春の夜-Tender is the Night やさしい夜の物語- 一週間ぶりに北の岬へと歩きながら、月島は、季節が変わっていたことに気づきました。
冬のあいだは北から吹きつける切りさくように冷たい風にさらされていましたが、いまは、南の海から吹くあたたかい風がやわらかく背中を押してきます。
夜風にのって植物たちが芽吹いて花がひらく前の、青くてしめったにおいがして、たしかに春が来たのだと、月島はおもいました。
四月にはいってさいしょの金ようびの夜で、霞んだ夜空を見上げればレモンみたいな月がのぼっていて、週末の天気予報は晴れで、南から追い風に押されて、月島の足どりは自然と軽くなりました。
岬から北の海へチカ、チカと白い光をなげかけるふるい灯台の手前の草むらのなかに、ちいさな灯かりがぽつんとともっていました。
飴色の扉のうえの真鍮の三日月がほのかに照らされているのが、開店の合図です。
月島は、飴色の扉をゆっくりとひらきました。
「こんばんは」
「ムン」
カウンターのなかのマスターのいぬしまが、うなずいて迎えてくれました。ぱりっとプレスされた白いシャツに黒い蝶ネクタイ、チョッキにズボン。バーテンダーの正装が今日も決まっています。
月島は、L字型のカウンターのいちばん奥の壁際に腰かけました。ここが、月島のいつもの席です。
冬のあいだ中、赤々とした火であたためてくれた暖炉には、熾火がちいさく燃えていました。春とはいえ夜はまだ冷えるので、ほのかなぬくもりにほっとします。月島は、ネクタイをほんのすこし、ゆるめました。
「ムン……」
いぬしまは、いつものように正確な手順でソルティドッグをつくると、コースターとともにサーブしました。コースターには、青空にたっぷりと咲く桜の花が元気いっぱいに描かれています。
「ああ、今日もとてもおいしい」
「ムンっ」
グラスをひと口かたむけると、カウンターのむこうでいぬしまがちいさくうなずきました。目はぎゅっとけわしく、口元はぐっとむすばれていますが、制服の黒いズボンから出たふわふわのしっぽが、ふりふりと揺れています。
月島はもうひと口、ふた口、グラスをゆっくりとかたむけました。
いぬしまのつくるソルティドッグは、新鮮なグレープフルーツの酸味とグラスの縁をかざるキリッとした塩が、どこかなつかしい甘味をひきたてる極上の一杯です。
ほろほろと気持ちのいい酔いに全身の力がぬけていくと、ひとりごとなのか、いぬしまに聞いてほしいのか、月島の口から言葉が自然ともれました。
「風の向きが変わっていたんだ」
「むん」
いぬしまがこくりとうなずいて、月島はグラスを持ちあげてコースターの桜の絵に視線を落としました。
あざやかな青空も、満開の桜の花も、クズリ之進がいっしょうけんめい描いたのが目に浮かぶようです。もうそろそろ、この街の桜も開花するころでしょう。
「風も、空気のにおいも、すっかり春になっていた」
「ムン」
「春が来るなんてあたりまえのことが少し前の俺はうまく信じられなくなっていたけど、ちゃんと来たんだなって、今日ここに歩いてきながら思ったんだ」
あたらしい年度の最初の金ようびの夜をむかえたということは、月島にとっては、半年近い休職期間から復帰したさいしょの一週間をぶじにのりこえたということでした。
月島はしずかにグラスをかたむけて、ふわふわとめぐる酔いにほっと息をつきました。
「ふたり、いいかな」
カウンターの中でグラスをきゅ、きゅ、とみがいてるいぬしまの、白銀色のふわふわの毛におおわれた両耳がピンとたって、月島が「おや」とおもったときには、飴色の扉がおおきく開かれていました。
堂々たる長身をかがめるように入ってきたのは、長く伸ばした黒髪をなびかせた男でした。
腕も脚も長くて、おや指とひとさし指で「二」をつくった手も、まだ春先なのにサンダルを履いた足も、とても大きな男です。
月島がちらりとうかがうと、「二」をつくったおや指とひとさし指の間が、水かきのような形をしているのが見えました。
「ピュウ」
大男のうしろからぴょこんと顔をのぞかせたのは、愛嬌のあるたぬきでした。紫色の上着がとてもよく似合っています。
「ムン」
いぬしまがひげを生やしたあごをぐっとひいて、目でカウンターの真ん中の席をしめしました。
男がスツールに悠々と腰かけると、このちいさなバーがなんだか狭く感じられます。たぬきは大男の隣のスツールにするすると、器用にのぼって座りました。すでにほろ酔いなのか、たぬきの顔は心なしか赤いように、月島には見えました。
「メニューはソルティドッグだけって聞いたけど本当なの?」
「ムン」
「じゃあ頼みがあるんだけど」
「ムン…?」
「これを使ってつくってもらうことはできるかな」
男は、カウンターの下の真鍮のフックにかけた重たげな麻の袋からグレープフルーツをひとつ、とりだしました。やや小ぶりに見えたのは、男のてのひらが大きいからかもしれません。
「むん…」
いぬしまは予想外のリクエストにおどろいたのか、黒い目をぱちぱちさせました。
そしてふわふわの両手で慎重にうけとったグレープフルーツに黒い鼻先を近づけてヒクンとちいさく動かすと、こくりとうなずきました。
いぬしまがツヤツヤのグレープフルーツをていねいに洗ってさくりとふたつに切ると、甘ずっぱい、さわやかな香りがひろがりました。
いぬしまはみずみずしい黄色の断面をグラスの縁にすりつけるとキラキラとした塩でかざり、きっちりと測ったウォッカと、摺り硝子のちいさな瓶から数滴をたらり、たらりとそそぎました。
「ムンっ!」
そして気合いのはいったひと吠えでグレープフルーツを搾りきり、ていねいにステアしました。
いぬしまが完璧な一杯をつくる様子は、なんど見ても気持ちがよく、一流のバーテンダーの技として見ごたえがあります。
最後にふわふわの手の甲に落としたひと滴を舌先でなめると、いぬしまは「ムン」とおおきくうなずきました。どうやら男が持ちこんだグレープフルーツでつくったソルティドッグは、満足のいくもののようです。
「ムン……」
たぬきの前には色とりどりのキャンディが描かれたコースター、そして男の前には群れでおよぐ魚が描かれたコースターとともに一杯ずつがサーブされました。
「乾杯」
「ピュウっ」
男もたぬきも酒にはかなり強いらしく、グラスを持ちあげると、グビグビと勢いよく喉に流しこみました。
「いい酒だ。ものすごくうまい」
月島がグラスの半分ほどをあける間に、男とたぬきはグラスを空にしました。気持ちがいいほどみごとな飲みっぷりです。
「これで払えるかな」
男がサスペンダーで吊ったズボンのポケットから取りだしたのは、どきりとするような、黄金の金貨でした。
視界の端にちらりとはいったピカピカとした金色のかがやきに、月島はさいしょ、コインを模して金紙でつつんだチョコレート菓子ではないかと思ったほどでした。こんなにもみごとに輝く金貨を月島は見たことがありません。
はっきりとは見えませんでしたが、金貨には、誰かの肖像が彫られているようでした。
「……むん」
いぬしまは、まぶしそうに目を細めて、けれど、しずかに首を横にふりました。
「じゃあ、これはどう?」
男は重たげな麻の袋をカウンターにどさりと置きました。袋のなかから、みずみずしい大玉のグレープフルーツがたっぷりとあふれました。
「俺の島でとれたやつ。ようやくグレープフルーツも収穫できるようになったからこの店で使ってもらいたくて」
いぬしまは少し待つように目で合図すると、カウンターの内側のちいさな扉を開けて「ムン」と呼びかけました。
「キェイッ」
とこ、とこ、とちいさな足音がして、クズリ之進が顔をだしました。菜の花色のトレーナーに、デニムのオーバーオールをあわせて、ふくらんだポシェットをななめにかけています。
いぬしまとクズリ之進はツヤツヤとした黄色のグレープフルーツを手にとって黒い鼻先をヒクヒクと近づけて、また別のひと玉をとりあげてとても真剣な面持ちで二言、三言、言葉を交わしました。
「ムンッ!」
やがて話がまとまったのか、いぬしまとクズリ之進はうなずきあうと、いぬしまは大男に向きなおり、力強くあごをぐっと引いてみせました。どうやら取引は成立したようです。
「やったな、シライシ」
「ピュウ!」
男の大きなてのひらと、たぬきのちいさなまるっこい手がハイタッチを決めています。ふたりの息は、寸分たがわずぴったりです。
「ぴゅう」
ふと、シライシと呼ばれたたぬきと目があったとおもったら、両手でねらい撃ちのようなポーズをきめてウィンクをぱちんと飛ばしてきました。月島が、どうこたえるべきかとまどっていると、男が声をかけてきました。
「よく来るんだ?この店」
「…はい」
「すごくいいバーだよな」
「はい」
「まちあわせ?」
「……はい、いえ、まあ」
月島がまよった末に曖昧に答えると、男は「ふうん」と意味ありげに笑ってみせました。
「俺は房太郎。シライシは俺の家臣で、俺の島でとれた果物を売っているんだ」
家臣というのがおおいに不満なのか、シライシは「…ぴゅう」とひと鳴きしてじとっとした目で男を見上げましたが、房太郎と名乗った男はどこふく風で
「朝市にはたぶんだいたい来ていると思う。グレープフルーツ以外にもいろいろ売っているからのぞいてみてよ」
大きなてのひらをひらひらとふって「じゃあよろしくね、マスター」と背を向けました。
「おっと」
飴色の扉をいきおいよく開けて背をこごめた房太郎とぴょこぴょことついていくシライシと、ちょうど姿を見せた鯉登が、ばったりと、はち合わせました。
「やっぱりまちあわせだったんだ。おにいさん、よかったら俺の島のグレフルでつくってもらってよ」
すぐに道をあけた鯉登に房太郎がなんだか意味深な笑みを向けて、シライシが「ピュウ」と鯉登にウィンクを飛ばし、ふたりはつむじ風のようにさっと帰っていきました。
「月島も来ていたんだな」
「はい」
「まちあわせてはいないけれど会える気はしていた」
鯉登は月島のとなりの席に腰かけて、いぬしまがふわふわの両手でさしだしたおしぼりで長くてうつくしい指先をふきました。
「今日はなんだかいろいろとめずらしいな」
そういえば、この店で江渡貝でも鯉登でもない客に会うのははじめてだと、月島はおもいました。
「さっきのふたりですか」
「ああ、それもだが、月島のスーツ姿はじめて見たから」
鯉登は黒い瞳をきらきらさせて、月島の頭の上から足の先までをながめました。
「私服しか見たことなかったから新鮮だ」
なあ、と鯉登が房太郎が置いていった大量のグレープフルーツを冷蔵庫にていねいにしまっているいぬしまとクズリ之進に呼びかけると「キエエィッ」という元気な声がかえってきました。
「いぬしまもそう思うだろう」
「ムン」
ちいさくうなずいたいぬしまにクズリ之進はなにごとかを耳うちしてから、とてとてとカウンターをまわってきて、鯉登の隣のスツールにうごうごとよじのぼって座りました。
「きぇいっ」
「うん?」
クズリ之進はスツールからおおきく伸びあがって鯉登の耳元でなにごとかをささやくと、ちらちらと月島のほうを見て、くふくふと笑いました。まあるい頬が桜みたいな色にぽくんと染まって、なんだかとても楽しげです。
「キエ、キエッ」
「うふふ、私もそう思う」
クズリ之進のないしょ話に耳をかたむけて目くばせをしていた鯉登も、いたずらっぽい笑みを浮かべています。
「ふたりでなんの話をしているんですか?」
「クズリ之進が月島のスーツ、すごくかっこいいって」
鯉登がやわらかく目を細めてほほえむのに、月島はどきりとして、グラスを持ちあげたまま、ピタリとかたまりました。とくにこだわりもなく買って袖をとおしているスーツがかっこいいなんて言われたのは、はじめてのことです。
それにかっこいいのは、鯉登こそだと、月島はおもいました。
すらりとした長身でいつもおしゃれな着こなしの鯉登は、今日は黒い細身のジャケットに、しゃっきりとしたシャツを合わせています。
「はは。お世辞でもうれしいです」
「私は月島にお世辞なんか言ったりしない。な、クズリ之進」
「キェェーイッ」
おおきくうなずいて手足をぱたぱたさせるクズリ之進に、いぬしまが「…むん」とちいさく咳ばらいをすると、クズリ之進ははっとしたようにふわふわのしっぽをぴこんと立てて、おとなしく座りなおしてから
「きぇっ」
ふだんはじょうずに隠している、するどい爪を一本、立ててみせました。どうやら一杯目のオーダーのようです。
いぬしまは房太郎とシライシが置いていったグレープフルーツの中からふた玉を選ぶと、月島のおかわりと鯉登の一杯目を、クズリ之進の前にフローズンモクテルをサーブしました。
クズリ之進のカクテルグラスには、くるんと巻いたストローがさしてあります。
「さっき、俺の島のグレフルって言っていた」
「島でとれた果物を売りに来ていて、どうも彼は、島の王様のようですね。房太郎というそうです。たぬきのシライシと朝市にも来ていると言っていました」
鯉登は「王様」と漆黒の瞳をふしぎそうに見開いてから首をかしげました。
「朝市というのはなんだ?」
「毎月のさいしょの日ようびに海辺の公園で市場がたつんです。軽食とか飲み物とか、採れたての魚とか野菜を売る屋台やワゴンがならぶんです」
「そんなのがあるのか。知らなかった」
「似顔絵とか占いとかもあったりします」
「すごくおもしろそうだ。月島も行ったりするのか、その朝市」
「はい。質のいい魚や旬の野菜が買えるので、ときどき」
「ふうん」
鯉登は、そう言ったきり、さっと口をつぐみました。
月島が三分の一ほどをあけたグラスの中で、エッジのカチリとした氷がカラ…とかすかに鳴りました。
「きぇ…?」
ふいにおとずれた静寂をふしぎにおもったのか、クズリ之進が首をかしげて、カウンター越しのいぬしまのピンと立った耳になにごとかをささやくと、いぬしまがいつもはぎゅっと結んでいる口元をほんの少し、やさしくゆるめてクズリ之進だけにわかるようちいさな声で答えました。
「なんの話だ?私にも教えてくいやい」
鯉登がせがむと、いぬしまとクズリ之進は目くばせをしあって、いぬしまはなんでもないのだと「ムン」としずかに首をふり、クズリ之進はくふふと笑いました。茶色のふわふわのしっぽがぴるぴると揺れています。
「ふたりだけでないしょの話か。気になるではないか。なあ、月島」
「はい」
ふと、いぬしまと目があって、黒いちいさな目がたしかに、力強くうなずいたように、月島には見えました。
「鯉登さん」
月島は、カラカラに渇いた口を湿らせるために、ソルティドッグをおおきく呷りました。
ウォッカが胸の奥にぽっと熱を灯して、グラスの縁の塩がぴりりとよく効いて、きゅっと背すじがのびる気がしました。
「行ってみますか」
「なにがだ?」
「ちょうど明後日が今月の朝市です。天気もいいみたいですし」
「それは、月島が私と一緒に行くということ?」
まっすぐにたずねられて、月島は「はい」とまっすぐにうなずき返しました。
月島が鯉登を誘うのは、はじめてのことでした。
「俺も秋からずっと行けていないので、ひさしぶりに行ってみたいですし」
「では一緒に行こう。私も月島と行ってみたい」
鯉登がうつくしい花がほころんで咲くような、満開の笑顔を月島に向けました。
「月島が誘ってくれてとてもうれしい」
春爛漫の笑顔をうかべて、なめらかな頬を桜色にそめた鯉登の黒い瞳が、きらきらと輝いていました。
なんだか急に酔いまわったような気がして、月島は、カウンターのなかのいぬしまに向きなおって「チェイサーをもらえるだろうか」と頼みました。
「ムン…」
グラスに澄んだ氷と水をそそいでサーブしたいぬしまにクズリ之進が目をあわせて「きぇいっ」と耐えきれないらしい笑みを漏らすと、いぬしまが「むん」と目をぎゅっとほそめて、ちいさく首を横にふりました。
「キエッ」
クズリ之進ははっとして、愛らしい口元をきゅっとむすびました。両手のぷくぷくした肉球で口元をおおっていますが、我慢しきれないらしく、表情豊かな瞳を星のようにかがやかせています。
鯉登が「今日はないしょの話ばかりだな」と肩をすくめて、それから隣の月島を見て、切れ長の黒い瞳を丸くしました。
「だいじょうぶか。なんだか顔が赤いぞ、月島」
「はい。いつもより少し、酔ったかもしれません」
のぼせるような酔いをしずめるひんやりと澄んだ水の清涼さに、月島は、春がほんとうに来たのだとおもいました。
「春の夜 Tender is the Night-やさしい夜の物語-」