最後の書類に署名をして、アリオーンは伸びをひとつした。窓の外の陽は未だ高く、影も伸び倦んでいる。春にしては暖かな日で、だから窓の玻璃越しに、温む気配が多分にした。なんとなく身のうちがそわついて、アリオーンはもう一度伸びをした。
めずらしく予定が空いていたから、なんとなくアリオーンは城内を散策しようと思い立った。このところ運動不足が続いている、動いておくのも悪くない。だから長い足を動かして、ざくざくと歩いて行った。おや、花が咲いたな。この樫もずいぶんと伸びたものだ。そんなことをとりとめなく考えているうちに、アリオーンの足は城の一角、人のほとんどこない裏手の方へと向いた。変わらず大きな椎の木が、石造りの壁に、厚い影を投げている。トラキアの城にはこのような、食える実をつける樹木がよく植えられていた。ほんとうに実用的な、無骨な城だった。ーー歴代の主人のように。
遠征帰りの父は、息子をここへと連れ出すことがままあった。そうして親子二人して、何度か内緒の「報告会」をしたものである。それを思い出して、息子の唇はかすかに緩んだ。
ーーさて、王太子殿。留守のあいだ、何か異常はあったかな。
父はそう言って、木陰の壁にもたれた。アリオーンも真似るようにして背を預け、父といくつかの話をした。留守居の報奨であると称して父が菓子を取り出すので、父子はいつも行儀悪く、立ったまま菓子を頬張っていた。母上殿には内緒だぞ、と父が口の前で指を立てるので、息子も真似して指を立てた。
父が異国から持ち帰った菓子は甘く、しかしそれ以上に、普段忙しくて構ってくれない父が話を聞いてくれるのが、たまらなく嬉しかった。だからアリオーンは子どもなりに、一生懸命報告をした。よくしてくれる侍女が嫁に行ってしまったこと、えんどう豆が食べられるようになったこと、おのれが生まれた時に中庭に植えられた杏が、とうとう実をつけたこと。そうして、穀物蔵の茶トラの猫が子を産んだと聞いた時、父は声をあげて笑っていた。
ーーあの猫は、母親の代から気が荒くてなあ。
わしも何度か引っ掻かれた。ダインの直系に傷を入れたのだ、蛮勇恐るべしと言ったところだな。さすがに蔵を守るだけのことはあると思った。だからそれ以来わしはあやつのことを、猫将軍と呼んでおる。
ーー秘密だからな。
父がまた唇の前で指を立てたので、アリオーンもやはり習って指を立てた。その猫もやがて死に、当時生まれた猫ももう残っていない。今穀物蔵を護るのはその孫か、またその子ども、さらにはその子である。気の荒さは今の代でも健在で、かつての王子の訪いにも、喉を鳴らして歓待するようなことはない。それがおかしかった。そうして、おのれにも”将軍家”のように、父から引き継がれている何かはあるのかな、と思った。
目的の場所は、すっかり苔むしていた。長い時が経っていた。あの時の椎の木は、なお青々と枝を伸ばし続けている。歩いて暖まった体に、木陰が心地よかった。相変わらずだと思った。
壁をざらりと撫でてみて、ふとアリオーンは違和感に気づいた。目を凝らすと苔に隠れて、かすかな横線が刻まれている。怪訝に思って苔を剥がすと、横線は一本ではなく、脇にも何かが刻まれていた。石まで崩してしまわないよう、アリオーンはそっと丹念に苔を払った。
四。ようやく読めたのがそれだった。そうしてその上、苔を削ると、五の字が現れた。それから、六、七と。八の字を読んだとき、アリオーンはそれが何か理解していた。そうしてさらに横に日付を見たとき、それは確信に変わっていた。なぜ、父がかならずここを選んだか。なぜ、立ったまま菓子を食べるなどという不躾なことをさせていたのか。
ーーあの人は。
ちいさく、アリオーンは笑った。言えばいいのに。最初っから、おまえの背が測りたいから立っていろと、言えばよかったのに。そうしたらおのれは、誇らしげに、鯱鉾ばって直立してみせたから。わざわざ、こんなところまで連れ出したりしないで。
「父上」
たまたま通りがかったのか、遠くから息子が呼んだので、アリオーンは返事をした。随分と大きくなった。そう思ったとき、ふとアリオーンにいたずら心が兆した。きっと父も、最初はそんな気分だったのだと思った。
「母上には内緒だぞ?」
アリオーンは笑って、かつての標の上に背を任せた。走ってきた息子が、真似るようにして壁にもたれた。