サイケフルーツナイトフィーバー 夜が更けたフルーツマーケットの路地裏は、昼間の賑わいとは打って変わって酒と汗と血の混じった臭気に満たされていた。湿った空気が肌に絡みつき、息苦しさを覚える。私は露店の木箱を畳み、昼の果物商から夜の別の稼ぎへと身を移す準備をしていた。それがこの市場の隅っこで生きる私の定めだった。
だが、その夜は違った。ひどく酔った客に絡まれ、私は腕を掴まれ、服の裾を引っ張られた。あの男こそ「ハズレ」だったと、今にして思う。ろくに金も払わず私を笑いものにした挙げ句吐き捨てるように去っていったのだ。痛みと、日頃の疲れと空腹が私を蝕み、抵抗する力さえ失い冷たい石畳に膝をつく。頬が濡れた地面に触れ、何もかもがどうでも良くなって意識が遠のきかけたとき、重い足音が近づいてきた。
「おい、こんなとこで寝てんじゃねえよ、邪魔だ」
低い声が、闇の中から荒々しく響く。私は目を上げ、長い髪を乱暴に揺らす男を見つけた。派手な柄のシャツとジャケットが薄暗い街灯に映え、サングラスがその目を隠している。
どこかで見た顔だ。そう、王九。フルーツマーケットで、チンピラたちを引き連れて歩く姿を何度か目にしたことがある。この一体を取り仕切っている組織の中ではそこそこ地位のある者らしいが、私にとってはどうでもいい存在だった。
「死ぬならさっさと向こうの虎のシマか海にでも行け。こんなとこで死なれりゃ後片付けが面倒くせえだろうが」
冷たく吐き捨てる言葉に、情けなんて微塵もない。彼はしばらく私を見下ろしていたが、やがて膝を折り、私の髪を乱暴に掴んで顔を無理やり引き上げた。指が頭皮に食い込み、痛みが鋭く響く。
「なんだお前、このまま死ぬ気か? みっともねえな」
その声に優しさはない。嘲りと、所有しようとする下卑た欲望が滲んでいた。サングラス越しの視線が、私を値踏みするように這う。彼は私の腕を強引に掴み、袖を雑にまくって注射痕を探した。爪が皮膚を引っ掻き、冷たい感触が残る。
「シャブ中じゃねえのか。なら何でこんなゴミみてえなザマなんだ?」
「⋯疲れたの」
掠れた声で答えると、彼は下品に鼻で笑い、私の腕をさらに締め上げた。
「疲れた? 笑わせんな。なら俺が使ってやるよ、ゴミでも使い道はある」
その言葉が落ちた瞬間、彼の腕が私の身体を乱暴に引き寄せ、肩に担ぎ上げるように軽々と持ち上げた。私は意識が朦朧とする中、抵抗する力もなく、ただ揺れる視界に彼の長い髪と派手なシャツが映るだけだった。路地裏の闇が遠ざかり、どこかへ運ばれていく。心臓が激しく鳴り、恐怖が胸を締め付ける。誘拐されたのか? 彼らの裏で囁かれる噂が頭をよぎる。──臓器売買、私の身体は切り刻まれ、闇市で売られるのか? 冷や汗が背を伝い、意識が闇に溶けていく中、彼のジャケットの革の匂いとシャツのけばけばしい色だけが、ぼんやりと網膜に焼き付いた。
次に目を開けたとき、私は知らない部屋にいた。コンクリートの壁がむき出しの、倉庫のような薄汚い空間。ボロいソファとテーブルがぽつんと置かれているだけだ。幸い、臓器を切り取る手術室ではない。だが安堵よりも先に疑念が湧く。なぜこんな場所に?
私は床に座らされ、目の前のテーブルには商売道具である色とりどりの果実が雑に積まれていた。王九は椅子に腰掛けていて、長い髪を指でだらしなく弄びながら、サングラス越しに私を見下ろしている。顎を乱暴に動かし、テーブルを指した。
「お前の店から持ってこさせた。さっさとこっち来て食わせろ」
部下が動いたのだろう。王九の言葉が絶対であるかのように、私は彼の機嫌を損ねないように這うように近づき、手前にあったマンゴーを手に取った。皮を剥くたびに果汁が指先に滴り、べたつく感触が広がる。床に座ったまま差し出すと、王九はわざと舌を出して下品に口を開け、果実を貪るようにかじりついた。果汁が唇から髭や顎にだらしなく伝い、ドロリと床に落ちる。彼は私の指ごと咥え、鋭い犬歯が遠慮なく皮膚に食い込む。
「ハハッ、このまま食いちぎってやろうか?クソ女」
低い声で嘲るように囁かれ、ゾクリとする痛みが背筋を走る。私は震えを抑えきれず、彼は私の指をわざと下品にしゃぶり、「甘ぇな」と吐き捨てた。熱い舌が指の間を舐め上げ、私の身体がビクンと跳ねる。果汁が手首まで流れて滴り落ち、彼の白いスラックスにシミを作る。王九は私の怯える姿を眺め、支配するように見下ろしている。
次にライチの皮を剥いて白い果肉を差し出すと、王九は唇をわざと鳴らし、ジュルリと音を立てて吸い付いた。果汁が飛び散り、私の頬にまでかかる。舌が指先に絡みつき、ねっとりと舐め取る。サングラス越しの目が、私の反応を一瞬たりとも逃さない。
「次、さっさとやれ」
命じられ、パパイヤの橙色の果肉を差し出す。彼は大きな一口で半分を飲み込むように食い、残りを私の指に乱暴に押し付けた。果汁が指から滴り、床に小さな水たまりを作る。彼は私の手を掴み、果汁まみれの指を再び咥えて舐め回す。わざと厭らしく、所有するものを味わうように。私は未知の感覚に身体の震えが止まらず、彼は心底愉しそうに笑った。
「ここじゃあ俺がルールだ。お前も俺のモンだ、覚えとけ」
その言葉は命令ではない。ただの事実だった。王九にとって私は、果物と同じく思い通りに弄ぶモノに過ぎない。臓器を売るつもりはないのか、それとも別の形で私を使い潰すつもりなのだろうか?
私は恐怖と嫌悪で彼を睨みつけたが、なぜかそのサングラス越しに見えない目が、私の心を掴んで離さないような気がした。果汁を貪る彼の唇、長い髪が揺れる仕草、下品な笑い声──全てが頭に強烈に焼き付いて離れなかった。
「もういい、あとはお前が食え。残飯処理でもしてろ」
王九は吐き捨てるように言う。私は呆然とテーブルの果物を見つめた。かつては果物の甘さに心が踊った。だが、いつの間にかそれらは仕事で扱う品物でしかなくなっていた。私は喉が渇き、飢えていた。
人目を気にせずかじると、甘さが口に広がり、止まらなくなる。果汁が手や服を汚しても構わず食べた。王九は相変わらず椅子から黙って私の事を見下ろしている。サングラス越しの視線が、私を掌に閉じ込めたまま離さない。
「お前の方はいくらなんだよ? 安っぽい女だな」
唐突な問いに、私は手を止めた。そういうつもりならばと渋々と服の裾に手をかける。だが、王九は
鼻で笑って遮った。
「お前みたいな小汚い貧相な女抱いたって、なんも楽しくねえんだよ。いいか、個人で好き勝手商売すんな。店を紹介してやってもいいが、どこもかしこもヤク中のクズ客だらけだぞ。俺たちのシマでこれからも生きてたいなら、俺の言う通りに動け、分かったな」
彼は椅子にふんぞり返った。傲慢なセリフにピッタリの仕草だが、様になっているのが悔しかった。
「今日からここで寝泊まりしろ。昼間は勝手にしてもいいが夜になったら戻ってこい、さもなきゃぶっ潰す」
それは王九の独断だった。彼は毎晩戻るとは限らないらしい。私は昼に果物を売る生活を続けられるが、夜は彼の住処に縛られる。お金は手に入る。露店の果物も私も「買われる」からだ。だが、この男によって弄ばれる未来しか見えない。毎夜知らない男に身体を暴かれるのをじっと耐え忍ぶ生活と、今の状況。どちらがマシなのか、私には分からなかった。
それでも、王九の命令には逆らえない。彼の存在が、私の全てを支配しているかのようだった。
昼間、私は露店で色鮮やかな果実を並べ、客に笑顔を振りまく。かつてのように心が踊ることはない。生きるためだけの機械的な動作だ。
夜が訪れると、王九や部下が現れ、私やその日余った果物をすべて買い占める。彼が乱暴に札束を投げつけ、部下が果物を麻袋に詰めてどこかへと運んで行く。私は彼の住処へと連れ戻され、椅子に座る彼の前で床に座らされた。
「お前、客に見せてやれ。さあ、動け」
王九の部下や賭場のチンピラが集まり、私をぐるりと取り囲む。彼の大きな手が私の髪を乱暴に掴み、顔を強引に上げさせた。
「笑え、クソ女」
命じられ、私は膝をつかされ、彼の膝に顎を無理やり乗せられる。首筋に熱い息が吹きかかり、耳たぶを指で乱暴に摘まれた。ゾクッとする感覚が背を這うが、耐えるしかない。見物人の一人が手を伸ばして身体に触れる。王九はサングラス越しにチラリと見て、下品に笑っただけだった。
「好きにしろよ。どうせ俺のモンだ、触ったってゴミはゴミだろ」
彼は気にしてなかった。最初は。
別の夜、私を商品とした見世物はさらに過激さを増した。王九は私の腕を強引に引き寄せ、膝の上に乱暴に座らせた。客たちの視線が突き刺さる中、彼は私の耳元で下品に囁いた。「俺の玩具をよく見ろ、ゴミども」と言いながら、指先で私の首筋を雑になぞる。爪が皮膚を軽く引っ掻き、鋭い痛みが走る。彼は私の服の裾をわざと引き上げ、腹部を晒して客たちに見せつけた。冷たい空気が肌に触れ、羞恥が全身を駆け巡る。
「お前、もっと生娘みたいに恥ずかしがれよ。そっちの方が面白ぇだろ」
王九はサングラス越しに私を甲高い声で嘲笑う。手に取ったライチを握り潰し、その果汁を私の首筋に垂らした。冷たい滴りが鎖骨を伝い、服の中にまで流れ込む。彼は舌を伸ばし、首筋から鎖骨にかけて果汁を舐め取った。熱い舌が肌を這い、客たちの下卑た笑い声が部屋に響く。私は顔を背けようとしたが、王九が顎を掴んで無理やり顔を上げさせ、「逃げんな、クソ女」と叱責する。
さらに彼は私の手を掴み、指先に残った果汁を客たちに見せつけるように高く掲げた。「俺のモンに触りたい奴はいるか? ただし、俺の許可がなきゃ半殺しだぜ」と笑いながら、私の指を自分の口に含み、わざと音を立てて吸い上げた。客たちのざわめきが大きくなる度に私は羞恥で身体が震えた。王九は私の反応を見てさらに下品に笑い、耳元で囁いた。
「もっと鳴かせてやろうか?」
彼の手が私の太ももに伸び、果汁を塗りつけるように内側をなぞった。客たちの視線がさらに熱を帯び、私は耐えきれずに目を閉じた。だが、王九は容赦なく私の顎を掴み、「目を開け、ゴミどもにしっかり見せつけろ」と命じた。支配的な笑みが彼の顔に広がり、私はただ耐えるしかなかった。
こんな屈辱的な扱いを受けているのに、なぜか王九の指先が触れるたび、私の心臓は激しく高鳴り、嫌悪だけではない何かが芽生えていた。客たちの視線の中で、彼が私を「俺のもの」と呼ぶ声が、まるで呪いのように私の心に響いた。支配される恐怖と同時に、彼の存在が私を飲み込むような危険な魅力を持っていることに、私は気づき始めていた。
ある夜、王九が血まみれで帰ってきた。
シャツやズボンが赤黒く染まり、長い髪にまでべっとり血がこびりついている。私は慌てて立ち上がった。
「怪我したの⋯?」
「なんともない」
近づいて確認するが、身体には傷一つない。服には刃物で切られたような穴がいくつも空いているのに。刺されたのか、斬られたのか。不思議に思うが、彼は血飛沫で汚れたサングラス越しに私を睨み、ソファにドカッと座った。腥い血の臭いが部屋に広がる中、彼は立ち上がり、バスルームへ向かった。「うるせえ、黙れ」と吐き捨てながら、ジャケットを脱ぎ捨て、血まみれの服を乱暴に脱ぎ始めた。私は戸惑いながらも後を追い、バスルームの入口で彼を見つめた。
王九はシャワーを浴び、血を洗い流していた。赤黒い水がタイルに流れ、排水溝に吸い込まれる。長い髪にこびりついた血がまだ残り、彼は苛立たしげにそれを掻き回していた。私は意を決し、バスタオルを手に取って近づく。
「大変でしょ?せめて⋯髪の血、拭いてあげる」
じろりと彼は一瞬、私を睨んだが面倒くさそうに顎をしゃくった。私はそっと彼の髪にタオルを当て、血の固まりを優しく拭き取った。濡れた髪が指に絡み、温かい感触が伝わる。王九は無言で立っていたが、時折「うぜえ」と呟きながらも抵抗しなかった。タオルで拭き終え、彼の髪が元の艶を取り戻すと、私は一歩下がった。いつも通り彼はサングラス越しに私を見下ろして笑った。
「お前、意外と役に立つな、クソ女」
バスルームを出てソファに戻った王九は、再び私を睨んだ。血の臭いがまだ微かに漂う中、私は彼の言葉を信じきれず、目を凝らす。すると、甲に皮がえぐれた傷が目に入った。赤黒い血が滲み、肉が露出している。私は思わず声を上げた。
「ほら、やっぱり怪我してるじゃない! 手当しないと!」
王九が舌打ちをする。「チッ、うぜえな」と苛立たしげに手を引っ込め、唾を床に吐いた。私は慌てて立ち上がり、「救急箱もらってくるから!」と叫んで階段を駆け下りる。下の階に屯する王九の部下たちに声をかけると、誰かが「うるせぇ」とぶっきらぼうに救急箱を放り投げてきた。私はそれを受け取り、急いで戻る。
王九はソファに座ったまま、サングラス越しに「余計な真似」をする私を睨んでいた。私は床に膝をつき、彼の手を強引に引き寄せる。消毒液を染み込ませた綿で傷口を拭き、固まりかけている血を拭う。彼は面倒くさそうに手当を受けながら呟いた。
「雑魚過ぎて気功使うのもバカらしかった。クソみてえな奴らだ」
私は手を止めて顔を上げた。
「気功⋯?なんで気功?早く怪我が治るようにってこと?」
質問が次々と口をついて出る。王九の眉がピクリと動き、「うぜえ、黙れ」と吐き捨てられた。私は怯まずに畳みかける。
「どういう意味? 気功って何?」
彼は苛立たしげに私を睨み、乱暴に命じた。
「仕方ねえ、ナイフ持ってこい。さっさとしろこのノロマ!」
「う、うん」
私は一瞬戸惑うが、近くのテーブルに置かれた愛用の果物ナイフを手に取って渡す。王九はそれを受け取ると、ニヤリと笑って勢いよく自分の腕に突き立てた。刃が肉に食い込む音が響き、私は思わず叫び声を上げて顔を隠した。「やめて!」と取り乱す私の声が部屋に響く。
「ギャアギャア喚くな、よく見ろ」
王九の声が冷たく突き刺さる。私はおそるおそる手を下ろし、彼の逞しい腕を見た。
傷一つない。血も流れず、刃が突き刺さったはずの場所は無垢な皮膚のままだった。私は目を疑い、呆然と彼を見つめる。
「怖いか?女」
王九の声が低く響き、下卑た笑みが顔に広がる。私は震えながら、掠れた声で呟いた。
「王九⋯あなた、手品もできるの?」
「⋯⋯⋯⋯」
「痛ぁっ⋯!」
彼の握り拳が私の額に振り下ろされ、ゴツンと鈍い音を立てた。「二度と話しかけるな」と吐き捨てられ、私は頭を押さえて縮こまる。だが、心のどこかで、この不思議な力が恐怖と好奇心を同時に掻き立てていた。危険な男なのはわかっている。だけど暴力的で支配的なのにどこか神秘的で、私は彼から目を離せない。
その後も見世物にされる夜が続いたが、その間に王九との距離は少しずつ縮まっていた。ある夜、彼は一人で戻り、ソファにドスンと座った。
「おい、なんか適当に食べさせろ。さっさとやれ」
初対面の日のように、彼は顎でテーブルを指した。私は近くにあったマンゴーを手に取り、皮を剥いて果肉を差し出した。王九は以前のように貪るようにかじるのではなく、意外にも大人しく口を開けた。果汁が唇に滲むが、彼は私の指を咥えずに静かに噛み締めた。私は驚きを隠せず、呟いた。
「⋯普通に食べれるんだ」
その言葉に、王九の目が鋭く細まり、彼はサングラス越しに私を睨みつけた。
「何だその物言いは。飼い主に向かって生意気だな」
そう言うと、彼は突然私の手を掴み、果汁を指に塗りつけた。甘い液が私の手首を伝い、腕にまで滴る。彼は私の手を引き寄せ、熱い舌で指先を這わせた。ねっとりと舐め上げられ、歯が軽く肌に食い込む感覚が走る。次に首筋に顔を近づけ、果汁の滴る跡を舌でなぞった。温かく湿った感触が首を這い、鋭い歯が耳たぶに噛みついた。痛みと甘い疼きが混じり、私は息を呑んだ。彼の息が耳に絡みつき、荒々しい手が私の腰に回る。
「躾だ。忘れんな」
一段と低い声で囁かれ、支配的な笑みがサングラス越しに浮かんだ。私の身体は震え、羞恥と奇妙な熱が混ざり合い、心が乱れた。
こんなにも下品で乱暴な男なのに、なぜ私は彼の手に触れられるたびに、心がざわつくのだろう。果汁を舐める彼の唇、首筋に這う熱い舌、その全てが私を支配する呪いのように感じられた。恐怖と嫌悪が薄れ、代わりに彼の存在が私の心を埋め尽くしていく。
私は彼に惹かれている──⋯その事実に、自分自身が一番驚いていた。
だが、夜を重ねるごとに何かが変わり始めた。いつもの様に見世物が始まる。鎖骨のくぼみに爪を立てられ、鋭い痛みに息を呑む。客が私の腕を掴むと、王九の目が一瞬細まり、口元に下卑た笑みが浮かんだ。
「おい、手ぇ離せ、クソが」
声は落ち着いていて、まだ穏やかだ。客が手を引くと、彼は私を膝に乱暴に座らせ、首筋を指で雑になぞった。しかし、見物人の一人が私の髪に触れた瞬間、王九が突然身体を仰け反らせて笑いはじめ、場の空気が凍りついた。
「おい、誰に断って触ってんだ、てめえ?」
王九は満面の笑みを浮かべて、長い髪を乱暴に揺らしてそいつに近づいた。もの凄い速さで拳が繰り出され、男は紙切れのように後ろに何メートルも吹き飛んだ。床に倒れ込んで魚みたいに跳ねている客を彼は笑いながら殴り、蹴り上げ、赤い血が飛び散る。何度も、何度も。
半殺しだった。流石にまずいと思ったのか数人の部下が落ち着いてくださいよと慌てて止めに入るが、王九は平然と髪をかき上げ、唾を吐いた。
「俺のモンに勝手に手を出す奴はこうなる。覚えとけ、ゴミども」
サングラス越しの目が客をじろりと睨み、誰もが黙り込む。私を見下ろし、彼は椅子にドカッと座った。
「続けろ、さっさとやれ。」
血塗れの指で喉仏を乱暴に押され、息が詰まる。彼の独占欲は、気まぐれから何か別のものへと変わりつつあった。こんな暴力的な男なのに、なぜ私は彼の「俺のもの」という言葉に、心が震えるのだろう。客たちを半殺しにする彼の姿に、恐怖ではなく、奇妙な安堵と昂奮を感じていた。私の心は、完全に彼に支配されつつあった。
住処に静寂が戻ると彼はソファに腰を深く下ろして、珍しく私を傍に座らせた。
「お前は俺の気分次第で動く。分かったな、クソ女」
顎を乱暴に掴んで顔を近づけ、唇が触れそうなくらい近くで息が絡む。手首を掴んで膝に押し付け、脈を計るように弄んだ。だが、それ以上はない。この時の王九は、無だった。感情が抜け落ちたような静けさが漂い、客前での狂気も、見世物の独占欲も、ここでは消えていた。ただ、私を傍に置くだけだ。彼は私を膝に座らせ、背中に指を這わせて服の上から背骨を雑になぞった。「疲れた」とぶっきらぼうに呟き、肩に顎をドンと乗せた。王九の熱い吐息が耳に流れ込む。だが、何もしない。最初は気まぐれだったが、彼の無意識な独占欲は育ちつつあった。
蒸し暑い夜、私はよく魘された。
夜の仕事の記憶が蘇る。フルーツマーケットの路地裏、湿気で空気が重く、汗が肌にまとわりつく。薄暗い街灯の下、汗臭い男が近づいてくる。酒とタバコの臭いが鼻をつき、脂ぎった手が私の腕を掴んだ。「いくらだ?」と歯の欠けた口で笑いながら金を握らせてくる。服の裾を引っ張られ、首筋に湿った息が吹きかかる。知らない男の手が這う。指が肩を這い、髪を引っ張り、首を締めるように掴んだ。耳元で下品な笑い声が響き、汗と唾の臭いが混じる。
示し合わせたように別の男が背後に回り、腰に手を這わせる。熱と湿気が身体を押し潰し、逃げられない。息が詰まり、うめき声が漏れる。夢の中で男たちの手が私の腕を、首を、腰を締め付け、汚れた感触が全身を覆った。気持ち悪さが胃を締め上げて蒸し暑さがそれを増幅する。
半分寝たまま、浮上しきれない意識の中で、その感覚が突然変わった。男の手が消え、別の温もりに塗り替えられる。誰かが私を抱いている。腕が私の背中に回り、長い髪が首筋に触れた。獣のようにギラついた二つの瞳が暗闇で私のことをじっと見ている。
「うるさいったらありゃしねえ」
低い声が耳に響く。夢の中の汚れた感触が上書きされた。気持ち悪い男の手が這った腕を、硬くて大きな手が覆う。首筋に触れた湿った息が、乾いた吐息に置き換わる。腰を掴んだ脂ぎった指が、しっかりした腕に変わった。私の肩に絡んだ男たちの臭いが、微かなシャツの匂いに消される。独占欲が優しさとして感じられ、私は彼が誰か分からない。夢の上書きは神秘的で、汚れが消えるたび心が軽くなった。私の手が彼の胸に触れ、半覚醒の意識でその熱を感じる。だが、それ以上はない。ただ、私を抱いて眠る。
朝、目が覚めると王九が隣で寝息を立てていた。長い髪が私の肩に絡まり、派手なシャツが床に落ちている。
「まさかね⋯」
私は目をこすりながら裸で眠る王九を呆然と見つめた。有り得ないと自らに言い聞かせながらサングラスを外した彼の素顔を見ていると、胸が締め付けられるような感覚が止まらなった。