「んでオメーは高みの見物かよ、洋平」
顔を顰めて全員の意思を代弁したのは野間だ。
「いや、だってよう。まさかあんな強ぇとは思わねぇじゃん」
「たしかになーって、オイオイオイ。そうも言ってらんねぇみたいだぞ」
そう言った高宮が食べかけのあんぱんを口に放りこんだ。見れば囲んでいた男たちの手には鉄パイプが握られている。
「おーおー、卑怯な奴らはどこまでも卑怯なんだな」
「よーし、じゃあいっちょ洋平君のクラスメイトの助太刀といくか!」
「おうよ!」
楽しそうに拳を握って走り出した三人の背中を見ながら、洋平は「まだ一度も喋ったことねーけどな」と苦笑いを浮かべた。
付き合ってみれば桜木花道という男は容姿だけでなく、全てにおいて規格外な男だった。
喧嘩の強さはもちろんだが、何より驚いたのはその心の在り方だ。最初こそ固い殻に覆われてわからなかったが、一度殻が破けてしまえば見た目とは正反対の純粋な心があらわれた。
よく笑い、またすぐ怒る。子供のようにわかりやすく拗ねもするし、情に厚く涙もろい。
人より早く大人になろうとしている洋平には、もう出来ぬことだ。
そしてもうひとつ。
花道自身はその強さに反して喧嘩が好きなわけではないようだった。見た目が派手なせいで望まぬ敵意を向けられ、結果的に強くならざるを得なかったのだろう。常に力でねじ伏せてきたせいか、強くはあっても喧嘩が上手いわけではなかった。自惚れではなく、喧嘩のやり方だけなら洋平の方が何枚も上手(うわて)と言える。だからといって真剣勝負をして勝てるというわけではないのだが。やる前から負けるつもりもないが、とにかくそれほどまでに花道は強かったのだ。
そして何故か洋平には、それが嬉しかった。変わらなくてよいと思った。花道は強くあっても、上手くなどならなくていい。上手く、狡賢く、巧妙に──頭を働かせるのは自分の役目だ。適材適所というやつだ、と洋平は思っていた。
その頃からだ。花道を筆頭にして五人が〝桜木軍団〟と呼ばれるようになったのは。
別に──さして何かに反抗しようとして不良になったわけではない。ただ毎日がつまらないとは思っていた。気の合う仲間と学校をフケて連んでいれば、どこからか同じような奴らがやってきて絡んでくる。仕方なく相手をしてやると、またどこからか違う奴らがやってきては同じことの繰り返しだ。それでも軍団の仲間といるのは楽しかった。売られた喧嘩はもれなく買って、時には馬鹿をやり、くだらないことを言っては笑う。ずっとこんなふうにいられるなら、つまらなくはあるけど悪くはないと感じていた。
あの日、花道の父親が亡くなるまでは──。
上手くやろうと思っていたのだ。狡賢く、巧妙に、だから花道はそのままでいてくれ、と。
洋平は自分を責めた。ならばどうしてお前はあの日、花道を一人にしたのだと。どのグループが自分たちに目をつけて、いつ動きだすのか。そして誰を狙ってくるか。もっとちゃんとお前が神経を張り巡らせていれば……お前がお前の役割さえ果たしていれば。
後悔は際限なく押し寄せた。傷ついた花道を前に、傷ついている自分が許せず、たまらず嘔吐するほどに。
ひとりになってしまった花道は、魂が抜けたかのように家から一歩も出なくなった。生気の抜けたガラス玉のような目を初めて見た時、洋平は血の気が引く音が聞こえた気がした。
考えたくもない二文字が頭に浮かんで、震える身体を叱咤して拳を握りしめる。傷ついている場合ではないことに、洋平はこのとき本当の意味で気づいたのだ。
このままでは失ってしまう。
今、目の前にある命まで。
駄目だ、それだけは何があっても絶対に駄目だ。
その日から洋平は花道の家に寝泊まりするようになった。仲間と連絡を取り合い、出来るだけ花道をひとりにしないようにもした。それでも子供たちだけでは限界がある。かといって他のメンバーに、これ以上の負担をかけるわけにはいかない。
悩む洋平に手を差し伸べたのは他でもない洋平の母だった。
突然帰ってこなくなった息子を責めるでもなく、事情に耳を傾け、思うようにしろと許してくれたのだ。
父親と暮らしていた花道とは違って、幼少期に両親が離婚した洋平には父がいなかった。女手ひとつで自分を育ててきた母の背を見て、洋平は人より早く大人になりたいと願ったのだ。学校なんて本当は行きたくなかった。さっさと働いて、母親から自分という重荷を解いてやりたいと思っていた。
だけど今はそんな母に甘えてでも、目の前の男を連れ戻したい。起きていても、眠っていても、どこか遠いところへ行ってしまった男を、なんとかして同じ世界へ連れ戻したかった。
今の花道は生きるために必要最低限のことしかしない。
最初のうちは、食べることさえ放棄していた。もし無理矢理にでも家に上がり込んでいなければ、どうなっていたのだろう。想像するだけでもゾッとする。
洋平が諦めずに毎食用意することにより、少しずつではあるが口にするようになっていったのだ。心は沈んでいても、身体はちゃんと生きている。入れ替わり立ち替わり、軍団の仲間たちが来て夕食を囲ってくれたことも有難いことだった。
「花道すげーな。食ったじゃん!」
「花道ぃ、今日は最高に美味いの持ってきたぜ」
「おらおら、花道これも食えって」
話しかけても返事はほとんど返ってない。
それでも花道の元に訪れるもの全員が、諦めずに声をかけ続けた。
母からのわずかな軍資金と、各々の親からの差し入れにより、ちゃぶ台の上はなんとか夕食の様相になる。
朝は洋平が唯一覚えた味噌汁と白米。昼食は袋麺や焼きそばに、野菜と豚肉を入れることで乗り越えてきた。
むしろ最大の問題は睡眠の方だった。呑気に自分が寝ている間に、もしものことがあってはいけない。洋平の睡眠時間は激減した。他のメンバーが来た時にだけ、少し眠る。もし花道にわずかでも変化があれば、それもなしだ。
一度だけ──迂闊にも夜中に意識が飛んで、肝を冷やしたことがある。目が覚めたら、部屋に花道がいないのだ。飛び起きれば、その姿は玄関にあった。
「花道! どこ行くんだよ!」
「……」
「花道?」
「……なんか、海、みてぇなって」
感情のない小さな声だった。
「海って、こんな夜中に?」
心臓が痛いほど、大きく脈打つ。もしこのまま本気で振り払われたら、どうする。寝不足の回らない頭で必死に考える。
止められるか? オレの力で、花道を?
いや、やれるか、ではない。やらなくては。
洋平は勤めて穏やかに言った。
「昼間に行こうぜ。一緒に行ってやるから。な、花道」
そうしてグッと掴んだ手首を、花道はぼうっと見下ろした。返事はないままにドアノブから大きな手が離れる。広い背中が部屋のなかに消えた瞬間、洋平は玄関に座り込んだ。
全身が冷たい汗に濡れていた。
翌日、声をかけてみたが花道は動かなかった。それきり一度も海に行きたいとは言っていない。
そもそも花道も、あまり眠らないのだ。ようやく寝たかと思えばひどくうなされて、たまらず起こすことがほとんどだった。
だからその夜も、いつもと同じ変わらぬ夜と言えた。ただひとつ違ったとすれば、過度の睡眠不足によって洋平自身も限界に達していたことだろう。
「花道、はなみち!」
「は、あ、あ、っうああ!」
「花道、起きろ!」
「……っ、あ、よ……へ?」
「ああ、俺だよ。大丈夫、大丈夫だから。ゆっくり息して」
「でも……親父、親父が……おやじ!」
「花道……ッ」
起き上がろうとする身体を抱え込むように抱きしめる。
(クソ……なにが……なにが大丈夫だ……!)
こんな時になにを言えばいいのかわからない。抱きしめる身体の厚みは、半月あまりで随分と薄くなってしまった。ろくに食べない、眠りもしない。やっと少しは口にするなったとて、自発的なものじゃない。それなのに睡眠もまともにとれないんじゃ、花道は疲弊していく一方だ。いつか駄目になってしまう。
顔をあげて、縋る思いで白い骨箱を見つめた。
親父さん
花道の親父さん
なぁ、そこにいるんだろ
オレは、どうしたらいい?
どうすればコイツは戻ってくる?
このままじゃ、コイツそのうち親父さん追いかけちまうよ……
まだ、早ぇよ……なぁ、そうだろ
連れてくなよ
連れていかないで
頼むよ、頼みます
俺にはコイツが──花道が、必要なんだ
生きてて、ほしいんだ……!
「ようへい?」
小さな呼び声にびくりと肩が震えた。
「ん?」
「洋平……泣いてるか?」
「え?」
肩に置かれた手に押されて身体を離される。覗き込んできた花道の目が不安そうに揺れていた。
「泣いてる」
「あ、いや、これは」
言われてはじめて、自分が泣いていることに気づく。
「なんで」
失敗した。またやってしまった。洋平はあの日からもう何度目かもわからない後悔の波に襲われる。
自分が泣いてどうする。本当に悲しくて泣きたいのは花道のほうだ。あんなにも泣き虫だった男が、眠っている間にしか泣かなくなった。
泣いて喚いて、怒って、暴れて──どうにもならないことでさえも、許さないと駄々をこねる。
それが洋平の知る桜木花道という男だった。
真っ白な顔で、父の遺影を胸に抱いて立つ。
一滴の涙もこぼさなかった葬式の日の花道を、洋平は一生忘れることができないだろう。そうして今も変わらず、花道は静かに悲しみの淵にいるのだ。
(なのに、どうしてオレは……この大馬鹿野郎ッ)
緊迫した生活が続いて、感情の制御が出来なくなっているようだった。止めなくてはと思うのに、一度崩れてしまった防波堤は役目を果たさず、あとからあとからあふれ出る。情けなくて悔しくて、目の前にいる泣けない花道を思うと、なおのことたまらなくて。
洋平は唇を噛み締め、嗚咽を呑み込んだ。
「ようへい」
大きな掌が頬に触れる。
ダメだ花道、こんな最低なオレを見るな。
洋平は強く目を閉じる。離れるために身体を起こそうとするが、背中に回った片腕が何故かそれを許さない。どうしてと瞼を開けば、花道の頬はパタパタと自分の目から落ちる涙で濡れていた。
「ごめ……っ」
咄嗟に出た謝罪が止まったのは、真っ直ぐに見上げる瞳から、同じものが流れ落ちていったからだ。
「はな、みち」
「よおへぇ」
「花道……」
「おやじ、しんじまった……」
「……ッ」
「オレの、せい……で」
「違う!」
「よ……へ……」
「お前の、せいじゃない。絶対に違う。それだけは絶対に違う!」
「よぉ、へえっ」
「花道……!!」
「う、ぅ、あ、ああああああああああああああ」
アパート全体に響き渡るような泣き声だった。
その夜──洋平の腕のなかで、花道は泣き明かした。締め殺されるのではないかと思うほどの力に抱きつかれながら、洋平もまた負けないくらいの声をあげて泣いた。もしこのまま締め殺されてしまっても後悔はない。頭のどこかで、そう思っていた。
翌朝。
泣き腫らした目で、花道は開口一番「腹が減った」と言い放った。洋平は一瞬ぽかんとその顔を見つめ、じわじわと意味が理解できてようやく「はち切れるくらい食おうぜ」と笑ったのだ。同じくらい泣き腫らした細い目だった。
アパートの住人から、苦情がくることはなかったという。
*
その後、花道の回復とともに、洋平は家に帰るようになった。他でもない、花道自身からの要望だった。もちろん洋平は渋ったが、最後には頭突きをくらってしまい仕方なく家路についたのだ。不機嫌を隠しもせずに帰宅した息子を見た母は、言葉足らずな説明に耳を傾けたあとカラカラと笑った。
「だったら今度は花道君をうちに連れてらっしゃい。なかなか夕飯時には帰れないけど、冷蔵庫にいっぱいおかず作っとくから!」
そう言って叩く腕は細いながらも洋平の目に逞しく映った。
注視していた花道の今後の動向も、今までと変わることなくアパートで暮らしていくということに決まり、野間、大楠、高宮とともに洋平は胸を撫で下ろした。同時に中学生の子供をひとりで置いておくことが、普通の状況ではないことも全員がわかっていた。世の中にはどうしようもないクソのような大人がいる。だけどそうじゃない大人も確かにいて。
洋平をはじめとする軍団全員が、ぶつける先のない拳をやるせなく握りしめたのだ。
そうして今までと同じではなくとも、日常はやってくる。
花道の家は軍団の溜まり場となり、週末には泊まり込んで遊ぶのが常となった。食欲が戻ったことで、体力もつき、一見すればもう以前と変わらない。ただやはり夢だけはどうにもならぬようで、夜中にうなされることは続いていた。洋平がひとりの時であれば声をかけて起こす。他のメンバーがいる時は、そっと肩をゆすった。目覚めたことを確認して肩を撫でてやる。誰も起き上がってくることはない。下手くそないびきでも、花道に気づかれなければ結果オーライだ。静かに頬を濡らす涙を、洋平は親指の腹で優しく拭った。
そして全員の素行の悪さもあってか、望まなくとも喧嘩を止めることは出来なかった。最初こそ花道を気にして避けようとしたものの、当の花道が鼻息荒く頭突きをかましに行ったので、周りの方が慌てて後に続いたのだ。とはいえ桜木軍団自らが喧嘩を売りに行くことはなく、それが逆に力を示したい不良たちには目立ってしまい洋平たちはまた喧嘩に明け暮れた。
そんな日常が定着するのと同時にもうひとつ。桜木軍団のなかに変化が起きた。
「あのひと、可愛いな」
花道が恋をするようになったのだ。恋心を初めて打ち明けられた時の感情を、洋平はよく思い出せない。他のメンバーが恋をした時と何か違っていただろうか。いや、思い出せないだけで、いつもと同じように耳を傾け、からかい、最後には心から応援してやったのかもしれない。
その恋は一週間で終わりを告げた。単純で真っ直ぐな男ではあるが、反面は内向的で抱え込むタイプでもある。皆、花道が失恋を引きずって塞ぎ込まなければいいと気を揉んだ。しかし憂いはまったく不要のものとなる。さして間をあけることなく、花道は再び恋をしたのだ。しかも相手はまた自分たちとは正反対の、真面目で喧嘩などと一番遠いところにいるような女の子だ。当然叶うはずもない。そうして周りがいまだ驚いている間に二度目の失恋をし、三度目の恋をして、失恋をした。
「お前さぁ、なんでそんなすぐに告白すんだよ」
「なんでって……逆になんでそんなこと聞くんだ?」
「もうちょっと、こう時間かけてもいいんじゃねぇかっつーことだよ」
「なんのために」
「なんのためって、そりゃお互い、知り合う時間、つーかよお」
三度目の失恋に涙目になりながらも、花道は取り囲む三人の言葉に耳を傾けている。だが内容は少しも理解できないという顔だった。
「洋平からもなんか言ってやれよ!」
煙草を咥えながら四人の背を見下ろしていた洋平は、突然鉢が回ってきてパチクリと瞬きをした。そのまま花道を見やる。いつもは凛々しく釣り上がった眉毛が真横に流れ、目もわずかに潤んでいる。不意にチクリと左胸が痛んだ。
(……?)
いったいこれは、なんだろう。なんの痛みだ。問いに向き合う間もなく名を呼ばれる。
「よーへー」
そうなれば自身の思考など横へ置いて、浮かべる表情は決まっていた。
「花道のやりたいようにやればいい。きっとお前のそのままを好きになってくれる子がいるさ」
ぱあっと花が咲いたような笑みが広がっていく。
「本当か?」
「ああ。お前はいい男なんだから大丈夫だ、花道」
「そうか! 洋平がいうなら間違いない!!」
ふはははと胸を張る花道の周りから、呆れた視線が向けられているのがわかる。それら全てを無視したまま、洋平は肺いっぱいに吸った煙を空へと吐き出した。
放っておけば、いつかは消えるだろう。
深く考えることを止めて放置した胸の痛みは、予想に反して居座り続け洋平を混乱させていた。痛みの意味がわからない。物理的な痛みではない。もちろん身体的なものでもない。何より痛みと同時に沸き上がる感情に名前をつけることが怖い。
そうしていくら目を逸らしても、放置しつづけるわけにはいかないことも洋平にはわかっていた。
すぐに誰かを好きになる花道。
──上手くいくといいな
想いを伝える花道。
──男見せてこいよ
涙する花道。
──今度こそいい子が見つかるさ
言葉にするたび、胸の奥で何かがひび割れていく。
こんなのは普通じゃない。何かの間違いだ。
だって……これは、この感情は
ダチに向けるようなものじゃない──!
気づいてしまえば、不安は焦りに変わった。このままではいつか花道のそばにいられなくなるのではないか。恐ろしい未来に背筋が凍る。
もしこれが、この感情が、想像している通りのおぞましいものだとしたら、早急に消してしまわなければ。何とかして……いや、何としてでも!
考えて、考えて、考えた末に、洋平は夜の街へ足を向けた。訪れたのは昔捨てられていた雑誌で見た、同性愛者たちが集まる場所だ。まずは敵を知ること。そこから始めることにしたのだ。
ゆっくりと歩きながら、どの店に入るかを考える。あまり妙なところへ足を踏み入れて、余計な厄介事を抱え込むことは避けたい。そして入ろうとしていた店のドアに手をかけた時、背後から声がかかった。
「その店は止めといた方がいいと思うよ」
「え?」
振り向いた先にいたのは、ひょろりとした細身の若い男だった。伸ばしかけなのか、猫毛の毛先を無造作に跳ねさせて、片方の耳の横だけピンで留めている。背は高く花道と同じくらいだろうか。逆光でよく見えなかったが、髪もピンク味がかった赤に染めているようだった。
「どうしても入るっていうなら止めないけど」
「別にそういうわけじゃ」
「じゃあこっち」
「え?」
長い腕が伸びてきて、肩を抱いたかと思えば迷うことなく歩きはじめる。
「ちょっと!」
「素人には素人向けの店ってのがあるんだよ」
「なんだよそれ! つか素人って」
「バレバレだぜ。でも当たってるだろ?」
パチンとウィンクをされて、返そうとした罵声は喉の奥へと引っ込んでしまった。
男が入った店は一般的なバーとあまり変わりのないように見えた。カウンター席ではなく、壁際の小さなテーブルを選ぶ。添えるだけというような背の高い椅子に腰を預け、洋平は言われるがままに男を待った。
「お待たせ、はい」
「どうも」
グラスを合わせるでもなく見つめられて、居心地の悪さに酒を口に含む。
「はい、減点」
「へ?」
「知らない男に連れられて入った店で、店員から受け取ったわけでもない酒を飲んじゃダメ。薬でも入ってたらどーすんの」
「ハァ!?」
思わず喉に手をやると、「気をつけろって話だよ」と男はケラケラ笑う。ついていく相手を間違えたか。洋平は逃げる算段を考えはじめた。母が手伝っている夜の店にバイトへ駆り出されることもあって、そこそこの嗅覚は持っているつもりでいたのが甘かったかもしれない。
用心してしばらくは酒に口をつけずにいたが、身体に異常は感じられず、意識的にも問題はなさそうだ。睨みつけると相手は眉尻を下げて小さく両手を上げた。
「ごめんて。でも揶揄ったわけでもないんだぜ。ほんとに何もわかってないみたいだったから。心配なのと、あとはマジ勉強ってやつ。俺も最初はそうだったからさ」
「アンタも……?」
「そ。こういうとこにもさ、ちゃんとルールってやつがあんだよ。それ判らずに危ないことになっちまうことだってある。お前、まだ未成年だろ? 大学生……いや、高校生か……?」
洋平は黙り込むことで返事をした。さすがに中学生だとバレるのは不味い。上手い具合に肯定とみなしてくれたらしい男は、鼻からふぅと息を吐いて苦笑いを浮かべた。
「で、お前はなんでここに来たの? 男漁り? それとも真面目な出会い探し?」
「……アンタは? 恋人とか、いんの?」
「俺ぇ? 俺はこないだ失恋したばっかの一人もん。人肌恋しくてさ」
「好きだった?」
「なんだよ、急にグイグイくんね」
「相手のこと、好きだった?」
「……」
男は洋平の顔をジッと見つめてくる。洋平も逸らすことなく見つめ返した。
何でもいい。知りたかったのだ。男が男を好きになるということを。知った上で花道への気持ちを理解して、そして──消してしまいたい。
「好きだったよ……すごく」
先ほどまでの声とはまるで違うものだった。静かに囁くようで、聞いているだけで切なさが伝わってくる。やはり自分の嗅覚に正しかったのだと洋平は知った。
太ももの上に置いていた手を握りしめて、一番聞きたかった問いをストレートに口にする。
「あのさ、初めて……男好きになった時、どんな感じだったか聞いていい?」
すると男は少しだけ驚いたように目を見開いて、そして緩く微笑んだ。
その夜、洋平は男と過ごした。色んな話を聞いて、質問もした。時計の針が真上を過ぎて一回りした頃、店を出た洋平に男は静かに笑いながら言った。
「俺と寝てみる?」
洋平はほんの少しだけ迷って、そして頷く。もし花道への気持ちが男の持つ感情と同じものだとしても、そうじゃなくても、この夜を境に終わることができる。どうあっても花道に言うことのできないものへと変えることができる。それは想いを消すことと同じだと思ったからだ。
生まれて初めてホテルに行き、準備を済ませた男と向かい合う。
「俺がネコでよかったね。じゃなかったらお前きっと喰われてたぜ」
「ハッ、まさか、オレみたいな男を?」
「ばーか。男だから、だろ」
「あ……そうか」
ポカンとする洋平のうなじに掌が回って引き寄せられる。キスをされると思い唇に力を込めるが、男は肩口に顎を置いて洋平の身体を抱き寄せた。もう片方の手がデニムの膝をすべり、太ももへと上がっていく。いつのまにかうなじに触れていた手がシャツの裾から素肌を撫で上げた。花道とは違う柔らか掌が背中をたどり、脇腹へと滑っていく。前へと回った指先が胸へ触れたとき、ぞわりと産毛が総毛立った。すると耳の横で、クククと喉が震える音が聞こえる。
「な、なに」
「くく、はは! だってお前、たったこれだけですっごい鳥肌!」
「!!」
いつの間にかシャツのボタンはほとんど外されていて、指をさされたことであらわになった肌が羞恥に赤く染まった。
「赤くなんの今頃かよ。はー、もーマイナス百点!」
「な……っ」
「男が好きなわけじゃないよ、お前」
「え?」
「ここ」
そう言って人差し指の腹に、トンと胸の中心を押される。
「ここに入り込んだ男だから好きなんだ。先のことはわからないけど、少なくとも今は──」
「ほんと……に?」
「じゃなかったら、ここまで反応示さないわけないだろ。さっきの鳥肌といい、こんだけお膳立てしてアレはねーわ。じゃなかったら俺が傷つく」
そう言って男はまたケラケラと声をあげて笑いながらベッドに仰向けに転がった。
「あー、笑った笑った。なぁ、もうせっかくだから寝ていこうぜ」
促されるまま横になるが、頭のなかを整理することができなくて到底眠れそうにない。そんな洋平に気づいたのか、男は目を閉じたまま口を開いた。
「勝手に想像して話すけど……たぶん、すげーつらいよお前」
「……」
「相手もノンケなんだろ?」
「ノンケ?」
「女が好きってこと」
「ああ、うん……」
「好きなんて感情はさ、自分でどうこうできるもんじゃねぇよ。もし今日俺とどうにかなってたって、気持ちがなくなるわけじゃない。相手を忘れたいなんて理由ならなおさらだ」
「……じゃあ、どうすりゃいいの」
「わかんね」
「なんだよ、それ。ひでぇな」
どうにもやるせなくなって、相手を責める。横目に見れば男は天井を見上げていた。唇がゆっくりと動く。
「抱えてくしかないんだ……本当に終われる日まで」
目尻から静かに一雫の涙がこぼれ落ちて、洋平は男が恋を失ったばかりだったことを思い出した。
朝日が昇る頃、ホテルを出て男と別れた。
片手をあげて去っていく背中を見た後、早朝の柔らかな空を見上げる。最後まで互いの名前を聞くことはなかった。きっともう二度と会うこともないだろう。洋平がこの街に来るともきっとない。
最寄り駅で電車を降りて、海岸へ足を向ける。砂浜へ降りる階段の途中で、見慣れた背中を見つけて心臓がドクンと跳ねた。
なんで、こんな時間に、いつから──!
一瞬、まだ塞ぎ込んでいた頃の姿を思い出して血の気が引く。自然と駆け出していた。
「花道!」
呼び声に振り返った花道が、驚きながら立ち上がる。向けられたのは笑顔だ。
「洋平!」
ぶんぶんと手を振られ、呆気に取られながらもそばに寄る。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「洋平こそ、どこに行ってたんだ? なんで昨日来なかったんだよ」
「大楠達がいただろ?」
ちゃんと確認はしていたはずだ。まさかアイツら行かなかったのかと眉を吊り上げれば、違う違うと花道は首を横に振った。そして、そわりと視線を逸らす。
「大楠達は来たぞ。来たけど……洋平は、いなかった」
「あー……ごめん。どうしても外せない用事があって。その、オフクロの、手伝い」
「ぬ、そうか! な、なら仕方ないな! 確かにあんまり嗅いだことのない匂いがする」
そう言われて洋平は勢いよく後ろへ飛び退いた。フンフンと鼻を揺らしていた花道が不思議そうに眉を顰める。
「いやっ、あの酒臭いかなって」
「別に、そういう匂いじゃないような?」
首の後ろに嫌な汗が流れる。それはそうだろう。酒が残るほど飲んではいない。むしろホテルのシャンプーの匂いの方が強いはずだ。
「あー、それより花道は? オレがいなかったから海に来たわけじゃないだろ?」
「いや、それは、そうなんだが」
話を振れば、花道はまた言葉を濁し始める。これは何か複雑な理由があるのでは、と洋平は急かすことなく返答を待った。
「ふぬ……チガウ、ウソだ。洋平がいないから、出てきた」
「え?」
「その……洋平がいないと、上手く寝つけなくて……それで、オレ」
モジモジと言われた内容にハッとする。
そうか、他の奴らしかいないから、花道は眠れなかったのだ。
──うなされた時、いつもそっと起こしていた男がいなかったから
そう思い至って、洋平はまた自分を殴りたくなった。
「洋平、それもチガウ。洋平は悪くない」
「え?」
「洋平はすぐそうやって自分を悪モンにする。お前の悪いクセだぞ。そうじゃなくて、いや、そうなんだけど……でも、お前は絶対悪くなくて。いつも、ありがとな。それ、言いたくて、待ってた」
「花道」
「なんとなくここに来る気がしてたんだ。当たったの、すげえダロ」
ヘヘンと鼻の下を擦るしぐさに、眉尻を下げながらも笑ってやる。すると花道は照れくさそうに、視線を海へと向けた。湘南の海は早朝でもサーファー達が賑やかで、簡単に二人の世界にはなれない。今はそれが有り難く思えた。
「週末になると皆が来てくれんの、すげー嬉しい。毎日楽しみで、昨日もやっぱ楽しくて。そんで〝アー面白かった!〟って何も思わず寝ようとしたんだ。けどよぉ、電気消して目閉じたら、急に洋平がいないことが不安になった。いつもみたいに親父の夢見たらどうしようって」
「……やっぱオレが」
「だからチガァウ! 最後まで聞け!」
「〜〜ッッ」
脳天に容赦のないチョップが落ちて、頭を押さえながら涙目で見上げる。花道は腰に手を当てて、鼻息荒く口を開いた。
「アイツらのイビキとか、寝言聞きながら考えたんだ。夢見たらどうしようって、なんでいつもは思わなかったんだって。んで、洋平がいるからだって気づいた。いっつも洋平が隣にいて〝楽しかったな〟って笑うから、オレも〝アー、楽しかった!〟って寝れたんだ」
なぁ、すげえだろ? と、まるで大発見をした探検家のような顔をして花道は笑った。海から吹く潮風が、下ろしたままの赤い髪を撫でて踊らせていく。
「んでよ、それわかったら、どうしても顔見て礼が言いたくなった。でもきっとお前がこういうの喜ばんのもわかってるから、だから一回しか言わん。言わせてくれ」
「はなみち……っ」
「なぁ洋平……あの日、お前も言ってくれたよな。オレは悪くないって。あれ、すげぇ嬉しかった。本当にそう思うのは、やっぱ難しいけど……でも嬉しかったんだ。洋平、ありがとな。親父が死んでから、ずっと、ずっとそばにいてくれて、ほんとにありがとう」
「……ッ!!」
身体の内側がカッと燃えるように熱くなる。たまらず飛びつけば、大きな両腕にしっかりと抱き止められた。身体中の血液や水分やらがボコボコと沸騰しているような感覚だった。こみあげる感情も言葉にはならない。
何より、もう駄目だった。
花道が好きで、好きで、大好きで。
どうしようもないほどに強く、深く、恋焦がれている。
この男に恋をしている!
そうだ……もう抱えていくしかないのだ。
苦しくてもつらくても
想いが尽きておわる、その日まで──
洋平は逞しい肩に額を押しつけながら、静かに覚悟を決めた。