卒業私の「新・魔法史」に載っているセブルス・スネイプは、いつでも正岡子規よろしく、プイとそっぽを向いている。その顔はねっとりした髪で隠れ、表情がよく見えない。
買ってもらって直ぐ、彼の周りを小さなハートマークで囲った時に、「オェー」という顔をして以降、機嫌を損ねてしまったのだろう。撫でてもつついても眉を顰めるばかりで、結局7年間、正面を向いて貰えなかった。
卒業式を来週に控えた今日、手持ち無沙汰な私はスリザリン寮の端っこで、この「新・魔法史」を眺めていた。
大して成績も良くないくせに、この教科書だけボロボロになっている。魔法薬学も好きだったけど、彼が使っていた教科書とは違うと知って、あまり読む気になれなかった。
バサバサと大きな音がしたのでふと顔を上げると、部屋の反対側で、監督生のカサンドラが積み上がった教科書を点検している。
そういえば、予備用として、教科書を寄付するなんて前に言ってたっけ。すっかり忘れていた。この教科書を見られたらすごくまずい。
こっそり退散しようとした時、気づかれて呼び止められてしまった。
「あら、随分汚い教科書ね。私なら絶対使いたくないけど、一応頂いておくわ。」
パチンと彼女の指が鳴り、あっという間に掠め取られた教科書のページが、パラパラと捲れていく。
「それは!自分で持っておきたくて!返してっ」
彼女の、端正な眉がつり上がった。
「なんであなた、セブルス・スネイプの周りをハートマークなんかで囲ってるの?」
彼女の取り巻きがクスクス笑った。
見られた。知られてしまった。しかもこんな大勢に。
「・・・肖像画相手に、殊勝なこと。スリザリンも落ちぶれたものね。」
ずっと、隠してきたのに。誰にも知られないようにしてたのに...!
みんなに見られている。笑われている。誰も助けてくれない...!
足元が崩れ、心がバラバラになる音がした。
私は教科書を取り返すことも忘れ、寮を飛び出した。
夜、ひっそりベッドに戻ると、「お返しするわ。」とご丁寧なメモ付きの教科書が置いてあった。
こんな時でも綺麗な彼女の字に苛立って、メモをくしゃくしゃに丸めて、インセンディオで燃やしてしまった。
元々寮に馴染めていなかったうえに、この「事件」以降、ますます内弁慶になった私は、透明薬を飲んで城中をほっつき回るのがお決まりになった。
卒業式の1日前。スラグ・クラブの「卒業おめでとうパーティー」に呼ばれた友人を見送り、また透明薬を飲んだ。城は粗方探検し終わっていたので、適当にぶらついていると、ガーゴイル像が見えた。
私はいつの間にか、校長室の前にたどり着いていた。
そこに彼がいた。と、風の噂で聞いた事があった。たしか首席のグリフィンドール生が見たらしい。
O.W.L.試験で変身術を落とし、マクゴナガルから認識されているのかも怪しい私では、そこに入るきっかけは掴めぬままだった。
さっき大広間で、マクゴナガルが寮生に、「わっしょいこらしょいどっこらしょい」をせがまれ、やんやの喝采を受けていたのをちらと見た。部屋の主はいない。透明薬を飲んだ今なら、入れるかもしれない。
辺りに誰もいないことを確認して、扉のノブに手をかける。
果たして、扉は開いた。心臓の音がやけにうるさく、彼が近くにいることを知らせた。
正面の壁に、ずらりと歴代校長の肖像画が並ぶ。
一瞬で、見つけた。
壁の上の方。木製の、丸い額縁の中に彼はいた。
しかも、こちらを、見ている。
侵入者を感知したのだろうか。透明マントの気配にも気づいちゃう人だしなあ。と、他人事のように感心する。
久々に見た彼の正面の顔は、なんとなく凛々しく見えた。ひどく気恥しくなり、目を逸らしてしまう。
もうすぐ、薬を飲んでから30分がたつ。他の額縁の主は、居眠りをしている。今が、彼と話す、最初で最後のチャンスかもしれない。
「その時」が来たことは、彼が発した声でわかった。
「ほう...随分とお粗末な出来の透明薬ですな。」
初めて聞く彼の声は想像よりも低く甘く、私の耳に響いた。
「スネイプ教授。」
薬切れの副作用か。体の芯がやけにしっかりして、自分が、自分でない感じがした。
好きなところは沢山あるのに、もし話す機会があったとしたら...なんて妄想して、どんな話をしようか、何回も考えたことがあるのに。本人を目の前にすると、何も言葉が出てこない。
「好き、です。」
やっと出てきたのは、何の変哲もないこの4文字だった。
「第二次魔法戦争以来、こんな生徒ばかりだ。嘆かわしい。」
フンと鼻を鳴らし、またそっぽを向かれてしまう。見慣れたその姿に安心する。それでも。
「・・・最後に、こっち、見てくれませんか。」
その顔を、瞳を、この目に焼き付けたかったのに、これで最後と思うと込み上げる涙で霞んで、ぼやけて見えなかった。
大好きな彼にだけは、涙で汚れた私の顔なんて見せたくない。絶対見せるもんか。
一礼して、校長室を去る。もう彼に会うことは無い。閉まりゆく扉の向こうから、静かなバリトンが聞こえた。
「さっさと卒業してしまえ」
夕食が終わり、寮や寝室に帰ろうとする生徒たちの波を遠目に、ふと考えた。
きっと私は、まだ知らぬ誰かに恋をして、結婚して、老いて、この世を去るのだろう。彼を心の片隅において。
彼もこの先ずっと、たくさんの、私のような「嘆かわしい」生徒の相手をしなければならない。
「影の主人公」と持ち上げられ、その胸に秘めていた想いを全世界に公開され、知らない女に恋い焦がれられ、幾人もの想いを受けとらねばならない。彼の生前の性格を考えると、耐え難いことだろうと思う。
それでも彼は、私の気持ちを馬鹿にしなかった。
きっと彼も、同じだったから。
「優しい人...。」
溢れ出た呟きは、初夏の薄ら寒い夕闇に消えた。
私はまだ、この気持ちから、卒業出来そうにない。
「卒業」 end