ファミレスの話 いらっしゃいませ!
自動音声というのは、はっきりと聞き取りやすく、そして明るい。
鯉登は二枚目のドアを強く押し開け、踏み込んで店内を見回す。カフェ風、といえば聞こえはいいが毒にも薬にもならないようなインテリアで統一されたファミリーレストラン。隅のソファー席、オレンジ色の丸いペンダントライトの下で月島が軽く手をあげてみせるのがみえた。鯉登は二週間ぶりに見るその姿に眉を顰める。心なし、痩せたような気がする。
「すまない、待たせた」
月島はグラスに半分残ったアイスコーヒーを端に寄せて、鯉登のスペースを作ってくれる。水滴が丸く机に跡を残している。
「今、来たところですよ」
月島の横に置かれたボストンバッグが目につく。随分年季が入っているようで、持ち手のコバが毛羽立っている。もう長いこと一緒に住んでいるというのに、見たことがなかった。
「そんな鞄、持ってたんだな」
「これ? ああ、ボロいんですけど。結局一番荷物が入るから」
捨てるに捨てられなくて、と月島は軽く叩いてみせた。
「旅行の時とかは、俺そんなに荷物無いんですけど。今回は色々荷物が多くて」
月島は備え付けのタブレット端末を抜く。
「何か食います? 」
ご注文をどうぞ!
自動音声はいつだって明朗だ。
「俺、腹減ってて」
「退院、おめでとう」
月島は一瞬動きを止めて、目を瞬く。
「本当は花でもと思ったんだが、電車の遅延に気を取られてしまって」
月島はなんだ、とでも言いたげに顔の前で手を振る。
「花なんて、食えるわけじゃないですし」
月島は画面を覗き込む。郊外の病院の目の前という立地だからか。平日の、それもモーニングともランチとも言えない半端な時間だからか。店内は静かだった。ボサノヴァ風の音楽と時折食器の触れる音、そして猫型の配膳ロボットが発する明るい声だけがある。
——今、病院なんですけど。ちょっと入院することになりそうで。
ボソボソと吹き込まれた月島からのメッセージに慌てて折り返しの電話をすると、本人はもう病院に居るのだという。ケーソン作業のトラブルに対応した際に減圧症の症状が出て検査と入院加療をすることになったらしい。
「俺はなんとも無いんですよ。今は会社のほうがそういうの気にするから。念の為ってことで」
と、のんびりとした口調で言う月島に鯉登は眉を顰める。
「入院なんて一大事じゃないか」
今すぐ向かうと言っても、月島は調子を変えない。さっき家によって必要なものは自分でまとめてきたので、とか。洗濯が必要なものは全部病院で借りられますから、とか。あと疫病の関係で面会にも制限があるんですよ、とか。会社の連中が色々手続きしてくれたのでもう大丈夫ですよ、とも。先回りして、迷惑をかけないように。月島らしいと思ったし、多分逆の立場だったら自分もそうするだろうと思う。一緒に住んでいるとはいえ、お互いに大人なのだし、他人なのだから。そうか、と言ったきり言葉が出てこない。少しの沈黙を置いて、電話口から月島の小さな声がした。
「鯉登さん。ひとりで寝られますか」
「せからし」
「なら、安心だ」
月島は小さく笑って電話を切った。月島の入院はそこから結局、二週間かかった。鯉登は一度も面会には行かなかった。本人が来なくて良いというものを無理には行けない。始めのうちこそ、月島からメッセージが送られてきた。食事の写真とか、検査があったとか、Wi-Fiがあるから退屈はしないとか。鯉登もちゃんと掃除しているとか、自炊した写真とか、見かけた猫とかの写真を送ってみたが、なんとなくお互いに返信の間隔が空いていくのがわかって、必要なことだけを送るようにした。気になって仕方がなかったが、もし病状を聞けば余計なことを言ってしまいそうな気がした。そんな危ない仕事、やめてくれ、とか。せめて、おやすみ、ぐらいは送れば良いのかとふと思ったが、なんだか気恥ずかしい。まるで、月島が居ないと眠れないようで。
「俺、これにしようかな。鯉登さんは? 」
「朝はコーヒー飲んできたから」
「でも、甘いものぐらい食べられるでしょう」
一人で食べるのは気づまりだろう。鯉登は端末を受け取ると、メニューを見るでもなく月島の頼んだものの数量を二にしてオーダーを飛ばした。
ご注文、ありがとうございます!
はっきりと明るい声だけがふたりの間で響いた。
「水、とってきましょうか」
腰を浮かせた月島を制する。
「病人は座ってろ」
思ったよりも尖って響いた自分の声に自分で驚く。
「すまん、自分でとってくるから大丈夫だ」
ドリンクバーというのはどうしてこういつも、何となく濡れているのだろうか。鯉登はトングをゆび先だけで摘む。氷がプラスチックのグラスに触れてころんと音を立てた。
行儀が悪いとは分かっていたが、その場で一度飲み干した。なんだか、落ち着かない。鯉登はもう一度水を注いで、月島の待つ席へと向かう。お待たせしましたにゃん!
にゃん。
思わずくちに出してしまいたくなるほどの違和感。隣席に食事を届けに来た猫型のロボットは均一な声を出す。殊勝な顔でトレーが取り出されるのを待っている。
「こいつ、賢いですよね」
「そうか? プログラミングされた通りに動いているだけだろう」
感じ悪かったかもしれない、と思って月島を盗み見るが、ストローで氷を突いている。
「なんで猫なんだろう。豚とか牛とかのほうが自然じゃないですか。メニュー的に」
「それはデリカシーがなさすぎるだろう」
「猫はいいんですか」
「メニューに無いからな」
「じゃあ象とかでも良いわけじゃないですか」
他に話すことがあるだろう、と思いながらも月島のペースについ引き込まれてしまう。ああもう、と思って顔を上げると月島はなぜだか楽しそうな顔をしていた。
「なんだ」
お待たせしましたにゃん!
タイミングを見計らったように猫型ロボットが料理を運んでくる。奴らには会話の機微を汲み取るセンサーはない。ピカピカと光って存在をアピールする。
「なんだ。賢いうえに、かわいいのか。お前は」
月島が猫型ロボットからトレーを取り出す。
かわいい、鯉登は月島の言動に目を剥く。時々するっとそういう事をくちにするのだ、このおとこは。
運ばれてきたのは鉄板で、ハンバーグにかけられたデミグラスソースがパチパチと跳ねる。揚げたてのコロッケとエビフライがパチパチと音を立てている。全てを覆うように目玉焼きがぺろんと載っていた。萎びたインゲンも乾いた人参もメインを引き立てるためにワザと美味しくなさそうな見た目をしているのかもしれない。ミックスグリルは万人受けるす愛想を振りまき、脂の焦げる匂いに本能はまんまと釣られて空腹を訴える。皿にこんもりと盛り上げられたライスはきっと大きいサイズのものだ。
「こういうやつ、食べたかったんですよね」
二人の前に同じ料理が並ぶ。月島がカトラリー入れからフォークとナイフを出し、鯉登に手渡す。鯉登は割り箸を取って月島に手渡す。月島は箸を手に持ったまま、手を合わせた。
「いただきます」
静かに、でもはっきりと月島は呟く。鯉登はその姿に、思わずカトラリーを置いてしまう。カチャリ、と金属の音がした。
月島は別に一般的な習慣や作法を意識する性質ではない。平たく言えば、行儀が悪い。扇風機のスイッチは足で押すし、枕の上に平気で座る。和室の敷居も踏むし、玄関の靴はいつも脱ぎ散らかされている。比較的厳しい(らしい)両親に育てられた鯉登にとっては月島の振るまいに驚かされることもある。ただ、飯を食うときだけは必ず「いただきます」と言うのだ。本人にそれを指摘したことはない。月島のことだからきっと気づいてもいないのだろう。なにしろ、明治の頃からの癖なのだ。鯉登はその月島の「いただきます」が好きだった。
ふいに病院のベッドの上でも食事に向かって律儀に手を合わせる月島の姿が思い浮かんだ。間違いない。誰も見てないとしても月島は小さくつぶやいていた筈だ。
「会いたかった」
「うー、これこれ」
月島は鯉登の声など聞こえていないようだった。眉間に皺寄せて、イクときみたいな変な顔をして皿にくちをつけて、鉄板から移植してきた目玉焼きと一緒に米をかきこんでいる。
「病院の食事って栄養とか色々考えてくれてるのは有難いんですけど、全部が優しすぎてぼんやりしているんですよね。味も温度も」
バターの粒子がキラキラと光るソースを纏ったハンバーグを箸で器用に切り分け、ザクザクと氷雪を踏む音でエビフライを飲み込んでいく。オレンジ色のパン粉がパラパラと胸元に散る。口元をぬぐいながら、合間に米を食む。強い顎が絶え間ない咀嚼をする。喉仏が薄い脂肪の下で動くのがわかる。逞しいおとこの身体の中でも、その部分を筋肉で覆うことはできない。剥き出しの器官はひどく繊細だ。強いも弱いも、全てを兼ね備えたこのおとこの食事の様子は、生き物としてあまりにも見事だ。いただきます、という月島の呟きは祈りにも似て、そして官能の合図でもある。鯉登はおとこが今日も生きているという賛辞をこめて、そっと自分の目玉焼きを月島の皿へと載せてやる。
「くれるんですか」
「退院祝い」
「良いですね。花より、全然良い」
月島は目玉焼きを重ねたまま肉を切り、一片をくちにする。濃い黄色が滴って、おとこの顎髭を伝って汚す。
「こぼしてるぞ」
紙ナプキンを受け取りながら、月島は目だけで鯉登を見上げる。
「俺もちゃんと、会いたかったですよ」
手からナイフとフォークがするりと抜け落ちていくのがわかる。
「あーあー、ちょっとこぼしてますよ」
そういうところだ。鯉登はキェっと叫びたい衝動を押し込めて、合皮のソファーにずるりと沈み込んだ。