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    pass➡️すっげえLOVE bomberの誕生日 ほとんどラギぶり

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    あまねさんからいただきました!
    レオナくんの縁談をぶち壊すお話です ほぼレオナくん

    縁談クラッシャー! ツイステッドワンダーランド某所の、一見するとやや古めかしい一軒家。背が高い常緑樹が生え、芳香の強い雑草が茂り、碌に整備の手の入っていないその家の門扉を、とあるライオン獣人が押し開けた。褐色の肌に、三つ編みをひとすじ混ぜたチョコレートブラウンの長髪。鮮やかな若葉色の瞳に、左目の周辺に走る縦長の傷。肉食獣らしい丸みを帯びた耳と、揺れる尻尾を持つ彼の名は、レオナ・キングスカラー。齢二十二歳の彼は夕焼けの草原の第二王子でありながら、母校卒業後は実家の王室に戻るでもなく、デイ・トレーダーとして大金を動かしていた。某所に位置する古めかしい一軒家は勿論彼の本拠地というわけではなく、数多あるセーフハウスのひとつにすぎなかった。
     賢者の島に位置する魔法士養成学校に通っていた頃から、彼の隠れ場所は植物の生い茂るところが多い。鏡舎裏などで寝ていれば、自分を捜しに来たハイエナ獣人の後輩も、まるで気がつかずに通り過ぎていった。

     閑話休題。外観では古めかしい一軒家でも、レオナが扉を開ければ、見かけよりも明らかに広く、且つ新しい室内が彼を出迎えた。部屋の壁紙や床の見た目を変えられる優れものである魔法の投影機を少し弄って、拡張魔法を掛けたのである。元よりねじれた世界であるツイステッドワンダーランドでは外観と中が全く噛み合わない、迷路のような家など珍しくもない。彼は買ってきたものをリビングのテーブルへ適当に放り出す。袋の中から頭を出した新聞を取り出すと、耳の後ろをポリポリと引っ掻きながら、それに目を通した。〈黎明の国の──王国──王、オリンポス社製スマホを国内初利用〉という見出しが一面に踊っている。
     嘆きの島とも近く、賢者の島も擁する黎明の国自体はそれなりに発展した国家を築いていたが、その辺境に位置する某国は一種独特の地位を築いていた。婚姻によって勢力を広げるという前時代的なやり方に対する批判や他国からの意見を封じ込めるように、某国では一切の電子機器の使用を禁じていたのである。そんな中での、国王のスマートフォン入手。世間的に見ればそれなりのニュースではあるのだろう。つくづく平和で泣けてくるなァ、と思いつつ、レオナは壁際に移動する。
     簡素な長机の上にはいくつもの新聞や雑紙、ネットニュースの切り抜きが散乱し、壁際には上下二段で六画面が見られるマルチモニターを据え付けてある。その他にも、軽く、取り回しの効きやすい最新鋭のノートPCやタブレットなどが何台か揃えてあり、古ぼけたセーフハウスの中で、ここだけが奇妙に最新鋭の空気を放っていた。黒い回転椅子に深く腰掛けたレオナは、株の売買専用のモニターへ正対すると、数ヶ月前に注文していたオリンポス社の株を売却していく。ジュピター財閥の人間の引き起こした不祥事が明るみに出て、子会社であるオリンポス社の社会的価値も低迷していた頃に注文した株である。某国国王のスマートフォン使用によって話題となったオリンポス社の株は、チャート用のモニターを見るでもなく、右肩上がりに値段が釣り上がっていた。牙も爪も剥かないままに、レオナはエンターキーをクリックする。莫大な金が動き、彼は彼の望む国の実現にまた一歩近づくのだった。

     そのとき、不意に客の来訪を知らせるブザーが鳴り響く。無視しても構わないと思っていたが、不意に鼻を上に向けて空気を嗅いだレオナは、怠そうに眉を寄せる。植物の強い芳香に交じって、自分以外の獣人の匂いがした。草食動物だ。偶蹄目の。……嫌な予感がする。このまま眠ってしまおうかと思っていたが、ブザーの間隔は次第に短く、しつこくなっていった。ブザーだけでなく、ドアが何度も叩かれる。ノックというには些か激しい。まるでツノか何かを何度もぶつけているように。レオナは舌打ちをすると、回転椅子から重い腰を上げ、玄関に向かう。チェーンは掛けたまま鍵を開け、ほんの数センチほどドアを開けると、「レオナ様!」と獣人が驚いたように跳躍した。後方へ曲がりながら伸びる太い角と、キャラメル色の短髪。細く長い耳が両脇から伸び、目の下にもキャラメル色の線が走る彼は、スプリングボックの獣人であり──夕焼けの草原王室直属の郵便配達人でもあった。
     「レオナ様、随分お探ししました。早速ではございますが、ファレナ様よりお手紙をお預かりしております」
     「……あァ、そうだろうな。テメェみてえな草食動物が態々俺のねぐらまで来やがるなんて、兄貴の差し金以外考えられねえ」
     レオナは忌々しく後頭部に手を遣った。
     夕焼けの草原王室からの手紙自体はそう珍しいものではない。ナイトレイブンカレッジ在学時も、彼の兄であるファレナのみならず、ファレナの兄嫁、甥のチェカなどから、やれ写真を撮って送れだの、やれプレゼントは見てくれたかだの、取るに足らない内容の手紙が掃いて捨てるほど送られてきていた。しかし、王室直属の郵便配達人からの手紙というのはあまり穏やかな話ではない。世界で三番目に足の速いスプリングボックを伝令チャスキとして差し向けるのは、訃報や内乱、世継ぎの誕生レベルの書簡を届けるときのみなのである。
     「此方がファレナ様よりお預かりしているお手紙となります」とスプリングボックの獣人は肩掛け鞄から一通の封筒を取り出す。不毛の地である夕焼けの草原では貴重な植物を使って作った手漉きの紙の封筒に、木蝋を用いた印璽いんじが捺してある。どこを取っても王室御用達の品物が惜しげもなく使われた手紙だった。手渡された手紙には小石か何かが入っているような重みがあった。暫し、レオナはファレナの署名を眺めて黙する。ほんの数センチ開いたドア越しに、獣人が控えめに声を掛けた。
     「ファレナ様になにか託けがございましたら、わたくしが伺いますが」
     「……いや、いい。もう下がれ」
     「──畏まりました」
     レオナは深々と溜め息を吐くと、ドアを閉める。リビングまで歩いていくと、抽斗を漁り、そこから取り出したペーパーナイフで封を切った。中からは一枚の便箋と、原色の糸を使って織られた五センチほどの栞が出てくる。その栞をつまみ上げて、レオナは眉を顰めた。

    ◆◆◆
     不毛の大地。赤茶けたラテライトの。疎らに生えるバオバブ。果てしなく広がる地平線を、燃えるような赤さの夕陽が沈んでいく。松明の灯りが音を立てて爆ぜ、切り立った山脈によって山の向こうに形成された雨陰によって、八月の王国には干上がるような風が吹き荒ぶ。簡素な柱に、広い窓。夕焼けの草原王室の王宮の壁には、伝統品のタペストリーが掛かっている。
     スプリングボックの獣人から書簡を受け取ってから、レオナは──彼にしては迅速に──生家である夕焼けの草原へと赴いた。美しく伸びた姿勢で王宮を警備する近衛兵の女性獣人の間を通り過ぎ、王宮内の廊下を急ぐ。その度に、あちこちからひそひそと声が上がった。弱い奴ほどよく群れてよく吠えるのはどこでも変わらない。
     NRCに入学したのも、NRC卒業後に王室へ戻らなかったのも。全ての根本は、この王宮と、そこに住まう者にある。頭上の耳を塞ぐ代わりに、レオナはファレナから送られてきた書簡の中身を思い返していた。
     ──レオナ、最近は元気にしているか。なにか変わったことはないか。チェカがお前に会いたいと言っていたぞ。こちらでは乾季が始まり、西では紅土が膠着して作物の収穫量が──
     当たり障りのない書き出し。綴られる言葉に飾り気はなく、文法もそれほど正しくはない。家族に宛てるような、ごく親密な文面。普段ならそのあたりで手紙に目を通すのはやめているところだが、だとすればあれほどまでに緊急性の高い方法で手紙を届けさせた理由が判らない。冷たいセーフハウスの中で一人、レオナは便箋に最後まで目を通した。
     ──さて、この手紙を書いた用件だが。久々にお前の顔が見たい。夏季だから野菜の出来はあまり良くないが、簡単な食事も用意しておく。ゆっくりと話が出来ればこんなに嬉しいことはない。
     そして、ファレナの署名。それで手紙の内容は終わっていた。つまり具体的な用件は一切記されていなかったのである。随分と悠長で羨ましいことだ、とレオナは毫も羨ましいなどとは思っていない表情で考える。手紙の内容自体は、大したことはない。では、何故レオナがわざわざ王宮へ足を向けたのか。それはいつになく速く届けられた手紙のせいであり、そしてもう一つの理由もあった。

     土地だけは売るほどある夕焼けの草原の王宮は当然広い。長い長い廊下をひたすらに進み、突き当たった扉は開かれていた。レオナが室内に入ると、中で席についていた男が「レオナ!」と目を丸くして立ち上がる。ああ此奴は確かにチェカの父なのだと分かるような、自分よりも幾分か体格の大きいライオン獣人の名は、ファレナ。彼はほかでもないレオナの実兄であり、夕焼けの草原の第一王子であった。
     「あァ、これはこれは。ご大層な手紙をどうも、お優しいオニイサマ。速さだけは一丁前の草食動物を差し向けてまで俺に伝えたかったことが何かと思えば、近況報告しか並んでいなかったモンだから、暗号でも隠されているのかと思って、手紙を読むのに随分時間が掛かっちまった」
     「どうやらお前には回りくどく思えるやり口を取ってしまったようだな、すまない。……レオナ、お前とどうしても直接会って話がしたかったんだ。それ程に重要な話だから、手紙に書いて済ませるというわけにはいかなかった」
     「『どうしても』。……はあ、どうしても、か。なかなかどうしていい響きじゃねえか」
     レオナは喉だけで低く笑う。ダイニングルームの、はてしなく長いリフェクトリーテーブルの向かいで自分を見つめて立ち尽くしている兄の方へ、素早く近寄る。ファレナと相対したレオナは懐に手を突っ込み、何かを取り出す。ファレナの眼前に突きつける。彼の不穏な挙動に、ダイニングルームの端に控えていた護衛がぴくりと動くが、レオナは眼光だけでそれを制した。
     レオナが取り出したものは、なにかの武器や凶器というわけではなく──夕焼けの草原の工芸品である栞である。あの手紙に付けられていた。動物の蹄ひづめを模した三角形の模様が織り込まれたその布に目を遣って、レオナは唇を歪める。その瞬間、栞が砂と化してさらさらと崩れ落ちた。詠唱無しのユニーク魔法発動はそれなりの代償を伴うとされるが、幼少期から高度な魔法教育を施され、尚且つそれを吸収する器もあった彼にとって、数センチの布を砂に変える程度は造作もない。栞がすっかり砂となって絨毯の上に落ちると、その中からはほんの指先サイズの黒い板が現れる。紙片のように薄いそれは、超小型のGPSであった。贈り物を装って仕込まれた機械が、レオナを生家へ赴かせた最たる理由だった。脳内であのセーフハウスを売り払う算段をつけながら、彼は唇の片端を引き上げた。
     「テメェらはどうしても俺を此処へ帰らせたいと見える。足の速い獣人に俺のねぐらを虱潰しに調べさせ、挙句こんな玩具を混ぜやがるとは。お優しい第一王子サマはどうしてもと願えば何でも叶うらしい。まるでガキの頃の寝物語で涙が出るぜ」
     ファレナの返事を待たず、レオナはリフェクトリーテーブルの対極へ移動する。向かい合って食事、というにはあまりに離れ過ぎた距離で、それでもレオナは椅子へ腰掛けた。入り口付近に控えていたアプランティがグラスに水を注ぐのを待ってから、化粧皿の上に乗るデルタに折られたナプキンを解き、二つ折りにして膝上へ載せる。
     「──マ、どちらにせよ俺が夕焼けの草原の第一王子サマからの正式なお呼び出しを断れるはずもねえ。精々楽しい飯になることを期待してるぜ」
     離れていてもレオナの声はよく通った。そう張り上げているわけではないにも拘らず。前菜を運んできた給仕に鷹揚な笑みを向けながら、向かいの食卓についた兄は「そんなふうに水臭い言い方をすることはないだろう」と静かに諌める声を放つ。

    ◆◆◆
     乾季の夕焼けの草原における料理は簡素である。平民であれば鶏の肉が食べられれば良い方で、日頃はマメ科やイネ科の雑草の種子を発酵させたものを汁などにして食べる。祭事などの正餐というわけではない食事だ、二人の王子の前に供されたメインディッシュも然程豪勢なものではない。茹でたヤムイモを餅状に搗つき上げたものと、僅かな牛肉の入ったトマトのシチューを匙で掬い、音を立てないように口内へ流し込んでいると、シルバーを置き、ナプキンの内側で口許を拭ったファレナが、「レオナ」と己の名を呼んだ。
     スプーンから唇を離したレオナは、黙って顔を上げる。
     「最近はどうしていた」
     「最近? なにも変わりやしねえよ。此処の窓から眺めるバオバブの木が、ロゼットの浮かぶガキの頃からずっと同じなように。……身ひとつで自由にやらせてもらってるさ。生憎自由だけは有り余ってるんでね。朗らかさも、王位継承権も、王宮の奴等からの信頼も無い代わりにな」
     皮肉をこれでもかと盛り付けた豪勢な台詞。眼下のシチューとは真逆の。レオナは脳内でファレナが次に言う言葉を予想する。そんな言い方はよせ。お前のそれは勇敢ではなく向こう見ずだ。たとえ王になれなくとも、お前は賢い。ある意味では正しいのかもしれない。だが──そんな言葉が何になるというのだろう。レオナが実家に戻らなかったのは、文官としての安定した生活よりも、母校で過ごした日々のように、誰に縛られることもなく気ままに闊歩する方がずっと旨かったからだ。デイ・トレーダーは何処か流動的なチェス・プロブレムを解くのにも似ている。そうして集めた資金で、いずれは俺の国を、と。計画に穴は無い。それを実行するための能力も。
     てんでばらばらな方向へ同時に走る思考に反し、椅子に座るレオナ自身は悠然と構えている。幼少期から王室教師に叩き込まれた作法は今や服のように当たり前に身についている。シチューを入れていた皿に左手を添え、やや傾いた中身を掬う。そうしてすっかりシチューを飲み込む。
     長い長いリフェクトリーテーブルの向こうで、ファレナは微かに首肯する。レオナの言葉を諌めるでも咎めるでもなく、ただ静かに息を吐く。そして、「……そうか」とだけ短く答えた。

    ◆◆◆
     結局、それからこれといった会話もないまま、ファレナとレオナは食後の飲み物を傾けていた。夕焼けの草原の北西部に広がる山岳地帯で栽培されたコーヒーである。レオナは片手でカップのハンドルを持ち、そのまま口をつけた。やや弱い酸味と馥郁たる味わいが鼻に抜ける。
     結局、いつもと変わらない無駄足だった。だが、これで暫く帰郷を促す手紙が来ることは無いだろう。そんなことを思いながら、一度カップを置き、側に置かれていた小さなピッチャーを開ける。二つのピッチャーには山羊のミルクとバオバブの葉の粉末が入っている。葉の方を足そうとレオナがソーサーに添えられていたコーヒースプーンを手に取った瞬間、それまで沈黙を貫いていたファレナが、口を開く。
     「──時に、レオナ」
     昼過ぎの。夕方に差し掛かり、どこか弛緩した空気が流れていたダイニングルームに、ファレナの朗々とした声が響く。その瞬間、護衛の獣人がぴしりと背筋を伸ばした。病床に臥す父王の代わりに実質的な王の役目を果たしているだけある一声だった。レオナは顔を上げる。「あ? んだよ」と眉を顰めながら、向かいのテーブル端に座るファレナを睥睨した。
     「お前は先程、『自由だけは有り余っている』と言っていたな。丁度よかった。お前にいい話を持ってきたんだ」
     レオナはゆっくりとコーヒースプーンをソーサーへ戻した。「……あァ?」と低く唸る。自分が何故今呼び出されたのか、先程のファレナの世間話はなんだったのか。兄から答えを告げられる前に、レオナの頭脳は勝手に解を導き出そうとする。影のように控えていた側仕えがファレナに寄り、一通の手紙を差し出す。彼は礼をいいながらそれを受け取り、手紙の内容に目を落とした。
     「──簡潔に言おう。お前に、黎明の国内の──王国の王女との縁談を持ってきた。お前もそろそろ放浪の時を終えて、新たなプライドを作る頃だろう? 誰か良い相手が居るのなら、と思っていたが、お前の話を聞く限り、それも無いようだしな」
     ファレナは落ち着いた眼でそう語る。黎明の国内の──王国といえば、レオナがつい数日前に目にした新聞の見出しを飾っていた国である。あの国であれば、婚姻相手として不足は無い。向こうにしても、古来から婚姻で勢力を広げてきた国である。人間も幾らか居るとはいえ、実権を握るのは未だ獣人である夕焼けの草原王室に人間の娘を嫁がせるのには、それなりの旨味があるのだろう。いずれは獣人から実権を奪いたいなどと考えているのかもしれない。その結婚相手にレオナを選ぶのは些か判断を見誤ったと言わざるを得ないが、そういった個人の資質や性格をシミュレーションから排除し、国単位の俯瞰で見るならば、真っ当な話ではある。──だが。
     「……チッ」
     自然、舌打ちが滑り出る。
     国単位では正しい理屈だ。嫌われ者の第二王子であるキングスカラーとしては。だが、レオナ本人の意思は真逆である。いずれは俺の国を作ろうというときに、意にそぐわぬ婚姻など。まったく最高のジョークだ。彼は思わず自身の耳のあたりに手が伸びるのを感じた。
     どうやら食事中の世間話はこちらの腹を探るためのものだったらしい。自ら言質を与えてしまった以上、今のレオナに反駁できる余地はない。自分が年を重ねるのと同時に、無能な第一王子だと思っていた兄も着実に力をつけていたことを思って、──また、それを予測し切れず、兄を甘く見積もっていた自分の愚かしさを思って、レオナの牙の隙間からは低い唸り声が漏れた。剣呑な空気を放つレオナを然程気にすることもなく、ファレナは手紙に目を落としたままでいる。「相手の王女は──国内の第二王女だ。年齢は十九。趣味は読書で──」と相手方の情報を彼がひとつひとつ読み上げていくのを、レオナは頭を痛めながら聞いていた。

    ◆◆◆
     悪夢のような食事会から数日。レオナは薔薇の王国某所のサテライト・オフィスに赴いていた。サテライトと銘打つだけあり、本部である某IT企業の方は黎明の国に存在している。そして元々この場所は、薔薇の王国のお国柄を生かしたカフェテリアになる予定だった。だが、一千平方メートルをゆうに超えた敷地をカフェテリアのみに用いるのは勿体ないという話になり、会議室やキッチンを併設し、従業員のコワーキングスペースとしてだけでなく、社外の者でも利用可能な一種の情報交換場と化したのである。なんでも外観にも拘っているらしく、輝石の国の建築家がデザインした、帆船のマストをモチーフにしたオフィスには全面に透明度の高い低鉄ガラスが用いられており、ふんだんに陽光が降り注いでいた。
     決して小さくはないこの企業の株も、レオナは勿論所持している。故に、サテライト・オフィスの利用許諾を取る必要もなく、窓の側のテーブルのひとつを陣取った彼は、黙したまま、とある術式を脳内で組み立てていた。といっても、それ程むつかしいものではない。道具へ魔力を付与することによって自律オートで道具が動くようになる術式に、少し応用を利かせたものだ。魔力付与の対象はクラシックな本針コンパス。北を示すべき針が、いついかなるときでも、必ず西を向くように狂わせる。下手をすれば、魔法士養成学校における実技試験で扱われる掃除道具に掛ける術式よりも簡単なもので済むだろう。術式に不足は無い。後は問題なく計画をやり遂げられる駒を使うだけだ。短く息を吐いたレオナが机の表面に目を落とすと、不意に白いテーブルに影が差す。
     「ういッス。……ここ、綺麗すぎてちょっと落ち着かないッスねえ」
     特徴的な声。青年の。顔を上げずとも誰だか判る。レオナがサバナクローを仕切っていたとき、彼の下で実質ナンバーツーの座についていた後輩だ。レオナは「座れ」とだけ短く告げる。相手が椅子に着いてから、顔を上げる。前を向いた大きな耳にビスケットブラウンの癖毛、青灰色せいかいしょくの垂れ目。半袖のワイシャツを纏い、スラックスを履き、ネクタイを締めたハイエナ獣人──ラギー・ブッチが、明るく、開放感のあるオフィスに目を細め、居心地悪そうに結んでいたネクタイの結び目を指先で緩めていた。「よくそんな堅苦しいもんつけてられるな」とレオナが鼻で笑えば、「向こうの規定にあるんでしょうがないんスよ……」とラギーから苦々しい返答が帰ってくる。齢よわい十九じゅうく、NRCの四年生徒である彼は現在学外でインターンと実習活動に励んでおり、その拠点がここ、薔薇の王国だったのである。
     「ここに来たってことは……解ってんだろうな」

     「シシシッ。勿論ッス。レオナさんは報酬がいいッスからね、うまくやりますよ。骨のかけらひとつ残さず」
     口許を隠すようにして笑ったラギーに、レオナは頬杖をつく。首を微かに傾げて、傷の走った左眼を悠然と細める。真昼の薔薇の王国だ。オフィス内では昼食を載せた社員たちが行き交う足音や談笑が響いているが、レオナとラギーの周囲にだけひりついて渇いた空気が漂っていた。
    
 「そいつァ随分頼もしいことだ。成功報酬とさせてもらおうか。精々しっかりやれ」
     ──あのレオナが大人しく縁談を受けるはずもなかった。悠然とした笑みで野心を腹の奥底へ仕舞い込んだ彼は、兄の言葉を聞き入れるふりをしておきながら、その実まったく牙を失ってはいない。某国王女との縁談を破談にするための策は着々と進んでいる。チェスボードの上で、敵のキングを追い詰めるように。いや、今回に限って言えば、クイーン未満の駒を指先で摘んで、優しく倒してやるだけで済むのだからもっと単純だ。
     勿論、彼自身では縁談を断ることはできない。相手は仮にも王族だ。雄側のレオナが断りでもすれば、「王子に縁談を断られた娘」と烙印が押され、王家の面子は丸潰れだろう。だが──キングスカラーの王家にも、相手方の王家にも関係のない「不慮の事故」で縁談が失敗すれば? それはどちらの責任にもならず、縁談は立ち消えになるのではないか。
     力と牙以外にも、戦う術はある。レオナはいつだってそうして生きてきた。王宮の召使いに陰口を囁かれているときも、チェスで目上の大人の鼻を明かしたときも、NRCへ入学したときも、たった一枚のディスクと七つの駒だけで、烈風と歓声の最中に勝利を追い求めていたときも。レオナの周りには、いつしか彼よりもずっと大柄なサバナクロー寮生が集まっていた。司令塔レオナの指示には必ず従った。彼の誕生日にはルールも知らないチェスを挑もうとしてきたり、肉のケーキを作ると騒いだり。──だからレオナは信じている。単なる腕っ節や肩書きよりももっと強いものがあると。

     「話は単純だ」と微かに頬を引き上げたレオナは切り出す。ラギーは「レオナさんの『単純』はなあ……」と耳を折り、肩を竦める。
     「あァ? 異論があるなら尻尾を巻いて降りたっていいんだぜ」
     「いやいや、誰も嫌なんて言ってねえッスよ! やり甲斐があっていい、って話なんで」
     「ハッ、そうかよ。気概だけにならないよう、精々上手くやるんだな。──まず、テメェは黎明の国の──港へ行け。彼処は碌な魚が釣れやしねえから、逆に余計な漁船やらを全部取っ払って、要人の出港場ポートの為に警備が敷かれてる。向こうの奴等が出るなら此処しか──」

     時にマジカルペンを振るって机上に地図や現場の様子を映し出し、レオナはラギーに計画のあらましを伝えていく。耳を震わせ、尻尾を揺らし、高い集中力で会話をする二人は知らない。透明度の高いガラス張りのオフィス越しに、エステティシャンの仕事から退勤したばかりの茶髪の女が、レオナとラギーのことを、目を見開いて凝視していたことを。

    ◆◆◆
     レオナとの打ち合わせを終え、帰路を辿るラギーは冷蔵庫の残りから今日の夕飯を逆算する。昼はまだまだ日差しが強い季節ではあるが、日が落ちると涼しい風が肌を撫で、秋がすぐそこまで忍び寄っていることに気付かされた。時間の流れがどんどん早まっているような心地になりながら三階建てアパートの二階左奥の入り口へ鍵を差し込む。扉を開けた先には電気の点いていない真っ暗な部屋があった。夜の底のように、しんと静まり返っている。ビジネスシューズを脱ぎながら、ラギーは首を傾げた。
    
 「うぃ〜ッス。……あれ、ユイさんまだ帰ってきてないんだ」

     「……残ってる」
     廊下の向かって左にある洗面所から、茶髪の女──ユイ・アンブリッジがひょっこりと顔を覗かせる。
     「えっユイさん!? 居たんスか!」
     耳をひくつかせたラギーは驚愕の声を漏らす。年下のハイエナ獣人であるラギーと年上の人間であるユイの間には何か血の繋がりがあるというわけでもなく、二人が何故同居しているのかを一言で語ることは難しい。ただ一つ言えることがあるとすれば──自分のことが好きで好きで仕方がないというような姿態をひねもす晒すこの女は、世界一ムカつくクソアマだということくらいか。そのユイが、腕組みをしてラギーを見上げる。

     「レオナくんと喋ってきた気配が残ってる! うぃ〜ッスとか普段あんま言わないじゃん! 声もなんか低かったし!」
    
 「はァ!? とんだ言いがかりッスよ!」
     ラギーは頭に手を遣って耳を塞ぎ、どさくさに紛れてラギーの腕に絡み付いてきそうなユイからサッと離れる。廊下を進みながら部屋の電気を順番に点けていくと、「あたし、見たんだもん」と後ろからぽつりとユイが呟いてくる。
     「見た? 何を」
     「駅の南側にある高層ビルの一階のカフェでレオナくんとなんか話してたじゃん! 額突き合わせてさあ……あんなん悪わる巧だくみ以外考えられなくない!?」
     「いや〜知らないッスね。他人の空似じゃないッスか?」
     「えっ、絶対見間違いとかじゃないって。レオナくんはともかく、あたしがラギ〜くんを見間違えるはずないじゃん、金髪に青目なんて王子様みたいでかっこいいし、耳がイカみたいに垂れるところもかわいいしぃ……」
     「それ、全然褒め言葉になってねえッスよ。あと今日の夕飯作るんで。一回離れてくれます?」
     「え、今日の夕ご飯何〜?」
     「それは……出来てからのお楽しみってことで」
     きゃ〜っ♡ と胸の前で両手を合わせたユイは、楽しみ! と笑顔を浮かべる。リビングに入り、早速冷蔵庫の扉を開けようとしたラギーだったが、「ところでレオナくんのことだけど」とユイが後ろから声を投げてくる。こめかみがひくつくのを感じた。流石に現場を見られていて話を逸らすというのには無理があったらしい。後頭部に指を突っ込んでガリガリやったラギーは、溜め息を吐きながらユイの方へ振り返る。
     「……まあ、会ってたんスよ。ユイさんの言う通り、レオナさんと。でも、全然面白い話はしてないッス。あの人、いま株かなんかの取引で稼いでるらしいんスよ。だからオフィス街でたまたま行き合って、ちょっと近況とかを話してただけッス。ホント、それだけ。……これで満足でしょ?」
     軽く肩を竦めてみせたが、ユイの表情は相変わらず釈然としない。ピアスを外した耳朶を指先でくにくにと弄りながら、曖昧に首を傾げてみせる。
     「えぇ……ほんと? せっかちなラギ〜くんがわざわざ近況報告だけのためにカフェなんか入る? コーヒー一杯で五百マドルも取られる場所なのに?」

     「だーかーらー、アンタもしつこいッスね! ただ近況について話してただけって言ってるでしょうが! あの人、オレの在学時の寮長だったんスよ! たまに会ったら世間話くらいするから!」

     「世間話であんなシリアスな顔する!? あと相変わらずレオナくん、あたしと服の系統が被っててムカつくんですけどー! どうせ会うなら被せるのやめろって言っといてくんない!?」

     「そんなんたまたまに決まってるじゃないッスか!」

     ユイの勢いに圧されてヒートアップしていたラギーだったが、不意に我に返る。埒のあかない話をしている場合ではない。この人と話をしているといつもこうだ。兎角調子が狂う。ラギーは方針を切り替えた。上手い嘘を吐くには事実にほんの少しの脚色を加えるといいと言ったのは誰だったか。

     「……縁談ッスよ。レオナさんに、縁談の話が来たらしいッス」
     軽い溜め息を吐いて。眉を下げながら切り出す。

     「え!? あのレオナくんに!? ウケるんですけど」
     何故だか知らないが、彼女はやたらとレオナのことを目の敵にしている。ラギーがレオナの話を俎上に載せる度に分かりやすく面白くない顔をした。レオナが夕焼けの草原の王子だと知ったのもつい最近の話で、それまでは無造作にブランド物を身につけているだけのいけ好かない男だと思っていたらしい。そんなユイにとってみれば、レオナの縁談など面白いところしかないのだろう。

     「笑い事じゃないんスよ、これが……。ユイさん、──王国ってわかります?」

     「あー、黎明の国の南らへんの。なんか、あそこって色々と特殊だよねえ。ニュースとかで結構見るよ、ほら、この前も王様が初めてスマホ使ったってもちきりだったし。結婚の度に水仙の紋章ちょっとずつ変えてない? いまって花弁何枚だっけ、五枚? 六枚?」

     「そ。確か……いまは八重だったと思うんスけど。それは兎も角、そこのお姫様と、レオナさんが縁談するらしいんスよ。でもレオナさん、暫く実家から逃げ回ってたから、縁談のときに必要な正装が無いらしくて」
    
 「正装? 縁談に正装とかあるんだ」
    
 「うーん、オレもよくわかんないんスけどね。兎に角その正装がすっごく珍しい素材ばっかで作られてるから、オレにその素材を集めて来いって。キツそうだけど、成功したら報酬は弾むって! いや〜、腕が鳴るッスねえ」
     夕焼けの草原の王族の衣装はみな一級品だ。──と、レオナから聞いたことがある。絨毯やタペストリーを一枚一枚仕立てるのと同じ製法で布を織り上げるらしい。その模様パターンのひとつひとつにも意味がある。魚の骨や、獲物の足跡。遥か昔に、国外から侵攻してきた軍と戦った獣人への敬意を示した印。金属の腕輪に、色とりどりの玉ぎょくをあしらったブレスレット。どれも手間のかかった伝統工芸品であり、正装に大変な価値があることは紛れもない事実だ。……それが一介のハイエナ獣人に過ぎないラギーに作れるかどうかは別として。

     「だからあんな真剣な顔して話してたってこと? レオナくんの正装が無いとかバレたら恥ずかしいから?」

     「ユイさん、あたり。そういうことッス!」
     ラギーは大きく頷く。ユイは「んー、まあ、なるほどねえ……」と取り敢えずは納得した様子を見せ、その場から去っていった。改めて夕飯の支度をすべく、ユイに背を向け、冷蔵庫の扉を開けたラギーは軽く息を吐く。この計画がご破産になってはたまったものじゃない。正装の調達など当然真っ赤な嘘で、ラギーがレオナから聞かされたのは、縁談そのものをなかったことにする計画だ。自分よりもずっと弱っちい彼女に何かが出来るとは考えづらかったが、それでも不安要素はできるだけ取り除いておくに限るだろう。
     冷蔵庫から青菜のパックを取り出して思索に耽るラギーは知らない。彼の背中を、去り際に立ち止まったユイが、まだ腑に落ちていない顔を浮かべて、ずっと見つめていたことを。

    ◆◆◆
     馬車の揺れが不快だった。しかしその不快はおくびにも出さず、黎明の国の辺境に位置する某国の第二王女は黙って窓の外に静かな目線を向けていた。波打った黒髪に、彫りの深い顔立ち。猫のように吊り上がったアーモンド型の瞳。物思いに耽る横顔を薄いヴェールが覆い隠している。振動の度に、金糸でふんだんに刺繍の施された美しい衣装に付けられた石が冴えた音を立てて鳴った。正装の上下を切り替える位置には王家の紋章が輝いている。八重やえ咲きの水仙。元々は一重の花だったが、度重なる他国との婚姻によって王家の紋章はマーシャリングを重ね、やがて天然色プロパーで塗られた八重の水仙の紋章が定着したのである。
     そうして、彼女も此度、海の向こうの大陸に住む獣人の王子と縁談をすることと相成った。いまは港まで馬車で運ばれている最中さなかだった。
     やや曇った空。しだいに潮の香りの交ざり始める車窓。今朝彼女の髪を梳いていた乳母が縁談の支度をしながら、王女様が無事に嫁がれたらこの空も喜んで晴れるかもしれませんね、と呟いていたのを不意に思い出す。──莫迦らしい。それでは今日が晴れだったら空ははじめから喜んでいて、わたしは運命かどうかも判らない殿方の元へ嫁いでいかなくてもよかったの? そんなことを考えてしまう時点で、自分も充分夢見がちなのかもしれないが。
     男二人、女三人のきょうだいが居る中で第二王女として育った彼女は、自分が他国へ嫁ぐための器として育てられたことを自覚していた。この王国が古来より他国との婚姻によって勢力を広げてきた国であることも。参謀や大臣はそれを知られるまいと「なにか」を封じていたようだが、人の口に戸は立てられない。立派な人間になるため、と称して施される教育に政治や学問に関するものは殆どなく、立派な人間どころか、彼女を従順でおとなしい妻の箱に押し込めたがっていることは火を見るよりも明らかだった。コルセットで肋骨が折れる程に体を締め上げ、サロンで思ってもいない賛辞を口にし、楽器を手慰み程度に──然しうっかり男よりも秀でない程度に──爪弾くような乾き切った日々の中で、彼女の無聊を唯一慰めたのは読書だった。静かに本を捲る王女というのは大臣たちにとっても体裁が良かったのか、彼女が望めば望んだ分だけの本が届けられた。
     情報の統制されたこの国では勿論焚書も行われている。都合の悪い現実は見せたくないが、婚姻に対する願望は強めたい。そんな思惑によって彼女の側に置かれるのは、いつだって恋を主題にしたおとぎ話だった。お姫様が運命の王子様と出会って、一目で恋に落ちる。苦難を乗り越えた後に結婚して、二人は永遠に幸せに暮らす。毎回物語の流れが同じだったとしても、ページを捲っているときだけは現実を忘れられた。
     自身の血と性に付随する役割だけを求められている現実と、夢のように甘いおとぎ話。二つの世界へ交互に身をやつした彼女は、いつしか合理的な理性と夢見がちな本能という自己撞着を抱える王女に育った。だから、この縁談が上手くいけば夕焼けの草原という遥か遠くの土地の獣人に嫁ぐかもしれない、という現実を前にしても、心のどこかでは、或いは、と思っている。いつか憧れの王子様が現れて、幸せに暮らすことができるのではないかと。
     「──王女様、港に到着いたしました」
     馬車がひときわ大きく揺れて、止まる。彼女は不意に現実に引き戻された。御者の誘導に従い、衣の裾を摘んで馬車から降りる。そうしながら、まだ詮無き願をかけている。いまから乗り込む船が辿り着いた先には、歌声も知らない獣人との縁談などより、運命の王子様との劇的な邂逅が待ってはいないものか、と。

    ◆◆◆
     馬車が黎明の国某所の港へ到着する。付近の工業地帯及びその産業廃棄物によって、このあたりの海に住まう生物は居らず、そのため漁業権もこの港に限って無くなっている。長距離の移動は鏡を用いたテレポートが主流となっているツイステッドワンダーランドに於いて、今や長距離の航海というのは珍しいものになっているため、ほぼ某国専用の港と化している埠頭には、簡素な帆船が横付けされている。物憂げな面持ちで馬車から降りた王女は、護衛を従えて帆船へと乗り込む。その背中を敬礼で見送ってから、埠頭に並んだ某国水兵は「総員、集合!」という船長の号令に従って円になる。軍服の胸にはやはり八重の水仙が縫い取られている。羊皮紙に描かれた地図とクラシックな本針コンパスを携えた船長は、此度の航路に関しての最終確認を進めていく。
     「ここ、黎明の王国から夕焼けの草原までは、東に真っ直ぐ直進するだけだ。途中に目立った島もない。これが例えば珊瑚の海を通る場合なら人魚との兼ね合いに注意を払って航行する必要があるが、今回の航路にその心配は無い。──いずれは王女様の婚姻に繋がる旅だ。相手方の獣人は時間に然程厳密ではないというが、それでも余裕を持って辿り着けるよう、総員努力しよう」
     船長の言葉に、船員たちから「はいッ!」と声が上がる。そのまま船員たちがタラップを駆け上って帆船へ乗り込もうとした瞬間、「ちょ、ちょっと待って欲しいッス!」と切羽詰まった青年の声が響いた。水兵たちは足を止める。一様に怪訝な表情を浮かべ、声の主を見つめる。フードを目深に被り、特にこれといった印象の無い猫背気味の男が、水兵たちに向かって手を合わせながら頭を下げていた。顔がよく見えず、だぼついた──暗器のひとつやふたつなら容易に隠せそうな──服を着た男に、水兵たちは咄嗟に身構える。その場にひりついた空気が漂ったが、その瞬間男が「突然悪かったッス!」と頭を下げ、後頭部に手を遣ってみせる。
     「いやー、こんな怪しいカッコじゃ絶対疑われるッスよね!? お兄さんたち、海の話なんかしてたし、イイトコの兵隊さんっぽかったんで、引き留めたらまずいかなーとも思ったんスけど、ここらに詳しそうな人、お兄さんたちしか居なかったんで……」
     オレ、ここには初めて出稼ぎに来たんスけど、生憎土地勘が無くて。──そう、オレスラムで育ったんスよ、だから道を訊こうにも誰にも立ち止まってもらえなくて、と男は力無く肩を落とす。水兵たちは顔を見合わせた。そう言われてみれば、怪しげなフード付きの服も、貧しい者の着る襤褸に見える。船長が一歩前に出る。コンパスと地図を取り出すと、重々しく口を開く。
     「……何処に行きたい。我々に分かる範囲であれば教えるが」
     「えっ、本当ッスか!? 困ってたんで助かるッス! いやー、お兄さんたちみたいな親切な人に会えるなんてツイてるなァ」
     男は軽い足取りで船長のもとへ駆け寄る。このあたりは市街地だ、このあたりは裏路地だから治安が悪い、と説明していく彼の話に愛想良く耳を傾けながら、服の下に隠してあった細工済みの小道具を静かに掴む。

    ◆◆◆
     「いやー、ほんと助かったッス! シシシッ……」
     男は程良いところで話を切り上げ、何度も頭を下げて水兵たちから離れる。……駆け出ししんじんは目的を達成し果せたら必死にその場から走って逃げようとするから怪しまれるのだ。あくまで平然と。なんなら、もう一度彼等の元に戻っても構わないくらいの余裕で。船内に乗り込んだ水兵たちに、駄目押しのようにもう一度手を振ってみせる。それに応えるように、大きな汽笛を上げて船が出航する。笑顔を浮かべて、しだいに遠くなりつつある船を見送る。胸中できっかり百秒数えてから、男は素早く路地裏へ飛び込んだ。風圧でフードがずり落ちる。そこから現れたのはハイエナの耳だ。男──否、ラギーは逸る指先で服の中へくすねていたものを取り出す。た・だ・し・く・北・を・向・く・コンパスに、海図。どちらも寸分違わず本物だ。つまり、偽物とのすり替えは成功したことになる。
     「……ッんとにあの人は人使いが荒いんスから……」
     懐からトランシーバーを取り出す。一般的な無線機の通信距離はせいぜい二百メートルが関の山だが、この業務用トランシーバーは魔導工学による通信距離の拡大によって、海を超えた通信が可能なのである。結婚式場でアルバイトをしていたときにインカムの扱いに慣れていたのがこんなところで役立つとは思わなかった。予めレオナに教えられていたチャンネルに合わせ、ノイズがしだいに収束してきた頃に、通話ボタンをカチリと押し込む。
     「……レオナさん。言われた通りにやりましたよ」
     低くひそめた声を流し込めば、愉快そうな含み笑いが返ってくる。遥か遠くの夕焼けの草原の王宮で、彼は平生のように悠然と構えているのだろう。
    
 「ご苦労。もっとかかるかと思っていたが……やればできるじゃねえか」

     「シシシッ。妖精の女王様の頭上のティアラ盗るのに比べたら、あんなん楽勝ッスよ」

     「あァ、ンなこともあったか。……あとは鏡使ってこっち来とけ」

     「りょーかいッス」
     ラギーはコンパスと海図を元通りに隠すと、公共の魔法の鏡に向かって駆け出した。そう、彼は水兵たちに道を訊ねる一瞬で、レオナが予め仕込みを入れておいたコンパスと海図にすり替えていたのである。情報統制を行っている某国では、航海の際にも当然レーダーやGPSを用いることはない。今日日きょうびコンパスと海図だけで出航する王家など非常に少ない。その頼りの道具さえ狂ったものに入れ替えてしまえば、彼らが正しく夕焼けの草原に辿り着けることはなくなる。勝てない勝負はしない主義のラギーがレオナの下で動くのは、レオナの策にはいつだって乗るだけの価値があるからだ。……それに、払いが格別に良いし。レオナからたっぷり弾まれるであろう報酬のことを思って、ラギーは思わず舌舐めずりをした。

    ◆◆◆
     長い長い航海の果てに某国の一行が降り立ったのは、芳しい花の香りが漂う瀟洒な港湾都市だった。白い船舶が埠頭に何台もつけられており、海の付近だからか、ベンチや花壇が設置され、家族連れや観光客がなごやかに談笑しながら辺りを行き交っている。真夏だというのに、花壇にはスリップスも少ない真紅のオールドローズが陽光を浴びてきらめいている。
     「……、夕焼けの草原は、獣人が多く住むと聞いていましたが。ここを行き交う者の殆どは、俺たちと同じ人間に、……見えます」
     水兵のひとりが、小さく呟く。その呟きを皮切りに、湖に小石をひとつ投げ込んだかのように不安が伝播していき、某国の人間は本来の目的も忘れてざわざわと騒ぎ出す。「おかしい。航路に誤りは無かったはず」「だが夕焼けの草原は現在乾季を迎えていると聞く。それに、国土もそれほど整備されていないとか。ここは──なにもかもが、真逆だ」「ではここは、いったい何処なんだ?」と侃侃諤諤の議論を繰り広げていた一行だったが、あるときはっと我に返った。慌てて周囲を見回す。音を立てて血の気が引いていく。誰かが、掠れた声で呟く。
     「王女様は、一体どちらにいらっしゃるのだ」
     ──そう。船には確かに乗り込んでいたはずの王女が、その場から忽然と消えていたのである。

    ◆◆◆
     王女は──否、十九の夢見る少女は、人生で初めて目にする外の景色に胸を高鳴らせていた。
     「きっとわたしの願いが通じたんだわ!」
     見上げた空はかぎりなく高く青く晴れている。やっぱり結婚なんてしなくたって空は晴れるじゃない、と彼女は目を細める。従者たちの会話によって、どうやら此処が目的地たる夕焼けの草原ではないことは早々に知っていた。彼等が状況把握に気を取られている間に、王女はそっとその場を抜け出したのである。誰か知らない獣人のもとへ嫁ぐよりも、多少無理矢理だって構わないから、運命の王子様をここで見つけてしまいたかった。勿論、この自由が仮初のものであることはわかっている。本当に縁談が無くなるはずもない、と冷静な自分がどこかで囁いている。数十分経てば、自分は従者たちに見つかり、呆気なく連れ戻される運命にあるのだろう。それでも、いや、だからこそ。つかの間の自由を、王女はひとりの少女として謳歌してみたかったのだ。
     そこらに薔薇の甘い香りが漂う異国をひとりで歩いていると、不意に別の匂いが漂ってきた。これは王宮でも嗅いだことがある。紅茶の匂い、だ。興味をひかれた彼女は匂いのする方へ歩を進めた。煉瓦で出来た──それこそおとぎ話の挿絵で見たような小さな邸宅に、一本の木が植わっている。その木陰に、綺麗にテーブルクロスをかけたテーブルがひとつ置いてあり、値札が付けっぱなしの帽子を被ったロマンスグレーの紳士と、オレンジのジャケットと蝶ネクタイを着けた金髪の紳士が、お茶会に興じていた。二人の紳士の間ではヤマネが丸くなって眠っており、彼等はそれを肘掛けにして談笑している。あのヤマネは居心地悪くないのかしら、と王女は考える。テーブルにはそれなりの広さがあるというのに、二人と一匹はテーブルの端にぎゅう詰めになっており、王女の不思議そうな視線に気づくと、「満員、満員!」と叫んだ。
     「あ……あなた方、いったい何を仰っているの!? どこが満員なの。席ならそこに充分空きがあるじゃない。それに、なんて失礼な口のきき方をするのかしら」
     運命の王子様どころか、とんだ期待外れだわ、と唇を噛み締めながらも、王女はお茶会の席に着く。王女たる彼女は罵倒や煽りといったものとは無縁に育ったが、それでもこの空気には覚えがある。サロンでほかの姫君と話しているとき。美しい言葉と優しい微笑みの底に沈むそこはかとない揶揄を感じ取ったときと同じ、肌がひりつくようなあの感覚があった。となれば、やられっぱなしで黙っているわけにはいかない。大きな肘掛け椅子に悠然と腰掛けた彼女は、さて次はどんなおかしなことを言われるのかしら、と視線も鋭く二人の紳士を見遣る。
     「何はともあれ、ぼくたちはお茶会の最中でね。……あんた、お姫様かな? 上等のワインなんていかが。綺麗なルビイ色のやつ」
     オレンジのジャケットに腕を通した紳士のほうが首を傾げる。陽射しに金髪が照らされてきらきらと煌めいた。一切合切の光を吸い込んでしまうようなみどりの黒髪を持って生まれた王女からしてみれば、その金髪は素直に眩しく映った。それに、童話の王子様はいつだって金髪だと相場が決まっている。どうしたって高鳴る胸の鼓動を抑えるように、殊更にツンとした顔つきで、王女は訊ねた。
     「あら。あなた、どうしてわたしが姫君だとご存知なの?」
     「そりゃあ、ここらでは見たことのない格好をしているからね。その紋章も珍しい。だけど何より、あんた、綺麗な眼をしてるから」
     紳士はなんてことのないようにそう呟くと、机の上に置かれたティーポットに手を伸ばす。蓋を取ると、その中にはネズミが丸くなって眠っている。普段の彼女であれば、どうして飲み物を入れる器の中にそんな不潔な動物を入れているの!? と驚目を瞠っているところだったが、いまの彼女はそれどころではない。「あんた、綺麗な眼をしてるから」という台詞が王女の脳内を何度も駆け巡る。元々夢見がちな少女が、色々な思い込みをするには充分すぎる一言だった。声に隠し切れない動揺を滲ませながら、王女はまったく別の話題を口に出す。
     「……ワ、ワインなんて、見当たらないように見えるけれど……」
     「ハハハ、当然さ! だってワインなんて最初から無いんだからね」
     金髪の紳士は大袈裟に肩を竦めてみせた。値札が付けっぱなしの帽子を被った紳士は、王女にはまるで興味がなさそうにして、赤と白の薔薇を交互に飾りつけている。
     「まあ! それじゃあ……それじゃあ、一体どういうことなの!? 無いものを薦めるだなんて……あなた、失礼じゃない!」
     「失礼? そうかな、お茶会に招待されてもいないのに勝手に座るあんたこそ失礼なんじゃない」
     そ、それは、と王女は覿面に言葉に詰まってしまう。金髪の男はまたカラカラと無造作に笑った。──歯に衣着せぬ物言い。なんて失礼なの、と憤慨しながらも、同時に、こんなに飾り気のない、まっさらな言葉をわたしにぶつけてくる人は今までに居たかしら──と心のどこかで何かを期待している自分がいる。この男が、もしかすると。あと少し話したらわかりそうな気がする。あと少し、時間があれば。いつかいつかと願っていたものを。王女が唇を開きかけた瞬間、彼女の肩に手が置かれる。息を呑んで身体を硬くして、けれどもうその瞬間にはすべてを悟っていた。
     振り返る。
     「──王女様。随分とお探ししました」
     能面のような無表情を浮かべて、彼女の侍従が、彼女を見下ろしていた。声高に彼女の非を責めるようなところが無いことで、余計に反抗の意志は削がれていく。不意に、身につけているドレスが重くなったような心地になった。王女もすっと表情を消し、淡々と受け答えた。いついかなるときでも表情を取り繕えるだけの教育は施されてきている。
     「ええ、ごめんなさい。見慣れない場所に来たものだから──少し、はしゃいでしまって」
     金髪の男が、「あ、ちょっと。まだ話が」と手を伸ばす。こんなわたしを、引き留めてくれるのか。余計に後ろ髪を引かれる心地になりながら、王女はつとめてゆっくりと席を立つ。夢を見てはしゃいでいた少女の面影は既に無く、しずしずと歩を進める彼女は、一国の運命を背負う王族の女としての覚悟に満ちている。
     「なぞなぞに迷ったら、意味通りの言葉を言えよ!」
     去りゆく王女の背に向けて、もう二度と会うことは無いであろう男が叫んだ。──最後まで、変なことを仰る殿方。思わず唇が綻びそうになって、顔を俯ける。黒髪と、紗。二重のヴェールが彼女の横顔を覆い隠すから、彼女の耳が微かに染まっていたことは、誰も知らないままだった。

    ◆◆◆
     「え? お嬢さん? あたし?」とユイは目を丸くして自分の顔を指差す。ピアスが耳許でゆれた。「そう、貴女です」と見慣れないデザインのセーラー服(といってもネットで見かけるような安っぽいコスプレではなく、本物の海軍の服のように見えた)を身に纏った男性たちが彼女を見下ろしている。そして胸には水仙の紋章。何故こんなことになったのかといえば、話は数十分前に遡る。
     久々の休日。夏よりも冬のほうが好きではあるが、なんとか外へ赴いたユイは、海の見える公園の近くで売っているパイでも買って帰ろうかと思っていた。しかし、その海には何やら見たことのない帆船が停泊しており、水兵たちがなにやら物々しい雰囲気を醸し出しながら話し込んでいたのである。……何かと誤解されがちだが、ユイは見ず知らずの他人の間に積極的に首を突っ込んでいくようなお節介さは持ち合わせていない。それでもついつい視線を投げてしまったのは、薔薇の王国で開港祭が行われるというニュースを目の当たりにした年下の同居人がなんてことないように呟いた言葉を、自分で思うよりもずっと強く憶えていたからかもしれない。
     ──オレ、昔ポートフェストでストンプ演ったんスよ。セーラー服着てさあ。デッキブラシで甲板叩いて、ダンスして……。結構盛り上がったんスよ。
     それなりに栄えており、毎年国外からの観光客も多数訪れる薔薇の王国の開港祭とは対照的に、彼が参加する以前の賢者の島のポートフェストはひどく寂れており、来場者も年々減りつつあったらしい。そんな中で、金の匂いを嗅ぎつけた彼はプロジェクトのリーダーを任されていたクレーンポートのレストランの店主に直接掛け合い、フードスタンドを出店したのだという。どこをとってもたまらなくカッコいい話だ。だが、すべての話は過去形で、いまのユイは、セーラー服を纏ってきびきびと働いていた彼の姿を写真越しに見つめることしかできない。そのことを思うと、どんなふうに上手く考えようとしたって、最後には胸が苦しくなる。それだからユイは、ほとんど無意識のうちに、セーラー服を着た水兵たちにちらりと物欲しげな視線を投げかけるのを堪えきれなかった。そうしたらたまたま水兵のひとりと目が合って、「そこなお嬢さん」と呼びかけられ、渡りに船とばかりに丁重に水兵たちの集団へと連れて来られてしまったのである。「恐れ入りますが」と慇懃な枕詞をつけられ、聞き慣れない訛りを含んだ声で訊ねられる。
     「ここが何処なのか、道をお尋ねしても?」
     道を訊かれたときの薔薇の王国出身者の答えは決まっている。七面鳥を食べた夜は必ず二度歯磨きをしなければならないのと一緒で、当たり前の話だ。そこに理屈は無い。そう決まっているだけのことなのだから。ちょっとだけ笑ったユイは首を傾げた。

     「どこに行きたいかによるけど?」

     「それが、どこに行きたいか、わからなくて」

     「なら、どうでもいいじゃん!」と人差し指を立てたユイは首を傾げた。水兵たちが一様にぎょっとした面持ちになる。その反応も薔薇の王国の人間から見れば慣れたものだ。大ガラスが書き物机と似ている理由なんて無いように。真剣に取り合う必要なんてないということを、彼らは知らない。
     「どこに行きたいかわからないなら、どの道を選んだってそこにたどり着けるんだから」
     「まあ……でも、実際、たっぷり進めば間違いなくどこかには着くのか」
     顎を撫でた船長らしき男が妙な納得を見せる。その後ろで、顔を俯けた少女が、護衛らしき者に腕を引かれて帆船に乗車していく。まるで王女のような。しかしその姿はあまり華々しくはなく、むしろ売られる牛のような悲痛さが感じられた。薔薇の王国の国立美術館に所蔵されている、女王が処刑される直前の絵画をユイは思い出す。少女はここらでは見慣れないスタイルのドレスを纏っていた。ドラマの撮影かな、などとぼんやり考える。薔薇の王国の南部に位置するこのあたりの港町はその景観とアクセスの良さから、何かとドラマや物語の舞台になっているのである。抜錨した帆船が遠くなっていくのを、額に庇代わりの手を当てながら見送っていたユイだったが、不意に数日前にラギーと交わした会話が頭を過よぎり、「あれ?」と独りごつ。
     ──『ユイさん、──王国ってわかります?』

     ──『あー、黎明の国の南らへんの。なんか、あそこって色々と特殊だよねえ。ニュースとかで結構見るよ、ほら、この前も王様が初めてスマホ使ったってもちきりだったし。結婚の度に水仙の紋章ちょっとずつ変えてない? いまって花弁何枚だっけ、五枚? 六枚?』

     ──『そ。確か……いまは八重だったと思うんスけど。それは兎も角、そこのお姫様と、レオナさんが縁談するらしいんスよ』
     まるでドラマの撮影か何かのような装いと振る舞いの彼らの胸に刻印されていたのは、水仙を象った紋章ではなかったか。縁談をしているはずの彼らが何故、薔薇の王国まで遭難してきたのだろうか。あの日見かけたラギ〜くんとレオナくんは本当に正装の調達についての話をしていたのだろうか。あたしは一般人だからよく分からないけど、そもそも王族の服はお抱えの針子が完全オーダーメイドで作るものなんじゃないのか? 部外者が調達なんかしていいものなのか?
     「なんか……おかしいよねえ?」
     ユイは肩に掛けていた鞄の紐を直す。美味しいパイを買おうと思っていたけれど、それはまた今度だ。頭の中で手持ちの紙幣の枚数を数えながら、厚底の靴でうっかり蹴け躓つまずかない程度に足を早める。片手でスマホを操作する。ここから一番近い公共の魔法の鏡を検索してみる。タイムイズマネーとはよく言ったもので、長距離の移動を鏡を潜り抜けるだけで済ませることができる魔法の鏡の利用料金は随分高い。だが、ユイを箒の後ろに乗せて遠くへ連れて行ってくれる王子様は居ないのだし、仕方がない。背に腹は変えられない。最も手近な魔法の鏡に辿り着くと、まるでタクシーを呼び止めるみたいにして、握った紙幣を頭上に掲げて振ったユイは高く叫んだ。
     「すみませーん、超特急で繋いでくれます!? 行き先は──夕焼けの草原で!」

    ◆◆◆
     広い窓。紅土の日干し煉瓦で作った壁に照りつける、燃えるような夕陽の色。賓客をもてなす為の広間の隅には背の高い観葉植物の器が置かれ、机上に置かれた親ライオンと子ライオンの二匹の彫刻が、乾いた壁に長く黒い影を落としている。全身に物差しやら何やらを当てられ、身体が柔らかく締め付けられるような──つまりレオナの身体にぴったりと合った──正装を宛てがわれたレオナは、くァ、と溢れた欠伸を隠すこともせずに尻尾を揺らした。その微かな音を獅子の耳で聞き取ったファレナが、眉を顰めて振り返る。
     「レオナ、その態度はどうなんだ。これからお前の縁談相手が来るというところに……あまりに失礼だろう」
     「あ? ……あァ、これは失礼。──そう、本当に王族の皆様がいらっしゃっているならこんな真似は失礼にあたるだろうな。だが……俺の目にはそんな王族は見当たらないように見える。それとも、その王族ってのは誰にでもお優しい誰かさんにしか見えないのか? 相手方のレディが妖精の血を引いていると聞いた覚えは無いが」
     レオナは殆ど息だけでせせら笑う。言われた通りにやりましたよ、と声をひそめて報告してきた後輩の声が脳裏を過った。レオナが寮長に就く以前は殊更にお上品な魔法よりも単純な腕力の方がものを言う傾向にあったサバナクローで、それでもレオナの下についていた後輩は、兎角立ち回りが器用だった。だから王族たちの持っていた海図と本針を偽のものにすり替え、航路を狂わせるという計画も無事に遂行することができた。
     そもそも夕焼けの草原に辿り着けないのなら、縁談などできるはずもない。正にどちらの失態でもない、「不慮の事故」である。
     既に約束の刻限からは数時間が経過している。本来は昼餉を摂りながら縁談をするはずだったのに、大きな窓からは燃えるような夕焼けがジリジリと沈んでいくのが見える時点で、本来の縁談の計画が大きく狂っていることは明白である。唇の片端を引き上げたレオナは、真剣な面持ちで出入り口の扉を見つめ続けるファレナの前に回り込む。
     「あァ、いつまで経っても王族の皆様は来やしねえ。大層残念なことだ……たてがみが引かれる思いだが、今回の縁談は難しいんじゃねえか? なア、兄貴」
     レオナの挑発的な言葉に眉ひとつ動かすことなく、ファレナはゆるゆると首を振る。レオナへ視線を下ろすことはなく、それこそ彼にしか見えないものが見えているかのような強固さで、ジッと扉を見つめている。憎らしいほどの愚直さに、レオナは説明不能な苛立ちが腹の底から湧き上がるのを感じた。
     「彼等は必ず約束を守る。そういうお国柄だから、お前の縁談相手として選んだんだ」
     頑として話を聞き入れようとしない、強い眼。レオナは思わず鼻で笑いそうになる。有り得ない。奴等がここまで辿り着くことなど──そうなるように仕向けたのは、俺なのだから。
     レオナがそう考えるのと同時に、扉が勢いよく開け放たれる。中と外の温度差で、勢いよく風が吹く。レオナの長髪が舞い、顔にまとわりつく鬱陶しい毛を振り払ってから、
     「──は、」
     開かれた扉の先に立っていた人物に、レオナは思わず目を見開く。漸くファレナがレオナの方へ振り返ると、「ほら、だから言っただろう?」と鷹揚に笑った。伝令チャスキ役のガゼルの獣人が、喇叭を吹き鳴らすようにして高らかに叫ぶ。
     「──王国の御一行がご到着です!」
     レオナの眼前には、確かに航路を狂わせたはずの、某国の一行が。ひとりの欠けもなく、揃いも揃って立っていた。ひときわ豪奢なドレスを纏い、手を身体の前で揃え、俯きがちに立っていた女が、不意に顔を上げる。猫のようなアーモンド型の黒い目が、レオナを映して訝しげに瞬いた。

    ◆◆◆
     相手方の王族がすっかり着席し、従者や水兵は別の控え室へ通し、食事の準備が整うまでにはほんの僅かな猶予が残されている。毛並みを整えるという名目で彼専用のレストルームへ下がったレオナは、そこに控えていた、フードを目深に被った青年──ラギーに迫る。普段の立ち居振る舞いに反し、些細なことで腹を立てることはないレオナではあるが、完璧だと思っていた狩りが最後の最後で頓挫すれば、牙のひとつやふたつ剥き出したくなる。
     「おいラギー。こいつァどういうことだ」
     低く、抑えられた声。一語一語を区切るようなその声は、下手にキャンキャン吼えるそこらの動物よりも余程激情に燃えていた。
     伝令の獣人の王族の到着を知らせる声は、相当に大きかった。レストルームで控えていたラギーにも当然それは聞こえていたらしい。ぎょっとしたように碧眼を見開いて、懐からコンパスと海図を取り出す。
     「オレが聞きたいッスよ! オレはちゃあんと地図もコンパスも取り替えましたって、ほら!」
     レオナの眼下に差し出された海図とコンパスは、ラギーの主張する通り、正しいものだ。ラギーの手許にこれがあるのであれば、すり替えは成功したということになる。では、何故すり替えが成功したのに、彼等がここに辿り着くことができたのか。途中でな・に・か・が起こったのだ。レオナの慮外の、不確定な要素が。
     「チ……誰が俺の計画の邪魔をしやがった!」
     レオナは低く吼える。更なる思考を巡らせようとした瞬間、レストルームの扉が控えめにノックされる。
     「レオナ様、正餐の準備が整いました。レオナ様がいらっしゃいましたら──国の方をお呼びしますので、支度が済みましたらダイニング・ルームまでいらしてください」
     召使いの慇懃な言葉に、レオナは眉を寄せる。苦々しく「……今行く」と返答し、レストルームの扉を開ける。大きな溜め息をひとつ残すと、縁談の場へ出ていった。
     流石のレオナでも、某国の一行がたまたま辿り着いた薔薇の王国の海辺で、たまたま通りがかっていたユイがたまたま発した薔薇の王国人ジョークを、彼等がたまたま真に受けて、たまたま正しく夕焼けの草原へ辿り着いてしまった──などという、偶然に偶然の重なった、ばかげたことの顛末を予想し切ることはできない。

    ◆◆◆
     レオナが長い正装の裾を靡かせて踵を返し、レストルームを退出してから。残されたラギーは長く息を吐き出した。ンでこんなことになってんだろなあ、と思うものの、レオナに解らなかったことが自分に分かるはずもない。あれこれと考えを巡らすよりも、この足で地を駆けずり回って、一マドルでも多く稼ぎを得る方が自分の肌には合っている。安楽椅子探偵の真似事は早々に放棄したラギーだったが、不意にあることに思い至り、「ああッ!?」と頭を抱えた。
     「このままじゃオレ、ただの骨折り損じゃないッスか……!」
     レオナから聞いていた目的は「縁談を破談させる」ことだった。それが成功すれば報酬をやる、と。だが、現時点ではラギーの工作も空しく、相手方の王族たちは夕焼けの草原の王宮まで辿り着いてしまっている。レオナは呼ばれて出ていってしまった。縁談は既に始まりつつあるのだ。このままではレオナの目的が果たされることはなく、ラギーはレオナからの報酬を貰えなくなってしまう。それでは何人もの軍人の目を掻い潜り、高いリスクを冒してラギーがすり替えを行った意味もまったく無くなる。つまり骨折り損だ。それだけは、どうしても避けたい。ひとつ呻いたラギーは地面を睨む。
     ……あの人の目的は、「縁談を破談すること」だったはずだ。だが、最終的な目標は勿論「意にそぐわぬ結婚を退けること」なはずである。縁談を阻止するのは、そのための手段に過ぎない。だとしたら、向こうの奴らが到着した今からでも、縁談さえめちゃくちゃにしてしまえば、本来の目的は果たせるのではないか。
     「……オレ一人でも、レオナさんの計画をやり遂げねえと」
     胸許をぐっと掴んだラギーは、己に言い聞かせるように呟いた。となれば、さっさと動かなければならない。レストルームから素早く飛び出し、王宮の廊下を駆けていたラギーだったが、ふと、ここで嗅ぐはずのない匂いを嗅ぎつけたような気がして、窓辺に寄る。スマホを片手に辺りをきょろきょろと見回し、明らかにここらの土地に慣れていない雰囲気を醸し出している茶髪の女が王宮のまわりをうろついているのが見えた瞬間、ぎょっと目を見開く。
     「あれは……ユイさん!? なんでこんなところに!?」
     これ以上事態がもつれては報酬がゼロになってしまう。ラギーは持ち前の俊足で、素早く王宮の階段を駆け降りた。

    ◆◆◆
     「えっ、なんでラギ〜くんがここにいるのォ!? この時間は薔薇の王国でインターンしてるはずじゃん……やっぱ夕焼けの草原来て良かった。あっ、というかどうせなら夕焼けの草原観光してこうかな。ラギ〜くん、どう思う?」
     護衛の女性獣人に見つかると後が面倒だ。あの後、王宮から素早く飛び出したラギーはすっかり観光客気分だったユイの手首を掴んで使用人用の裏口まで引き摺ってきたのである。彼女が後ろで、きゃ〜っ♡ ラギ〜くんってば大胆! と黄色い嬌声を上げているのを聞き流しながら、なんとか王宮内に入らせた。へえ、ここがあのレオナくんの実家なんだ、などと辺りをきょろきょろ見回しているユイに、ラギーはやれやれと肩を竦めてみせる。等間隔に松明の置かれた廊下を歩きながら、知らず、大きな溜め息が滑り出た。
     「……アンタはお気楽でいいッスよねえ……」
     「えっ?」とユイが目を瞬かせる。ラギーは眼を眇めた。ただでさえ遭難していたはずの王族の到着という不確定要素が入って事態が混乱しているのだから、これ以上不確定要素を増やすわけにはいかない。元々ユイはラギーとレオナが共に居たことを面白く思っていなかったようだし、このまま蚊帳の外にして放り出すよりは、計画のあらましを話して協力させてしまった方が幾らかマシに思えた。
     「嘘ッスよ、うーそ! あん時オレが話した正装の話とか、全部嘘。そんで、オレはレオナさんのお見合いをぶち壊そうとしてるんスよ。ユイさんも王宮入っちゃったんだしグルなんで、手伝ってくれるんスよね?」
     「ええ〜〜…………。ヤダ」
     しかし、ラギーの予想に反し、ユイは眉を寄せて唇を尖らせた。彼女には往々にしてこういうところがある。ラギーのことを好きで好きで仕方ないという振る舞いを見せるくせに、必ずしもラギーの為ならばなんだってやるというわけではないのだ。そこはかとない苛立ちが湧き上がり、ラギーは唇の端がひくつくのを感じた。
     「はァ!? 何言ってんスか!」
     「だって、レオナくんってスカしててなんかムカつくしぃ……。あたしを置いて男の子同士の作戦立ててさあ……楽しかった? レオナくんもラギ〜くんも、喩えがわかりづらいし……そこもなんか、疎外感っていうか? すぐ動物に喩えられても、わかんないんだもん」
     上目遣いで。何処かつまらなさそうな顔をしてそう零したユイに、ラギーは「はァ、成程?」と薄ら笑いを浮かべてみせる。ラギーとてユイとの付き合いは長くなってきている。ユイを釣るための餌ならばそれなりに手数があった。
     「そっか。じゃあ……もしこの作戦が成功したら、エロいこと以外で、オレが損しなくて、三十分以内で済む願い事叶えてやってもいいとか考えてたんスけど……それも要らないってことッスね」
     あ〜あ、残念──とお手上げのポーズを取りかけたラギーだったが、彼の言葉に被せるようにして、声を上擦らせたユイが「うそ!? やる! やるやるやる! 絶対手伝う! あたし何すればいい?」とラギーに身を擦り寄せてくる。その変わり身の早さに思わず笑ってしまいそうになるのを堪えながら、ラギーは「そんじゃ、協力してくれるってことッスね」と息を吐いた。レオナから予め伝えられていた使用人の部屋へと足を早めるラギーを小走りで追いかけながら、ユイは素直に嬉しそうな笑顔を浮かべて宙を見つめた。
     「何叶えてもらお。ラギ〜くんに下着姿で後ろから抱きつきに行こうかな〜。いっつも振り払われちゃうしぃ」
     嬉しそうな笑顔の割に彼女が口に出す目論みは欲にまみれていて、ラギーは思わずくわっと目を見開く。そんなラギーもマドル目当てにこんな苦労をしているのだから、欲にまみれているのはどっちもどっちかもしれないが。
     「いやダメッスよ! 人の話聞いてた!?」
     「だってそれなら恥ずかしくないし。恥ずかしくないことならエロくないじゃん。っていうか、それをダメって言うってことは……下着姿のあたしのことちょっとはエロいって思ってるってことぉ!?」
     「だーっ! もう、ユイさんと喋ってると話の腰がすぐ折れるッス!」
     この中に更衣室とか着替えとかあるんで! 早く行くッスよ! と使用人室の扉を開けたラギーの猫背を見上げながら、あ、否定しないんだ……とユイは少しだけ笑ってしまった。

    ◆◆◆
     獣人は野蛮だと聞いていたけれど──と王女は不思議に思いながら、目の前で食事を摂っている異国の王子をちらりと見つめた。
     彼女がこの婚姻に気乗りしなかった理由は主に二つだ。一つは、運命の王子様がいつか迎えに来てくれると信じていたから。そしてもう一つが、夕焼けの草原に住まう獣人は魔法よりも腕力に頼り、何かと野蛮な者が多いと聞かされて育ったからだった。しかし、いま王女の目に映る王子はえもいわれぬ風格を備えている。おとぎ話に出てくるような、白馬に乗った爽やかな王子様とはまた違う王族の威厳と余裕を湛えている。褐色の肌に、鮮やかな若葉色の瞳。左眼に走る傷が野生的な、彫りの深い顔立ち。獅子の小さな耳に、三つ編みをひとすじ混ぜた長髪。彼女の視線に気づくと、唇を緩めるようにして微笑んでみせた。
     「遠いところからいらしてさぞかし疲れたでしょう。ここ──夕焼けの草原では雨季と乾季が代わる代わるやって来ます。そして、いまは乾季にあたる。然程新鮮な野菜は供せない。貴女のお口に合うと良いのですが……」
     フォークを左手、ナイフを右手に持ち、自然な姿勢でオードブルを口に運ぶレオナに、王女は「いえ、」と呟く。
     「とても、……美味しいわ」
     「それは何よりです」と王子が切れ長の眼を細めてみせる。──野蛮だと聞いていたけれど、と王女はもう一度思う。実際は、違うのかもしれない。何事も知ろうとしなければわからないものだ。某国王女とレオナの正餐は、嵐の前のような静けさを湛えてゆっくりと進んでゆく。

    ◆◆◆
     一方の、夕焼けの草原内のキッチンには殺気が満ちていた。調理場で殺気とは如何に、と思うかもしれないが、しかし実際「殺気」としか表現しようのない、怒号になる直前の短い指示が、ナイフを投げるように飛び交っている。給仕のお仕着せを纏ったユイは、業務用冷蔵庫の側で小さくなっていた。見ず知らずの獣人の中へ放り込まれていきなり好き勝手できるほどユイは図太くできていない。自分を此処へ連れてきたラギーはどうしているのかといえば──
     「そこでぼーっとしてる人! アナザーは行ったんスか!? え、まだ!? じゃあ行ってきて! ──や、デシャップに置いてあるスープを同時に運んだらアンタ零しそうなんでいいッス、代わりに前菜食べ終わってたらプレバッシングしといて!」
     ──すっかり厨房を仕切っていた。こういうのってなんかすっごく厳しい体制が敷かれていて、見習いは数年間料理さえ作らせてもらえないんじゃなかったっけ、などとユイはぼんやり考えていたが、話を聞いているうちに、どうやら乾季による食材不足と、ここ暫く行われていなかった縁談用の正餐の用意で厨房全体が混乱しているらしいことがわかってきた。そういえば彼は結婚式場でのアルバイト経験があるらしいし、母校で生徒が自主経営しているラウンジでも随分いい働きを見せていたという話だ。
     「──ちょっとちょっと! それただの根っこじゃなくて立派な野菜なんで! 種も腐らせないように発酵させたら食えるんで、一回こっち持って来て欲しいッス! こんだけあったらざっと五十は別の料理に仕立てられるんで、精々十種類のコース料理なんて余裕ッスわ」
     ラギーは目にも止まらぬ速さで包丁を捌いていく。その傍らで流しに積み重なった皿にスポンジを滑らせ、鍋の中身を焦げ付かないようにかき回し、味を見て眉を顰めながら塩をひとつまみ加え──その振る舞いはまさに八面六臂である。そこへ、申し訳なさそうに獣人が近寄ってきて、何やら耳打ちする。その内容を聞いて「はァ!? 三番!? ンなの厨房入る前に済ませといて──いや、オレに申告する暇があったら早く行ってきて!」とラギーは短く告げる。一部始終を見守っていたユイは、今だ、とラギーの側へ近寄った。ユイとて社会人である。殺人的に忙しい現場でひとりが抜けたときの回転の悪さはそれなりに分かっているつもりだ。ごく簡潔に問いかける。
     「ラギ〜くん。あたし、何すればいい?」

    ◆◆◆
     「──失礼いたします。魚料理ポワソンの前にお飲み物をお注ぎいたします」
     スープが済み、その皿が片付けられると、レオナの側に女の給仕が寄ってくる。テーブルの端で新たなナプキンを広げ、栓を抜いたワインの口を軽く拭く。……普段の王宮ではデルタに折られたナプキンが用いられているにも拘らず、その給仕が解いたのは薔薇の形に折られたナプキンであったことが、少し気にかかった。レオナの側に置かれていたフルートグラスに、白ワインを音を立てて注いでいく。その声に厭な聞き覚えがあって、レオナは耳をひくつかせる。わざとらしくならない程度に給仕の顔を見上げると、そこでレオナの酒を注いでいたのは──ほかでもない、雑食女ユイであった。輝石の国では、女性が男性にワインを注ぐのは娼婦のやることだとされ、マナー違反とされている。夕焼けの草原は女性の格が高いため、そういった言説は殆ど無いが、ともすればとんでもない無礼になりかねない振る舞いを敢えてすることで、レオナにユイの存在を気付かせようという魂胆だったのだろう。
     どうやら彼女もレオナの計画に一枚噛んでいるらしく、使用人らしい神妙な面持ちを貼り付けてはいるが、絶対にレオナと目を合わせようとはしてこない。その姿に、レオナは幾つかの情報が結びつき、王子の皮を被るのも忘れて舌打ちをしそうになる。恐らく──レオナが薔薇の王国のサテライト・オフィスを会合の場に選んだときから、こうなることは決まっていたのだ。
     レオナが、サバナクローという群れにおけるトップであったとき。あまりに優秀すぎるが故にいけ好かない一年坊を陥れる計画を画策していた寮生に、詰めが甘あめぇ、と思ったことがある。外でベラベラ作戦を話す彼奴らの気が知れねえ、と。しかしこれでは奴等のことを笑ってはいられなくなる。だが、何か別の方法があったのかと自問すれば、その答えも無い。自宅を執念深く捜索され、贈り物に扮したGPSで居所を特定され、セーフハウスのひとつを引き払わざるを得なくなったレオナにとっては、自宅よりも外の方が確実にリスクが低かった。だが──よりにもよって、この女に露見するとは。
     「いかがなさったの?」と向かいで王女が首を傾げている。すぐさま酒を口に運び、「──申し訳ない。貴女のことを考えていたら、つい心此処にあらずになってしまって」などとレオナは嘯いてみせる。ユイが笑いを堪えるように、小さな呻き声を残して退出していく。

    ◆◆◆
     スープが済み、食前酒のシャンパンではなく白ワインが注がれたということは、次はポワソンである。メインの肉料理に入る前に供される、魚介を用いた一皿である。夕焼けの草原の食文化からいって、場合によっては鶏肉に似た食感のカエルが提供されることもあるが、この辺りの食文化に疎い王女にそんなものを出せば彼女を不快にさせてしまう場合がある──と、ファレナが語っていたのを思い出す。だから、恐らくポワソンは定石通りに魚が出てくるだろう。レオナからしてみれば、食べつけないものを目にした王女が不快に思ってくれるのなら、むしろそれは願ったり叶ったりなのだが。
     腹の内で失礼極まりないことを考えながら、王女が退屈しないようにレオナは当たり障りの無い話を振っていく。夕焼けの草原はレディーファースト文化(と言えば聞こえはいいが、単に女性の方が強いため、下手に逆らうよりは適当に受け流した方が良いというだけのことである)が強く根付いている。しかも王族として幼少期より教育を施されたレオナの振る舞いや言動にけちをつけられる点は一つも無かったが、王女は脳内で、薔薇の王国で出会った金髪の紳士の「あんた、綺麗な眼をしてるから」という声を何度も反芻していた。なんでもないようにそう呟いて、あとは適当にお茶会の道具を弄いじくっていた彼の言葉に比べると、この王子の振る舞いのなんと大袈裟なことか。王女を讃える言葉、国際問題に発展しそうなセンシティブな話題は徹底して避けられた世間話、さりげない仕草のひとつにまで、細心の注意が払われているのが同じ王族としてよく判る。
     そう、王族としては完璧なのだ。文句のつけようがない。だが、婚姻相手に見せる態度としては、徹底的に自身の本心を隠すような振る舞いは接していてあまり気持ちのいいものではなかった。金髪の紳士が自分のことを「綺麗な眼」だと形容したのであれば、いま自分の前で悠然と構えているこの男は、へりくだっているように見えてとても嫌な目をしていると言えた。
     王女とレオナの会話がちょうど切れたところで、ユイがポワソンをしずしずと運んでくる。そこに載せられていたものは、牡蠣のソテーだった。レオナは目を見開く。周囲に控えていた側仕えも魚を用いた料理だと聞かされていたのだろう、言葉もなく動揺だけが走る。国賓との食事会のメニューのミスは、もしアレルギーによるアナフィラキシーショックなどがあれば国際問題に発展しかねない重大な失態だ。直ぐに厨房の責任者が呼び寄せられた。
     「……失礼するッス」
     位の高い者しか居ない場所に、居心地悪そうに肩を竦めながら入ってきたのは──ほかでもない、ラギーだった。気まずそうにしながらも、レオナと目が合うと微かに目を細めてみせたラギーに、レオナは彼の意図を察する。レオナは数分前に、食べつけないものを目にした王女が不快に思ってくれるのなら、むしろそれは願ったり叶ったりだと考えた。どうやらラギーも同じようなことを考えたらしい。レオナは目を丸くしてみせる。
     「ああ、これはとんだ失敬を! 牡蠣はRのつく月以外口にしてはいけないんです。……あれほどキツく言っておいたのに……食卓に上げたのは誰なんだ」
     牡蠣はRのつく月、つまり九月から四月以外は口にしてはならないとされる。その理由の一つは、牡蠣の産卵期が夏場であり、甘味の元となるグリコーゲンが消費されて単純に味わいが落ちるから。そしてもう一つが、海水温が上がったことによる貝毒やノロウイルスといった食中毒の恐れがあるからだった。これがもし「本当の」ミスならば、とんでもない失態である。
     「え、えーっと……あ、あたし……かもしれないです、それ……」
     ユイが気まずそうに手を挙げる。その場に居た者の視線が集まると引きつり笑いを浮かべながら、予め仕込まれていたらしい台詞を話し出す。
     「あたし、牡蠣が好きで……それで、あたし普段は薔薇の王国に住んでるんですけど、王国の北の海沿いを歩いてたら、牡蠣がいっぱい落ちてて。知ってます? 王国の北の海で噂話すると丘まで上がってくるっていう牡蠣の話。だからあたし、これ獲れたてほやほやなんじゃない!? って思って、夕焼けの草原の王宮のみなさんにも是非召し上がっていただきたいと思って、それでここまで持ってきたんです……」
     「ちょっとちょっと! アンタ、牡蠣が好きなら知ってるでしょ! 夏場の牡蠣は食中毒が怖いから食っちゃマズいんスよ。まー火通しゃワンチャンなんとかなるかもしれないッスけど……」
     「なんとかならねえよ。牡蠣にウイルスが付いていたと仮定した場合、中心部を九十度以上で一分半以上加熱しないとウイルスは死滅しない。これ、表面を軽く炙っただけだろ」
     「だって生の牡蠣って美味しいしぃ〜……」
     「まあ、ちょ〜っとタイミングが悪かったッスねえ」
     「『ちょっとタイミングが悪かった』だ? お前にも責任があるだろ、新入り。何故あのメイドの横暴を見逃していた? これをあのお方が召し上がっていたらと思うと……あァ、恐ろしさでたてがみが逆立つぜ」
     素早く言葉を交わし合う三人。王子とシェフ、一介のメイドでしかないはずなのだが、まるで昔からの知り合いだとでもいうようなフランクな声が交錯する。ダイニング・ルームはメニューの取り違えというセンシティブな話題にざわついていたためそれに気づくことは無かったが、王女だけはようやくここまで抱いてきた疑念が解消されたような気になった。何処となくわざとらしい言葉の応酬。王子の、自分には見せない砕けた口調。本心を徹底的にひた隠しにしようとする彼が時折見せる、皮肉っぽい目つき。……恐らく自分たちが遭難したのもたまたまではない。この王子はわたしとの縁談をどうしてもご破産にしたいらしい。
     そのとき、ずっと王女を蚊帳の外にしていたレオナが不意に向き直り、深々とこうべを垂れてみせた。
     「此度はこのような無礼を働き、お詫びのしようもない。この後の皿にも牡蠣のウイルスが混入しているかもしれない以上、これ以上正餐を続けることは難しい。……詫びの品を包みましょう。それからお前たち、上着の準備を」
     つまり、遠回しに帰れと命じられているのだろう。王女はゆっくりと睫毛を伏せる。「──仕方ありません。わたしは夜明けの国に生まれた者、陽の落ちる国の殿方と相容れないのも無理のないこと……」と呟く。迂遠な言い回しではあるが、遠回しな断りの言葉である。これでわたしがこの男と縁談を再度セッティングされることは無くなり、そしてゆくゆくは──と王女は薔薇の王国で出会った金髪の紳士を脳裏に思い描く。自分をダシにされていたことに対しての苛立ちは確かにある。何か一言いってやりたいという衝動も。しかし、うわべの会話だけ見れば、王女がそこまで酷いことをされているわけでもない。すべては憶測と邪推の二言で片付けられてしまうレベルだ。あとひとつ、何かがあれば平手打ちくらいできるのだが。言葉を呑み込んだ王女がそっと席を立とうとした瞬間、
     「ッ……ふふ、ッ、はは、あははっ!」
     ──正餐の場に遠慮会釈のない笑い声が響き渡る。ユイが、涙を浮かべる勢いで苦しそうに笑っていた。ユイの隣に立っていたラギーがぎょっとしたように目を見開く。ひそめた声で、「ちょ、ちょっとユイさん!?」と彼女の口を塞ごうとする。しかしユイは笑い過ぎて滲んだ涙を拭き拭き、ラギーの手をするりと躱した。
     「だ、だって……あのレオナくんが女に下手に出てんのが面白くて……!」
     レオナの眼光が鋭くなる。ポワソンの前にワインを注ぎに来たときから、レオナの言葉に笑いを堪えるそぶりは見せていたが、まさかここまで無遠慮だとは。流石は雑食女なだけある。殆ど口パクで、「おいラギー。其奴どっかつまみ出せ」と告げてくる。ユイとレオナに板挟みにされたラギーはこめかみがひくつくのを感じた。それができるならやってんスよ! と頭を抱えたくなる衝動をやり過ごして、ユイのつむじを見下ろす。
     「あ、……あ〜。ユイさん、いい子だから一回出ましょ? ね?」
     「ラギ〜くん♡ そんなこと言ってくれて、あたしすっごく嬉しいけど……でも出ないよお! いつも寝てばっかりだし、野菜食べられないし、髪長いレオナくんがあんなに猫被ってる姿とか、面白くないわけないもん。ライオンなのに猫とか……ふ、ふふふっ」
     「おい、黙って聞いてりゃキャンキャンと……!」
     「何? 全部事実でしょ。何か文句でも?」
     「グルルル……ラギー、てめえ解ってんだろうな……!」
     額を突き合わせるレベルで言い争う、一介の給仕に過ぎないはずの女と、一国の王子。あまりに度肝を抜かれ過ぎて止めに入るのすら忘れて呆気に取られている周囲。……あー、こりゃ駄目だ。ラギーの心のどこかで誰かがそう呟くのを感じた。どっちを止めてももうダメだ。どうにもならない。なら、何かと血の気の多い生徒ばかりが通っていた母校のラウンジでよくやっていたゲームでもやってしまおうか。ラギーは手を打ち鳴らして周囲の注目を集める。
     「王子サマとメイドの一騎打ち! 勝つのは果たしてどちらか! ねえ、アンタはどっちに賭ける? ふむふむ、成程。んじゃ、一回マドル預かるッスよ〜」
     意志の弱そうな者から順番に話しかけていき、掛け金を本当に回収していくラギーに、レオナとユイが同時に振り返る。「俺を賭けのダシにする気か?」「ちょっと、あたしのレスバで賭けないでくんない!?」と殆ど同時に叫び、その声が被ったことに、また「被せてくんじゃねえ!」「はあ!? 被せてきたのはそっちでしょ!?」と互いを睨みつける。
     「──ごめんなさい。少し退いてくれるかしら?」
     そのとき、つかつかと後ろから歩いてきたある人物が、ユイの肩を些か乱暴にぐいと押し退けた。「なによ!? あたし今──」と言おうとしたユイが、はっと言葉を呑む。黙って身を引く。それは、明らかな怒りを瞳に宿した王女だった。レオナの前に立つ。なにかを察した従者が「王女様、それはいけません!」と必死に制止の手を伸ばしてくるが、彼女はそれも聞き入れず、椅子に座ったままのレオナを見下して睥睨する。
     「先程から聞いていれば、あなた……」
     すうっと息を吸い込み。
     ──バチンッ、と一閃。
     王女は、レオナの頬に勢いよく平手打ちを浴びせた。レオナの顔が殴った方向にそのまま揺れる。瞬きの後には、一瞬でレオナの褐色の肌にはっきりとした紅葉が浮かび上がる。「なぞなぞに迷ったら、意味通りの言葉を言えよ!」という金髪の紳士の声が、彼女の脳裏を過った。それはつまり。難しく考えて、悩んでいるよりも、わたしの思っていることを正直に告白すれば良い、ってことじゃないかしら。王女は平手打ちをかました勢いのままに、眉を吊り上げる。
     「ほんっとーーに、失礼だわ!!」
     「は、……」
     幽霊の姫君に訳の分からない理由で頬を叩かれたことはあったが、二度もそれをされるとは。驚愕のあまり嘘臭い言葉のひとつも吐けないでいるレオナの顔を鼻で笑った王女は、「ああ、すっきりした! ──さ、皆さんお暇しましょう?」とヴェールを靡かせて颯爽と広間から退出していく。
     「……ぷっ、はははっ……レオナさん、またビンタされてやんの……!」
     「ふふっ、やばい、レオナくん、ちょっと面白すぎるんだけど!?」
     呆然と椅子に座ったままのレオナだったが、ラギーとユイが小刻みに肩を震わせて笑っているのを認めると、一気に脳にまで血が巡ってくる。「テメェら後で覚えとけ……!」と低く唸るが、一度糸の切れた二人の笑いが収まることは中々無く、ダイニング・ルームには笑い声と低い唸りが暫くは反響していたという。
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