高い木立の隙間から、太陽がわずかに覗いた。
森の霧はだいぶ薄くなってはいたが、樹木の匂いをかすかに含み、寒さを伴う清々しさで、するどく人の鼻腔を刺した。それもアリオーンには、不快ではなかった。故郷でも、こんな朝があった。そう思えば、どうにもなつかしいものである。
飛竜たちは寄り添って、団子のように丸まっていたが、彼に気付いて翼をうごめかせた。アリオーンは手振りでその動きを収めると、一頭ずつ首を抱えて、ほたほたと叩いてやった。くぅと甘えたように喉を鳴らすのを、しぃと口の前に指を立てて制する。それから狩ってきたばかりの兎を、一匹ずつ与えてやった。静かに食えよと言いながら。
「賑やかにすると、差し支えがあるからな」
笑った唇の端から、白く息がたなびいた。雪の少ない地域であるが、しかし寒さはそれなり厳しい。飛竜を動かすためには、まだ日の高さが足らぬだろう。
枯れ枝を集めて、アリオーンは火をつけた。野営の作法は、体に叩き込まれている。トラキアではこう言ったしつけについては、王子だからと加減はされなかった。だからアリオーンはなんでもできた。人より秀でてあれ、誰よりも優れてあれ。民が、縋り付いていられるように。そうして人を導いている男の背を、見ながら育ってきた。だからアリオーンは、なんでもできたのだ。──父のように。
父が寝過ごすなど、生前にはあり得なかったことだ。
ほう、とアリオーンは長い息を吐いた。英雄が二人編成で視察の旅に出るのはよくあることで、それが順繰りにアリオーンにも回ってきたということだった。それ自体は、別に否やはない。食わされているのだから、義務が生じることぐらいは、きちんと理解している。義務に応じた分の払いが出るだけでも、大したものだ。そうアリオーンはやや斜に構えて受けいれていたのだが、しかし問題は人選の方だった。
たまには父子で、というのもどうでしょうか。そんな召喚師の提案はアリオーンには複雑なものだったが、しかし結局は頷いた。断る理由もなかったが、だからと言って、手放しに頷けるものでもなかった。父との別れについて、まだ心中では落着できてはおらず、そもそも生前にも、それほど長期間二人きりになったこともない。そう思えば、どういう表情でこの任務を受けたものかわからなかった。けれども任は任であるし、他に連れとして指名できるような人間も浮かばない。だから請け負うアリオーンの顔は、とても晴れやかとはいかなかった。そうして、父は果たして受けるだろうかと首を傾げもした。父が断る理由も、思いつかなかったが。
そんなアリオーンの懸念を知ってか知らずか、待ち合わせの場所に現れた父の姿は、普段通り超然としたものだった。まあ、初めてのことではないゆえな。わからぬことがあるなら聞け。父はそう言ったが、一方で、誰とどのような旅をしたのかについては、特に語りはしなかった。そういった言葉の端々に、息子は彼よりも早く召喚された父が、どのような人間関係を築いてきたのか、気にならないでもなかったが、しかしそんなことを聞こうとすると、いつも息子の口はもったりと重く閉ざされた。聞いてどうなるというものもあるが、それ以上に、聞かれた父がどう思うかが気がかりでもあった。思慮深いと皆は褒めそやしてくれるが、なんのことはない、単に臆病なのだ。そうアリオーンは、どこか突き放すように自分のことを見ている。
それでも旅は順調で、いつのまにか行程も折り返しである。わからぬことがあるなら聞け。そう言うだけのことはあって、父は世馴れない息子を、いろいろと先導してくれた。息子としてはそう言ったところに多少の気恥ずかしさと居心地の悪さを感じもしたが、しかしその気力や判断力、あらためて見る戦いぶりに、やはり大したものだと感心もした。そうして、この背に追いつけるだろうかと、やはりあらためて悩みもした。
二人きりでこうもいれば、自然、世間話も増えてくる。父はおのれの死後のトラキアのことに関しては、息子の──と言うよりは、アルテナや、リーフ王子のことも含めてだろう──意思を尊重するつもりか、あまり尋ねたり、口を出すようなことはしなかった。ただ、本当に世間話だけをした。昔のトラキアのさもない話、アスクでのこまごましたことや、旅のあいだ立ち寄った村でのこと。そうして話題はいつしか、早くに亡くなった母親のことになった。
「まあ、できた女だった」
母のことを思い出すとき、父はいつもそれだけ言った。父と母の関係がどのようなものであったのかは当時幼かったアリオーンには答えがなく、だからよそで作った子だとアルテナを連れてきたことなどに、子供心に色々思う事もあった。ましてそのアルテナが、父の子ですらなく、レンスターのキュアン王子の娘だと知ってからは。しかし結局は、彼が口が出せるものでもなかった。父と母とのことは父と母だけのもので、息子といえどもそれ以上踏み入ることはできなかった。それでも、もし踏み入ったとしたら、父は何か答えをくれたかもしれない。アリオーンは父の死後に何度かそう思ったが、もはやすべては過去のことだった。しかし今こうなって見てみると、そう語る父の唇は、らしくもなくほんの少し寂しそうに、けれども懐かしむように、なにかよほどよいものを大切に含まされているように、かすかに緩んでいるのだった。
「おまえは、わしよりもあいつに似ている」
父はそういう時、決まって最後にそう言った。そうでしょうかとアリオーンはそれとなく疑義を口にするが、父はうむ、と静かに断言したきりで、それきり、どこがどうとは言わなかった。それもアリオーンには複雑だった。母は武門の出ではなく、彼の出産で体を崩したきり、結局二人目に恵まれることのないままこの世を去った。アリオーンはそんな母のことを愛してはいたが、しかしトラキアのような国の王子として、そういった「弱い」母の方に似ているということを「強い」父から言われることは、若干の棘を心に残してもいた。けれどもこうやってわかりにくく綻ぶ父の唇を見ていると、そこまで深く考えずに、ただ母への愛情の縁だったと受け取ってよかったのかもしれない。今さらのことではあるが。
強い男。それも、複雑なものである。わしはつかれたのだ。父のその言葉はそういう意味ではなかったが、しかしそう言った意味でも、父がそんな弱音を口にしたことはなかった。アリオーンの覚えている限り、体調を崩したこともなかったし、どのような時でもぴしりと背筋を伸ばしていた。いくら聖戦士直系の頑健さがあるとはいえ、並大抵でできるようなことではなかった。それが誇らしく、そして、たまらなくおそろしかった。この人の期待に叶う王子になれるのか。この人のような王になれるのか。この国を、背負うことが。そんなことを思いながら見つめる横顔はいつも険しく、他者の援けを拒絶していた。堂々と、逞しく、巌のように。誰かが見ていたとしても、見ていなかったとしても。
旅の間、いつも父は彼よりも早く目覚め、身支度も半ば終えていた。息子は遅れたことを詫びるのだが、父はべつにおまえが遅いと言うわけではない、歳をとると妙に朝が早くなる、とだけ淡々と言っていたが、しかし息子としては、言葉通りにそれを受け取って、安閑としているわけには行かなかった。たかが早起き、されど早起き。ただでさえ、生前にまともに休んだところを見たことのない父である。だからそんな程度のことでおのれの甘えや未熟を突きつけられているようで、息子としては落ち着かなかった。
それが、ご覧のありさまである。
アリオーンは今朝、初めて父よりも早く目を覚ました。それからおそらく父がいつもしているように、そっと、相手を起こさぬように、寝床を抜け出した。川の冷たい水で顔を洗い、かたちのよい顎の薄い髭をていねいにあたり、母親似と言われる髪を梳り、それでも父は起きては来なかった。そうして、起こすほどの時間でもなしと散歩がてらとひとりで飛竜の餌を狩って帰ってきても、未だ天幕は静かなものだった。
ずいぶんと、気を張っていらっしゃったのだろうな。そう思えば、自然と口の端が上がってくるのを、止めることができなかった。なんのことはない、似たもの親子だったのだ。互いに気を遣い、遣われ、勝手に思い詰めていただけなのだ。それはたしかに、ああ言う国を治める上では、必要なことだったのだろうが。結局父も、完全な人間ではなかったのだ。あたりまえのことながら。
アリオーンは、そっと天幕のうちを覗いた。薄暗い天幕の中で、微かな呼吸音とともに、父の鍛え上げられた胸の肉が、毛布を規則正しく持ち上げている。それを確認すると、アリオーンは小さく笑って入り口を閉じた。旅程には余裕がある。それに、どうせ空気のぬくもるまでは、飛竜の動きも鈍いのだ。だから、まだ寝かせておいてやろうと思った。それから、ごく小さく鼻歌を歌いながら、朝餉の用意をはじめた。昔父が、よく歌ってくれた歌だった。父は、覚えてはいるまいが。
父は、どういう顔で起きてくるだろう。あの人でも、寝過ごしたと気付いて、慌てたりもするのだろうか。気まずそうに、不機嫌そうにむっつりと口の端を下げて、天幕をひらくのか。そうして、気恥ずかしさを押し隠して、おはようと口をひらくのか。なんと返してやろうか。どういう顔を向けてやろうか。
彼は、小さく伸びをした。ゆるゆると吐いた息が、風に靡いて白く流れる。それが妙におかしくて、アリオーンはもう一度深呼吸をした。冷気に肺が痛むのが、かえって快かった。
小鳥の囀りと羽ばたきに視線を向けて、アリオーンは思わず太陽に目を細めた。ああ今日もいい天気になりそうだと、そんなことを思った。