進捗あれから。退院後も自宅療養で志津摩が暫く休んでいる間に八木はさっさと退職届を出してしまい、すでに準備していた引き継ぎ作業も早々に終わらせた。志津摩が仕事に復帰して二週間後に八木は会社を辞めてしまった。結局一緒に仕事することは殆どないまま、八木は有給消化期間を利用しあっという間に隣県へ引っ越ししてしまった。つまり、真っ当に向き合い付き合っていこうと決めて早々遠距離状態になったのだ。
志津摩はここで不安になった。このまま八木と離れてしまうのではないかと恐くなった。
八木の方は呆気なく「じゃあまたな、志津摩」なんて名残惜しげもなく颯爽、薄情に引っ越してしまった。志津摩はこわくなった。また逢えなくなったらどうしよう。また八木に逃げられてしまったらどうしよう。けれど、今新たな生活を始めようとする八木を煩わせたくなくて、直接志津摩の抱える感情を伝えることもできなかった。
それは雪の日だった。八木と離れて三か月が経っていた。あれから一度も逢っていない。八木がわからなかった。メッセージをしても返事は遅い、日はまたぐ。電話しても途中で寝る。あの日病院で聞いて以来「好きだ」と伝えられることもなかった。勿論そんな期待をしていたわけじゃない。彼はあの八木正蔵なのだから。不器用で粗雑で、素っ気ないくせ、内側は繊細でいつも変なことに頭を悩ませる。淡々としていて無骨なあの上司の八木がおそらく平時の八木であって。あんなに必死で志津摩に想いを打ち明け哭いていたあの瞬間はいっとう特別な瞬間だったのだとはわかっているけれど。
もう少し。もう少しだけでも安心させてほしいと思ってしまう。
ただでさえ、八木は余計な慮りで自分を遠ざけようとした前科がある。
忘れていてほしいと言ったのは本心だっただろう。
あの日、伝えてくれた全ての言葉を疑っているわけじゃないけれど。
志津摩は未だ、記憶が蘇ったからこそ余計に。全てが恐くなる時があった。
また、志津摩がすきになると、八木を苦しませてしまうのではないかと、恐ろしい記憶が浮かんでくる。激昂し手を振り上げた八木が思い出されて身体が冷たくなる。
ああ、そうか。八木の心配はあながち間違いでない。
この記憶。八木と極限の日々を支え合い、抱き合い心を撫で合った日々を志津摩は忘れたくなかったけど、思い出して大切に心に遺しておきたかったけれど。背負うにはあまりにも痛みを伴う。
今を生きる八木を信じている。それでも幾度となく志津摩の霊肉に刻まれた懼れは消え去らない。焼き付いてしまっている。そんな要らない恐怖まで蘇ったのだ。
八木はそうとも気づかないのか変わらず素っ気ない八木に戻ってしまい離れていった。
今は何を考えているのかもよくわからない。
あれほど辛い時分、志津摩は八木の心が読めるように伝わってきたのに。
返答のない未読のメッセージをみて、志津摩はそれをそっと取り消した。
八木はそもそも釘をさしていた「俺はろくな男じゃない」
夜中。一時半。
スマホが鳴って志津摩は目を擦る。画面には八木正蔵と表示されているのだから目が覚める。
「八木さん?」
八木から電話をかけてくることなんて殆どない。なにか緊急の用事だろうかと慌ててスマホをタップした。
「八木さ、」
「志津摩」
八木の声はいつも通り低くて落ち着いている。しかし何かが変で首を傾げる。
「はい?」
「どうした、何かあったのか」
なるだけ落ち着いて話している、そんな感じだ。逸っているような八木を気取り志津摩は心当たりを探してみるが思い当たらない。今日もいつも通り仕事をして寮に帰りいつもの時間に床に入った。何も変わったことは無い。
「え、何もないですよ?……どうしたのですか、八木さんこそ大丈夫ですか、こんな時間に」
八木は「すまん」と謝り口ごもる。言い淀みながらも「今日は仕事が遅くなった」と言い訳する子のように呟いた。
「けど、お前がおかしいから、我慢できなかった」
志津摩は瞬いて停止した。自分の何がおかしいのか全くわからないし。我慢できないという八木に衝撃を受けている。固まっている間も八木は言いにくそうにぼそぼそと続ける。
「おかしいだろ、何か送ったくせに消してるし」
そこでハッとする。もう重いからやめようと消したメッセージのことだ。毎日とはいかないものの、二、三日は空けなかった定期的に志津摩が送る挨拶や日常報告のようなとりとめもないもの。八木からの反応が鈍いそれだ。一度はいつも通り送ったが、もう面倒だと思われたくないなと寝る前にメッセージの送信を取り消した。やってしまったのだ。八木は心配症なのに。一度送ったことが送信相手にばれるとすっかり失念していた。
「ああ、えーと、間違えてどうでもいいこと送っちゃって」
適当に誤魔化すが八木は食い入るように返してくる。
「嘘だ。お前はあの時間くらいにいつも送ってくるじゃねえか」
志津摩は苦笑いする。知ってはいるのに返事しない八木はあまりにも八木。
「八木さん、見てないのにどうして」
「みてるよ、通知くらい」
八木が何やら後ろめたそうに話す。自覚ありで返事をしないのか。八木らしいし、そういう人だとわかるけれど。志津摩だって不安になるときはある。特に、記憶が戻ってからは。自分でも少し弱くなったように感じる。自分を思い切り肯定することが下手になった。素直に全てに向き合う勇気が弱くなってしまった。この八木に対する時は特に。
けれど、ここで八木から歩み寄ろうと連絡してきたのなら。志津摩はあの喫煙所へ無邪気に踏み込んでいた時の度胸を思い出す。そうやって志津摩から寄り添わないと、八木こそが俯いてしまいそうだと志津摩にはわかるのだ。
「なんで内容みるのいつもあとにするんですか……」
そんなことはどうでもいいはずなのに。志津摩は我儘になってしまったのかもしれない。
「……そりゃ、おまえ、んー、」
事実、あまり相手をしてくれない八木に対して不安を持ってしまっている。
八木がすっきりしないから志津摩は踏み込んでみる。今の八木がわからないから。
「俺、用もないのに連絡とか八木さんには負担になるかなって、思ったから。その……やめたんです、けど。すぐ気づいてるから、俺がびっくりしてます」
八木は焦ったように「負担じゃない、そうじゃねえ」と否定する。
「……甘えてた、と思う。すまん。俺は一方的にお前が一日どうしてたのか見て、満足してた」
そんなのずるいと思う。志津摩は「はい」と控えめに答えてまだ言いよどむ八木を待つ。
どうしようもなく不器用な男だと思う。おまけにどこか子供っぽい。あんなに強くて仕事もよくできる賢い男なのに。志津摩の前ではどうしようもなくなる。
今も、悪戯をして叱られる子供みたいに、言い訳を探しているかのようにすっきりしない。
「……ちゃんと手が空く前にみたら、なんか、」
「はい」
「そのー……落ち着かなくなるし、すぐ返信できない時に見ても、」
「興味ないんですか、」
「な!? なんで、そうなる……」
八木が焦るから志津摩もなんだかグズグズになる。こうして心配してすぐ連絡することもできるのに、どうして普段は放置するんだ、どうして勝手に引っ越ししてしまったんだ。ちゃんと聞かせてほしかった。もっと逢って話したかった。一緒にいたかった。
いやそんな贅沢は言わない、少しで良いからもっと反応を示してくれたら落ち着くのに。
そう浮かんで「そうだろうか」とも瞠目する。志津摩は不安を膨れさせどんどん欲深くなってしまうのではないか。もっともっと、と八木を離したくなくなったら、どうしよう、どうしよう。そんな不安ばかりの志津摩は八木の足枷にならないだろうか。
これじゃあ、志津摩はまた八木にとってよくない存在なんじゃないかと昔の自分が顔を覗かせる。こわくなる。八木には自分が居ない方が良いんじゃないかとすら過ぎる。信じたいのに。
「もう迷惑かと思って……けど、その、八木さんが今、こうして電話くれて、見てくれてるってわかったし、大丈夫なので、もう心配しないでください」
志津摩は自分がよくない思考に陥りかけていると自覚し一旦、早く八木と通話するのを終わらせようとした。また志津摩の心が元気になった時に話をしよう、一度頭をすっきりさせたい。しかし、八木が「志津摩」と低い声で呼び止める。
「おい志津摩、待て。そうじゃねえよ」
「そう、でしょう……俺にする返事なんて単語でもいいのに。けど負担になりたくないし、八木さんが疲れてるときにそういうのは、今も、その……時間とらせてるのが、辛いし」
「いや、違う」
心配性の八木が増々気にしてしまう。志津摩はそれこそそんなこと望まない。これはいけないと首を振って気合を入れ努めて明るい声を出す。
「八木さん、まあ、気にしないでください、俺、ちょっと拗ねちゃったんです、八木さん連絡無精だから、ひどいよ~って、けど大丈夫! 八木さんが気にしてくれてるのわかりましたし、良かったです」
八木は黙って志津摩の話を聞いているらしい。志津摩は何故か逸るように早口になる。
「電話してくれて、うれしいです。忙しいのにありがとうございます。ね、なんでもないですから。明日も仕事でしたよね、よく寝てください!」
「志津摩」
八木に呼び止められる。怖くなる。こんなことを伝えられた八木は優しい言葉をくれるのかもしれない。けれど、それはまるで志津摩が言わせたようになって嫌だった。
「八木さん、おやすみなさい!」
「志津摩!」
強く呼ばれると切ろうとしてもできなかった。そもそもずっと電話を切りたくなんかない。ずっと八木と話していたい。話さなくてもいいのだけれど、同じ時間を共有していたい。同じ場所に居たいのだ。スマホを持つ手が震えてしまう。
「志津摩、嘘つくなよ」
「俺が、八木さんに嘘つくわけないでしょ」
「嘘だ、なんでもない声じゃない」
八木は決めつけて言い切った。低いけれど怒ってはいない声音だ。
何がなんでもないのか、今は志津摩に上手く説明できそうもないし、ちゃんと言語化するのが難しそうだった。
「今日はもう寝ましょ? 落ち着いた時に話しましょうよ。俺なんか変で……すみません」
「だから謝るな志津摩、聴け。聴いてくれ」
志津摩は息を吸う。ゆっくり吐いて緊張した息を整える。
「……返事おせえし、冷たいのは……その、すまん。俺がわるい」
八木がまともに謝った。それを聴いた志津摩は胸がキリキリして謝らせたいわけじゃないのだと泣きたくなる。そうじゃないし、そんなことさせたくないし。けれど、こうして八木が謝るのも仕方がない状況に志津摩がしてしまった。
「違います、俺が、わがままなんです。八木さんはそういうの苦手で。それが当たり前で、気にならないだけで……俺が欲張りになっちゃったんです」
八木は電話口で「まあ、待て待て」と志津摩をなだめる。ふうと息をして意を決したような、観念したような。そんな口ぶりで話し出す。
「んー……文字うつより、声が、聞きたくなるから。で、声聞くと、ダメなんだ、」
八木は少し弱ったように笑う。
「逢いたくなる――……から、ダメなんだよ、今も、そう……」
言いにくそうに話し参ったとばかりに「あ~~~」と開き直ったような声を上げる。
志津摩はその言葉が頭に反響して声を飲む。
「逢いたいから……、お前も、疲れてるだろうし、寮だし、声聞くと、顔が見たいし、お前の匂いかぎたいし、やなんだよ、仕事でもしてないと、あいたいから、……でも、逢うと離したくなくなるし」
あーもう、情けねえ、かっこわりい。八木はあらぬことかそう悔し気に吐く。
「だから、よくばりになったのは、俺の方だと思う」
沈黙。八木の居た堪れない照れた顔が浮かぶ。志津摩はスマホをぎりぎりと握りしめ歯を噛み締める。
「しずま……? あれ、聞いてんのか、おい」
志津摩は見えないのにその場でうんうん頷いた。なかなか声を出せない。
「志津摩、俺ほんとに……悪かったよ。ごめん、俺は、いつもこんな感じでふられる。始めに好きだと言ってくるのはむこうなのに、愛想つかされて、それでまあ、しょうがねえなって……」
余計な聞きたくない話もし始めて志津摩は「なんて空気の読めない男」だと頭を抱える。これは確かにふられそうだと可笑しくなってしまう。ずるい人だ。
「やぎさ――、」
「けど志津摩!」
過去の恋人の話なんて聞きたいはずもなく遮ろうとするがそれに八木がかぶせてくる。
「俺はむりだ、お前はだけはやだ。志津摩は嫌だ。絶対にいやだ。わかれない、俺は嫌だぞ」
ふと志津摩は八木の声が震えていることに気付いた。
「志津摩ごめん、悪かった。だから、その、――……」
不安な声になる八木を抱きしめてやりたかった。そんな気持ちにさせたくなかったのに。志津摩から八木と別れたいと思う事なんてないのに。やむを得ないと感じてしまう時があるのは事実だ。自分が八木を苦しめていないかと怖くなるのは本当だ。けど、志津摩自身はただ八木と一緒に居たいだけで。それなのに、八木は志津摩が自分と別れたがるのではと恐がる。
思い出す、そうだ。八木は今に生き極限を強いられることなく心は安定したけれど、それでも八木なのだ。あれこれ心配して傷つきやすい、弱くて強い男。
「やぎさん、」
「志津摩っ、聴いてくれ。言いにくいかもしれねえけど、いやなことは話してほしい、おしえてほしい、俺はお前とわかれたくない、」
不器用な八木がなんとか志津摩を繋ぎ留めようとしている。普段あれほど素っ気ないくせに。志津摩はなんだか気が抜けてしまう。やっぱり八木はあんなに強いのに子供みたいだ。
「ずっと、それ聞きたかったです。俺だって別れたいなんて全く思ってないです、本当は考えたくもないです、いやです」
言い切ると八木が深い息を吐いた。緊張していたのだろうか。
志津摩は離れたくなんてないのに、物理的に勝手に離れていったのは八木の方じゃないか。必死にならなくても、志津摩は八木とずっと生きていこうと言ったのに。臆病な八木が不安がる。そもそも。この古臭い男は、言葉が足りない。
けれど、大事な時には不器用なりになんとか言葉を探し出す。あの頃はそれを飲み込み互いに言い切れなかったけれど。今を生きる八木はへたくそながらも、抱いた想いを剥き出しの言葉にして志津摩へ届けようとする。それがありのままで志津摩の心によく響く。
「うまく言えねえけど……今、お前がどんな顔をしているのか見たい。何か辛いなら、なんとかしたい、俺はお前を悲しませたくないんだ」
志津摩は涙を堪えた。なんで泣いているのかもわからない。ただ八木の言葉が嬉しかった。
「もう……どうしてもっと早くそう言ってくれないんですかぁ、」
「え、かっこわりいし……」
「かっこわるくないです。いわないほうがかっこわるいです」
「いや、男らしくねえし。おい待て、それよりそんなん、お前わかってんだろ……?」
当然のように言われて気が抜ける。わかってるけど、わかりたいけど。信じたいけど。不安になるものは仕方ないじゃないか。
志津摩が口を噤むと八木はバツが悪そうに続けた。
「そうか、お前……。ごめん」
八木は漸く思い至ったらしく深刻な声になる。こうなると志津摩も涙を堪えて言えなかったことを吐露してしまう。
「俺、ほんとは八木さんが引っ越すのやだったんです、でも、邪魔したくなくて。けど、やっぱり、俺やだったんです」
なんとかいつもの声を保って伝えるがどうしても途切れ途切れになってしまう。八木は「うん」と静かに返事をして志津摩の話を聞いている。
「せっかく一緒にいられるようになったのに、またはなれて、こわくて」
「うん」
「また、このまま離れ離れになったらどうしようって、こわくて、俺もう、八木さんがいなくなるの、絶対いやで、こわくて」
そこまで吐き出すと志津摩は一度息を飲んで呼吸を整える。滲んだ涙は引っ込めて手で拭いとる。八木は暫く黙っていたが静かに優しく志津摩に話す。
「……ごめん、しずま。そうだな、不安にさせた」
志津摩は堪えていた心の内を八木の穏やかな声に促されるように溢す。
「八木さんは、俺と離れても平気なんだって、思って、っ、おれだけ、はなれたくないんだって、思うと、どんどんよくない方にばかり考えてしまって」
八木は笑うような息を吐いた。
「おい、志津摩。俺は初めから別れてやらねえと言ったはずだ」
「あの時は、俺が泣きつくから、雰囲気に流されたのではないですか、」
「そんなわけねえだろ!」
まともに驚いた声を出されても志津摩はすっきりしない。
「やぎさんは、押しによわそうです、」
「よわくな、……いや、よわいけど」
ほらあ、と泣きだしそうになるが八木はすぐに言葉をつづけた。
「これは違うぞ、おまえのことはべつ。ほかの何とも比べられない。自覚しろ、俺はお前が大事なんだ、何よりもだ。またお前を失くしてあんな辛いめにあうくらいなら今もってるもん全部奪われてもいい。失くしてもいい。お前だけがいればいい」
普段連絡すら寄越さない。「すき」の二文字すら吐かないあの薄い唇と掠れ声が懸命に志津摩に想いを伝える。それはただ「すき」と言われるよりもよっぽど重い連なりだった。
「お前と俺と二人で生きる、そのためならなんでもやる。だからこわがらなくていい。おれだっていつ何が起こるか、またお前に忘れられるのか。時々こわい。けど、お前はまた俺を好きになると言ってくれた。俺はそれを信じてる」
志津摩は必死に嗚咽を堪える。どうしよう、どうしよう。
「だから、二人で居れば大丈夫だ。たぶん、……な? 泣くなよ、志津摩……お前に泣かれると辛い」
我慢して意味がない。八木はとうに志津摩が泣いていることに気付いている。そうしたら志津摩はもう構うものかと吹っ切れた。
「俺が、泣くのは、八木さんのことだけですよ、おれが、考えるのも、八木さんのことばかりですよっ……」
「う~~~……おれのせいか、くそ、すまん、」
あんなに怖い顔のくせにおろおろとしているのが浮かぶ。どうしよう、どうしよう。二人そろって今そうなっているとわかる。志津摩は八木にもらった言葉が胸いっぱいに溢れ苦しかった。嬉しくて愛おしくて、どうして今、居ないのだと恋しくて切なくなる。
それはそのまま喉から溢れだす。
「あいたい、やぎさん」
八木が息を飲んだ。
「志津摩、俺は、お前を縛り付けたいわけじゃなくて、お前のしたいことをさせたい、お前が経験できなかったこと、楽しいことをしてほしいし、だから俺がずっとお前を掴んどくのも……」
弱気な八木が顔を出すけど、志津摩はそこで強く首を振る。
「やだ、こわいから、ずっと俺の手つかんでてください、」
「―――――しずま、」
「俺がしたいこと? そんなの……っ、そんなの、」
言葉にすることに抵抗があるのは。志津摩に突き刺さったままの懼れが心を蝕んだままだから。八木はそれを破壊しにかかる。
「うん、言え。俺に教えてくれ、志津摩」
八木に促され志津摩は涙声になった。
「俺が、ずっとしたかったこと、いちばんは、やぎさんと一緒にいることです」
我慢できなかった。口にすると止まらなくなる。
「堂々と、やぎさんをすきだって、言って、いっしょにいることでした。ただ、一緒にねておきて、一緒に毎日、すごしていたかった、そうしたかった、」
八木はまた、安堵したように「志津摩」と囁いた。優しい声だった。
「俺の一番したいこと、ひとりじゃできないんです、」
電話口に八木の静かな息が聞こえる。
「あいたいんです、八木さん、さみしい。俺、やぎさんにあいたい、さみしい。やぎさん」
「うん、俺も。志津摩に逢いたい」
ぶつり。そこで通話が途切れて。それから、画面を確認したが通話終了の文字だけが表示されていた。かけ直しても八木は電話をとらなかった。
翌朝、五時半。まだ眠り眼の志津摩は通知音に起こされスマホを見て度肝を抜かれる。
『きた』
そんな恐ろしい一言と最寄り駅付近の写真が載せられたメッセ―ジが届いたのだ。一瞬で目が覚める。あの人、ほんとにばかじゃないの!!
飛び起きて電話をかける。暫く呼び出し音が流れ繋がった。
「八木さん! どういうことですか!? 今どこにおるんですか!」
八木は開き直ったようにからから笑って話す。
「もうすぐ寮の近く」
「ええ!?」
志津摩はスマホを肩に挟んで着替えバタバタと身支度をする。
「逢いたくて」
「うそでしょ!?」
「きちゃった、ははは!」
「えええ!!??」
「すぐ帰るから」
「ええっ、ちょっと、俺はどこにいけば……っ、」
「寮の前いてくれ、門のとこ。あと十五分くらい。今近くのコンビニに停めたとこ」
「ええ!? まって八木さん、でも、」
八木はまた一方的に電話を切った。どういうこと。志津摩は頭が混乱したまま靴に足を突っ込み、玄関を出る。走って敷地外の門に向かっていると十五分なんてあっという間で。門の前に着いてすぐ一台のバイクが颯爽と薄暗い道路を走ってきた。それは当然のように志津摩の目の前に停まる。ヘルメットを投げ出すように外すと八木が現れた。
「志津摩!」
八木はよく懐いた犬のように志津摩に飛びついて抱きしめる。腰に腕を巻き付け抱き上げるとはしゃいだようにぐるりとまわって志津摩を見つめ首に顔を埋める。すとんと下ろされて今度は重いくらいに体重をかけられぐりぐりと擦り寄られた。
「やぎさん、」
冬の空気に冷えたライダースを撫でて志津摩はほっと息をする。
八木の匂いに包まれる。どうしてか涙がのぼってくる。
「はー……、やっと逢えた」
八木は満足そうに囁く。志津摩の頭をくしゃくしゃと撫でる。大きな体を丸めて志津摩の身体にくっついて嬉しそうに笑っている。
「ごめん、我慢できなかった。俺、待てできねえから」
背中を撫でられて志津摩は八木にしがみつく。なんだか言葉が出なかった。
「お前が逢いたいっていってくれるなら、来るよ。俺だって逢いたい」
今すぐこいなんて言ってないよ。声にならないけど八木の冷えた身体を擦った。
「やぎさん、無茶苦茶して……」
「でもお前は嬉しそうだ」
八木に顔を覗き込まれて。志津摩は背伸びした。顔を傾け勢いよく口づけた。かちんと歯がぶつかった。少し痛かった。八木の目が大きくなる。
自分からしたのは初めてだ。けれどそれは衝動的でもう抑えられないものだった。
「ん……、志津摩」
そっと離れると八木がすこし驚き照れた顔になる。
「うれしいです、来てくれて」
伝えると八木はバイクグローブのまま志津摩の頬を撫でた。
「俺が逢いたかった。今から行くと言えばお前は嫌がると思って」
「そりゃあそうですよ……だって、今日も仕事だって」
八木の冷たい頬を両手で包んだ。口づけた唇もすっかり冷えてしまっていた。
なんて無茶をするんだ。雪の降る中、走らせてきたのかと。
そんな気も知らず八木は無邪気に笑う。
「ああ、そうそう。だから、もう帰るからな」
八木がここに来てまだ十五分も経っていない。
八木は慌ただし気にスマホで時間を確認し「ゲッ」と恐ろしい声を上げている。ヘルメットを掴んでまた志津摩に振り向く。
「しずま、もっかいしてくれよ」
ん、と腰をかがめ顎を出されて恥ずかしくなる。さっきのは勢いで堪らなくなっただけで「ほら寄越せ」と言われて軽々できるほど慣れてない。
「う、あの……りょうのまえだし、その」
「いいのか、帰るぞ」
「卑怯だなあ」
八木は悪い顔で笑った。それから獣みたいに大きな口を開いて勝手に志津摩の唇を奪った。二、三度顔を傾け志津摩の唇を優しく食むと白い息を吐きながら離れる。
「じゃな、志津摩。逢いたくなったら言えよ」
慌ただしくごついバイクに跨ると八木はエンジンをかける。ヘルメットを被ろうとする八木を志津摩は咄嗟に呼び止めた。
「あ、八木さんまって」
志津摩は自分がしていたマフラーを外して八木の首に巻いた。
「風邪、ひかないでくださいね。今日はちゃんと寝てください」
八木は当然のようにそれに鼻を埋めスンスン嗅いで、また満足げに頷いた。
「はは、いいもんもらった」
「……しらなかった、八木さんて犬系だったんですね」
「はぁ? 犬系ってお前みたいなやつのこというんじゃねえの」
「八木さんでしょ……いや狼系か」
「なんだと、覚えてろよ。時間あったら喰ってるんだが今日はしょうがねえな」
じゃあな志津摩。今度こそヘルメットを被った八木は志津摩の髪を撫でるとバイクに跨り走り去ってしまう。
あっという間の逢瀬だった。ものの三十分あるかないか。
八木はたったその三十分の為に夜中雪の降る中バイクを走らせやってきた。
志津摩に逢う為だけに。八木は志津摩の不安をたった三十分で払拭しようと行動に出た。志津摩が恐がることは何もないのだと。志津摩は寮の門で唇を噛み締めた。
乾いていて冷たくてかさかさした八木の唇を思い出して、滲む涙を手の平で拭った。