菜の花を食べる話 素足で踏む濡れ縁はまだ氷のように冷たい。庭の片隅へと寄せた雪は温度のある朝日の中で少しずつその険しい稜線を緩やかにしている。鯉登は一度グーンと伸びをして、寝巻きの袂に手を突っ込んだまま庭へと降りた。
昨春にこの家で暮らし始め、夏には草が伸びるのを見て、秋には芋を掘り、冬は雪が覆うのを見た。ようやっと、もしくはあっという間に季節は一巡した。全くの平穏無事とは言えないにしろ、なんとか迎えた春だった。 金塊争奪戦後、何はなくとも、とりあえず身を置くために家を借りた。元は長く空き家になっていた借家だったが、月島が忙しい間を縫うようにして細々と手を入れたおかげで、住まうには申し分のない様子となった。だというのに、当の本人である月島はさっさと別の場所へと間借りを決めてきたという。
「まさかこんな広い場所をわたしひとりで面倒みろというのか」
「まさかご自分の面倒もみれないとは。飯炊きでも雇ってください」
なんと。
打てば響くとは月島の態度を指すために作られた言葉だろうか。それでも鯉登はちゃあんと心得ている。
「なあん、月島ぁ」
押して駄目なら引いてみよ、というのが定説だが、押しの一手という言葉もあるのだ。やれ夏掛けの布団が見当たらないだの、やれ錠前の油が切れただの、やれ風呂がうまく沸かせないだの。あの手この手でおとこを呼びつける。
「いい加減にひとを雇ってください」
「それならお前が信頼に足る者を選んでくれ」
そう言うと月島は短く唸ってようやく観念し、その日の内に布団を運んできた。台所の横にある小上がりに寝ようとするのを、また押しの一手で自分の寝室へと運ばせるまでには、そう時間は掛からなかった。
信頼できるものなど、月島の他にあるだろうか。今や鯉登は四面楚歌だ。北方パルチザンの急変的侵略に対する攻防という表向きかつ海軍を説得するための話を体裁よく整えつつ、裏では中央内部での造反が露呈することを防ぎつつ、鶴見が独断で行動した結果であると弁を立てなくてはいけない。はじめ、鯉登は洗いざらいを話して一切の責を負うつもりであったが、それでは済まないと月島に一喝された。騒動に関わった兵のこの先を守るに貴方がいなくてどうする、と。それは鯉登の補佐官としておとこが側付いて以来、初めての叱責だった。
清濁を併せ持つという言葉がある。この怒涛の一年、鯉登は月島にその言葉の意味を身をもって教えられた。月島から飲み込めぬものを流し込まれるたび、鯉登は嗚咽を堪えて歯を食いしばった。それは鯉登の身の内をじっとりと伝い、胸を焼き、胃を重くして腸を腫らしていく。特に鶴見の名を糾弾せねばならない時、いっそ全て吐いてしまえれば楽になるぞと何者かが耳元で囁く。違う、あのひとはそんな人間では。真実は胸の中にあって嚥下の度に息を苦しくする。演じろ、と鯉登は自分を鼓舞して杯を高く掲げて真実と嘘とが混ざった混沌を飲み干してきた。月島にはいつも側で控えていろと命じていた。万が一の時に吐瀉物を拭き清めてもらうためだと思うだろうか。否、一滴でも鯉登のくちが不都合なものを溢したときにはその剛腕で首をへし折って貰う覚悟だった。絶対に失敗は許されない。それが残った者の、残された者の、託された者の使命だと、暗黙の内にふたりともが了解していた。そのために、ふたりで日々を重ねている。
家の裏手は北にあるせいか、表よりも雪が多い。角を曲がると、薪を燃す匂いと米の炊ける匂いがする。裏庭に面した台所からは煙と湯気が漏れでていた。月島が朝食の用意をしているのだろう。声をかけて驚かせてやりたい気持ちを抑えて、鯉登は雪解けの畑に分け入った。月島の耕した猫の額ほどの耕地には少しずつ土の黒い色を覗かせている。鯉登は少し前、そこにすっくりとした芽が顔を覗かせているのを見つけたのだ。縮んだ葉を寒空にこわごわと広げ、ひょろりとした茎を徐々に太くして丈を伸ばしていく様は、春の訪れそのもののだった。ここ最近は特に忙しく、朝ものんびりしていられなかった。しばらくお目にかかっていないうちに、今日はもう蕾でも付けているかもしれない。何と言う草なのか。野菜にしては可愛らしすぎるから、鳥が溢した種なのかもしれない。きっと可憐な花を咲かせるに違いない。春の強い風がぴゅうっと吹く。鯉登は名も知らぬ相手との逢瀬にこころを弾ませながら柔らかい土を踏んで覗きこんだ。
「月島ァ!」
月島は吹き竹を片手に竈門の前にしゃがみ込んでいた。
「ああ、おはようございます」
突然、台所に飛び込んできた鯉登に驚かないどころか一瞥もしない。
「どうして刈ってしまったんだ」
「何の話ですか。ほら、戸を閉めてください。風が入って仕方ない」
月島は火の様子に目を置いたまま立ち上がる。もどかしさに鯉登は地団駄を踏む。
「だからっ、畑からぴゅっと生えていた奴があっただろう。もうすぐ花が咲くところだったのに」
月島は眉を上げて、作業台に目配せする。
「菜花のことですか。そこにありますよ」
白い布巾を除けると、琺瑯のバットの中に無惨に切り取られた茎が塩まみれで横たわっていた。
「そうやって漬けておくと長く持つそうなので」
まだ青いものが高いので助かります、と月島はのんびりした調子で鍋をかき回した。
「貴様っ、まだ蕾じゃないか」
「蕾菜って、あなたの所では食べないんですか。その辺に生える草の中ではまだ美味い部類ですよ」
緑の蕾の下から黄色く小さな花びらがのぞくのを鯉登は見つけた。咲けばさぞや可愛らしい姿になっただろうに、と触れると花びらが指さきについた。
「お前には風流というものがない」
「なんですか、風流って」
「それは、ほら」
「自分でも分からないものを、ひとに求めないでくださいよ」
ほら、飯にしますよと月島は手を叩いてみせた。
食卓には大根の味噌汁と煮しめた椎茸だけが載っていた。盛り上げた米を月島から受け取り、鯉登は声をあげる。
「無いじゃないか、あれが」
「菜花のことですか? 漬けたばかりですよ」
「せめてもの餞にすぐに食べてやらないと」
そういうものですか、と言いながら月島は台所から小皿にのせた菜を持ってきた。青磁に青々とした緑色がよく映える。箸先で掴んでくちに入れる。
「苦いでしょう」
冴え冴えとした色に相応しく、青菜は舌に新鮮に、鮮烈に苦かった。
「苦くない、全然苦くない」
月島は澄ました顔で、自分の茶わんへと二杯目の米を盛り付けている。自棄っぱちで菜をくちの中へ押し込む。苦味に奥歯の下あたりがぎゅうっと縮む。
「ああ美味い、ああ美味い」
小皿にくちをつけて残った汁まで啜ってやる。どうだ、これで文句あるまい。
「子どもじゃあるまいし」
あわてて味噌汁を飲んでも、塩味を感じるばかりでそれ以上はよくわからなかった。
「そういえば、今日の夕方は何某との会食ですが」
月島は残りの味噌汁を飯にかけて飲むようにしてかきこんだ。
「もう少し上手く演じていただかないことには」
以前から鶴見をよく思っていなかった布陣との会食である。鶴見に唆されたのだと訴え、自分の将官としての不甲斐なさを謝りながらも今後の支持を引き寄せるために若者らしく熱っぽく国勢についての弁を奮わなくてはいけない。どうかんがえても泥水を啜る方がまだマシだと思われるような仕事である。
「わかっちょ」
鯉登は椎茸をぐにぐにと噛みながら、茶を飲み下す。喉が苦味のせいかイガイガとした。
*
毒を飲んだように身体が重い。月島が用意してくれた水で辛うじて足だけを清めると、鯉登は寝室の畳の上にごろりと寝転がった。胃の中身がどろりと重い。西洋風を模した酒肴はバタと肉の脂でべたつき、渋みばかりが強い葡萄酒も芳しさの無いウイスキイも美味いわけがなかった。
「もうお休みになられては」
月島はテキパキと鯉登の寝床を延べるとそう言った。鯉登は手足を動かすのも面倒だと思った。もちろん酔っているわけではない。ただ、飲み込みたくもないものを飲み込みすぎて、気分がすこぶる悪いのだった。どのくちが、あの鶴見を貶めたのだろうか。嗚呼このくちだ、と鯉登は何度も口元を袖で擦る。くちの中が苦くて仕方がない。身体を少しだけ起こし、月島の用意した水さしにそのままくちをつける。飲みきれなかった水が口元を伝い襟元を汚す。水は無味無臭だとわかっていてもなお、苦いと感じた。
「着替えを手伝いますから」
外に出た服で布団に入ることは鯉登にとって勿論受け入れ難いことである。月島は鯉登の着ているものを剥ぎ取るべく上着のボタンに手をかける。覗き込むおとこの金ボタンは大分燻んでいる。自分のボタンは電球の灯りに光っていた。
「いい、自分でやる」
鯉登はがばりと起き上がるとどんどんと服を脱ぎ捨てた。月島の差し出す浴衣にずばりと袖を通し、ばたりと寝床に倒れ込む。
「こういう時には、風流をお求めにならないんですね」
どういう意味だ、と問う間もなく月島は鯉登の脱いだ服を持って部屋を出ていった。
*
もう雪は降らないだろうと思っていたのに、三日後にはまた庭は雪景色に逆戻りしていた。
鯉登は懐に手を突っ込み、朝の寒さを確かめるようにほおっと息を吐く。息は白くけぶって広がっていく。縁側を踏むとぎしっと鳴った音に驚いたのか黒い猫が飛び出して庭を横切っていた。どこかから入り込んだ猫が一晩の宿を借りていたらしい。
「早く出ていかんと、酷い目にあうぞ」
月島は庭が荒れるといって、犬猫をすぐに叩き出してしまうのだ。
台所に降りると、湯気の中で月島が振り返った。
「珍しい、お早いですね」
予定がないのだからもう少しお休みになってはと月島は手を拭きながら言った。そうして火の前にしゃがみ込む。
「まだ、飯もできてませんし」
「ん、わかっちょ」
鯉登も同じようにしゃがむと、月島の背に額をつける。
「危ない。火の前ですよ」
軍曹殿の声はよく通ると評判だった。それでも鯉登にはその機微がわかる。柔らかい言葉を吸い込むように呼吸する。おとこの匂いがした。
「昔、かかどんにも同じことを言われた」
「かかどん」
月島が低い声で小さく笑うのを音ではなくて背中越しの振動で知る。もっと喋ってほしかった。別に何でもいい。ただ、月島の声を感じていたいと思った。今朝は寒すぎるから。
「ほら、焦げますよ」
「うん」
促されて鯉登は立ち上がり、忙しなく動く月島の姿を黙って見ていた。ただ立っているだけだというのに、身体がじわじわと溶けていくような疲労感が拭えない。この所、立て続け様に飲み込みたくないものを飲み込み続けているからだろうか。身体は朝起きるたびに重くなるばかりだった。湯気の向こうで動く月島の輪郭がぼやけていく。毎晩のように開かれる酒の席で、鯉登が鶴見を貶める様子を月島は黙って見ている。そんな時、じっと控えている月島の輪郭がシガーの煙の向こうで曖昧になって見える。もちろん月島と示し合わせて鶴見の名を利用していることではあるとして、実際に鯉登のくちから出る言葉は月島にはどう聞こえているのだろうか。——わたしは鶴見というおとこに騙されていたのです。親子揃って利用された愚か者なのです。どうぞこの愚かさを笑い、救いようのないわたしに何卒、あなた様の慈悲深いお心を賜れませんでしょうか。わたくしにとっても兵達にとっても、国を慮る気持ちは誠でありたったひとつの真実なのです——
鯉登は舞台の上に上がって演じているだけであるとして、舞台袖で待つ月島にはそれが真実のように見えていやしないだろうか。そして何よりも、それがセリフであると一点の憂いもなく鯉登は自身に誇れるのだろうか。こころのどこかに埋もれていたごくごく小さな結晶が毎日苦い演技をし続けることで少しずつ育っていやしないか。あの人を貶めることなど。そんなことは万が一にも無いと思えば思うほどにこころが囚われていく。あの時、鶴見に向かって解放してやってくれと鯉登が言った言葉を月島は聞いていたのだろうか。鯉登にはそれを確かめる勇気がない。いい加減に慣れなくてはいけない。酸いも甘いも——胃液がぐうっとせり上がってくる。不意に台所に満ちる朝餉の気配が匂いとなって立ち上がってくるのを感じた。湯気の向こうから臭いは粒子になって鯉登の鼻腔を汚していく。
「大丈夫ですか」
気づけば、しゃがみ込んでいたらしい。
「え、ああ」
応えるよりも早く、月島は鯉登の後ろに回り込む。脇の下へと手を両手を差し込まれ、そのままぐっと上に引き上げられた。
「ちがう、ちがう、大丈夫だ」
月島というおとこはめっぽう力が強い。が、背丈は低い。鯉登を持ち上げきらないままに引き摺っていくものだから、鯉登は立ち上がる機会を逃してしまう。
「月島、大丈夫だ、立てるから」
月島はガツンガツンと方々へと鯉登の脚がぶつかるのには構わずに寝室へと鯉登をかつぎこんだ。
「申し訳ありません、すぐに気づけず」
月島は鯉登の額に手をあて、浴衣の襟を緩めて布団を被せてきた。妙に重いと思ったら月島は鯉登の布団の上にさらに自分の布団を被せたようだった。
「いや、本当にただの立ちくらみで」
思い詰めた顔の月島はこのままだと飛び出していって医者を呼んできかねない勢いだったので、鯉登は慌てて用事を言いつける。
「朝飯をまだ食っていないから、つい」
月島は得たりという様子で部屋を飛び出していき、ようやく鯉登は息を吐く。
食卓の上には豆腐の味噌汁と大根の煮たもの、それに菜花の塩漬けが並ぶ。月島は米をよそいながら、
「やはり粥のほうが良いのでは」
と鯉登を伺う。
「いい、いい。米で大丈夫だ」
そう言いながら鯉登は茶碗を受け取る。世の一銭食堂では大盛りの部類の量ではあるが、心なしいつもより米の盛りが少ない。鯉登はその分かりにくいけれども、細やかな月島の心遣いに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。せめてもと思って、大きく箸を使って米を頬張る。
「うまい」
「ご無理なさらずに」
月島は手を合わせた後、珍しく箸も取らずに鯉登をじっと見ていた。
「本当に、あなたは」
言い淀んだ月島に、鯉登は手を止めた。月島は鯉登の視線を避けるように箸を取る。ふわふわと食卓の上で行儀悪く迷い箸をする。
「なんだ、言ってくれないと気持ちが悪い」
月島は小鉢の大根を小さく切り取ってくちにすると早口でつぶやいた。
「大根役者でらっしゃるから」
はあ? と、鯉登は力が抜けていくのがわかった。
「このところの宴席でのあなたときたら。最後の方はもう先方がかえって気を遣う有様で」
「待て、待てどういうことだ」
「あなたがどれほど鶴見中尉のことを思っているのかは、もう皆の知れたことです。それでも口実というものが必要ですから、大人というものには」
月島が青菜をくちにすると、きゅ、きゅと小気味よい音が聞こえてきた
「たった一つの嘘をつくだけでこんなに体調を崩されるとは」
鯉登はカアっと顔が熱くなるのがわかった。茶碗にくちをつけて米をかきこむ。自分ばかりが、これでは一人芝居ではないか。恥ずかしさと、安堵が湧き上がる。月島には全てお見通しだったというのか。素直には喜べな鯉登は大根の入った小鉢をぐっと自分の方に引き寄せて食べる。月島は鯉登の方へと青菜の皿を押しやってくれた。箸でつつくと黄色い小さな花びらが濡れて光る。
「また、どうせ苦いんだろう」
月島は答えずに、目線で促す。汁気を纏った青菜はしっとりと濡れている。
「咲かせれば綺麗だったものを」
鯉登は悪態をつきながら、その蕾をくちにした。奥歯で噛むと、塩気ともに旨みのようなものが滲んだ。あれ、と思って咀嚼する度確信に変わる。昆布、のような旨み。菜の苦さは角がとれ、甘みに変わっており、青臭さはほとんど感じない。視線に顔をあげれば、月島がしたり顔で頷いていた。
「どうせこないだのとは別のものだろう」
ぷいとくちを尖らせて、咀嚼する。
「同じですよ。こういう黄色い花が咲く草は塩をして置いておくとこうなるんです」
ふうん、と鯉登は箸で菜花を摘んでしげしげと眺める。
「月島は物知りだな」
「草はどこにでも生えますからね」
月島も菜花に箸を伸ばす。ふたりで同じものを食む。
「時間が。時間が解決することも、ありますから」
「うん」
そう言って噛んだ菜花は、舌にわずかにほろ苦かった。