treat食堂の隅にあるバスケットを開けると、中身は空だった。
「お菓子ならもうないですよ」
背後から朝日奈の声がした。
「見たからわかる」
数時間前まで、このバスケットにはお菓子がいっぱいに詰め込まれていた。
市民ホールのハロウィンコンサートで演奏したあと、こどもたちに配るためのものだった。
少しくらい余っていたらと淡い期待をしていたが、大勢の聴衆が居たし、お菓子の配布にも行列ができてとても好評だったし、すべて配りきったのだろうか?
「ちょっとくらい、残ってたはずだけど」
「笹塚さん、部屋に直行しちゃったじゃないですか。みんなの分はなかったから、ジャンケンして分けました」
すぐに取り掛かりたい作業があったのだ。自ら勝負を放棄したことが悔やまれるが仕方がない。
腹が鳴った。
「お菓子じゃないんですけど、笹塚さんに食べてほしいものがあるんです」
天の助け。
座って待っていると、出てきたのは魚だった。
「ニシンの塩漬けです」
なんとなく意外だったが、食にこだわりはない。まずはひとくちかぶりつく。
「……!」
しょっぱい。
ものすごく。
他のことが何も考えられなくなるくらい、塩辛い。
吐き出すわけにもいかず、なんとか飲み込む。
「しょっぱすぎる」
「これは笹塚さんのなので、最後まで食べてください。あとふた口で」
謎の圧をかけられ、とにかく何か腹に入れたかったのでそのまま食べた。塩の塊みたいで口内がつらい。
「浸透圧が上がる。体に悪い」
出された水を一気飲みした。なんだか焼け石に水だ。またすぐ喉が渇くだろう。
「今日はもう寝てください」
朝日奈が言う。時計を見ると深夜だった。こんな時間だっただろうか?
……顔を上げると、自室の机に伏していた。
夢か。
けれどもやたら喉が渇く。どこからが夢だったのだろう。塩漬けニシンを食った時点で夢だった気もする。とにかく水が飲みたい。だが、それ以上に眠気が強い。
笹塚は椅子から立ち上がるとベッドに横たわり、そのまま静かに眠りについた。
「笹塚さん。水ですよ」
いつか録音のために訪れた渓流のそばに座っている。
ここの水は、そのまま飲めると聞いたことがある。
朝日奈がなぜかコンサート衣装のようなドレスを着ていて、水瓶を差し出してきた。それを浴びるように飲み干し、まだ足りないと器を差し出せば、何度でも汲み手渡してくれる。
……うん。これはさすがに夢だな。笹塚はそれを自覚すると同時にベッドから起き上がった。
食堂に行き、水を飲む。
朝日奈がきたので、
塩漬けニシンを俺に食わせたかどうかを尋ねてみた。
「なんのことですか?」
やはりそこから夢だったか。
「夢にあんたが出てきて塩漬けニシンを食わされて、水をくれた。足りなくて、たくさん飲む羽目になった」
「なんですかそれ」
「知らん。酷い目にあった、口直しに何か作って」
「えー?」
-----
塩漬けニシンを三口で食べ静かに床につくと、将来の伴侶が夢に出てきて喉を潤すための水を渡してくれる
-----
ハロウィン事典と称した動画でそんな豆知識が流れていたことを、二人とも知ることはなかった。
(参考資料:図説 ハロウィーン百科事典 リサ・モートン)