瞼を開けると、真っ赤な空が視界一杯に広がった。
ほんの少し前まで太陽が高く昇っていた空は青々としていた筈なのに、いつの間にやらすっかり日が暮れている。
まだ少し重い瞼を持ち上げて、首を巡らせて辺りを見ると、すぐ傍らで大神が身を丸めていた。秋も半ばの夕暮れ時、いつもなら肌寒いくらいなのに妙に暖かかったのは、これのおかげか。
「はよ」
のそのそと上体を起こすと、大神とは逆の方から声がした。
振り返れば、橙色の光を放つ小さな妖精が、目の前に広げた紙に筆を走らせているところだった。
お早うと返すと筆を止め、甲虫で作った兜がぼくを仰ぎ見る。
「よく寝てたなァ」
「……みたいだね」
寝起きのやや掠れた声に知らず苦みが混ざる。
特務の合間に少しばかり時間ができたので、様子見にと久々にアマテラス君たちの元へ訪れたのだけれど、なんて事無い世間話をしている内に寝入ってしまったらしい。とんだ失態だ。
「お前があんまりぐっすり寝てるモンだから、アマ公なんて四度寝しちまったぞォ」
「よん…」
後ろからフンと鼻息が聞こえた。アマテラス君はまだ起きていたようだ。
「…起こしてくれれば良かったのに」
絵を描く作業を再開したイッシャク君を再度見下ろし呟く。
どうやら既に完成間近だったらしい絵に署名と落款を施した後で、彼が何言ってんだィと膝に跳び乗ってきた。
「なんだかんだで忙しくしてんだろォ? お前は無茶する節があるし、アマ公の傍じゃなきゃゆっくり眠れねェときた。アマ公もそれが判ってるから、お前を休ませる為に傍にいたんだ。文句言うなィ」
「………」
呆れた声色で尤もな事を言われ返す言葉もなく、二人を交互に見遣ってごめんと謝る。すると、腕を組んだ様子の彼に溜息混じりに訂正された。
「ばァか。そこは『ごめん』じゃなくて『ありがとう』だろうが」
「…サンキュゥ」
「異国語かよ……まァいいや」
ぴょんと膝から飛び降りて、イッシャク君は自分の描いた絵を丁寧に丸め始めた。この高台から見下ろした、夕焼けに赤く染まった神州平原を描いていたようだ。
暇を持て余していたのか、ぼくとアマテラス君が寝ている間に描いたらしい絵が他にも丸められて転がっていた。
一番近くにあった一巻を手に取る。
「あっ、コラ、何勝手に見ようとしてンだ」
「今更隠すものでもないだろうに。いいじゃないか」
笑って返す。この遣り取りはいつもの事なので、彼が見咎めるのも形だけだと知っている。
案の定、彼はへェへェと適当にあしらっただけだった。
丁寧に結ばれた紐を解いて紙を広げる。
「……綺麗な絵だなぁ」
そこにあったのは大神の尊容。
日が沈み空も次第に赤から紫紺へと変わりつつあり、目に映る世界は薄暗くなってきているが、それでもその輪郭や色がはっきりと見て取れるのは、やはり天道太子たる彼の成せる業なのだろう。
アマテラス君はその肢体に薄っすらと光を帯びているけれど、イッシャク君の絵の中のアマテラス君も、まるで光を纏っているかのように見える。
ただの錯覚かもしれないが、逆に言えばそんな錯覚に陥ってしまうほどの真に迫る絵を、彼は描く事が出来るのだ。
紙の中に佇む大神から、傍らの大神に視線を注ぐ。
放たれる清廉で柔らかな光が、眼の奥にじわりと沁み込んだ。
「流石は天道太子だね。ユーの絵はいつ見ても心に響くよ」
「よせやィ、オレなんてまだまだ未熟さァ。ちゃんと大神サマを描いてやれるようになるには、もっともっと腕を磨かなくちゃなァ」
小さな手を差し出す彼に、絵を元通りに巻き直してそっと返す。
素人目で見ても、充分すぎる程充分な腕を持っていると思うのだけれど、絵師である本人にとってはこれでも、未熟の前に「まだ」が二つも付く程度のものらしい。
芸林や職人の向上心というものは見習うべきと思うものの、些か難儀であるなぁとも感じずにはいられない。
ただ、アマテラス君の為により洗練されたものを、と前を見続ける彼の姿勢が、ありがたくはあった。彼の在り方は、彼の神への助力の形は、ぼくには持ち得ないものだから。
「――お。アマ公、もう行くのかァ?」
かさりと葉を揺らして、アマテラス君がおもむろに立ち上がる。身体をブルブルと振って小さな草を落とすと、神木村の方角に顔を向けた。
そういえば、アマテラス君はいつも夜の帳が落ちた後に神木村を見て回るのだったか。
「オイオイちょっと待ちなィ、まだ支度ができてねェ――」
身体ごと神木村の方に向き直ったアマテラス君を見て取って、イッシャク君が少々慌てた様子で周りを片付け始める。
しかし、アマテラス君は焦る相棒を一瞥しただけで、さっさとその場から駆け出してしまった。
「あっ、ちょっ、待てアマ公、待てってば! オイこら毛むくじゃらァ!!」
制止の声もどこ吹く風で、アマテラス君の姿はあっという間に遠ざかっていった。
走り去る神の背中を呆然と見つめるイッシャク君の動きは完全に止まってしまっている。
ぼくもそろそろ帰ろうかと思っていたのだけれど、この展開は予想外だ。
「……あ…あの野郎ォ……」
わなわなと小さな身体を震わせながら低く呻いた彼が何だか可笑しくて、つい笑ってしまった。気付いたイッシャク君に鋭い視線で睨まれ、ごめんごめんと表情を取り繕う。
「……で、どうする?」
日もとっぷり暮れて、すっかり宵闇に包まれた辺りを見渡して問いかける。
時間も時間だからそろそろ都に戻らなければならないのだが、彼を一人置いて行く訳にもいかない。
彼の剣の腕が立つのはよく知っているから、妖怪に襲われるといった心配は大してしていないのだけれど、今日は彼らを放置して寝てしまっていたから、今またほっぽり出すのも気が引けた。
「……。……お前は、帰ンなきゃいけねェんだろ」
不満を奥に押しやったような声での返答にまた少し笑いがこみ上げるが、気付かれないように呑み込んだ。
「ミーは別に平気だよ。予定以上に本部を空けるなんて間々ある事さ」
「それもどうなんだィ…」
盛大な溜息を吐き、まァいいやと諦めたように呟いてから、今度はぼくの肩に跳び乗る。
夜の帳が下りて暗くなった視界の端で、肩口に淡く光が灯る。
「仕方ねェから、お前の傍に居てやるよ」
置いてかれちまって寂しいだろ、と。
わざとらしく恩着せがましい口調でそう言って、笑う。
言葉に不意に蘇る。
思えば、あの時も。
彼の雪国で初めて会ったあの時も、彼は同じ事を言っていたな。
地獄の淵から一人逃げ延びて、もう誰の物なのかも判らない血に塗れて。
身も心もボロボロだったぼくを、凍りつくような雪の中から拾って救い出してくれた。
ぼくの言葉を信じて、気遣ってくれて、『ひとりが嫌なら一緒にいる』って。
肩にちょこんと腰を下ろす彼の光は、大神のものとは全く違う色なのに、同じくらいに暖かくて。
ゆるりと、眩しかった。
「…ミーのセリフだよ」
軽口を返すと、ヘンと鼻で笑われた。